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2024-10-05 09:58

heldio #77. ピトケアン島のクレオール英語

#英語史 #英語学習 #英語教育 #世界英語 #クレオール英語
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おはようございます。英語の歴史を研究しています。 英語技術大学の堀田隆一です。
このチャンネルでは、英語の先生もネイティブスピーカーも、 受証も答えてくれなかった英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
毎朝6時更新です。ぜひフォローして、新しい英語の見方を養っていただければと思います。 今回取り上げる話題は、ピトケアン島のクレオール英語という話題です。
英語はですね、近代以降に世界中に拡散していきました。 もともとイングランドの言語だったものが、ブリテン諸島を全域に、そしてアメリカ大陸にも渡りました。
アフリカ、インド、東南アジアを経てきました。 そしてオーセアニアですね、オーストラリア、ニュージーランド。
そして残された最も遠い地域というのが、太平洋地域ということになりますが、ここにもですね、この当初部に様々な英語、そのものの標準英語ではありません。
大抵ですね、その現地の言語と混合した形の、いわばピジン語とかクレオール語と言われるような英語が転在しているわけですよね。
その中でもひときわ知られていないということでもありますし、また孤立した地理的にもですね、孤立した形で存在している英語編集の一つを今日は紹介したいと思います。
南太平洋ですね、南東太平洋。タヒチが比較的近いところなんですけれども、といってもタヒチの南東に2000キロも離れているところにですね、ピトケアン島というのがあるんですね。
ピトケアン。これが今日の舞台になるわけなんですが、ここではですね、英語と現地のと言いますか、配置の言語が混合したようなですね。
2つの言語をミックスしたような言語、クレオール語が話されています。ベースになったのがこの2つの言語、タヒチ語と英語なわけですが、これをもってですね、クレオール英語というような言い方で呼ぶことが多いんですが、このピトケアンイングリッシュの話題ですね。
ここにはですね、非常に面白い歴史的背景があります。事実は小説より気なりと言いますけれども、実際ですね、これ小説かと思うような1つ背景となるですね、事件があるんですね。
実際、歴史小説としてなっていて、これなので知る人ぞ知るという感じであるんですが、このピトケアン島をめぐる歴史的背景について簡単に紹介したいと思うんですね。
さあ、時は今から220年ぐらい遡ります。1787年というところから始まります。
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当時ですね、イングランドの船乗りであり探検家であるウィリアム・ブライという人がですね、いました。この人は、かのジェームズ・クックの内容公開にも付き従ったほどのですね、腕利きのイングランドの船乗りだったということなんですね。
このウィリアム・ブライがですね、カリブ海の西インド諸島のプランテーション経営者より奴隷用の食料としてのパンの木を確保する方法を探るようにという命を出されてですね、この1787年12月にですね、
海軍のイギリス海軍の科学調査船バウンティ号ですね。このバウンティ号の船長として、タヒチ方面の航海に出たということなんですね。
天候といくた困難があったんですけれども、翌年1788年にはですね、無事にタヒチに到着したということなんですね。
数ヶ月そこに滞在した後ですね、1789年の4月にですね、イングランドへの帰り道に着いたということなんですが、もう以前よりですね、この船員の無能に腹を立てることが多かったこの船長・ブライに対して、彼のですね、長年の右腕であった航海仲間、フレッチャ・クリスチャンが9人の仲間とともに、戦場で反乱を起こしたということなんですね。
ミューティニーと言いますね。ミューティニー・オン・バウンティーとして、よく知られている事件ということになります。
このブライと18人の船員はですね、ボートに残されて、海に流されたという形になりますね。ブライはこの不屈の精神で翌年イングランドにたどり着いているんですね。
一方、バウンティー号に残ったこのクリスチャン一行はですね、一旦タヒチに戻ります。その後、その現地の男女数名を引き連れてですね、タヒチのなんと2000キロ以上も離れた、今日の舞台であろうピトケアンアイランド、ピトケアン島にたどり着いたということなんですね。
そしてミューティニーというのは犯罪ですので、これバレたら大変なことになるということで、おそらくその証拠隠滅というか隠れて住むことを決心して、船を焼き払ってですね、その無人島、ピトケアン島でそのほんの数名ばかりでそこに居住すると、小さな植民地を設立し、小さな社会を営むということにしたわけですね。
その後、20年ほどの詳細は分かっていません。ですが、1808年にアメリカの捕鯨船がですね、この島に立ち寄って、彼らの子孫がですね、島で生き延びていることを発見したということなんですね。
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このピトケアン島自体はですね、この事件に先立つ1767年に英国船によって発見されてはいたんですが、当時無人だったわけですよね。
なので、明らかにこの島に人が住み始めたのは、このミューティニオンバウンティのこの事件をきっかけとした、このフレッチャー・クリスチャン一行からタヒチから連れてきた男女数名というのが、まず最初の人々ということはもう間違いないということで、現在でもですね、その島民のほとんどがそのいわば氾濫者たちの末裔ということになります。
その後、19世紀にはですね、アメリカであるとかオーストラリアの捕鯨基地として機能していた島なんですけれども、少し人口が過剰になった。狭い土地ですので。
1856年には人口過剰を解消すべく、島民の一部が、ずっと西のですね、今のオーストラリア寮になるんですが、オーストラリアとニュージーランドの間ぐらいにあるノーフォーク島へ移住したということです。
つまり彼らの末裔はですね、ピトケアン島からだいぶ離れたノーフォーク島に暮らしていると、今でも暮らしているということですね。
このピトケアンというのは今でもイギリス寮です。ノーフォーク島というのは先ほど述べたようにオーストラリア寮ということなんですが、この氾濫事件とその後の経緯で生じた
この新しい植民地と言いますかね、友人の島ではですね、当初のフレッチャー、クリスチャン率いるですね、英語を話していた、いわゆる白人たちと、そしてタヒチの言語を話していたものがミックスされた言語ですね、クレオル語が話されているということになります。
これを島の名前を取ってピトカーンという言語名で呼ぶわけですけれどもね。
この根性言語、クレオル語はですね、このピトケアン島ではそこそこ純粋な形で残っているわけなんですけれども、この後に19世紀半ばに移住してできたノーフォーク島でのコミュニティは、ぐっとオーストラリア化したと言いますかね。
いわばスタンダードイングリッシュに近いところにぐっと引き寄せられていて、クレオル語から少しずつ英語、標準的な英語の方向にぐぐっと寄り添ってきているということで、少しこのオリジナルのピトケアンとは変化してきているという事実があるようです。
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さあ人口なんですけれども、ピトケアン島にはですね、今50名ぐらいという規模なんですね。
非常に少ない数なんですが、ここにその数十年前の事件に端を発するですね、そこから生じたミックスの言語、クレオル語が今でも話されている。
そしてこれは純粋な英語と言えるかどうかは別としてですね、英語に部分的に由来するある種の言語という、広い意味での英語の編集という見方をするとですね、ここまで孤立した言語編集、英語編集というのはなかなかないのではないかという例になっているということです。
それではまた。
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