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はい、というわけで始まりました。
昨日はですね、暴力脱獄とパピオンの話でですね、相手を望む形、自分が望む形で相手との関係性をですね、固定化するっていうことが暴力の本質なんだなって話をしてたんですけど、
でですね、それで思い出したのがですね、つい先日あの先輩が話していた話なんですけど、
おいては子に従えと話していた話っていうのを思い出したんですよね。
これだけだとですね、もう何のことやるさっぱりわからないと思うんですけど。
でですね、その先輩が話していたのが、自分の親とかの世代とかって、例えばファミコンのこととかもやらないし、子供が何が好きかとか、どんなものが子供の間で流行ってるかみたいなことを知らないから、
親にですね、「これ知ってる?」とか言うと、「知らない?」とか、「わかんない?」とか、「何?それピコピコ?」みたいな感じのですね、全然わからなかったわけですけど、
コンテンツ業界みたいなところにいるとですね、結構子供の好きなものみたいなことをわかってることが多いと。
だから、「これ知ってる?」とか言うと、「知ってるよ。」って言って、「それこんなもんあるんだよ。」って言って、何だったらもっと知ってたりすると。
でですね、知ってたりするんだけど、その先輩の女性の友達がですね、まあお母さんなんですけど、
高校生の息子にですね、「これ知ってる?」ってすごいマニアックな漫画をですね、こうやってパッと見せられたら、「あ、知ってる知ってる。持ってるよ。」って奥から出してきたらですね、
もうマジうざいって言ってですね、すごいキレられてですね、で、行ったと。
で、っていう話を聞いてですね、で、なんかその、そういうのはやっぱり良くないんじゃないかと。
あの、その、「何でも知ってるよ。」とか、「もっと知ってるよ。」とかみたいな感じですね。
子供がこれ知ってるっていうことにですね、で、あの、コンテンツ業界あるあるみたいな感じですね。
知ってる知ってるみたいな、もっと知ってるよみたいな感じで行くのは良くないんじゃないかと。
あの、自分たちのですね、その親がしてくれたみたいなですね、もう全然わかんないね、それ難しいなみたいな感じのですね、
全然ついていけへんわみたいな感じのですね、あれすごい大事なんじゃないかって話をしてたんですよね。
で、その人はですね、実際に自分の子供がね、こうやってわからないっていうことが大事なんじゃないかと思い始めてですね、
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で、自分の子供がこう、「これ知ってる?」とか言うときにですね、知らないときとか前は、じゃあ自分も同じものを見てみようかなみたいな感じですね。
その何が好きかを理解するために、自分を見るようにしてたらしいんですよね。
で、「見たよ。」とか言って、「こうだね。」みたいな話をしてたらしいんですけど、見ないようにしたと。見ないようにすることにしたと。
で、本当にわかることはですね、さすがにわかるよって最低限答えるんだけど、わかんないことは本当にわかんないね、知らないねみたいな感じで言っていたと。
そしたらですね、関係がすごく良くなったらしくてですね、前はそんなことなかったのに、たまにこう映画行かないみたいな感じで誘ってくれるようになったりしたみたいな感じで、ホクホクしてたんですけど。
でですね、この話がですね、つまり、「老いては子に従え。」ってこういうことだよと。
もうそれは思春期ぐらいから始まってんだと。子が思春期ぐらいになったらもう始まっていると。
いつまでもですね、親が主人公でいちゃいけないんじゃないかって話をしてたんですよね。
その話がですね、結構すごく衝撃を受けてですね、「なるほど。」って膝を打ったんですけど、
何でしょうね、子供の立場からするとですね、親に自分の知っていることっていうのを話してですね、
親が、「わからんな、難しいな、なんやそれ。」みたいな、「ついてけへんわ。」みたいなことを言ってくれることで、最先端に立てるし、主人公になれるし、
そして親の知らない世界っていうのが自分の中にできるわけですよね。
逆にそれがないと、何を話してもですね、「知ってる知ってる、もっと知ってる。」みたいな感じでですね、
すべて親が先回りしていたら、いつまで経っても親が主人公で、親が最先端に立っていて、自分はいつまで経っても親の一部であると。
だからですね、そのすごくですね、マニアックな漫画をですね、
お母さんこれ知ってる?知ってるよ、持ってるよ、もっと他のも知ってるよって言ったときに、マジうざいって怒ったですね。
その高校生の息子さんっていうのは、まさにそういう気持ちだったと思うんですよね。
もう俺の知らない世界、あなたの知らない俺の世界を作らせて欲しいし、俺が主人公にならせて欲しいし、俺はあんたの一部じゃないと思ってる。
だけどそれをですね、親が無意識に許してないっていう状況なんだろうなと思ったんですよね。
だからうざいって感じなんだろうと。
でですね、このですね、じゃあ子供のですが何を好きかということをですね、
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例えばですけど、何何知ってる?ポケモン知ってる?とか言われて、知らんわと思ってですね、
そんなの好きなんだったら調べてちょっと遊んでみようみたいな感じで、
それは相手を理解することなんじゃないかというふうに思えるわけですよね。
思えるんですけど、この話を聞いてですね、
僕も相手の考えていることを知ることっていうことが相手を理解することなんじゃないかっていうふうに思ってた部分があったんですけど、
違うなとこの話を聞いて気がついてですね、
相手を理解するっていうのは、相手がこんなふうに接して欲しいとかっていうようなですね、
相手の望む距離感を理解するってことなんだろうなと思ったんですよね。
接し方とか距離感みたいなもの、相手が望んでいる距離感みたいなのを理解するっていうことが相手を理解することだと。
相手の考えていることを知ることではないんだ、理解することではないんだというふうに思ったんですよね。
考えていることとか気持ちとかですよね、っていうのを理解することではないんですけど、
他人がですね、自分の子供とはいえね、他人が考えていることっていうのを理解するっていうのは絶対にできないと思うんですよね、原理的に。
原理的に絶対にできないんですけど、危険なのはですね、
例えば子供がふんって何かあったか知らないけどすねてるとか、怒ってるっていう時に、
なんで怒ってるの?とか、どうしたの?みたいな感じですね。
なんかあったの?みたいな感じですね。
ずかずかとですね、今もう怒りとか悲しみの中にいる、もうほっといてほしいというオーラを出しているのに、
もうずかずかとですね、聞いて聞いて聞いて、言葉を無理くり引き出してですね、
そうかそうか、あなたは今こう思ってるんだね、わかった、みたいな感じをですね、言うっていうのは本当に良くないんだなと思ってですね。
だからその相手を理解することではなくてですね、
だって相手の接してほしいっていう距離感とか接し方で全く接してないんで、相手のことは理解してないんですよね。
なんですけど、そうかそうか、あなたはこう思ってるんだね、わかったっていう感じでですね、
何か知らんけど、自分が思ってることをですね、勝手にある形にされて、
はい、こういうことねって言われるということなんで、まさにですね、この暴力脱獄とかですね、パピオンで描かれたようなですね、
自分の思う形で相手との関係性を固定化するという暴力になりうるんですよね。
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だからこの相手を理解するということの本質ですよね。
っていうのがこれめちゃくちゃ誤解されやすいというか、めちゃくちゃ間違いやすいなと思ったんですけど、
で、まあですね、その思春期の反抗期みたいなのはですね、やっぱりそういう親の無意識の暴力ですよね。
に対するやめてくれっていう意思表示だと思うんですけど、
これですね、やっぱり難しいのが、子供の小さい時はですね、親の一部であることを子供が望んでいると思うんですよね。
で、一番極端な例で言うと、赤ん坊とかはですね、肌身離さずですね、一緒にいたいわけですよね。
もうくっついてですね、ずっとおっぱい捨てたいみたいな感じなわけですけど、
もう少し大きくなっても、同じものをですね、同じように見て欲しいし知って欲しいと思ってるし、
うちの方、次男とかはもうまさにそんな感じですね。
これ知ってる?これ知ってる?これ見た?あれ見た?みたいな感じなんですけど、
で、なんだったらですね、自他の区別が、自分と他人の自他の区別がついてなくて、
自分が見てるものはこの人も見てるし、自分が知ってるものはこの人も知ってるんだという風にですね、無意識で思ってるケースもありますね。
うちの次男とかね、もう小学校6年生なんですけど、まだそんな感じはするんですけど。
でですね、まあそういう風にですね、なんていうか、子供はね、ある種親と一体化したいという気持ちを持ってるんだという風にですね、
その感覚でいるとですね、子供の方が気が付いたらですね、大人になっていってですね、一人の親と違う人間になっていくわけですよね。
で、なんだか親の方はですね、それに気づききらずにですね、ついつい同じようにね、自分と一体化したがっている子供という風にですね、
いつものペースで接してたらですね、そういう風に振る舞ってたりとかすると、子供としてはですね、おい!その接し方、その距離感違うぞ!って言ってですね、切れるわけですよね。
切れることで、反抗することで、適切な理解に親を導こうとするというか、みたいな感じなんだなという風に思うんですよね。
どうしてもですね、子供の方はですね、大人になるという部分はですね、知らず知らずのうちに訪れるんで、親の方はですね、そこに気付くのが遅れてですね、
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そういう反抗を招いてしまう面はあると思うんですけど、別にそこでですね、接し方みたいなことがお互いに分かれば、それはそれでいいと思うんですけど。
なのでですね、やっぱりすごい大事なのがですね、この理解、相手の理解ということをですね、履き違えてですね、一歩間違えるとその暴力に落ちてしまうっていうのの、
じゃあ何が分けるのかって言ったら、やっぱりフィードバックだなという風に思うんですよね。
子供のですね、様子とかですね、望んでいる距離感とかですね、みたいなものをやっぱりつぶさに見てですね、
それを見て、こんな感じかな、もう少し離れた方がいいのか、みたいな感じですね、フィードバック。
できていると、相手のことを理解した距離感みたいなことを保てると思うんですよね。
で、このフィードバックが適切にできないってなると、ちょっとやっぱり暴力味を帯びてくるし、このフィードバックをですね、わざとしないとかってなると、もう完全なる暴力になると。
相手を自分の望む形のままにいさせる、それを乗り越えることをさせない、許さないっていうね、
ダスティン・ホフマンがですね、脱獄しようって言っても、監視がいなくても足がすくんでしまうっていうような状態にですね、追い込んでいくと。
それで、そこの状態にですね、追い込むことができれば、まさに監視はいらないと。
もう心を縛ってるんで、心を暴力で縛ってるんで、ちゃんと自分の思うままの姿にですね、心のまま、どんだけ離れててもですね、居続けされると。
こういうのがいわゆるドコーヤみたいな感じなんだろうなって思ったんですよね。
ということでですね、青い手は子に従えか。
青い手は子に従えっていうのはまさに、いつまでもね、自分が主人公になっていると、子供はですね、そんな主人公の自分にですね、一緒にいたい、くっつきたい、一体化したいと思っている存在だと思っていると、よくねえよと。
お前もう子供、思春期くらいに来たんだったら、老いてるから。
もうお前主人公じゃねえからと。
さっさとこの脇役になってですね、子供に主役の座を譲ってあげなさいっていうのがですね、この青い手は子に従えという言葉に込められていった意味なんじゃないかなというふうに思いました。
というわけで本日は以上です。ありがとうございました。
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ご視聴ありがとうございました。