高校卒業後の苦悩
皆さんこんばんは、上水優輝でございます。完全招待制の晩餐会を開催したり、公園にレジャーシートを敷くなど、存在としての公園のコンセプトに様々な活動をしています。
現象のラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。前回、高校卒業までをお話ししたんですけれども、
バンドでプロを目指そうと思っていたら、卒業間近にバンドメンバーと仲互いをして、いきなりやっていこうと思っていたバンドがなくなるという状況になりました。
もっと言うと、卒業後、どうやって成形立てるかみたいなことも何も決まっていなかった。
本当に何もないっていう人生の春から、どん底に突き落とされたという感じでした。
まず最初に、母が救いの手を差し伸べてくれて、バイトを紹介してくれましたね。
スーパーで品出しのバイトを紹介してくれて、気分としてはもう最悪に沈んでいるわけですね。人生どうしようかなという感じで。
僕はベーシストでしたから、これがボーカルとかギターだったら、一人でギター持って歌いに行くっていうので、やってやるわって感じだったけど、
ベースしか弾いたことなくて、ベースだけあってもどうしようもないなみたいな気持ちに当時はなってました。
どうしようって感じだったし、スーパー勤務始めたら始めたで、そこの社員がね、結構ずっと嫌味言ってくるみたいな。
ネチネチした感じでね。もう気分も沈んでるし、なんか直々の上司っていうかね、社員がそういう人で、なんか嫌だなーっていう感じで、本当これ人生はどん底だったなと思ってるんですけど、
割と死にたいって頻繁に思ってた時ですね。
仲間との再会
で当時、いろいろあるな。当時テレビで細木和子がね、よく出てたんですよ。占い師ですかね。六星占術って言ったね。
その細木和子によると、僕は金星人マイナスで、ちょうどその年から大作戒に入っているということで、僕はですね、あまりにも高校3年間良くてね、人生の春で。
で年明けてから、もう一気に地獄に突き落とされたような状況になったんで、で大作戒だとその年から。
これはもう、この占いが当たってるに違いないって思ってしまったんですよね。
なのでこのどん底の時代に、なんかそういう占いみたいなものを信じるみたいなことになってしまい、ずっと六星占術の勉強をしてましたね。
で3年間大作戒が続くからみたいな、これきついな、3年もあるのかみたいな思いながらですね、でも何かと大作戒はこう過ごしてくださいとか、こうですよって書いてることを守りながらですね、本当にあの信仰宗教に目覚めた信者みたいになってました。
で、気分で言うと相変わらずずっともうなんか、自殺衝動みたいなのもあったし、
メンタル的にも結構やばかったと思うんですけど、当時はね、やばいってことに気づかなかった。気分が落ち込んでるぐらいしか思ってなかったんですけど、
朝家を出てバイトに行くと、その家を出るときに靴紐を結ぶんですけど、その靴紐がなんか気に食わなくて、何十回も結び直して、
バイトに遅刻するとかっていうのをやって、でまたバイトで怒られるみたいなことをやってたんですよね。
当時まだ実家にいたんですけど、母もねどう思ったのかちょっとわかんないけど、僕が靴紐を結び直してるのを見て、なんか爆笑したりとかしててですね、
あなた何しよんねみたいな感じで、そんななんか病院に行きなさいとかね、大丈夫みたいな感じではなくて、なんか笑ってね、
見届けてくれたのがなんか案外良かったなと思ったりしてますけども、結果ね、結果論かもしれませんけども、
死なずに今生きてますね。 でどうやって回復したかっていうと、そのバイトの仲間というか先輩に笠原君という方がいてですね、
この笠原君っていう方、結構年齢上だったんですけど、そのフリーターをしながらなんか資格の勉強してたのかな、
なんか難しい理系の資格を取る勉強をしてて、通信教育科なんかでね、でバイトをしてたんだけど、そのいう真面目な話は一切せずに、結構ずっとふざけてる人で、
僕がね高校時代ぐらいまでずっとふざけてたから、なんかその久しぶりにそのふざけるテンションにさせてくれた人って感じで、
バイト中もその隠れてね笠原君とねふざけたりとかして、あの楽しい時間を過ごして、でバイト終わってからも集合して遊ぶって感じで、
本当にね仲良くしてもらいましたね。それがなんか、まあものすごい時間の浪費だったと思うけども、一方であの
かなり精神的に追い詰められてた時期でもあるので、リハビリ期間としてはとても重要だったなというふうに思ってますね。
感謝してもしきれないというか、僕にあの笑顔を笑うということですね、取り戻してくれた、ありがたい人生の恩人の一人だなと思ってます。
もう一人というか、もう一組っていうのかな、いましたけども、バンドはやっぱ諦めきれずにやりたいなと思った時に、小学校の同級生
と再会するんですね。 卒業後進路決まってない3人がいたんですよ、僕以外にも。
カイさんっていう同級生の女性とヒデっていう、高校まで一緒だった、小中高一緒だった友達と、笠原ですね。
中学校の時とか、高校の時は一緒にバンドしてたかな、ゴーストレートでも一緒にバンドしてた笠原ですね。この3人が
進路決まってなくて、進路決まってないというか、進路とかいう次元じゃないというか、もうどうするかも決まってなくて、なんか知らんけど卒業してしまったって感じで、なんとなくフリーターをしているメンバーで、
4人集まってですね、ヒデはギターを弾いていたし笠原はドラム叩けると、僕はベースが弾けると、
でもボーカルがいないなってなって、僕が歌ったこともないしギターを弾いたこともないんだけども、ギターを
持って歌い始めるということが起こりました。で、カイさんはベース弾いたことなかったんだけども、ベース弾いてよって言って、ベースを始めてもらって、
ときめきカーボーイズというバンドを結成しました。
週3,4回スタジオに入ってましたね。すごかったですね。 ずっとバイトが終わったら夜遅くまで、深夜まで練習してっていう感じで。
ときめきカーボーイズをやっていた期間って1年もなかったらしいんですけど、後から笠原から聞いたらですね。 けど、もうほんと週3,4回夜集まって練習して、でライブも月に何回かしてっていう感じで、
音楽シーンの現実
かなりね、 精力的に活動しました。ただこのときめきカーボーイズは
中津飛沫で、農型ブースですね。高校時代そのソールドアウトしてたような場所だったんですが、もうバンドブームも少し下火になってて、
あとはそのブームの時の僕の世代がみんな大学生とかになってですね、 ライブにも来なくなって、下の世代はそこまでもねブームが下火になってたから、
ライブもそこまで盛り上がってなかった感じがしたし、 とにかくガラガラのライブハウスっていうのを経験するんですね。
もういつも満員で盛り上がってるっていう場所を高校時代は見てたけど、いざフリーターになってみると、
もう同級生だから来てたんだとか、そういうことがね当たり前ですけどね。 わかってくるわけですね。
で、ガラガラのスッカスカのライブハウスでライブをしたりとかする日々、 そして先輩方もなんていうのかな、
高校時代はね良くしてもらってるっていう感覚だったんですけど、 卒業してね、なんか改めて見てみると、
なんかちょっと序列構造の中で利権を貪ってる感じに見えるというか、
先輩方も必死だったと思うんですけども、結局僕たち後輩を使ってですね、 なんかどうにか自分たちが成り上がっていこうというような感じが見て取れて、
良くしてもらった部分もたくさんあるんですけどね。 でもなんとなくそういうのが透けて見えてくると、
なんか高校時代、中学校時代見てきた大人と何ら変わりないなと、 この社会のレールの外側でロックやってるって思ってたけど、
結局人間が集まるとそうやってまた似たような権力構造ができて、 勝手な振る舞いをするんだなっていうことを見て結構ね、
絶望してた時期っていうのもあるけど、この音楽シーンもカーッみたいな感じで微妙でしたね。
ガラガラって言いましたけど、僕が除名されて、高校時代の終わりに除名されて、 残りのメンバーで結成したバンドは結構人気で、
すごいお客さんも入ってて盛り上がってたっていうね、 そういうのも結構またこの病んでる時期にダメージを感じましたね。
僕は僕の信じる良いと思う音楽を作ってたんですけども、 全然評価されずにですね、
自信を失うというか、 失いそうになるんだけども頑張って活動するっていう、そういう時期だったかなと思います。
ときめきカーボーイズの終盤は結構ね、 蓄穏の内輪ノリみたいなのに結構耐えられなくなって、
音楽活動の始まり
北九州とかでもライブするようになっていたかなと思うんですけど、
ある日そのコクラバグーっていうライブハウスでライブをしたときに、 ほとんどね対バンっていうその一緒にライブする人たちがメロコアバンドみたいな中で、
一バンド福岡から来てた人たちがいて、バイブライドってバンドだったんですけど、 その福岡から来てたバンドがめちゃくちゃかっこよくて、
メロコアかっこ悪いって言ったわけじゃないけども、ちょっとそのオリジナリティのある感じの、 すごい変わった音楽をやってる人たちがいて、かっこいいなぁと思ってたんですね。
当時僕はね、そういうメロコアとかハードコアとかじゃなくて、 青春パンクみたいなのがまだ流行ってたけど、青春パンクでもなくて、
プログレッシブロックにハマってたんですね。 ESとかキングクリムゾンとか、なんかそういうのがすごい好きで、
高校時代に影響を受けたゴーイングスティディとかのですね、 青春パンクかけるプログレッシブロックみたいな、ちょっとね、あの曲の展開がすごい複雑な
青春味のある音楽みたいな謎のことをやってたんですけども、 そのトキメックカーボーイズのライブを見て、その福岡のバイブライドの方々が絶賛してくれて、
めちゃくちゃかっこいいねと、 トキメックカーボーイズ良かったよと。
多分、その福岡の絶頂点っていうイベントがあるから、 そことかめちゃくちゃ合うと思うから、
福岡でライブした方がいいよって言われて、 それで初めてですね、
あ、福岡でライブするのもいいなぁと思ったって感じですね。 そこを知ってたら、そのバイブライドの方から
トキメックカーボーイズでライブ来ませんか?来ませんか? 出演してくれませんか?って感じで、バイブライドの主催イベントに呼んでいただいたんですね。
声をかけていただいたんですね。 ところが、
その時にはですね、トキメックカーボーイズのメンバー、KAIさんがですね、もう大学に行くと、 京都の方にもう移住するからバンドを辞めるっていう風に言ってて、
バンドを解散してたんですね。 でも絶対福岡でライブしたいと思って、
トキメックカーボーイズ解散後、ササヤンですね。 トキメックカーボーイズのササヤンと僕で、でもう一人、
コウジっていうね、高校の同級生。 コウジとササヤンと3人で、
違うなぁ。 もう一人呼びましたね。小学校の
1校舎の友達、ケイちゃんって言ったんですけども、ケイちゃんとコウジを呼んで、 そしてササヤンと4人でサニーっていうバンドを結成しました。
で、このサニーっていうバンドで、そのバイブライドの皆さんに呼んでもらった福岡のライブに出て、
行ったりとかしたんですけど、 ケイちゃんとうまくいかずにですね、
ケイちゃんが辞めるタイミングで、まあサニーもすぐ解散。 半年ぐらいしか活動してないんじゃないかな。
解散して、で、ケイちゃんが抜けた僕とコウジとササヤンの3人で、 スローモーションっていうバンドに名前を変えて活動を始めると。
で、何回かその福岡でライブをしたりとかしてたんですけど、で僕がね、福岡に移り住むと、
2人に相談したら、2人は行かないよっていうふうに言われまして、
結局一人で行くということになりました。 もっと言うと、そのスローモーションとかサニーで活動している時っていうのは、
田川のですね、セブンイレブン松原店でアルバイトをしてたんですけども、 その時にですね、バンドメンバー全員そこでバイトしてたんですね。
ササヤンもそこでバイトしてたし、コウジもそこでバイトしてた。 僕はといえばその松原店のオープニングスタッフでですね、
一番古株でそこでバイトしてたと。深夜のバイトですね。 ササヤンもコウジもすごい真面目なので、
ちゃんとね勤務してるんですけど、僕はですね、 バイト中もですね、深夜だしお客さんいなしってことで結構サボってたりとかしたし、
あのダラダラしてたら、そういったところをですね、 ササヤンからするとですね、ありえないということで結構、
その仕事中の態度によって仲違いしまして、 関係も悪くなって、そういうのもあって、
バンドを継続しないということにもなったのかなと思いますが、いずれにしてもですね、 僕が一人で福岡に移り住むことになりましたと。
それが22歳になる年、福岡の方に移り住みました。
この18から21歳、大学3年間くらいの時間っていうのは、 人生のどん底、本当に死にたいレベルのところからですね、
バイトの友人に支えられ、そしてトキメキカーボーイズという形でですね、 評価はされませんでしたけれども、
自分がギターボーカル、作詞作曲という感じで、その先頭に立ってですね、表現をするというか、 自分が本当に作りたいもの、自分が作りたいものにこだわるということで、
やり始めた、表現デビューみたいなところもあったかなと思うんですが、 そういう3年間だったのかなというふうに思います。
新たな出発
で、もう右も左もわからないけれども、とりあえず福岡に移り住んで新規一点、 やっていくぞと、ミュージシャンになるんだということで、
ここから先、次回はですね、 22歳からのお話をしたいと思います。
本日は以上です。