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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。この番組は、サイコパスである私が、サイコパスならではの切り口で語ることによって、サイコパスについての理解を深めるきっかけになることを目的としています。
ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、できないほうがよいという考えもある、というお話をしたいと思っています。よろしくお願いします。
初めて言いましたね、よろしくお願いします。
なんか、自分ができるに越したことはないって思ってる人多いと思うんですけど、僕は最近、逆で、できないことが多いほうが実は、生きていけるのであれば、できないことがより多いほうが、実はいいんじゃないかって思ったりしているんですね。
でも、よくある話、ピアノが弾けたらいいなとか、料理ができたらいいなとかって思ったりすることって、あったりすると思うんですけど、仮に料理が上手に作れるとしたら、なんでしょうね、パッと思いつくのは、毎日自分が適当にスーパーで買ってきたもので、すごくおいしい料理が作れるんだから、毎日おいしいご飯を安く食べれて、最高じゃないですかって、
プラスの面を見ればそうだったりすると思うんですが、マイナスの面で見ると、分かんないですけど、例えば、友達と適当な居酒屋に行ったら、飯がまずいって思っちゃうとかですね。
自分は10点の料理を作れるからこそ、そして10点の料理を日々食べているからこそ、居酒屋で3,000円とか4,000円とか5,000円とか出して、まずい飯食うっていう状況がすごくストレスになる可能性がありますよね。
つまり、3,000円、4,000円、5,000円がすごくバカバカしく感じて、飲み会に参加しなくなってみたいな状況があるかもしれないと。もしくは、おいしいご飯さんじゃないといけないから、友達が店選びで困っちゃうみたいなことが起こったりとか、価格が跳ね上がったりとかっていう感じで、
結局、10点の料理が作れて、毎日家で作れるという良さはあるんだけれども、一方でいろんな料理に対しても厳しくなってしまうという可能性があると。
なぜなら、10点の料理を作るという運動神経じゃないですけど、手が動くという技術があるという状態っていうのは、必ずしも筋肉が上手に動かせるということだけではなくて、料理であれば、鼻がすごくいいとか、舌が味覚がすごくいいとかっていうことも絡んでくるはずなんですよね。
じゃないと、自分が10点とまで作っているものが1点かもしれない可能性があるので、やっぱりその技術と感覚とを兼ね備えている状態ができるという状態なのかなと思ったりするわけでございます。
ピアノとかにしてもそうですよね。これ実際僕もあるんですが、そんな別に今10点とか5点とか話しているので、自分は10点とは思わないんですが、一応バンド歴が長くて、ギターを弾いたりとかしてきましたというところで、ゼロではないわけですよね。
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例えばそれを仮に5としましょうかね。ギターレベル5だとすると、街を歩いていると、路上ライブをやっている人がいますと、その人のギターのレベルが例えば3とか2とか1とかだったりすると、不愉快、不愉快じゃない、不快感ですよね。
下手なギターが聞こえてくることはストレスなわけですよね。自分が弾いたほうがマシなわけですから、すごく心地の良くないギターの音が歩いているだけで聞こえてくるというのは、とても不快な体験になってしまうので、もし自分はギターを弾けなかったらですね、ゼロ点だとすると、2点とか3点でギターを弾いている人を見ると、ギターは弾けていいなとか、街の中で演奏しているようになってしまうので、
街の中で演奏して、勇気があってすごいなとか、応援したいなとか、ちょっとはポジティブな気持ちに思えるんじゃないかなと思うんですけども、自分は変に5点分ギターが弾けてしまうがために、この人全然練習してないなとか、そういうことが分かってしまうと、凶詰めしてしまうというのはあるのかなと思います。
そんな感じでですね、もうちょっと現実に落とし込むと、例えば仕事をしていて、何でもいいんですよね。例えばメールを1本書くにしても、メールを書くのが自分はすごく気を使って上達しているという自覚がもしあれば、いわゆる10点のメールを書けるとすると、
5点のメールを送ってくる人とか、3点のメールを送ってくる人を見ると、この人仕事できないんだろうなとか、そういうふうに見ちゃうというか、メールが下手だなということが少なくとも思っちゃうわけですよね。
自分の方が上手いということに対して、別にマウンティングでも何でもなくて、単純にそのメールがこの人下手だなと、メールが下手ってことは文章が下手、文章が下手ってことはとかという感じで連想していって、いろんなネガティブなことというか、いわゆる判断しちゃうわけですよね。
判断できるがゆえに判断できてしまうということですよね。それは何でもよくて、ブラインドタッチとかカタカタカタってパソコンをキーボードをタッチする、それも自分はむちゃくちゃ上手にブラインドタッチができるけれども、下手くそな人のキーボードの入力とかを見ていると、無駄が多くて見てられないみたいになるんじゃないかなと思います。
そうならないっていう人はですね、あんまり自分の能力とか人の能力にただ関心がないだけであって、自分は例えば5点とか10点とかっていう自覚があって、そして相手にも興味があってそれを見た瞬間、やっぱりその差みたいなのが見えてしまって、できるがゆえにちょっと厳しい視点になってしまう可能性があるかなというふうに思っています。
特に技術の面ですよね。料理とかピアノとかメールとかブラインドタッチとか全部スキルなんで、スキルがあるない問題っていうのは、やっぱりできる人はできない人に対して気づいてしまう反面、気づいてしまうがゆえに厳しくなってしまう。厳しいメールばっかで生きていくのって辛いじゃないですか。辛いというか、あんまりいいもんじゃないじゃないですか。不快な気持ちになっちゃうんで。
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例えば仕事をしていて、すごいメールが減ったくさんのメールを送ってこられると、自分が上手いメールかというか別ですよ。ただ自分が思うレベルよりも遥かに下のレベルのメールが来たりすると、この人頭あるのかなと思うとすごい仕事したくなくなっちゃうとかしますよね。
っていう感じで、自分が変にできることがあると相手にそれを求めるとまでは言わないけども、やっぱり判断しちゃうっていう意味ですごい不快になっちゃうと。であれば自分ができないことが多ければ多いほど、この人はこういうことできてすごいな、この人はこういうことができてすごいなっていう感じで、ある意味尊敬、リスペクトを持ちやすいっていう意味では変にできることを増やそうというよりはできないことを増やしてみんなに感謝できたりリスペクトできるほうがなんか生きやすいんじゃないかなというふうに思ったりしますね。
意識的にね尊敬しようと思ってすることはできなくはないんですけども、できるんですけども、実質ね、例えばギターみたいなことを具体的に比べたときに、これはちょっと人間だなとかっていうふうに評価しちゃうことになっちゃいますんで、そこはね、悟りを開いて評価しない人生みたいなのを歩める人はいいんですけども、自分ができることほどやっぱりそこってのこだわりがあったりとか感度が高かったりするんで気づいてしまうんですよね。
なので気づかないように感度を下げていくっていうのは一つの方法論としてはありかなと思ったりもするところでございます。なので変にこだわりがないところを技術つけて何でもかんでもできるようになっておくっていうのは、かえってね、生きづらさにも繋がったりするんじゃないかなと思う今日この頃でございます。
なので僕はね、生きていくために絶対必要だろうと思う、自分が豊かに生きていくために絶対必要だろうと思うこと以外はですね、もう変にできるようになるまいと思っているところでございます。じゃあ具体的に何が必要と思っているかというと、やっぱり自分で考える力っていうのは、思考する力っていうのは絶対必要なことだと思ってますんで、そこはね、誰よりもではないですけども、しっかりと時間を使って考える力を育んでいくというか考える機会を増やしていこうと思っているところでございます。
それに小手先のというか、技術的に必要ないものを身につけるみたいなことはせずにですね、できない人間としてできる人にこうね、できてすごいなって思いながら生きていける方が僕はいいかなと思っているところでございます。本日は以上でございます。
はい、参考になるか分かりませんけども、そうだなと思った人がいればできないことを増やしてですね、周りの人に頼って感謝しながら生きていくっていうのは一つありかなと思いますんで、参考にしてみてください。それではさよなら、またお会いしましょう。