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2021-04-20 07:58

#341 死に方について考える

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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、死に方について考える、という話をしたいと思っています。 先日、週1回のクラブハウスサイコパスの部屋でですね、死に方について考えるというテーマでですね、お話をさせていただきました。
で、なんでこのテーマにしていたかというと、僕がですね、死を考えた時に、あんまり死のことそのものは怖くないんだけども、
死に方はちょっと色々こだわりたいなぁと思っているところがあるというのが1点。 もう1点は、死を考える時に、死を考えてもちょっと抽象的すぎてですね、
あまり話し合いにならない、対話にならないかもなぁと思ったので、死に方という具体性のある話ができたらなぁというところで、
死に方について考えるということでお話しさせていただきました。 死ぬって
何なんだろうねって思うけども、その死後の世界があると考えている方もいらっしゃいましたし、スパッと終わるという人もいらっしゃった中で、僕がどちらかというと、
分からないというのは答えで、そういう答えになっているのかって感じですけども、多分ないだろう、でも分からないっていうのが正直なところで、
分からないから考えても仕方がない。考えても仕方ないから怖いとか怖くないとかそういうのがない。
だから怖くないというのが僕の心について怖くないという一つの理由なんですけども、 ただね、死に至る過程みたいなところを考えると、
こういう死に方は嫌だなぁとか、やっぱりいっぱいありますね。 それは今までいろんな人の話を聞いたりとか、自分の身の回りの人を見て思うこととかってあって、
例えばうちの祖母なんかはですね、ずっと投石をやらないといけない、人工投石しないといけないよって言われてあったんだけども、
したくないと、そんなことするぐらいなら死んだ方がマシだということで、ずっとそれを拒否してですね、人生を謳歌してきたんですけども、ある日ね、
いよいよ倒れてしまって、意識不明の渋滞になってしまって、一人暮らしだったんですけどね。
たまたま通りかかった人が、あの近所の人がね、通報じゃないや、急遽車呼んで病院に運ばれまして、病院に運ばれている時になんとですね、
うちの家族が投石を許可してしまったと。なので祖母はですね、目が覚めたら、あれだけ拒否していたですね、投石をしている、
くだが繋がってしまっている状態になったというような感じで目覚めて、僕はですね、それで家族にですね、何をやってるんだということで言ったらですね、
家族から逆に何を言ってるんだということで怒られたというエピソードがあるんですけども、まあそうやって延命をして、
なんかある種、自分が不本意の形で生き延びたくないなと思ったので、自分は大好きな祖なんですが、そのとてもね、なんでしょう、逆にそういうことがあってからですね、
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あまりお見舞いに行けてないというか、本当に1回2回かな、行って、行ったきりでちょっと僕もちょっとね、そんな祖母を見たくないという気持ちがあって、行けてないですね。
やっぱり死に方を考えるときに、理想の死に方がまずありますと、例えばわかりやすいところに行くと、こうピンピンコロリですよね、そんなに何の悩ぶれもなくというか、
元気だったんだけども、寝てそのまま起きなくなった、スパッと亡くなった、何も苦しまずに眠るように死んでましたというのがやっぱり理想的だなと思います。
で、なかなかそれが叶わないにしても、いざね、苦しみながら死ぬぐらいであれば、安楽死という選択肢が欲しいよね、みたいな、そんなお話になって、その対話の中でですね、
僕自身も安楽死はかなり賛成派なんですけども、今度ですね、親徴派とか反対派の人からすると、簡単に死んでもらっちゃ困るよという意見がやっぱりあるわけですね。
僕の意見としてはですね、年齢制限とか、あとは何ですかね、すごくその細かい条件、すごくこれはもう絶対に治らない、相当苦しいとわかりきっている、QOL下がりまくっているとわかりきっているということとかはあってもいいと思うけども、
ある一定の年齢を超えたら、もういいんじゃないっていうのが僕の正直思うところですね。自分の意思で判断すればいいんじゃないって思っています。ちょっと残酷ですかね。
ピンピンころりだの、安楽死だのっていうところで、苦しまずにね、死にたいっていうのが僕の要は願望ってことですね。
あとそこの場で出てたのは、安楽死という、死というカードをですね、自分が持つことによって逆にね、そのカードを選んでいないということは、生を選んでいるという、生に対する主体性みたいなものがもっと芽生えるんじゃないか、自覚性がね、あるんじゃないかと。
なんとなく生きてるんじゃなくて、死ねるんだけども自分は死なないんだという選択をしている、生きることを選択しているんだっていう自覚を持てるんじゃないか、そんな風に言っている方もいましたね。
死に方を考えた時に結局一番厄介なのは、その死ぬ本人だけでなく、その死ぬ本人の周りなんですよね。
僕は保育園の時に一回死にかけたというか、死に至る病にかかりかけたんですね。
その死に至る病を、検査結果次第では、その死に至る可能性が結構高い病であると。
その検査結果待ちの病院の待合室のですね、あの時の母の雰囲気をですね、僕は今でも忘れられないと。
小児科のね、待合室で待ってたんですけども、もうその診療時間終わってね、誰もいない、ちょっと暗い感じの待合室で、母の膝の上にですね、頭を埋めてたんですけども、
母がね、僕の背中をトントンしてくれてるんですけども、そのトントンするトントンがですね、もう絶望感に満ちていると。
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僕は、なんかこの病気になったら死ぬんだろうなってことはなんとなくわかったんだけども、死ぬのが怖いというよりも、やっぱりその絶望感、漂う雰囲気がなんか嫌だなぁと思ったんですよね。
だからこれから僕がですね、なんかわかんないけども、死にそうになった時に、僕自身がその死を受け入れたとしても、なんか身近な人たちがこう、死に行く僕を見てですね、絶望感漂う感じの眼差しでですね、もしくはそれをあえて空元気でですね、明るく接してきたりとか、そういう周りの環境の振る舞いがちょっと嫌だなぁと思ったりもしますね。
だから死ぬって、周りの人たちとのこの関係性っていうのが一番実は難しいんじゃないかなぁと。祖母の件にしてもそうですよね。祖母自体は、そのままね、死にたいと。死にたいというか、なんていうのかな、そこまでして生きる必要はないと。思いっきりね、不素姿勢を貫いて生きていくんだということで、貫いたにも関わらずですね、やっぱり周りがそれを受け止めきれなかったというか。
なので、周りに死を受け止めてもらうっていうことはね、とても大事なコミュニケーションなのかなというふうに思うので、僕がね、望んだように死ぬためにはですね、死ぬ頃には周りに対してすごくその自分の死に対する考え方ってことをですね、しっかりコミュニケーションしていかないと、不本意な死、それこそ自分が望まない死に方になってしまう可能性があるなぁと思っているので、死に方についてはよく考えて、そして死ぬ手前ではですね、死に方についてよくコミュニケーションしていきたいなというふうに思います。
皆さんもですね、ぜひ死に方、理想の死に方についてですね、考えてみていただけると面白いんじゃないかなというふうに思います。本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。
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