この人たちはこうやって認め合ってるのかっていうことが分かるっていう二重の構造で、
逃げ場が示されてるなというふうに感じるんですよ。
だから、本について語り合うっていうことそのものもまず面白いですし、
この本について面白いと思い合える人がそこにいるっていう感覚もやっぱりいいんですよね。
面白いというよりも、さっき言った救いとか安心感とかに繋がってくると。
あるかもな。例えば俺、公理主義入門を読んでも、やっぱ話せる人なかなか見つかんないですからね。
売れてる本ならあるけどね。
だから、こうやって語り合うと手ずかくとかしそうな話をするじゃないですか。
たまに妻が横で聞いてたりするんですけど、何言ってるかわからんみたいな顔するんですよね、妻は。
もちろんそれは僕らが偏ったことを喋ってるから仕方がないしろ、仕方がないと思うしろちょっと寂しさがあるわけですよ。
でもこうやって普通に喋ってるときはすごく楽しいわけですよね。
こういう世の中が定義する成功とか正しいことから外れても良いと思えることないし、それ自身を楽しめることっていう場を
インターネットなり何なりが作り出してくれてるっていうことそのものがやっぱりいいなというふうに個人的には思いますね。
救いですよね。正直ね、当時ほぼ人生ずっとそうだけど、同じことを話せる人っていうのはリアルの場では並大抵のことでは見つけられず、
インターネットのおかげで自分が面白いと思えるものを語れる相手が見つけられるようになったっていうのかな。
だからそこはやっぱり大きいなと思う。
今僕ら読書会っていうのをしてますけど、別に本だけに限らずに、世間一般のジェネラルに喋れるようなことではなく、
ちょっと喋り相手を選ばなければならないような秘めたことみたいについて語り合う場っていうのが、
インターネットってそういうことを可能にしたツールだと思うんですよね。
それは間違いないですね。
新聞的なマスメディア的な情報を広く安く広めるためにももちろん使えるんですけど、
むしろニッチでマスなメディアでは成立しないようなことが初めてメディアの場に凝らせられるようになったツールという意味で、
やっぱり再評価というか、もう一度そこは再評価されてもいいかなと。
確かにそこは時代的には結構そういう流れは来ているのかなっていうのはあって、
単純に自分が生きていこうとする世界でもアドセンスで稼ごうではなくて、
そのメールマガジン、有料のメールマガジンというところでニッチなところにアクセスして、
ニッチな人たちから厚い支援をもらえれば十分に生きていける社会ができつつある。
できたらいいな、あれ。そこは今ちょっと分岐点ぐらいにあると思いますけど。
そこで結局、ユーチューバーみたいなもてはやされ方をしてしまうと、また資本主義に壊されてしまうみたいなのはあるんだけど。
あれはまさしくアドセンスから始まるユーチューバーって、だから数の論理、資本主義の論理にがっちり組み込まれている。
がっちり組み込まれているから彼らは儲かるわけですけど、それとは違うオルタナティブということですね。
資本主義に対するオルタナティブを見つけ出す。
闇の自己啓発は資本主義に加えて、いわゆる人道主義とか教養主義に対するオルタナティブでもあるんですけど、
ありとあらゆるものに対するオルタナティブを見出していくことで、ニッチで生活していけることの何がいいかっていうと、
マスに染まらなくていいっていうことなんですけど、さっき言ったように肯定感があるんですよ。
うん、わかります。自己肯定感とそれに伴う幸福感っていうか、幸福って言葉をあいに使ってしまうとどうしても宗教な感じになってしまうんだけど、
もうちょっとあれかな、公理主義でいう幸福みたいな話なんだけど。
そこを肯定できるんですよね、ニッチのあり方って。
だから単純に例えばマス向けでやって、売り上げが4分の1やけど、テマも4分の1やしいいなとかそういう話じゃなくて、
マス向けに自分をアレンジしなくても良いんだっていうことなんですよね。
それ良い言葉ですね。多分人が生きていくためには、何らかの形でマス向けにアレンジしないといけないとは思うんですよね。
ただ、例えばYouTuberで生きていこうとすると、大きくマス向けにアレンジしないと生きていけなく、
それが例えばブックカタリストで生きていくんだとしたら、ほんのわずかマス向けにアレンジするだけで生きていけるようになる。
そこがさっきの引用で言った事故を失わないっていうことに多分関係してて、
社会に適応しようとすれば適応の中で事故が失われていく。
この事故もなんやねんっていう話は哲学では当然よく出てくるんですけど、
そこで感覚として、自分がやりたいことではないけどもやらざるを得ないみたいなことを正しいと思ってしまう感覚が多分、事故が失われるということだと思うんですけど、
それをなくてもできるっていうこと。
そうして自分が自分をまず肯定して、そういう面白がってくれる人がいるっていう、
おだしょー そこはじゃあやっぱ難しいのが今度は本がそうならないようにしないといけないってことですよね。
おだしょー そうですね。だからそうならないようにするためにやっぱり良い本を買うということなんですよ。
おだしょー 買うのと買ってくれるようにみんなに勧める。
おだしょー そういう、こういう活動ってなんかある種地味であるし、しかもなんかちょっと組織的な誘導にすら感じれるんですけど、やっぱ必要なんですよね。
おだしょー 特にその宣伝されにくいような本っていうのを、いや面白いよって言うっていうことは、それを長生きさせるために必要不可欠と言ってもいいんではないかな。
おだしょー 特に現代ではこのコンテンツの生き残りが以前より難しくなっている以上、応援の声も大きくしないとバランスが悪いと思うんですよ。
おだしょー まさに観客を増えていくということですよね。ちゃんと繋がる感じの。
おだしょー この本って闇の自己啓発会っていう読書会なんですけど、実は最近発売された別の本もありまして、ちょっと関連していくと。
おだしょー 人文的、あまりに人文的っていう本がありまして、この本も読書会というか本を紹介する本なんですよ。
おだしょー こっちは結構本がいっぱいあるんですよ。300ページほどで40冊か本が。
おだしょー だから1冊あたりは結構軽い紹介なんですけど、それでもその本をどう言ったらいいかな。
おだしょー 褒めるというよりは、この本を言いたいことをうまく簡略的に表現して、かつさっき言ったようにその関連する本をちゃんと。
おだしょー 書写がこれってあれに関連するなって思いついた本をちゃんとピックアップしてくれるんで、この本も非常に読み方が増える本なんですけど。
おだしょー 実はこれは人文的、あまりに人文的って、YouTubeでこの2人が哲学の劇場っていうチャンネルを持たれてて、そこで番組で2人で喋られてるんですよ。
おだしょー これも結局、このブックカタリストと結構似てるんですよね。
おだしょー すげー、メタブックカタリストがいっぱいあって。
おだしょー いっぱいあるっていう、僕らも後々、かなり後なんですけど。
おだしょー 違いといえば、有識者が本を紹介してるというよりは、今からちゃんと本を読んでいきましょうのスタンスっていうところが多分違いではあるんですけど。
おだしょー 学問のために本を読むとか、ビジネスパーソンで差をつけるために本を読むとかじゃなくて、読書って面白いよねっていうスタンスが、やっぱりこの人文的、あまりに人文的と似てるかなと。
おだしょー 別に学問が目的ではない、まさに教養っていう言い方なのかな。でも教養っていうと、なんかおこがましいというか、なんかそうでもないんだよなっていう。
1面、だから4列ぐらいか、全部それに使われてるんで非常に嬉しいですね。
その書店がオープンした時はね、オライリー本がほぼありましたからね。
オライリー揃ってるのは信頼できるかもしれない。
岩波新書とか岩波文庫が置いてあるお店は、人文的な信頼度が高いと思ってもらっていいんですよ。
なぜかというと岩波新書って返品効かないんで。
初手の仕組みを知っているからわかるってことですね。
転本精度がない。
岩波は効かないんで、あれは買い切りの強い心文字がないと仕入れられないし、
岩波文庫とかって売れ行きがいいわけじゃないじゃないですか。
売れる本ではない。
でもそれをちゃんと品揃してってことは、
ちゃんと読みたい時にこういう本を届けようっていう強い意思を持ってあるなという意味で、
信頼していいっていうそういう選び方があります。
だから本屋もいろいろ顔があるんですよね、実はね。
たぶん現代失われつつあることなんですけども、
もともと本屋はちゃんと書店ごとにここはこういう本が揃っているとか、
そういうのはあったんですよね。
だからある種の僕らのやってることって書店的な活動と言い直してもいいかなと。
別にダイレクトに本を小売りしているわけじゃないですけど、
言ったら本を知らせるという役割では一緒なんですね。
やろうとしていることはそういうことだというふうにも言えるのか、そうですね。
だから実演販売ってあるじゃないですか。
そのものとそれをどう使うかをセットにして売るっていうことですけど、
だから僕らは本とその本がどう面白かったかをセットにして
本を売っているというかアピールしているっていうことですよね。
確かにね。
そうですね。
それは長年、多分読書好きの方はみんなどうやって次の本を探すか問題は常に抱えられていて、
一時期はやっぱりAmazonアルゴリズムに憧れというか期待はあったんですけど、
結果は惨敗というのがここ5年くらいの結果なので。
結局ランキングのセルフカスタマイズランキングにしかならないんですよね、今のところのアルゴリズムだと。
あとだからAさんがこれを買ったからそれと同じものを買っているBさんもこれが好きだろうというのは当てはまらないんですね。
例えば僕とゴルゴさんが似ている本を読んだとしても、その他の選手って異なるじゃないですか。
2人の人間が同じ本をずっと読み続けることはまずありえなくて、
それぞれの関心ごとに枝葉が分かれるじゃないですか。
だからそういう関係ないんですよね。
まあどうなんだろう。そこはね、ちょっとね、
ディープラーニング方面からの技術のアプローチというのも期待はしているんですけど。
でもAmazonはそこまでしないでしょ。
Amazonはしない。
だからああいう方式では多分本の選びの参考にはならなくて、
最終的にはやっぱり一途手に本を知るっていうことしかないなっていうのが僕の今の結論ですね。
まあ確かにね、現段階で一番信用できるのは誰かが面白いって言っていたっていうか、
誰かっていうのがそのある程度人格を認識している人が言っていたっていうことですね。
だからみんなが本を読んでいるみんなが、僕が買ったリストをやればいいと思いませんけども。
でもね、ちょっとそれなりに自分本読んでいるよ、
でもこれまでずっと一人で読んできたよっていう人は、
誰かを見つけてこういうことをすると非常に自分にとっても新しい発見が多いと思うんですよ。
俺はね、これによってね、話すために学んだことによって学ぶことが面白くなったっていう、
卵が先か鶏が先か現象みたいな、
どっちが目的かわかんないけどすごい面白くなったっていうのは間違いないので。
取り上げ、ここで紹介するためにはやっぱり自分でもう一回再読絶対しますし、
今回も暗黒啓蒙について一応ちゃんと喋れなあかんなと思って下調べもしたんで、
こういう下調べって心の中ではやったほうがいいなってずっと思ってるんですけど、
やるきっかけがないんで永遠にやらないんですよね。
そうそうそう、確かにね、そういうのもね、結局ね、
でも一冊の本をしっかり読む方がたくさん読むよりも学べることは多かったですね。
それはそうでしょうね、きっと。
で、まあ何個か見て選んだらそれをすごいたくさん読んでまとめるっていうのは結果的に、
結果的になんかたくさん、もっとたくさん読めるような気もするし。
それはそうですよね。
でも例えば今だったらゴルフさんは公理主義について何か少し書けるはずですよ、もう。
多分ね、少し書けると思うし、そういうことをやっぱり重ねていくことで何でも書けるようになる。
結構ね、自分の話で言うとね、最近万能感と言うと言い過ぎなんですけど、
そういう感覚が出てきて、中二病的俺最強っていうか、
俺あと10年したら俺結構すごい人になれるかもしれないぞって今思えるようになってきて。
それがいわゆる知的生産活動ですよね、要するに。
なんかそれに関して言うと年齢で遅いなんてことは全くないなって思ったし。
それは大切なことですね。
これから10年ぐらいがすごい楽しみでね、これを繰り返したら、
自分が想像もしていなかったレベルの自分が理想じゃないな、自分がすごいと思う人になれる気がするっていう。
想像力を超越するわけですね。
っていう可能性を感じているというか、できるんじゃないかって思えてきたっていうんですかね。