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2022-09-17 10:16

#483 感情は生じるのか、それとも選んでいるのか

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感情はその人が選び取ったもの、その感情は意味づけの上に成り立っているということ。そのようにモノを見ているから悲しいのであって、そのようにモノを見なければ嬉しいかもしれない。

第八回文学フリマ福岡

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第八回文学フリマ福岡に「どうせ死ぬ三人」が1stアルバム『50% ノミゾ』(詩集)を引っさげて出店します。よかったらぜひ遊びに来てください!

日時:10/23(日)

会場:エルガーラホール8F 大ホール

入場料:無料


どうせぬ三人

最近始めたポッドキャスト。

https://open.spotify.com/show/5aK5ee7u4FG0CpAQG92O6Q?si=7ae11dd32c3b4e1b


上水優輝

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Twitter @y_uemizu

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結論から言うと、僕は感情というのは、その人自身が選び取ったもの、選択したもの、というふうに捉えています。
感情というのは、その人自身が選び取ったもの、選択したもの、というふうに捉えています。
感情というのは、その人自身が選び取ったもの、選択したもの、というふうに捉えています。
感情というのは、ある意味付けのもとを成り立つと、その意味が変わってしまうと成り立たないものであるというふうに思っています。
そのようにものを見ているから悲しいのであって、そのようにものを見なければ、むしろ嬉しいかもしれないという感じで、
どのような眼差しでものを見るか、どのようにその物事を意味付けるかによって、生じる感情みたいなものが変わってくる。
つまり、感情は生じるんだが、生じるためのどのようなルートを選ぶかということは、自分側に権限があって、
選んだものによっていろんな感情が生じているよね、という意味で、感情自身が生じるというよりは、感情自身を自分が選んでいるんだ、という立場を僕は取ります。
いきなり何の話をしているんだという感じかもしれないですけども、先日Twitterのスペースで雑談みたいなことをしていたんですけど、
そこに知っている方がホストをされていて、知らない方もいる中で、その知っている方が僕を、この人サイコパスなんですよ、みたいな感じで紹介していただいて、
一応ね、丁寧に説明していただいたんですよね、シリアルキラーみたいなものではなくて、サイコパスというのは必ずしも暴力を伴うものではなく、
共感性が低いという特徴があるんですよね、みたいなことでご紹介いただいて、
そして初対面の方が結構ドン引きしているなという印象を受けたんですけれども、
お構いなしに話が続いて、上水さんって悲しいとかそういう気持ちあるんですか、みたいな質問をされました。
でまぁ場の空気的にもですね、あんまり細かく答えてもしょうがないなと思って、
ありませんっていうふうに答えたんですよね、雑な回答をしてしまったということと、
その場の空気的にもあんまり詳しくというか、細かく説明しても仕方ないなと思ったので、
ありません、みたいなサイコパスキャラみたいな感じで回答したんですけれども、
せっかくなんでですね、自分のしゃべりたい放題のこの番組でですね、
じゃあ悲しいという気持ちがないといったその真意とか、
感情というものをどう捉えているかみたいなことをですね、
今日はお話しできればいいかなというふうに思っています。
厳密にはですね、僕自身も悲しいとか寂しいとかっていう感情を抱く瞬間はあるんですけれども、
最初にも言った通りその感情というのは自分が選んでいるという認識というかそういう立場なので、
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選ばなければその感情は消えていくみたいな感じで、
割とすぐ落ち込んだりとかしても立ち直ることができたりします。
感情が意味の上になり立つとか、感情を自分で選んでいるんだというのはどういうことかということをですね、
例題を出した方が分かりやすいかなというふうに思いますね。
まずその一つ目にですね、感情を選ぶ以前の問題に文脈とか状況みたいなものによって、
生じてくる感情自体が変わってくる。
同じ出来事であっても文脈とか状況が変わると生じる感情が違うよねっていうのがありますよねと。
どういうことかというと、例えば自分がハムスターを飼っているとしますよね、仮に。
ハムスターが死にましたみたいなことを例にしたときに自分が飼っているハムスターが死ぬ。
ということはそれは一般的に想起される感情としては悲しいとか寂しいということだと思うんですけども、
例えば死というものが自分にとって何らかの信仰をしており死後の世界があり、
その死後の世界というのはユートピアだと信じているとすれば、死ぬということは悲しいことではないよねみたいな。
寂しい、取り残されて寂しいみたいな気持ちがあるかもしれないけれども、
死後の世界できっとユートピアにいるからそれは別に悲しむ必要がないということで悲しいという感情が芽生えないかもしれないよね。
次に、そんな信仰じゃないにしてもね、例えば飼っているハムスターが死ぬってイメージパッと映像で浮かぶと悲しい感じするけども、
例えばね、生前の自分が飼っているハムスターが痛みや苦しみにのたうち回っていると何の病気か知らんけども、
毎日すごい苦しそうでのたうち回っているという状況であれば、死んだらもしかしたら悲しいというよりはお疲れ様っていうね、
良かったねって楽になれたねって思うかもしれないじゃないですか。
死んでるんですよ、自分のペットは死んでるんだけども、その文脈としてすごい苦しんでて、
もう生きていることの方が辛そうだって思ったら死んだ方がむしろハッピーだよねっていう風に意味として捉えることもできて、
感情としてはむしろ楽になれて良かったねって安心するかもしれないと。
それでもたった1匹のハムスターが亡くなって寂しいという気持ち自体はね、悲しくはないにしても寂しいという気持ちは残るかもしれない。
いやちょっと待って、ハムスターが20匹いれば1匹死んだとしてそんなに寂しくないかもしれないみたいな感じで、
自分が飼っているハムスターが亡くなるからといって、いろんな状況、文脈によって生じる感情って違いますよねっていうのは、
今の例題でいうとまず分かると、それは別に自分で選び取っているとかではないかもしれないけども、
文脈とか状況によって自分に生じる感情が同じ自分のペットのハムスターの死だとしても変わるよねと生じる感情が。
その状況が違うのか、そりゃそうだろうって思うかもしれないですけども、状況とか文脈とかが全く同じでも、
人間というのは解釈が異なって、その物事、その出来事をどう捉えるかというのは多種多様あるよねと。
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ここからがですね、今日言っている感情が自分で選び取っているよねって話、ここからね感情を選び取っているよねって話に直結するんですが、
例えば、自分がすごく好きな人というか、いい感じだなと思っている人がいて、毎日連絡を取っていますと。
毎日連絡を取ってたんだけども、相手がね、今月くらいからちょっとしばらく仕事がすごく忙しくて連絡が取れづらくなるって言われて、
実際今月1ヶ月過ごすと、もう3日に1回とかしか連絡が取れなくなってきたということがあったとしましょう。
いろんな捉え方があると、ある人は単純にね、連絡が前ほど取れなくなって寂しいって感じるみたいな人がいるかもしれない。
ある人は、いやいや3日に1回ぐらいが意外とちょうどいいなみたいな感じで、むしろ寂しいどころか、自分の活動とかもできるようになってハッピーになってきている人もいるかもしれない。
ある人は、そんな3日に1回ぐらいしか連絡が取れないような状況っていうのは、めっちゃ仕事忙しいよねと、健康が心配だなっていう感じで心配をした人がいるかもしれない。
またある人は、仕事すげえ頑張ってるなと、自分負けてらんないなと、頑張ろうって感じで、その頑張っている相手に対して自分もやる気を出したり勇気をもらったりするみたいな感じで、むしろ元気が出るみたいな。
またまた、どんだけ忙しかろうと3日に1回とかないだろうと連絡ぐらいできるだろうみたいな感じで、怒り出す人がいると。
怒ってる出来事としては、毎日連絡取ってた人が仕事が忙しくなったと言って、3日に1回しか連絡が取れなくなっただけなんだが、そこによって勝手に相手側が捉える印象によって生じる感情が変わっていると。
だからどう捉えるかで感情って変わるから、別に感情って結局は自分がどのように物事を見ているかっていうだけのことかなと。
それによって生じているだけだと思うので、自分が選び取った意味によって感情が生じているというふうに僕は思うんですよね。
最初に言った文脈とか状況が違って、同じ出来事なんだけど同じ出来事じゃないように見えるっていうのと一緒で、
同じ文脈で同じ出来事であったとしても、結局は自分がどのように物を見るかによって感情とかが生じてくるよねと思うと、
自分がどのように見るかによってそれは選び取れるものだから、例えば悲しいとか言っている人は悲しいことを選んでいるよねって僕には見える。
だからこそ僕自身が悲しいという感情ないんですかって時に、僕が悲しいことがあるとすると自ら悲しいを選び取っているようになって、
悲しいことをそんなに自分が心地よいと思わない、あえて悲しいを選びたくないのであれば悲しいじゃない意味の捉え方をすれば悲しくなくなるから、
そんなに悲しいって思うことはありませんという意味を込めて雑談の場で悲しいって気持ちあるんですか?
いや別にないですって答えたっていう感じですね。ちょっと複雑ですけども、そのようなことがあったので詳しく解説してみました。
かたや意味があって意味に対して感情が生じているんだみたいなことは僕は立場として取っているんですけども、逆の人もやっぱりいると思うんですよね。
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感情が先に生じて感情が生じるからそのように物事を捉えているんだみたいな感じで感情ファーストで感情によって意味付けが規定されているんだって捉える人もいると思うので、
どっちが先か論争というのはよくわかんないけども、僕としてはですね意味があるからこそその意味によって感情が生じているという立場を取っていますという、
あくまで僕がどのように物事を見ているか、僕が悲しいって思うことがあんまりないよっていうことのロジックとしての背景みたいなところですね。
今日はお話しさせていただきました。別に僕のこの捉え方に賛同してほしいというわけではなく、一般的には感情が先に生じてそのような感情があるからそのように物事を見ているんだみたいな感じの方が、
数で言うとそういう方の方が多いのかなという体感としてはあるんですけれども、なのであまり賛同してほしいという感じはないんですけれども、こういう僕のような見方をしている人間もこの世の中にはいるんだなというふうにですね、
受け止めていただけると嬉しいなと思います。本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。
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