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はい、というわけで始まりました。本日はですね、千葉雅也さんの現代思想入門という本を読みまして、そこで思ったことをちょっと話したいなと思うんですけど、
これですね、僕たまたま買って読み終わったタイミングで、ほんと読み終わって2時間ぐらいしたぐらいのタイミングでですね、先輩から連絡が来てですね、今度この本ラジオで話してって言われたんですけど、
ちょうど読み終わったところやんけって思ってたんですが、読み終わっててしかもちょっと思ったこともあったんで、ちょうど話そうかなとも思ってたので、ちょうどいいやということでですね、話したいと思います。
これは現代思想なんで、ジャック・デリダとか、ルルーズとか、フーコーとか、その辺のですね、フランスの1960年ぐらいからですかね、80年代、90年代ぐらいまでの思想家の話がいろいろ載ってますと、ポスト構造主義とかあの辺なんですけど、
僕ですね、この辺ってほとんどよく勉強してないというか、よくわかんないところで、唯一フーコーだけ結構面白いなと思って、いくつか本読んでたんですけど、
あとはですね、これをまず面白く読むには、その前の西洋哲学の流れ、ニーチェとかあの辺ぐらいの流れですよね、多分かなりわかってないと、ヘーゲルからニーチェぐらいの流れはですね、結構わかってないと、多分本当にわかんないんですよね。
実際ですね、今日も本屋行ったんですけど、ルルーズのアンチョイリプスが文庫本で置いてあって、これ文庫で出せる日本って本当にすごいなと思いながらですね、ちょっと冒頭読んだんですけど、なんだこの文章と、これをこの文章を読めと、みたいな感じですね。
とてもじゃないけど、読めたもんじゃない、読めたもんじゃないっていうのはひどいとかいう意味じゃなくて、すごく知識が必要だし、読み解く力が必要なんで、
でですね、かつなんていうんですかね、かなりまだですね、このゲネストニウムを読んでデリタ・ルルーズ風光ぐらいまではですね、面白く読めたんですけど、それ以降のですね、ラカン・ルジャンドルとかですね、マラブー・メイヤスとかですね、ハーマン・ラリュー・エルとかですね、
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この辺になると言っていることはですね、前の人を言っていることを踏まえてさらに高度なことを言おうとしている、さらに高度なことを言おうとしているって感じで、正直ちょっともうついていけないって感じでですね、
まあ、この辺はちょっとやっぱりとっつきづらいなと思ったんですけど、ただですね、この本自身はものすごく優しく書いてあってですね、千葉雅也さんの本って初めて読んだんですけど、すごい優しく書いてあって、なるほど、わかりやすいなと思ったんですよね。
でですね、特にデリダ・ドゥルーズ風光あたりのところはですね、読みながら結構いろんなことを思い出したりとかして、あれもそうかと思ったりとかして面白かったんですけど、今日はですね、ジャック・デリダの話、一番最初に出てきたジャック・デリダの話だけしたいなと思うんですけど、
ジャック・デリダっていう人がですね、現代思想の脱構築っていうやり方みたいなこと自身を提唱したみたいな感じなんですけど、すごくざっくり言うとですね、二項対立を切り崩すみたいな考え方なんですよね。
例えばですけど、主体的だっていうのとですね、それの逆の受動的だみたいな、こういう二項対立的なものの見方があると。
でですね、それはうっすらと、こっちの方が良くてこっちの方が悪いかなっていう価値観みたいなのがあってですね、主体的な方がいいのかなみたいな、受動的よりもみたいな風にみんな思ってるわけですよね。
だからこう、そこは主体的に動こうよみたいなこと言われたら、ちゃんといいことはやれって言われてるんだなって思うと思うんですけど、そこをですね、すごくざっくり言うと、逆張りしてみようっていう考え方なんですよね。
つまり、主体的か受動的かっていうことで、主体的の方が良いように思うんだけど、だとしたら受動的な方を徹底的に擁護して考えてみようよみたいな考え方なんですよね。
なんでそれをやるのかっていうと、そっちの方が自分にとって他者の側だからだと言うわけですよね。
なんとなくいいなって思ってる方は自分の側であると。
逆にこっちの方が悪い方なんじゃないの?こっちの方が価値低いんじゃないの?って思ってる方は、それは自分にとっての他者であると。
その他者っていうのを切り捨てちゃう。
主体的であればあるほど良いのだってなると、主体的じゃない人を切り捨てちゃうことになっちゃうと。
自分を、本に書いてあったんですけど、余計な他者はなるべく排除して、自分だけ安定したいっていう気持ちがあるから、良いという方に寄っていくんだけど、
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それに介入するというか、ちょっと待ったって感じで、そっちに行くと自分ばっかり強めちゃうから、
他人を排除して危ねえぞと。
だから、切り捨てようとしている、悪いとされている方のことを徹底的に応募してみようよ、みたいな考え方なんですよね。
これはですね、デリダっていう人の前にレビナスっていう人が、他者の哲学って言われる、他人についての哲学みたいなことを提唱して、そこからデリダはいろいろ発想を得たらしいんですけど、
レビナスって人は僕は本を読んだことないんですけど、ホロコーストを生き延びた人なんですよね、ユダヤ人で。
てことは、そういう考え方に至るというのも分かりますよね。
他者を排除しまくって、自分というものにガンガン強めていった結果のナチスだったりとか、ホロコーストなわけなんで、
戦後の思想家の人たちはみんな、あのナチスの悲劇なんで起こったんだっていう反省から思想を始めていることが多いので、
レビナスの人はホロコーストを生き延びるという極限をユダヤ人として生き延びていった時に、
他者っていうものに対してを排除してしまうと、他者っていうものに対して自分を開こうとしていかないっていうことが問題意識としてあるから、
他者の哲学っていうのに結びついていったんだろうっていうのは全然詳しくないですけど、想像はできるなと。
そんな感じで、良いと思っている方じゃない方に逆張りしてみるかと。
それが他者に自分を開くってことやぞっていうのがデリダの考え方なわけですよね。
例えばさっきの主体的って方が確かにうっすら良い気がすると。
主体的に動けって言われたらそうだなと思うんですけど、受動的に動けって言われたらやっぱりなりますよね。
だからですね、やっぱり主体的の方が良いように無意識に思ってるわけですけど、
でもですね、例えば主体的に動くっていう時に、
例えばお客さんに対して積極的に話すみたいな、自分のこともすごく積極的に話してみたいな感じの方が主体的に動いてる。
で、何だったら終わった後の充実感とかもあって、良かったのかなって答え良かったなみたいなことはあり得るわけですけど、
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でも、受動的に動いた場合はどうなるかって言ったら、
お客さんの話をすごくただ聞くっていうことに行為として繋がりますよね。
それが良い結果を生み出し得るってことも当然あるわけで、
意外と主体的な方が良いんだって言うと、ほんまそうかみたいな感じで立ち止まってですね、
逆の方を徹底的に擁護してみることで、
自分自分自分、今の自分でいいよねっていうのをデトックスしてですね、
意外と他者のそういうやり方もありかもよ、
あの人の理解できないやり方っていうのもそこを擁護してみると理解できるかもよみたいな、
多分そんな風に繋げていこうというような考え方だと思うんですよね。
でですね、その流れの中でですね、
とはいえなんですけど、
何か対立するですね、概念があると。
例えば、さっきの主体的だ、受動的だみたいな時に、
主体的の方が薄っすら良いと思っているが、
受動的だっていうのを切り捨てると、それは他人を切り捨てることになるっていうところのジレンマみたいなものがあるわけですけど、
でも何かを選び取る時、何かの行動を起こす時っていうのは、
どっかのポイントでそれを選ばなきゃいけないわけですよね。
それを何かを選び取った時っていうのは、必ず何かを切り捨てているんだと。
例えばですけど、この主体的だっていう方を選んだら、
受動的だという方が良いんだという他人を切り捨てることにもなるけど、
ここは主体的な方を動いた方が良いんだよな、主体的に動こうかって動いた時は、
受動的に動けなかったなという、
この他者に対する、あの人に対する配慮ができなかったなみたいな感じもですね。
未練が残るだろうと。
そうやって何かを決断しなきゃいけないと、その時は何かを切り捨てる必要があると。
でもそこに未練が残る、その未練を感じるっていうことが他者に対する配慮なんだという風に言ってるんですよね。
もっと言うと、そういう未練込みの決断ができるっていうのが大人なんだっていう風に書いてあったと。
これを読んだ時に最近一言を思い出しまして、
それは何かっていうと、ある会社の経営人みたいな人と数名と話していましたと。
でですね、ちょっとある経営の人がですね、
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これをやればいいんですよみたいな感じで、もう決まってるじゃないですか答えはこれでみたいな感じでですね、
ビシバシ言ってるんですよね。
でもそれをそこに集中するとですね、
ちょっと中長期的に必ずこういう問題が発生するよねっていうことをですね、
僕は経営と関係ない立場からして思うわけですよね。
そういう風に割り切って言うのも分かると。
一目瞭然じゃないですか。
これをやれば儲かるのも見えてるじゃないですか。
これできない。あいつらバカだ!みたいな感じのことを言ってるんですよね。
で、そこにそういう風にピンと合わせる気持ちは分かる。
それを今ピンと合わせたら売上っていうのは大きくなるだろうなというのは分かりますと。
なんだけど、そこにピンと合わせていろんな例えば組織構造とか、
いろんな例えば人員配置みたいなこととかいろんなことをですね、
シューッとそっちに向けてバランスをその人の言う通りに動かしていくと、
中長期的、長期的でもないかな、中期的くらいにはですね、
必ずこの問題が発生するという問題も見えてるわけですよね。
で、ちょっとですね、僕はそれを指摘したんですね。
でもそうすると、中期的にこういう問題が起こりますよねみたいな。
それだからちょっとなんていうか、逆張りの話し方。
別にそれを否定したわけじゃないんですけど、
でもこういう問題って当然起こりますよねみたいなことを言ったらですね、
そしたら、何て言うんですかね、
なんかこう、多分、何だろうな、なんかこう多分ですね、
会社のためのことを考えていないちょっと不真面目なやつみたいな感じの、
なんていうか、言われ方をしたというか、
多分そう思ってんだろうなみたいな感じの反論というんですかね。
なんか、そんなこと言ったらこっちの方が儲かるだろうみたいな感じのことを言われたんですね。
でもまあ、そうですねとは言ったんですけど、
ただ、いや儲かるのは分かるけど、こういう問題が起こるのも分かるでしょ、
っていうのが僕は思っていると。
でですね、
じゃあその人が、
ただ僕はですね、別にその人がそっちに向かってですね、
邁進して、
短期的な売上を最大化するが、
中期的にこういう問題を起こすっていうことをやっても別にいいと思ってたんですよね。
だから別にそんなに頑張って反論とかもしなかったんですけど、
なんでそれをやっていいかと思ったかというと、
その人は朝礼募買ができる人なんですよね。
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だから本当に口汚くですね、
あいつらはバカだな、なんでこんなことができるのか分からないのかみたいな感じで言うし、
中期的にこういう問題が起こるじゃないですか、
お前はちゃんと売上を最大化しようとしてないのかみたいな風に僕にも言うんですけど、
でも実際それをやっていって、
僕が言ってたような問題が起こると。
起こったらたぶんその問題にすぐ今度は飛びついてですね、
逆にその人が直前まで言っていたことに集中している人を口汚く罵ると、
あいつは僕は数年前に既に手をつけたことを今頃やっていてダメなんだみたいな、
今こういう問題が起こっているのか分からないのかって言うと思うんですよね。
だからですね、結局問題が起こっていないという言い方があるんですけど、
短期的な目線で物事を見てですね、
その中でスパッとここに集中するというところにガンと集中すると、
そしたら問題が起こると。
そしたらその問題に今度はパッと取り組んでそこに集中するというやり方と、
もうちょっと僕は先を見ていて、そこに集中するとこういう問題が起こるんだよなと思うから、
その両方にバランスをした方がいいんじゃないのみたいなやり方の差でしかなくて、
大きな差ではないわとも思ったんですよね。
大きな差でもないわとも思いながらですね、
なんか差があるんじゃないの?という気もしたんですよ。
でですね、何だろうなこの差だと思った時に、
この本を読んでてですね、
この未練が残る、未練込みの決断というのが出てきたと。
その未練込みの決断をするというのが他者への配慮なんだという話を読んでですね、
なるほどと思って、
僕に、つまりその経営の人っていうのは、
未練がないんですよね。
決断はあるんですよ。決断をパッとしてるんだけど、
その時に誰かを切り捨てたという感触がないので、
感触なく誰かを切り捨てると。
だから自分が選んでないことをやっている奴はバカだと言って、
堂々と罵るんですよ。
今度は罵ってた相手のやっていることみたいなのに次が飛びつくと、
今まで自分がやってたことをやっている人に対して、
堂々と罵るみたいなところがあって、
そういうことができるところが、
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朝礼簿替えができるところなんですけど、
それはですね、やっぱり他者を切り捨ててるじゃんと。
だからそれだったら、もう少し中長期的に見て、
その両者を見てですね、両者でバランスをとるというか、
こっちも見つつでもこういう問題も起こるよねっていうのを見るっていうのが、
他者に配慮できてるってことなんじゃないの?って最初は思ったんですね。
なんで未練君の決断ができる者が大人って書いてあったけど、
俺が大人であいつは子供だなって一生思ったんですけど、
それも違ってるなってことに気がついて、
何かというとですね、
その人には未練がなかったんですけど、
僕には決断がなかったんですよね。
未練込みの決断ができるのが大人なんですけど、
僕は未練はあるけど、決断がないんですよね。
だって僕そういう立場にならないようにしてるので、
そういう立場になると何か選ばなきゃいけないと。
そしたらアホなことをしなきゃいけないんですよね、ある程度。
バカらしいなとか、やれやれとか、
なんでこんな人が嫌な気持ちすることをやらなきゃいけないんだろうとか、
みたいなことをやらなきゃいけないので、
そういう立場になることを避けてるんですよね。
だから、決断をしないんですよ。
つまり、両方大人じゃないかったって話なんですけど、
しかもですね、この話もまた面白くて、
僕は長期的であるってことの方に、
この長期的と短期的っていう二項対立のですね、
長期的であるってことの方を無意識にいいと思ってるんですよ。
逆に短期的に売上げだけを求めるってことを
無意識に、それより下に見てるんですよね。
だから、こういう目線がないと、
経営の人がバカに見えるんですよ。
バカだな、なんでこんな問題わかんないのかな、
どうせその時になったらこういう風にやるから問題は起こらないだろうけど、
それまで散々人を傷つけるだろうし、
本当に嫌だな、嫌な感じだな、しょうがないけど、
ぐらいに思ってたんですけど、
これをですね、徹底的にその短期的に売上げ上げるっていう方に
フォーカスして考えて、そっちを徹底的に擁護した時にですね、
なるほどと、あの人は決断はしておると、
未練がないかもしれないけど決断はしておると、
で、俺は未練はあるかもしれんけど決断はしないなということでですね、
お互い足りないものに気付けたと。
これがですね、自分を他者に開くみたいなことなのかな、
他者のこと、他者理解みたいな話なのかしら、という風に思いました。
というわけで、結構時間長くなっちゃったんですけども、
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本日は以上です。ありがとうございました。