非常に暑いんですよ。
そうなんですね。
ぼんちっていうのもあって、多分京都が暑い理由と似てそうです。
難しいね。
八王子に住んでたことがある。南口の方に。
難しい。
鎌木の時か。
そうですね。
原田さんの紹介を先月ながら、すごく久々にめっちゃ緊張してる。
めっちゃ緊張してるよ。
めっちゃ緊張してるよ。
八王子を拠点とするアンファンテリビル。
恐るべき子供たちという意味ですね。
の代表取締役。
長年にわたりテキスタイルディレクターとして、
ベネトンの企画コンセプトや、
イタリアンデニム加工大手のマルテリ、
ヒロココシノや、
45R、
セーリンコーシなどのテキスタイル企画を手掛けていらっしゃいました。
現在も八王子でご子息の原田健一さんと、
綺麗ゆく伝統技法を再生し、
新しいスタイルで、
ハイブランドの生地やテキスタイルのテキスタイル開発を手掛けていらっしゃいます。
ということです。
はい。
もう読み方から、
塩さんの緊張が伝わってきましたね。
初緊張。
初緊張というか、
普段緊張してる。
多分、
塩さんがどういうとこから原田さんと知り合ったのか。
そうですね。
私と原田さんの初めての出会いって、
もう10年ですね。
ファッション100人大会議っていう名前だったかな。
っていうイベントがあって、
本当に100人呼ばれて、
ファッションの現在と未来の課題について、
いろんな方向から、
デザインから、
記事からもちろんだし、
あとはデザインとかの問題の法令とか法についてとか、
いろんなブランドのあり方とか、
私みたいにファッションとかからはかなり外の人間だけど、
そもそもテキスタイルっていうものは、
もうちょっと使い方拡張してもいいんじゃないかって思う人間も来てたりしたりしてて、
そこで初めましてで、
そうですね。
お話ししてて、
簡単に言うと一気投合というか、
盛り上がりましたね。
盛り上がりましたね、かなり。
最初から。
最初から。
その日飲みに行きました。
そうですね。
居酒屋に。
お酒好きでも払えるという。
その時から私はバイオテクノロジーとか、
早稲田大学の岩崎県でリハイルして、
そのバクテリアの研究所にいたので、
バクテリアで染めることもテキスタイルだったらできるよねみたいな、
お話をした記憶があって。
そうですね。
原田さんも今日もお話聞いたら、
どんどん引き出しがいっぱい出てくるんですけど、
そういった自然の素材の染め技法とかを長年やってらっしゃったので、
私の想像を絶するぐらい、
テキスタイルってこんなに染めの方法ってあるんだって話を聞いて、
とにかくちょっと感銘を受けて、
まさかお仕事を一緒にするかなんて、
その時は思ってなかったんですよ。
私がちょっとやっぱりテキスタイル専門家ではないから。
ただこういったちょっと今日、
お話聞いて、
先に言っちゃうとあれなんですけど、
ついにお仕事を一緒にすることがきっかけがありまして、
そこから9年、
9年ですね。
お仕事をさせていただいております。
なので、私のテキスタイルの知識っていうのも、
ほぼ原田さん間の受け売りで、
舌がぶって言ってるだけなので、
ここから来てますという。
原田さんってどんな人っていうのがめちゃめちゃ気になる。
僕多分一番文外観って感じなんで、
まず最初にご紹介のあった中で言うと、
テキスタイルディレクターっていう職業って何?
みたいなところからなんですけど。
ディレクターというのはちょっと難しい表現で、
僕たちの時代だと、
記事のデザインをする、
図案を書くとか、
そういうところから始まってて、
それで折り物に行ったりプリントに行ったりっていうのが、
大体テキスタイルの仕事なんですよね。
それがいろいろなものづくりをする方たちが、
結構表に出始める時代が出てきて、
そのあたりから、
じゃあこういうふうにものを作りましょうとかっていう形で、
僕らがディレクションしていくっていう、
そういう形にはなってきてるんですね。
それがちょうど東京デザイナーズブランドとか、
東コレって言われるものが出てきた時期で、
それ以前は、
トン屋さんが記事を作って売るという形態から、
そのデザイナーが自分が作りたい記事を作って、
洋服に仕立てる。
その時にテキスタイルの知識という面で、
僕らが中間に入って、
いろんなディレクションをするっていう形なんですね。
もともとあるものからの限られた選択肢の中から、
服を作るんじゃなくて、
ファッションデザイナーそのものの素材から考えて、
新しい表現をしたいっていうふうに、
広がりができたけど、
やっぱり洋服づくりと記事づくりって、
似てるようで、全然工程が違うというか、
とにかく全部できる人とかって、
相当時間かかるので、
糸づくりから、染めから、加工から、
ちょっと今日お話いただくと思うんですけど、
皆さんが多分普通に着ている服、
とっても手が込んだ工程を得て、
記事になっているわけなので、
そういうことを専門でやられている仕様ですね。
ちょっと日本の特殊性もあって、
その辺も面白いのかなと思うんですけど、
特殊なんですね。
やっぱり特殊ですね、日本。
特殊っていうのは、産業構造的なところですか?
そうですね。
もともと問屋さんがいて、
記事を折っているところにこんなものを折って、
っていうので頼んで、
問屋の中で企画して、
それを売ってた時代があるんですけど、
国ももうちょっと現場が表に出た方がいいだろうということで、
国もバックアップして、表に出してきたと。
ちょうど旗屋さんたちの中にも、
俺はできるんだよみたいなね、
そういう人たちもいっぱいいるんで、
自分をどんどん打ち出すみたいな時代に入ってたんですよ。
そうすると、ただ規模がみんな小さくて、
日本の旗屋さん、大きいところもありますけど、
ほとんどが家内工業的なところがやってるんですよ。
イタリアの場合はやはり規模が大きくて、
イタリアも1960年代ぐらいから、
フランスの下床から抜けて、
自分たちの国のブランドを作ろうということで、
ブランドビジネスを1960年代にイタリア政府が考えて、
今の時代でイタリアのブランドが出てきた。
イタリアは政府主導でイタリアブランドを作られていったんですか?
そうですね。半世紀ぐらいですね。
そうですね。意外と歴史が浅いというか、最近の話なんですね。
素人のイメージからすると、
旗スタイルといえばイタリアか日本かって言われるんですけど、
それでも60年代?
日本は日本で各地方で、
例えばシルクだったりコットンだったりとか、
化繊系とかも後から出てますけど、
面白いのが、地方で全然得意不得意というか、
その特技が違うっていうのと、
分業しているっていうスタイルが日本。
イタリアは大きく政府がまとめてやっているので、
工場も割と一貫して全部自分でやるっていうスタイルの方が
多いというイメージです。
だからこそ原田さんみたいな人がいないと、
デザイナーと現場が結びつかないみたいな。
デザイナーの方はこんな服が欲しいんだとかということで、
ヨーロッパに行って、
飲みの石とかで古いヨーロッパの服とか、
アメリカに行っちゃそういうものを買ってきて、
それを復刻したいとか、
そういう服のイメージは持っているんですけど、
じゃあどういう風にテキスタイルを作るのっていうと、
要はどこの産地でやったらいいとか、
どういう加工方法でどうやっていったらいいかっていうことが
よく分からない。
そっち専門じゃない。
洋服の形の方が専門。
どうやってデザイナーが欲しいイメージの基地を作るのかっていうのが
僕らの仕事で、
そういう意味でいろんな産地をまたいで仕事をする。
その産地にはそれぞれ特色のある、
面白い開発をする、
畑屋さんだ、染め屋さんだ、
いろいろな加工屋さんがいるっていうのが
日本の形態なんですね。
やっぱりちょっと違うんですよ。
イギリスとかもあるんだけど、
イギリスは毎年、
イギリスの記者さんが来ると、
毎年同じコレクションを持ってくるんですよ。
去年見たのと同じじゃないみたいな。
変わらないことがする。
そういうのがイギリスの面白さで、
イギリスはそれに反発して、
若い人たちが自分で基地を作っちゃうとか、
そういうのが、
そこからいきなりブランドができるっていう人もいたりしましたね。
原田さんがその影響を受けてるっていう、
影響っていうのはどういった面?
ちょうどですね、
東京コレクションとかそういうのをやってる時期なんですけど、
ロンドンで工房化現象っていうんですかね。
工房化っていうのは、
自分が作りたい生地とかを、
お店の後ろで自分で作って、
それで服を作る、帽子を作る、
いろんなものを作って前で売るっていうようなね。
そういうようなことを始めてる小さなブランドがいっぱいできてきたんですよ。
あと極めつけは、
小さなプリント工場をお店の後ろに作って、
お客さんが来るとインテリア用のカーテンのプリントとかをそこで注文して、
そこで吸ってくれて、
何週間かお借りもらえるっていうようなね。
そういうシステムができたんですね。
それ見ててすごく面白いなって思ったことと、
ちょうどポストモナジウムっていうか、
そういう動きがイタリアでもいろいろ出てる。
特にデザイン部分で出てた時なんですけど、
やはり今まで工業生産ベースということで、
オートメッションの中に全部閉じ込められてた機械とか、
それを部分部分取り出して、
その機械の前に人間がついて、
自分で操作して、
アートと機械で生産するものと混ぜるみたいなね。
そんな動きを多分セント・マーチンとかがやってた。
そこに僕らも影響を受けて、
同じようなことを日本で始めたのが、
ちょうどこれとかやってる時期ですね。
年代でいうと、80年代?
そうですね、80年代ですね。
80年ですね、入った頃です。
知らなかった。今初めて聞いた。
めちゃめちゃ勉強になった。
10年間出てこなかった話です、今。
限られますからね、仕事の関係上の話とか。
そんなの聞けて嬉しいですけど。
それは結構そういうことをやったことで、
初めて見る記事とか、初めてのものに、
いろいろファッション系のジャーナリストたちも反応して、
一挙に流行るみたいなね、そんな動きがあったんですよ。
80年代ですね。
例えばどういう記事?
ニードルパンチっていうものが一つあって、
これは絨毯を作る、貼り先に細かい棘が出てて、
それでポリエステルでも、どんな製品でもできるんですけど、
糸を荒らしてくっつける、結局フェルト化するんですけど。
複数のやつが重なってて、針でぶっ刺して絡めるんです。
それでリベット状に留める技術ですね。
そこにデザインをやりたいアーティストが目の前について、
自分で柄を並べたりして、打って柄を作るとか。
そういうのを最初に導入してみたんですけど、
大元はロンドンで見つけたストールだったんですけど、
これどうやって作ったんだろうなと思うようなストールで、
ストールの上に花柄がフェルトで打たれてるんですよね。
よくよく考えたらそういう手法だろうなということで、
山梨にある工場で同じような機械を、日本にもいっぱいあるんで、
1台中古を入れてもらってやり始めたっていうのが80年代で。
機械自体はもともとあったのに、
そういう使われ方がされてなかったってこと?
してなかったんですよね。
お話を始めてるかけてるんですけど、
原田さんはどうしてテキスタへの業界に行くのか?
私は原田さんと仕事してて気づいたことがあるんですけど、
もともとある機械とか、もともとある伝統手法とかを、
全く新しいことに組み合わせる発想。
これだったらこういうの使い方できるかもねっていうのがすごい抱負なんですよ。
これって別にテキスタへの特有なのかなと思ってたんですけど、
やっぱり10年間テキスタ関連のお仕事をしてて、
原田さんほど新しいアイディアがポンポコポンポコ出てくる可能はまだいない。
なぜかそれは昔の機械とか本当に詳しいし、
っていうのが強いなっていうところだったんですね。
だから私前のお話聞いたことなくて、
原田さんがどうしてテキスタへの世界に入ったかっていうのはぜひ聞きたいです。
もともと高校時代から美術系の方に何か突然なんですけど、
ちょうど学生運動がすごい時で荒れてて、
そういう時期でやっぱり方向転換してデザインの方がいいかなって思い始めた時期だったんですね。
美大に行って一番入りやすかったのかな工芸の方に入って、
テキスタへやったことがきっかけですね。
そこからもうそのままずっと来てるっていう状態で。
その時はもうテキスタ入るかっていう形で、
そのテキスタ入ることをどう作っていくかってことを学ぶ?
そうですね。ただもう学校もロックアウトされてたりして、
時代的に。68年、69年とか。
あんまりなんかアルバイトばっかりしてたみたいな。
で、出てもちょっとやっぱり荒れてたし、いろんなことで。
ただそんなに状況が悪いかっていうと、少し経済は上向きにいくような時代ではあったんですね。
で、出た後に、結局テキスタでお金を儲けなきゃいけない、生活しなきゃいけないと思って、
その当時、横浜のスカーフの業界がすごく盛況で、
もうそのプリント工場もものすごい数があって、
経済的にも横浜市もすごくそれで潤ってたみたいな時代がね、あるんですよ。
非常に技術も高くて、良かったんですけど、
そこである程度自分でデザインを描いてプリントの柄を売るみたいなことでね、やってたんですけど、
このままやっててもと思って、なんか理由はわかんないんですけど、
イタリアに行くかっていう感じで。
横浜かイタリアか突然。
学校出られてから、もう最初からフリーでというか。
1年間だけ就職したんですけど、すぐに辞めちゃったんですね。
それで、というのが給料安すぎると思って、これじゃイタリア行けないぞと思って。
なんか頭ん中あったんですね、イタリアが。
それで、やっぱり横浜がそんなことで忙しかったんで、
僕らみたいな大した技術もない人間でも仕事があったということなんですよね。
実際に就職してもらったお金の5、6倍の収入が得られたんで、
そこでイタリア文化会館というところで唯一イタリア語を教えてたんで、
そこに通ってイタリア語を勉強して、
イタリアの会社といろいろコンタクトして、
で、就職できたんで。
そういうことを言ってますけど、そんな簡単じゃないと思って。
普通に。
就職を決めて向こうに立ったって感じですか?
そうです。
いかがにして就職するという、すごいコントホリオとか送ったりとかしたんですか?
恵まれてはいたんですよね。
横浜の会社の社長の息子さんが、
この会社もすごく儲かってた会社なんですけど、
息子さんがジバンシーに就職してて、
彼が日本にちょうど帰ってきた時で話をしたら、
僕はサポートしてあげるよみたいな形で助けてくれて、
生きるようになったんですよ。
ちょうどその時にイタリア関連の仕事をされている建設会社のまだ若い社長さんの息子さんなんですけど、
イタリアに行って帰ってこられて、
行くのはいいけど、4年で必ず帰ってこないとダメだよって言われて、
4年以上いると帰れなくなるって言われたんですよ。
でも僕はまともにそれを言うのを信じちゃうもんだから、
4年間だけということで、
確かに4年くらいいたら住みやすくなっちゃうんですね。
もう日本に帰りたくなくなるって意味ですね。
分かります。
なくなっちゃうんです。
知り合いもいっぱいできるし、仕事もできるようになるし。
そんなんで戻ってきたんですけどね。
ほぼ修行するつもりで行って、
だからイタリアで働いて、
そのまま日本から出て続けるっていう目的ではなかったってことですか?
違いますね。
どうせ苦労するんだったら20代だし、
20代はそうやって過ごせばいいかなと思って、
20代はどちらにしろ苦労するし、
日本にいても同じじゃないかなって思って。
一応言うと電子メールもないし、
格安航空券とかがない時代ですからね。
円が360円って時ですからね。
あったそういう時。
そうですね。最初はプリントデザイン学部の
デザインスタジオに就職して、
そこにいたんですけど、
その後、実際の生地を作る会社の方が面白いなと思って、
そこから生地メーカーさんに移ったんですね。
で、移ったところで、
やっぱりフランスから来たりイタリアから来る
デザイナーたちが生地屋さんに来て、
自分が作りたい生地をオーダーしていくっていうか、
そういうのを見てて、
古い絨毯持ってきたりして、
これを生地にしてくれとか、
そういうのを見てて、
これはちょっと日本にはないなと思ったのが一つと、
その工場のオーナーも、
オーナー自体は生地が好きなんですよ。
生地が好きで、
もう出来上がってくると、
自分が鏡の前に立って生地をつけて、
どうかな、綺麗かなみたいなことをする。
日本のプリント工場とかそういうところの社長が
そんなことやらないなと思って見てて、
歴史が違うから、
やっぱり日本だと、
例えば京都だったら、
着物を作っている生地屋さんだと、
単物を持ってきて自分で合わせると思うんですね。
着物をね。
それと同じ感覚で洋服を作っているんだなと思って、
服に対する美意識が日本はなかったから、
やりようがなかったのかなという気がしますね。
ちょうどそんなことが、
先ほど話したデザイナーと僕らの関係というか、
そこに結びついているんだろうなと思って、
日本に帰ったらそういう仕事をしたいな、
もう少しデザイナーと一緒にやるような仕事をしたいなと思っていたら、
戻ってきたら、
状況が少しそういうことになっていたと。
東京コレクションを始めた初期の、
TD6と言われている6人衆ぐらいのデザイナーたちがいて、
伊勢さんとか、陽次さんとか、
腰野潤子とか、そういう人がいて、
僕もその中の一人の人と仕事を始めるんですけど、
思っていたような仕事ができるようになったんですね。
あんまりテキスタイルの開発ができる人も、
それほどいなかった時代だったので、
そういう意味ではラッキーだったのかな、
時代が良かったかなという。
じゃあイタリア帰りだったからこそ、
テキスタイルディレクターみたいな役割を持ち帰ってこれたみたいな。
そのまま日本でずっとお仕事をしていたら、
そっちに移らなかったかもしれない。
プリントの巨匠になった。
スカーフの巨匠。
そうですね、そうだと思います。
お話で面白いなと思ったのが、
デザインの仕事をしていて、
記事の方が面白いなと思ってそっちに移られた。
多分そこは結構別れる気がして、
デザインが楽しくてずっとデザインをやるという人と、
そこから記事の方が面白いという視点が、
多分原田さんの中にあったからそちらに移られたんだろうなと思ったんですけど、
デザインよりも記事の方が面白いなと思ったポイントは何ですかね。
記事作りの方が面白いなと思ったのは、
やはり紙の上の仕事じゃないというのが一つあって、
やはり染めたりいろいろする時の素材の方もすごく興味があったんですよ。
なんで、それがないと、
今はやっている泥染めだったりいろんなものもありますけど、
ただ、染めの技術と記事とのマッチングというか、
それがないと思ったようにならないんだなということは感じていたんですね。
それはイタリア…
イタリアにいた時も感じました、それは。
4年後に東京に帰って、状況が変わっていたんですけど、
変わっていたとはいえ、いきなりポンと…
業界の一線に踊り出るようなものなのかという言い方が変ですけど。
ちょうど今話した通りに、テキスタイルのディレクションをやる職業もあまりなかったんですね。
医者さんのところには一人いらっしゃってやっていた時代で、
そのところはあまりなくて、服を作るデザイナー自身が直接生地を作っていくというか、
そういう形で、すごい強い思いでこんな生地が作りたいというデザイナーがいたんですね。
だから、それの動きを結構やっていたのが、ビギとかそういうブランドで、
それを真似してマンションメーカーとか言われるようなところの人たちも、
少しずつそういう生地作りを始めている時代だった。
ただ、専門にやっている人はあまりいなかったんですね。
それで、こしのひろこさんもそうなんですけど、彼女も特注でやられていて、
いときんという会社と契約して、デザイナーズブランドでやるという時に、
生地をそのテキスタで作れる人がいないということで、
呼ばれて一緒に仕事をすることになったんですけど、
そういう時代だったんですね。
めちゃめちゃ多分日本が景気良かった時代というのもありますし、
めちゃめちゃ忙しかったんじゃないですか、80年代は。
今はインターネットがあるから、検索すると人が出てくるじゃん。
この分野の人を探したいとか、イエローページみたいな。
その当時って本当に多分噂というか、紹介でしか多分情報が得られないから、
よく原田さんっていう方がいるんだよっていうのは、業界狭いわけではないんですよね。
狭かったと思いますね。今みたいな広さはなかったと思う。
東京でやってても、それからしばらくすると、
いろいろ面白い生地を作る小さい会社も出始めて、
大体みんな知り合いみたいな感覚ね。
コミュニティーがあるような雰囲気ですね、今のお話を聞くと。
勢いを感じるね、やっぱり時代のね。
そうです。1986年から91年という間ですね。
バブルとちょうどみんな黒とかカタパッドみたいな、すごいデザイナーズブランド。
景気的にはバブルでファッションにお金を使える、
多くの人が潤沢にそこにお金を使えるみたいな、
時代の環境はあったんだろうなって想像するんですけど、
そういうデザイナーが一気にそのタイミングにたくさん出だしたっていうのは、
なんかその時代的な流れとしては何かあったんですか?
国もやはり日本の繊維業界を変えていこうという意識はすごく持ってたと思います。
経産省とかが力を入れて、構造改革的な形で変えようとしてたと思いますね。
メディアもファッションに向かってたんで。
雑誌もそんなに出てなかったけど、それなりに当時名前が出てくる雑誌がいっぱいあって。
ただどうですかね、今なんて考えられないけど、
だいたい名前知ってるんですよね、この雑誌、この雑誌、この雑誌ぐらいには。
宝島アシャとかですかね。
総演科ですね。
あと森花井のところの出版関係とか、そういう感じですよね。
そこに乗ってる服が着たくてみんな頑張って働いてたっていう時代。
そうですよね。
ソアラとかに乗ってる人が着てる服のイメージですね。
何となく車でいうか。
その勢いがあった時代ですけど、原田さんが日本を帰ってきて、
自分で独立される時に会社名は作られたんですか。
独立させた時からしばらくしてなんですけど、