1. 現象のラジオ
  2. #333 どこまでを才能で..
2021-04-12 10:40

#333 どこまでを才能で片付けるか(後編)

エピソードをシェアする

Share on X Share on Facebook Share on Threads
spotify apple_podcasts

先日、Clubehouseで『どこまでを「才能」や「体質」で片付けますか?』という話をしたことの続きの続きを一人で考える。/シソフレ(思想フレンド)募集中!【秘密結社S.A.B】の活動はこちら  https://bit.ly/2P3pujF /うえみずゆうきの活動を応援していただける方は、noteマガジン【脳内議事録】をぜひご購読いただけると嬉しいです。 https://note.com/y_uemizu/m/md0e3af51acf5 

00:01
皆さんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、どこまでを性質で片付けるかという話の続きをしたいと思っています。
ここでいう性質とはですね、別に才能でも、センスでも、体質でも、個性でも、
どういう言い方をしてもいいんだけれども、その人の特徴みたいなものを性質という風に言ってますと。
これはもうね、議論の余地がありますよ、それ自体がね。
あるけども、そこのある種のしょうがないっていうものかもしれないですね。
その人の特徴だからしょうがないよね、みたいな領域をどう判断してますかという問いに近いかもしれません。
そういう話をしていたら、クラブハウスにしていたら、
そもそもしょうがないとかどうだろうとかっていう判断を目的を共有している相手であれば、
そういう評価も必要になるかもしれないけれども、目的を共有していなかったら、
そもそもそんな性質で判断するみたいなことすらしなくていいんじゃないかと、
みんな違ってみんないいで済むんじゃないか、みたいなところでタイムオーバーになってしまったと。
ただ、前回の最後にも言いましたように、本当に僕たちって目的を共有してないんだっけって話なんですよね。
確かに明確な尖った目標を共有して、めちゃくちゃガチガチにね、一緒に頑張ろうってなってるかって言ったら、
まあそれは違うと思うけども、
例えば日本に住んでいる時には日本の憲法とか法律が適用されていて、
少なからず基本的人権がとかっていうことっていうのはみんな共有しているその価値観みたいなものね。
目的というよりは価値観に近いかもしれないけども、
基本的人権というのは守られてしっかりべきだという、基本的人権を守っていこうという目的をある種、
共有できているはずなんですよね。
それができていない人、例えば人を殺してしまったとか、
全然人の基本的人権を尊重できてないですよね、人を殺すっていうのはね。
殺して、裁判に問われて、ということが起こると。
刑務所に送られる方もいます。
でも、かたや精神鑑定を受けてね、
この人には責任能力がないよねっていうことで、
刑務所じゃなくて病院に送られる人もいますよね。
これはある種、性質で片付けられてしまった。
この人は頑張れば判断できる人ではなくて、判断できない。
もうこの人の性質上は無理だっていうことで病院に送られるってことがある。
だからまさにどこまでを性質で片付けるかの境目が、
その精神鑑定によってされていると。
国家がね、この場合はもう責任能力がないと判断しますってことを、
ある種絶妙に決めているわけじゃないですか。
っていうことを、僕たち個人もどこかでやっているんですよね。
それは明文化されていないと思いますけども、多くの場合ね。
どこかでそれを判断しているんだと。
これはもう性質高い、しょうがないよと。
僕はサイコパスと言っているけども、診断名サイコパスではなくて、
いろんな本を読んだり、セルフチェックリストとかをやってみて、
得点も高くて、おそらくサイコパスなんだろうなという自己理解をしていて、
03:00
っていうのがあるわけですけども、
そんな僕が人に共感をしなさいと言われても、
努力しなさいと言われても、無理なんですよね。
気持ち反応しないからね。
だからそれ性質だよねって自分では思うと。
で、周りの人を見てても、この人サイコパスっぽいなっていう人を見たりとかすると、
どうも共感できていなさそうだなとか思うわけですね。
その人にもっと共感した方がいいですよとはとても言えない。
言えないし言いたくもないし、そうした方がいいとすら思っていない。
もう性質だよねって片付けてしまっている。
もっと言うと、診断名自閉症スペクトラムじゃなくても、
この人ADHDっぽさがあるな、アスペルガーっぽさがあるなって人っていますよね。
それはもちろんそれを勉強して、こういう傾向があるよアスペルガーにはっていうのを知った上で、
こういう傾向が確かにこの人にはあるなみたいなのを自己判断というか評価して、
その人が例えばアスペルガーっぽいなって時に、空気読めないとその人が。
空気読めなくてしょうがないなって僕は思っちゃうんですよね。性質だから。
でもそれは僕が勝手に判断、勝手に診断して、勝手にその人の性質はアスペルガーっぽさがある。
だから空気読めなくてしょうがないとか、この人はADHDっぽいなと僕が評価をした。
だからちょっと落ち着きがなくてもしょうがない、多動っぽくてもしょうがないと判断している。
結構僕は、今はちょっとわかりやすくアスペルガーとかADHDとかサイコパスとか言ってるけども、
そんなんじゃないにしてもね、この人は自己中心的なところがあるなとか、
この人はかなり多色的であるなとかっていうふうに判断した、評価した上で、
その人の性質を取られて、だからしょうがないよねって僕は結構思っちゃうんですよ。
僕はかなりのことをしょうがないよねで片付ける傾向がある。
つまり多くのことを性質で片付けている節がある。
もちろんその人はそういう人だからもう一生しょうがないよって思う領域もあれば、
そうじゃない、今はわからないんだね、来年になったらわかるかもねっていう領域もあるから、
一概に性質って言ってるわけではないけども、まあしょうがないよねってかなり人のことを見ているところがある。
だからこそ自分が距離を取って人間関係を調整しようとしてるんだけども、
結構周りを見ていると、そんなことないなっていうね、
それを性質で判断しちゃうんだみたいなことも僕からしたらあるし、
そこは性質で判断しないんだみたいなこともあって、
おそらく僕とは感じ方とかその捉え方みたいなのが違うんだろうな、
だからこそみんなにどこまでを性質で片付けますか、
どこの領域を性質で片付けますか、片付けませんかみたいな話を
いろんな人に聞きたいなと思ったのがことのほったなったっていう感じなんですね。
結構違和感を感じているのは、目的を共有しているかしていないかって話があったと思うんですけども、
昨日ね、目的を共有している場面もまたちょっと意味不明なんですよね。
その最多のものが企業かなというふうに思っていて、目的があって、
06:03
人々の役割があって、期待される成果みたいなのがありますよね。
という中でどうしてもできている、できていないということが評価されてしまうと。
その時にどこまで性質ということを考慮するのかということなんですけども、
外資とかだったら結果を見てね、できていないんだからできる能力がなかったということで判断しますというのは、
これは性質ではなくて本当に能力主義というか結果主義でやっていると思うんですが、
日本企業とかになってくると、とはいえ上水くんはこうだからねみたいな、
性質が考慮されたりとかすることってあるじゃないですか。
あれはね、めっちゃ性質を組み込んじゃってるけど大丈夫ですかとか思ったりするんです。
目的のために合理的にあるべきだということは僕は思っているので、
外資ぐらいの方がですね、しっくりくるところがあるんですけども、
日本企業とかになってくると、なんか結構性質みたいなものをかなり取り入れてくるなとか思ったりもするんですね。
外資と日経みたいなちょっとね極端な分け方ですけども、便宜上ね分かりやすくされていきたいと思うんですが、
外資系企業とかになるとやっぱりその結果が全てですよね。
その人が黒人であるとか白人であるとか黄色人種であるとかじゃなくて、
その役割に対して結果出せたかどうかということで多分判断される。
100%そうかと言ったらちょっと差別がどうか問題は未だにあるんだろうからわからないけども、
基本的にはそういう結果で判断されるっていう構造あると思うんですよね。
ところが日本の企業とかになってくると、どこかね男だからとか女だからとか、
若手だからとかベテランだから、おじさんだからとか、どこどこ出身だからとか、
そういうのがね混ざってる気がするんですよね。
これ昨日の話にまた戻るんですけども、目的を共有しているか否かなんだっていう話ありましたよね。
目的を共有していないのであれば、性質とかそんなんじゃない、みんな違ってみんないいだよねと。
でも目的を共有していたら、やっぱりどこかで性質的なもの、才能なのかセンスなのか大切なのか何なのかわからないけども、
能力とかってことをどこかのラインで判断していかないといけないことが、
どうかしないといけないことってあるよねみたいな話だったと思うんですけども、
まさにこの企業の取り組みっていうのは、行いっていうのは判断せざるを得ないのにもかかわらず、
めちゃくちゃ能力とかじゃなくて性質みたいなものが混ざってて正しく評価できてないんじゃないか、
合理的に評価できてないんじゃないかっていうふうに思うわけです。
で、方やプライベートになってくると、確かに性質で判断してもらっても構わないと思うんですよね。
この人はこういう人だから距離を置こうっていうのは勝手に決めつけてやってもいいと思う。
僕みたいにこういう傾向がある人だからこういうふうな距離感を取ろうみたいな感じでやっていいと思うんだけども、
目的を強調してたら、そういう傾向があるにせよ能力、努力でもうちょっとカバーしようよみたいなことが
期待とかいう話になっちゃうのかもしれないけども、目的のある何かに参加している以上は、
09:01
その目的に最適化された自分になっていかないといけないよねってことを思ったりすると、
ここら辺の境目がだから難しいですよね。
性質か性質じゃないかっていうまずその境目もあれば、今度目的があるないっていう境目もあって、
その中で人が人をどのように評価するかってことはすごく難しい問題だなというふうに思っているところでございます。
これはね、やっぱりその答えはない。もう最初から言ってますけど答えはないことなので、
一人一人がそこの辺のところの価値観というか、このラインで自分を判断する評価するよっていうことを
自覚的であるってことはですね、行きやすさにもつながるんじゃないかなと個人的には思ってますね。
僕はですね、その目的を共有したときにどこまで性質で片付けていいのかっていうのが結構悩ましいなと思っています。
目的がないときは本当に性質で全て判断してしまってというか、何ていうのかな、逆に全て性質で判断してしまってというか、
距離感でいかによりも調節できるかなと思ってるんですけども、目的を共有したときには、
その距離感の調節できる範囲というのはやっぱり制限されると思いますし、
達成しなければいけない役割みたいなものがあったりすると思いますので、
そのときにどこまでを性質ということで片付けて、どこまでを努力として期待する、求めていいのかということがですね、
まだ自分の中では判断がついてないなと思うので、これからも僕はね、それについて考えていきたいなと思いますし、
皆さんもぜひこれを機会にですね、考えてみていただけると面白いんじゃないかなというふうに思います。
本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。
10:40

コメント

スクロール