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おはようございます。英語の歴史を研究しています。慶応義塾大学の堀田隆一です。
このチャンネルでは、英語の先生もネイティブスピーカーも、辞書も答えてくれなかった英語に関する素朴な疑問に、英語史の観点からお答えしていきます。
毎朝6時更新です。ぜひフォローして、新しい英語の見方を養っていただければと思います。
このチャンネルは、英語の語源が身につくラジオと題しているのですが、この英語の語源という部分を広く取っていただいて、英単語の語源に留まらず、英語全体の言語の語源、言葉がどういうふうに生まれ、発展し、歴史を経てきたかという、
広い意味での英語史の話題を扱うチャンネルとなっています。
今回は、その中でもほとんど知られていないのではないかという話題、しかしとても重要な、我々日本人にとってとても重要な英語に関する話題をお届けしたいと思います。
それはですね、小笠原美人英語と称されている美人英語ですね。英語をベースとしながらも、その他の様々な言語であるとか、方言がミックスしてですね、
共通の母語を持たない人々がコミュニケーションを取るために、ミックスさせて作った、間に合わせの、とりあえずの言語ですね。これは美人、そして英語ベースのこのような美人の言語のこと、美人英語と言われますね。
この美人英語というのは、世界中にですね、たくさん分布しています。イギリス、それは後にですが、アメリカがですね、世界展開するに及んで、その現地の言語と英語がミックスした形でですね、美人英語というものができてくるわけですが、
実は我々の身近なところにも、身近といっても日本の内部にでもですね、この美人英語というものがどうやらあったという話なんですね。小笠原美人英語と呼んでいます。
英語ではボニンイングリッシュ、ボニンイングリッシュなんていうことがありますね。この小笠原っていうのは例の小笠原群島のことなんですが、英語での別名をボニンアイランズというんですね。ボニンっていうのは諸説あるようなんですけれども、どうも日本語の無人との無人ですね。
これをブニンと呼ませて、ブニンアイランズ、それからボニンアイランズというふうに名まったのではないかと言われています。実際ですね、ここは長らく無人の島々だったんですね。この小笠原美人英語の発生を考えるにあたっては、少しこの地域ですね、小笠原群島の歴史をひもといていく必要があります。
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この小笠原群島っていうのは、ムコ島、チチ島、ハハ島の3列島ですね。それからイオウ島なんかも含むわけですが、この小笠原諸島の歴史っていうのは非常に複雑です。もともとボニンアイランズというように無人の地域だったところをですね、1543年スペイン人のビラロボスという航海家によって発見されたと言われています。
1543年のことですね。日本人としてはですね、秀吉の命で南方航海した小笠原定よりがですね、1593年ちょうどスペイン人ビラロボスが発見してから半世紀後ということになりますが、これが日本人としては最初だと言われています。
この小笠原さんが発見したっていうことで、後に家康によってこの発見者の名前がこの島の名前に付されて、現在の名称となるわけです。
日本としてはですね、1675年に幕府がこの島を開拓しようと機とするんですが、これが挫折します。
それから1727年ですね、小笠原一族による都々の試みも失敗しています。
そういった形でですね、日本側はこの開拓に失敗してきたということなんですね。
そうしているうちに、日本としては幕末に入ります。19世紀に入りますと、アメリカの船員がですね、母島に寄港すると。
続けてイギリスの艦船がですね、父島にそれぞれ寄港して、1823年と25年にそれぞれ漁遊宣言してしまうんですね。
そして1830年には何名かの船乗りたちがやってきます。
これはですね、2人のアメリカ人、1人はイギリス人、1人はデンマーク人、1人はイタリア人。
こうしたヨーロッパの船乗りたちがですね、ハワイ辺りで連行したですね、ハワイ人ですね。
男女5人5人ずつあったとされていますが、こうした面々がですね、この小笠原群島にやってきて、無人だったところに初めて住み着いた。
つまり初めてそこに入職したということになりますね。
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これが最初のこの島々の人口ということになりますが、後に保譲船の船乗りたちであるとか、ナンパ漂流した船乗りたちですね、が加わって一つの社会を構成していったということになります。
当初よりこの最初のメンバーですね、構成からしておそらくコミュニケーションを取る言語としてベースになっていたのは英語であろうと。
純粋な英語だったというよりはもうすでにピジン化が始まっていたかもしれませんが、そうした英語のピジン化したバージョンですね、これが話されていたと考えられる。
実はこの小笠原ピジン英語の確たる証拠という形でははっきり残っていないんですけれども、19世紀の状況証拠からするとですね、この島で話されていた言語は何らかの英語のピジンだったろうと考えられるわけです。
一方ですね、日本の方はどうだったかと言いますと、こうして小笠原ピジン英語っぽいものが生まれてきたちょうどその時にですね、1862年に幕府が日本領として領有を宣言するんですね。
そして八丈島の島民の移住というのを企てたんですが、それも失敗しているんですね。
本格的な経営に乗り出したのは日本がですね、時代変わって明治になりますが1873年のことです。
ここで戦中のアメリカ人たちであるとか、アメリカ人を主体とした新しくできてきたコミュニティですね、これを徐々に日本に帰化させるということを行ってきました。
こうして小笠原ピジン英語と呼ぶべきものがおそらくあっただろうという、その状況の中に日本語が持ち込まれるということは起こったわけですね。
後に第二次世界大戦後ではですね、イオウ島が日米の激戦地になったということはよく知られていますが、その戦後ですね、一旦アメリカに失政権が移りましたが、1968年には日本に返還されたということですね。
つい数年前ですが、2018年にはですね、小笠原諸島返還50年ということだったわけなんですが、こんな歴史、かなり複雑な歴史を追ってますよね。
このように小笠原軍統では、友人化した最初の段階から少なくも日本語ではない言語ですね、英語ベースの何らかの言語が話されていたということは状況書から考えて間違いない。
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その英語らしき言語なんだけど、英語そのもの、いわゆる標準的な英語そのものではなくて、何らかの形でピジン語化したものが話されていただろう。
20世紀にかけては日本語と混合した状態で、事実上日本語の方が強くなった形ですね。事実上日本語によって置き換えられたと言っていいかと思います。
すでにこのBorn in English、これは衰退してほとんど聞かれなくなっていると言っていいと思いますが、20世紀中にはですね、家庭内でもこのBorn in Englishというのが一般的に用いられたとも言われます。
まさかの日本に存在したピジン英語の話でした。それではまた。