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皆さん、こんばんは。上水優輝でございます。完全招待制の晩餐会を開催したり、公園にレジャーシートを敷くなど、存在としての公園のコンセプトに様々な活動を行っています。
現象のラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。前回は、専門学校に社会人、27歳からですね、通って、
3年生ですね、29歳の春にその専門学校を辞めて、株式会社ビッグトリというですね、ディスカッションの教育会社、教育系ベンチャーにですね、移ったというお話をしました。
その2年生後半からですね、新規事業、Dコートですね、中高生対象のディスカッションの教室をやろうと、習い事をやろうということで色々とビジネスプランを考えていたら、
春にですね、借り入れが通って資金も調達できたんで、もう教室作りますということになったんですね。学校も辞めて、ビッグトリに移りました。
自分はその2年間ですね、医療系の勉強とは別に息抜きにですね、ビジネス書を乱読してたんで、なんとなく机上の空論が頭の中に入りまくっていたんですね。
こう考えればいい、ああ考えればいいっていう、ビジネス的な引き出しっていうのが、引き出しだけがあったと。
何て言うんですか、経験はないが頭の中に理論だけがあると。それを試したい気持ちもあったんで、色々と提案するわけですけども、何一つ通らない。
それはですね、2方向あって、1つはのぞみ社長の結構極端なこだわりがあって、そのこだわりポイントみたいなものを理解してないままですね、提案してたっていうのが1つ。
もう一つは、やっぱり僕自身に何の実績もないから、本当に機上の空論を言ってるやつみたいなね。結構ね、もうちょい歳とってから気づくんですけど、やっぱり勉強だけして理論だけ知ってるみたいな人ってやっぱり厄介なんですよね。
実際にやってみて気づくけど、やっぱり理論っていうのはその現場というか状況に合わせて応用しないと、そのまま理論が当てはまる場面なんていうのはほとんどないわけですよね。
ただそれは始めるタイミングだったんで、その理論を使って何かやってみたい、みたいな気持ちも当時はありましたという感じで、その2つの意味で全然噛み合わないというか、全然任せてもらえない感じになって、
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かなりオールドタイプのプロモーションですね、ポスティングをしたりとかですね、そういうところでやっちゃいけないことが多すぎたんで、やれと言われたことをやるみたいな状況になってしまったと。
結構ね、これはビジネスはもっと自由だって思っていたので、思っていたというか自由だと思うんですけど、案外不自由な展開になってしまって絶望的だなと思いました。
学校を出ておけば年収はそれなりに安定して、そして高科資格ですし、そんなに食いパグれないだろうみたいな、しばらくはね、っていう資格だったんですけども、それを蹴って不安定な場所に来て、
せめて自由にやって経験ができるかなと思ったら、あんまり自由にできないみたいな状況になって、これはやばいなとなったわけですね。ただ、前回言いましたが、休学ではなくて退学してきたんで、もう学校にも戻れないと。戻るんだったら1年生から寄り戻さないといけない。
じゃあまた何百万か貯めて学校に行きますかって言うと、まあね、奨学金の借金もあるし、さらに貯金もしてとか、まだもう現実的ではないよねってなってしまって、じゃあもうこの状況でやり切るか、もう全部諦めて、
ダメだったねって言ってなんか適当に就職して、借金返済するみたいな生活をするかっていう感じになって、まあでもせっかくっていうか、この状況で白旗挙げるのは、まだやれることあるだろうということで、やり切る。
つまり、どう考えても現状はアウトなんだけど、選んだ道を正解にするっていうパワープレイですよね。もうそうするしかないだろうという状況になったと。なので、ちょっと腹が決まったというか、覚悟も決まったんで、どうにかして結果を出さねばというモードになりました。
なので、言われていたことと並行して、本当に深夜まで自分の方法も織り交ぜながら、プラスアルファでいろいろやって、それぞれのデータを取って、言われてあったことがいかに非効率であるかってことをデータで示して、そして自分の方法で少し入会者が出てくるみたいなことで、結果もこっちの方が出てるよと、労力もこっちの方がかからないよとかいうことをちゃんとデータで示しながら、かつ言われたこともちゃんとやったというところで、
だんだんですね、その驚くさいことをやり抜いたこととか、それをデータで示して、ちゃんと感情ではなく論理でしっかりと説明したというところで、信頼されるようになってきたと。
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そこでですね、業務委託っていうところから、役員ですね、昇格っていうんですかね、役員になりました。
その次の年だったかな、企業研修とかの取引先の社長さんから、アントレプレーナー教育みたいな企業家育成みたいな6回講座みたいなやつに、
のぞみ社長行ったらいいよ、みたいな感じで言われて、で、のぞみ社長が行きたくないから、僕にですね、行けと言って、そのアントレプレーナー教育ですね、6回プログラム半年コースみたいなやつに行かされました。
で、ビジネスプランをですね、激詰めされるやつなんですけど、あのDコートはかなりですね、のぞみ社長のこだわりで僕が情報してる情報というか、なんていうかな、僕が思っているようなところじゃないこととかも盛り込まれてるわけですよね。
そこは絶対譲れない、ここはこだわりなんだ、みたいなのがあったりするわけですけど、言語化されてなかったりするんで、当時の僕からすると、なんか分からんけど譲れないんだな、みたいに思ってたところを、このアントレプレーナー教育で激詰めされるんだけども、僕のこだわりではないから、なんか間に挟まれたサラリーマンの気持ちでしたね。
本当に取引先からも詰められるし、でも社長の意向もあるからちょっとな、みたいな感じで、間に挟まれてでもゴリゴリに詰められる。本当にやりたいのか、みたいなこと言われるみたいな感じで、体育会見が鬱陶しいなって改めて思いましたね。
この体験が、怒鳴られたりとかはしてないけども、中学校の時のサッカーのノリと結局繋がるゴリゴリのホモソーシャルみたいなノリが、やっぱり僕は嫌いだなと思ったし、この時のせいでですね、なんかちょっと昭和の香りが残ったビジネスパーソンの気合と根性みたいなのが大嫌いになったんで、結構ビジネスパーソン嫌いになったのは、ここら辺も影響してるかなと思いますね。
結構ビジネスパーソンの85%ぐらいは嫌いですね。すごい良い人が中にいるんで、ビジネスパーソン全部嫌いっていうのはちょっとそんなことはないんですけど、おおむね嫌いで、たまにすごく好きな人がいるっていう感じの、とにかくビジネスパーソンが嫌いになるきっかけになったアントレプレーナー教育がありました。
僕はアントレプレーナーでもなんでもないのにね、生かされたサラリーマンって感じで、結構大変な目に遭いました。
それも終えてですね、終えたんですが、結局そのDコートは1年経ってもですね、生徒数が十何人とかだったと思うんですよね。
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ビジネスとしては当然大赤字、十何人の生徒でですね、そんな黒字化するような教室ビジネスってそうそうないですから、大赤字で会社をね、存続するために企業研修の方もっと頑張っていかないといけないよねというふうになりました。
それは多分2017年、16年とか17年だと思いますね。ビッグトリーに来てから1年とか1年半経った頃だと思います。
会社をね、存続していくために研修事業を頑張りましょうということで、当時ののぞみ社長と共同創業者のもう一人と、そして僕の3人でやってたんですけど、
主にのぞみ社長ともう一人が研修事業をやってて、僕はそのDコート事業をやってるという感じ、担当でやってたんですけども、Dコートもやりながら、研修事業をしっかり昼間やりましょうという感じになりました。
で、スーツを着るわけですね、ここに来てね、30歳過ぎて初めてこの苦手意識のあったスーツの世界、雑社会人の世界に入りました。
で、それまでの積み上げた営業のノウハウとかも特にないと言ったらちょっと言い過ぎだけど、パワープレイですよね。
テレアップをしてアップを取れたところに行くみたいな、旧来のセールスというかですね、感じだったんで、
普通にテレアップのリストに片っ端を掛けて、いらないいらないっていうね、拒否をされながら、100件、1件ぐらいですね、アップが取れるわけですね。
で、そのアップが取れたところに会社の資料を持って行って、こういう会社なんだけどという話をして、研修を受注していくという仕事をやってました。
法人営業研修、企業研修の法人営業ですかね。本当にやりたくなかったし、嫌だったんだけども、さっきも言ったみたいに、行き場がないので、
この選んだ道を正解にするしかないという状況でしたから、本当に辛かったんですけど、やり切ったという感じです。
辛かったんですけど、今思うとですね、あそこでいろんな会社に行って、いろんな会社の人事の方とお話をしたり、その会社の事情を聞いたりとか、
研修でね、実際に社員の方を見たりとかしたことが、今の仕事に、今のコンサルに生きてたりするんで、
嫌なこともですね、やっぱり言ってやり切るというのは大事だなと、今となっては思います。
ただ当時はね、本当に毎日嫌だなと思いながら、本当あんまり記憶がないですね。嫌だったなという記憶しかないですけども、
でもいろんな経験、いい社会科見学だったなと思ってます。
テレハップをやったり、オープンセミナーを開催して、そこから興味のある方に営業をしてとかね、いろいろやってましたね。
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最初は営業だけだったんですけども、研修に同行してですね、野沢社長が講師としていて、僕が営業担当として一緒に同行するみたいなことをやってたんですけども、
研修からコンサル寄りになる瞬間みたいなのがあるんですよね。単発の研修から、だんだん経営者の方の相談に乗るみたいな感じに移行するみたいな。
どうなんですかね。大きな企業とかだとそんなにないのかもしれない。僕はあんまり大企業とかとショートしたことがないのでわからないですけども、
福岡とかの中小企業とかだと入り口全然違うところから入って積み重ねていくうちに、だんだん社長の誤用聞きと違うな、社長のいろんな課題にこういうことできませんか、
みたいな追加でいろんなお願いをされ始めるというのが起こるんですよね。そこでいろんな要望に応えるというのは、どちらかというと、野沢社長はそういうの苦手だったんですけど、
研修で単発でプログラム作ってやるというのはすごい得意だったんだけど、臨機応変にその課題に応える、それにソリューションを出していくみたいなのは、
僕の方が得意だったというのもあって、だんだんコンサルっぽいムーブになってきたということで、研修会社ではあるんだけども一部コンサルティングを実施するみたいな感じになっていて、
まさに今の仕事につながってくるような経験とかスキルを磨いていった時期かなと思っています。
2019年ぐらいにはかなり売上も安定してきたし、伸びてきて安定してきたし、業務がめちゃくちゃ非効率だったものを合理化できるところはしっかり合理化して、かなり時間にも余裕ができてきたと。
そこでですね、当初この会社に移ってきた時っていうのは、タイミングが急遽借り入れによって来たんだけども、やっぱりやってることがすごい面白いなって思ったからだったんですね。
価値観の交換、ディスカッションを通じていろんな人が思考して自己理解を深めていく様子っていうのがすごい重要だって思ったからこの会社に来たんだけども、それはそれで重要なんだけど、僕の人生を全てそれに捧げていいんだっけっていうことをやっぱり改めて考えるようになって。
2019年ぐらいに安定してきて時間ができ始めた時に、じゃあこの時間をさらにビッグトリーに注ぐかっていうと、もっと自分のこともやりたいなって気持ちが出てきたんですね。
それで、いろんな表現をベースにした個人の活動を始めました。
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ちょうどYouTubeで喋るみたいなのが流行ってた時期でもあったんで、YouTube番組をやってみたりしたんですけど、動画はしんどくてすぐやめちゃったりとか。
動画はしんどいけど、音楽、インストのノイズ音楽をやってみようみたいな感じで、ノイズミュージックを作っている時期もあったりしたし、いろいろ自分の表現を模索してた2019年はそんな感じでした。
2019年11月からノートでエッセイを毎日更新するっていうのを始めました。
これが章にあってて、そこから毎日ノートを書くっていうのをやってました。
という感じで、ビクトリーに移ってから、Dコードという教室、今もやってますんで、ぜひ興味のある方はお子さん体験レッスンに来てほしいですが、
Dコードという教室を立ち上げに参画して、そこからなかなかビジネスとしては軌道に乗らなかったので、
研修事業、ビジネスパーソナルのど真ん中みたいなことを経験して、一通り会社が安定してきたので自分の活動を始めたというところまでお話しさせていただきました。
次回は、そんなやっと自分の活動ができるぞっていう感じになってきたときに、新型コロナですね、2020年。
新型コロナがやってきて、また生活が一変する2020年以降のお話っていうのを次回やっていこうと思っています。
本日は以上です。