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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、「ふざける」についてお話ししたいと思っています。
本題に入る前に、ちょっと今の状況を説明しておきたいんですけれども、
午後1時15分、えーっと10月27日水曜日午後1時15分なんですけれども、
この後1時半には家を出るという状況です。
なんでわざわざこれを言ったかというと、このポッドキャストがですね、毎週木曜日夜11時にですね、配信しているんですけれども、
まあその週の中でですね、まあこのタイミングで撮りますっていつも決めてるわけじゃなくて、
気分が乗った時に撮るっていう風に言っている。そして気分が乗らないまま、
木曜日が来てしまって、木曜日の夕方にバタバタ収録する、みたいなこととかをざらにやっているわけですけども、
今回はですね、この1時15分、さっき気づいたんですけどここで収録しないと、この後木曜日夜11時まで撮る、
収録するタイミングがないということに気づいてしまいまして、バタバタマイクをセッティングしてですね、収録しているという状況です。
すなわちですね、こういうことを話そう、みたいな。台本ではないんですけども、こういうことを話そうという箇条書きレベルでですね、
普段はちょっとメモってたりするんですけども、今回そのメモがないということで、いつも以上にですね、
まとまりのない話になるかもしれませんが、ご了承いただければと思います。今日のテーマというかね、
テーマですね、今日話したいなと思っているのは、僕にとってのふざけるということについてですね、
なんでこのテーマにしたかっていうと、それこそおととい月曜日にですね、とあるポッドキャストにゲスト出演というかですね、
読んでいただいて3人で話してたんですけども、そこでちょっとふざけすぎてしまいまして、
反省を、その収録の後ですね、反省をしていてですね、
なんでこう、自分はふざけてるんだろうか、みたいなことをですね、いろいろと内省したことをですね、
ツイッターの方にですね、いくつかツイートしたので、それをもとにですね、ちょっとしゃべれればいいかなと思っています。
結論から言うと、僕にとってですね、ふざけるっていうことはですね、
何ていうのかな、さも意味がありそうなことを、その意味において、その意味が機能しなくなるぐらいね、もともとなくなるような状態にして
さらすことをですね、僕にとってふざけるというふうに認識しております。
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僕がふざける時っていうのは、そういうふうにしてふざけてるっていうことが多いですね。
ちょっと前後しますけども、そもそもふざけるって辞書的にはどういう意味があるのかということで、大辞令で調べたんですけども、
1、冗談を言ったり、おどけたことをしたりする。2、子供などが浮かれて騒ぎ回る。
3、人をバカにしたような振る舞いをする。 4、男女が戯れる、イチャつくということで、
僕のいうふざけるっていうのは、1番と2番に近いのかな、別に男女が戯れているわけではありませんので、それはちょっとさせておき、
1番と2番のニュアンスでやっている。冗談を言ったり、おどけたりしているんだけども、ちょっとそれが楽しいので、浮かれて騒ぎ回っているという状態になっていると。
結果として、相手がバカにされたというふうに認識をしてしまうので、人をバカにしたような振る舞いをしているんだというふうに思いますので、結果としてね、
男女が戯れる以外の1、2、3のふざけるをやってしまっているんだろうなと思いますね。ただ僕の意図としてはですね、
意味なんかないよっていうことですね。この世界にこれという意味なんてものはない。世界とかいう大きな言い方したけども、家族でもいいし、
恋でもいいし、これという絶対的な意味なんてものはないよっていうね。
そういうことを、例えば今のテンションでね、意味なんかないよって言っても、なんだこいつって、どっちみちであるんで、どうせならふざけてね。
それだと家族がもともともないよねとか、それだと恋ももともともないじゃないっていう状態にするという、そういうふざけ方をしますね。
昔の例にはなるんですけども、小学校3年生以降、僕はよくふざけていたなと思うんですけども、何をそんなにふざけていたかっていうと、
先生からね、授業中とかに問いかけられますよね。その問いが悪いけどしょうもないと、答えのあることを問うてくると。その答えも答えられる問いだから
答えていたりするので、答えられたら当たり前という答えのある問いが来る。それがあまりにもつまらないので、大喜利にしてしまうと、先生の答えが決まったAという答えを言わなければいけないその問いに対して、
瞬発力を上げて大喜利のようにですね、全く別の見方でその問いには答えてるんだけどもAを言わないみたいな。
ただ間違ってBって言うんじゃなくて、一応問いには答えているけれども、先生が出してほしい答えではないみたいなことをよくやってましたね。
だからその問いは無意味だよと。こういう見方をすればあなたの問いっていうのはそんな意味を持たないよみたいなことをですね、
そういう言語で言うんじゃなくて、ふざけてやってしまうっていうことを小学校3年生以降、少なくとも学生時代はずっとやってきました。
それは個人的にはそういう思考の訓練じゃないけども、意味なんかないよってこと。当時別に認識してなかったんですけど、意味なんかないよっていうことを言うためにやってたんじゃなくて、
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つまらない問いだったから面白い、この方が面白いなと思って答えてたんですけども、今振り返ってみるとそういうことだったのかなというふうに思っています。
それって僕が楽しいだけで、もちろん何人かはそれで笑ったりする、クラスの人は笑ったりするんだけども、
学校で授業って勉強するためにやってるんだろうから、その意味では授業妨害にもなってたと思うので、今思うと悪かったなと思います。
だからそのふざけるっていうことは、その問いがつまらない、この場がつまらないって思っていた人にとってはナイスっていうことになるんだけども、
そこで真剣に学びたい人にとっては授業妨害になってしまう。つまり意味なんてものはそこですでに二分されてしまうみたいなことになってしまって、
怒らなくていい変化を起こしてしまっているということが、干渉してしまっているということが、ある種罪深いなということを思ったりしますね。
先日のポッドキャストの収録もそうなんですけど、そのテーマが公開されていないから具体的には言えないんですけども、
意味なんかないよみたいな話を結構長いことしてたので、ついに僕のふざけるスイッチが入ってしまって、ふざけた提案をちょっとしてしまって、
収録が終わって、ちょっとふざけすぎたなということで反省しているという感じですね。
その後、内省した結果がですね、さっき言ったみたいに僕がふざけるっていうこと、なんでふざけてるんだろうって考えたら、
意味なんかないよっていうことをただ面白おかしく言っているということなんですね。
だから意外と、ただふざけている、ただ冗談を言っているとか、ただ人を笑わせてやろうとか、自分が楽しみたいからとかっていうだけではなくて、
意味ないよってこのトーンで言ったらやっぱね、どのトーンで言っても伝わらないんだけども、このトーンで意味ないよって言ったら人を責めてるみたいになるんだけども、
せめてふざけて、意味がない状態にしてしまうっていうことによって、もしかしたら意味がないのかもしれないなと気づいていただけるというか、
理解していただける、僕が言っていることを理解していただけるきっかけになるかもしれないと思って、ふざけるという手段を選んでいるんだということなんですね。
これちょっと難しい、抽象的な話にはなっていると思うんですけども、意味を持って、意味がないよと言いながらも、
僕自身はそのふざけるということに、実はいろんな意味を持ってふざけているんだということを知っていただけると、
僕がふざけているときに、不要意に傷つく必要もないというか、不要意にバカにされているとかって思わなくていいんじゃないかなと思いますので、
このポッドキャストを聞いてくださっている方ぐらいはですね、僕がふざけたときに悪気がないというか、別にバカにしているわけではないと、意味がないと、
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これという意味なんてないんだよっていう、わりと哲学的なことを、意味ないよという言葉を使わずに、ふざけるという形で表現しているということをですね、
というふうにですね、見てもらえるとまた違った見え方をするんじゃないかということです。
ちなみに今、粘土版を作っているみたいな話をたびたびいろんな場所で、そしてここでもしているんですけども、あれなんか意味がないの最たるものですよね。
例えば何か文字を書こうと思ったら、スマホで書けばね、とかPCで書けば、ものの10秒とかで書けることを、
粘土版に刻むとなると同じ文字数を刻むのにね、何時間かかるんだと。
その文字を刻むだけで何時間だし、その粘土版からいろいろ用意していくということを考えると、ほんと一週間単位の作業があるわけですね。
ものの10秒で刻める文字を一週間かけて刻む、しかも粘土版に刻む、意味なんかないですよね。
意味なんかないけども、そこに意味を見出していく。これは実はですね、現代の誰もがやっていかなければならないことなんじゃないかというふうに僕は思っているんですね。
やっていかなくてもいいけど、与えられた意味がたくさんありすぎて、この世界には。
与えられた意味を継ぎはぎして、全部与えられたもので、与えられた意味で生きていくっていうのは、やっぱり自分にはフィットしないじゃないかと。
だからどこか違和感を感じながら生きていくことになってしまう。
意味を与えられるだけの存在じゃなくて、僕たちっていうのは意味を作ることができる。意味を見出すことができると思いますので、
この強固な意味まみれの世界の中で、与えられた意味だけで生きていこうとすると、自分で意味を創出する力みたいなのがどんどん失われていくと僕は思っているんですね。
だから別に与えられた意味が悪いと言いたいわけじゃなくて、それはフィットしないこともあるし、違和感ってありますよね。
違和感に対して違った角度からものを見てみると、違った意味付けをしてみると、なんだかフィットするかもなとかいうことがあったりなかったりするんじゃないかというふうに思うわけです。
そのためにも、そういうことを再解釈するには意味がちがちのものを再解釈するって結構レベル高いと僕は思っていて、
意味なさそうなものに意味を見出す方が自由度が高いから、その意味の再解釈の練習としては面白いんじゃないかなと思ったりしますね。
だから僕がやる粘土版みたいな、別に粘土版を作りましょうって話じゃないけども、意味なさそうなことをやってそこにどういう意味を見出すかっていう営みというか、
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そういったことを生活の中に取り入れていくと意味を作り出すとか意味を自分で意味付けする力みたいなものが養われていくんじゃないかなと思いますので、
まず意味がなさそうなことを、意味がなさそうじゃないな、意味が固定化されていなさそうなものに従事してそこに自分なりの意味をつけていくという習慣をつけると、
意味ががちがちの世界に対しても、というがちがちの意味もあるけれども自分はこういうふうな意味付けをしていますっていうことが高度なことができてくると思うので、
いいんじゃないかなと思っています。全然違う話になっちゃいましたけども、本題としては僕がなんでふざけてるかっていう話でしたね。
こういうことになりますね。メモがないとこういうことになるんですけども、僕はがちがちの意味にとらわれているような場面、そしてそれが停滞感を生んでいたり、
広がりが出ないような場面においてふざけることによって、その意味がもともとない状態にする。もともとない状態にして晒すことによって、また次の意味の再解釈ができやすい状態になる。
そのためにふざけているということですね。これだけ話してみて思いましたけども、全く伝わらないだろうなと思いながら説明してみたんですけど、ちょっと難しいなと改めて思いました。
とはいえですね、撮り直す時間もないので今回はこれでいこうかなと思います。またね、機会があればもう少しわかりやすく説明できればなと思います。
本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。