面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第73回の本日は、
会話を哲学するコミュニケーションとマニピュレーションについて語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。
前回のgoryugoの順番で、会話の科学っていう、
喋ってから0.2秒で人は反応しているぞとかっていう、
なんじゃその驚異的な能力はっていう話をしたんですが、
なんかね、最近全般的に会話とか、人とのコミュニケーション、人間同士の繋がり、
なんかそういういろんなところに興味が出てきておりまして、
その一部、その多分ね、興味の分野が、
人が他人と生きるにはどうするか、うまくやっていくにはどうするかみたいなところだと思っていて、
その一要素として、会話というものにも興味が出たんじゃないかなって、
後から思ったことなんですけど。
逆に言うと、それまで他人とどうやってうまくやっていくかっていうことは、
関心はあまり持ってなかったってことですか?
極論そうですね、面倒くさい人とは関わらないように生きていく、
厄介そうな出来事とはあまり関わらないように生きていくっていうのが、
多分かなりブックカタリストで、
人といろんなことを話していて、考えが変わってきたんじゃないかと思うんですけど。
なるほど、だから所詮、ずっとして言ったマイナスに近づかないというものは持ってたけど、
何かプラスのものを作っていくにはどうしたらいいのかっていう
関心事を最近持ってるって感じですかね。
そうですね、分野として、何て言うんだろうな、
ブックカタリストを勉強だとして、
勉強すればするほど分かってきたことは、
俺一人には限界があって、
他人に頼らないと生きていけない。
そもそも人類というものの最大の強みが、
他人と協力することだっていう。
ヒューマン回答の時もありましたね。
そうですね、っていうことを思うと、
やはりいかに他人とうまいことやっていくって言うと、
何か言い方が悪いんですけど、
その幸福のためにも、社会的な成功のためにも重要なんだろうなと。
今回のテーマに限って言うと、
ぶっちゃけ直接的そういう話はあんまりないです。
はい、なるほど。
割と哲学な分野なので、
会話というものがどういう機能を果たしているかっていうような話から始まり、
最後の方はちょっと著者の意見みたいな感じで、
こういうことをしてはいかんよねみたいな感じの話が出てくるっていうのかな。
もう一つ気づいたのが、
こういうことをしてはいかんよねっていうのを、
哲学の観点で考えるっていうのも最近好きなことなんですよね。
行動規範みたいなものを哲学的観点から考察する?
そうですね、もうちょっと自分なりの砕けた言い方をすると、
本能的にはそれはおかしいことだと思うんだけれども、
そんなこと個人の自由でしょって言われたら反論できないやつ。
そういうやつをその哲学でぶっ倒したいっていう、
哲学だとぶっ倒せる感じがするというのかな。
そう、科学やとそれこそ皆さん好きにしましょう、個人の立場ですって言ってしまうところを、
哲学やったらある観点からその主張が可能というのは、
ちょっとしたその哲学的な姿勢の有利さというか、
あるポジションの取り方っていうのが特徴ではありますね、確かに。
っていうのも最近、これにもそういう感じのことが最後の方にちょっと出てきたりしていて、
そういうことも最近の、完全にあれですね、
どっちもブック型リストを始めていなかったら、
そういうことを思った可能性はほぼゼロなんじゃないかぐらいの出来事かなと思います。
で、だいぶ長い間置きだったんですが、
会話を哲学するコミュニケーションとマニピュレーション、公文写真書、
2022年の8月に出た本です。
ミキ・ナユタさんという方が、やっぱりトランスジェンダーの哲学者だったと思います。
で、そのジェンダー論的なものとか、
この本自体が漫画とか小説とか映画とか、
そういうものの会話を引き合いに出しながら、
これってその哲学的に考えるとこういう意味があるんじゃないの?みたいなことを考えていくっていうタイプの本で、
まあ割とメジャーどころから、俺は全然知らんようなやつからいろいろあったりします。
一部ネタバレ的な要素があるかもしれないので、
時代的に今更大丈夫だと思うんですけど、
そういうことが気になる人は気をつけてください。
オリエント急行殺人事件とかって犯人とかそういうの言っても、今更大丈夫ですよね。
まあでもあれは、今Amazonプライムで確か見てるんかな?劇場版。
そうなの?そういうやつなの?
あのシリーズというか、リメイクじゃないけど、現代風に作り直されてるのよ。
今も劇場でやってたんじゃうかな。とりあえずアマプラで見られんねん。
知ってる人は古典やから言ったら。
ミステリーの古典的なネタとしては有名作品やけど。
でも知ってても面白いかな。
まあ別に言ってもいいか。
ネタバレしたくない人は以降は聞かないほうがいいということは言えるか。
あと読んでみた感想なんですけど、
この本を読んで、批評とか文学論みたいなやつ、
そういうことを書いたり考えたりするときに、
この本で言っているようなことってすごく役に立ちそうだなという印象があって、
その文学論みたいなことをちょっと高度な感じ、文学的に物事を解釈してみたい、
語りたいみたいな場合にもなかなか役に立つというか、
哲学という名前だったんだけど結構文学論的なニュアンスも感じたような感じがします。
自分の場合は。
この文脈においてこの発言がどんな意味を持っているのかっていう分析は
批評的な解釈として捉えることができるでしょうし、
大抵の批評はそういうことをしてますね。確かに。
ニアリイコール、ある意味それは哲学と言えるのかもしれないとも取れるのかもしれないし。
批評と哲学の違いは難しいですよね。
そういう意味でポップでライトなので、ある程度みんなが知っているような場面みたいなことも出てくるんで、
そういえばそういうのってそんな感じのことあるよねとかも言えるんじゃないかなと思っています。
なるほど。
本の副タイトル、サブタイトルにも出てくるんですけど、
まず著者が考えている会話っていうものは何なのかというか、会話とはどういう機能があるのかという話をした場合に、
会話をコミュニケーションとマニピュレーションという2つの機能に分けて考えてみようっていうのが本全体の大きなテーマです。
コミュニケーションっていうのは日本語にもほとんど通用すると思うんですが、交流とか意思疎通とかみたいなことだと思うんですが、
マニピュレーションあるいはマニピュレーターっていうのはあんまり一般的な言葉ではないかなと思うんですけど、
どういう文脈の言葉なんですかね、これは。
コミュニケーションが意思疎通を目的としているという言い方をするのであれば、
マニピュレーションというのは相手を何らかの自分の思った方向にコントロールしようとする行為っていうのかな。
端的に言うと操作、操作する。
っていうと悪い言い方かもしれないんですけど、そこの醤油とってはマニピュレーションなんですよね。
コミュニケーションではない。あるいはコミュニケーションでもある。
でもあるけれど、マニピュレーションとして相手にそこにある醤油を私の手元に持ってこさせるという意図を持ったもの。
そうですね。なのでそこが基本ですね。
情報のやり取り、意思疎通と同時にもう一つ、会話というものには相手に何らかのことをしてもらおうとするという意図がある。
だから一つの会話、会話というかやり取りされる言葉の中にコミュニケーション的機能を見ることもできるし、マニピュレーション機能を見ることもできるって感じ?
そうですね。そういうふうに考えてみると、会話を哲学的に考える場合に切り口として広がるというか、考えやすくなる。
例えばちょっと今思いついたんですけど、挨拶とかにも多分マニピュレーションの機能はあると思っていて、
私はあなたの仲間のような存在であり、敵意はありませんよ、私には攻撃してこないでくださいね、みたいなことがマニピュレーションとしての挨拶の起こりだったのではないのか。
意思一つとしては私はあなたに敵対的な意思はありませんよと示すのがコミュニケーション的で、マニピュレーションはそれによって敵対行動を抑制している。
そうですね。敵対行動を抑制しようとして仲間意識を高めようとしている。
もっと言うと、例えばハローでもおはようございますでもいいですけど、返事を促してますよね。これ結構マニピュレーション的じゃないですか。
ああそうやって考えるとそうかもですね。
で、著者が言いたいのはそういうふうに会話っていうのはまず言葉を通じてお互いに影響を与え合うものだって考えている。
さらに言うと会話って何をすることなのかっていうと、影響を与え合うことによってお互いに約束ごとを作っていくっていうのがその会話を通じて我々がやっていることなのではないか。
約束ごと。
はい。さらに言うとその約束ごとというのは本当にそう思っているかどうかっていうのはあんまり重要ではなくて、
約束ごとを作るということが大事なのであって、自分がどう思っているかみたいなことはさほど重要視をしていないであろうというようなことを後々の事例などを見ながら考えていきましょうというのが大きな流れですね。
なるほど。ちなみに一つだけその約束ごとの例みたいなんて挙げられます?イメージしにくいんですけど。
来週のブックカタリストよろしくお願いします。
お互いに来週の火曜日にブックカタリストの収録をしようとしているという約束ごとを作り上げている。
みたいなごくごく普通のもろに約束でもいいと思うんですけれども。
もうちょっとその哲学的な話みたいなのがその後に出てくる感じです。
そこら辺が大雑把に第1章の話。
第2章タイトルが割と面白くてまず。
そこを今はの際に言ってやるということによってただ好きだと言わせるよりも好きだということを限界に含ませつつ約束ごとをしつつでもアタル君のキャラとして絶対に好きだとは言わないみたいなことをうまいこと生み出している。
こういう感じで全般的にこうやってこういうことってこうやって言ってたんじゃねっていうような話とかっていうのが出てくるんですけどこれを読んで自分の話みたいなのをすごく思い出して約束ごとっていうとちょっと違うかもしれないんですけど大学の頃に麻雀が好きな先輩っていうのがいたんですよね。
よくその先輩が言っていてすげえ面白くって印象に残っているのが。
昨日の中国語の授業料はすげえ高かったって言うんですよ。
中国語の授業を4人で資格になってはいを握りながら中国語の授業を受けてたんですよね。
で先生は結構な授業料をいただくことができ。
その先輩というのは非常に高い授業料を払うことになったんですけど。
なんかねその表現が今でも思い出せるぐらいでなんかあのすごく面白いなと思ったんですよね。
でそれもやっぱさっきの口にすることで責任が生まれるという観点で考えるとなぜ先輩はそのように発言したのかっていうのもこうちょっと深く考えることができるなと思って。
なるほどがこの責任という言葉が多分難しいなここでは。
ある種のコミットメントってことだよね要するにこれは。
あーそうですね。
同義的責任に近い法的な云々ではないですね。
あるこの方に対する主体的な関与性ってことだよね要するにこれは。
そうですねそれを中国語の授業料が高かったという表現をすれば私は同義的に法を破る行為はしていない。
なるほど。
だって4人でなんかあの1から9までの数字とかを勉強したりしてなんかあのいろいろとコミュニケーションをしながら最終的に授業料の支払いが発生したという行為なので。
そういう表現をすれば日本国の法では取り締まれないですよね。
あとその例えばその先輩が負けず嫌いだったとしたら試合に負けたみたいな現実とは違う現実が生まれてるよねその授業料を受けたということ。
あーそうですねそういう観点もあるかもしれないね。
だからある発言がある現実的な認識認知を確立させてしまうと、その言葉をずらすことによってその認識認知をずらすことができるという作用が生まれてるんだろうねきっと。
そうですねあの本人自体はそうすることによって負けたことにはならない。
中国語を学んだだけであって。
そういう感じが起きてたよね要するに。
うんでねなんかやっぱそのよくわかる気がするんですよねそういうようなこと発言って我々ってすごくよくしているような気がして。
そのそこらへんっていうのがそういうふうに考えてみるといろんな会話っていうのがこうねしさ深い会話で溢れているというかなんか何ならほとんどの会話ってそういうことで結構生まれているというかそういうものの方が多いんじゃないかぐらいのことを思ったりもして。
だからその発言でそれぞれの発言でその人が何にコミットメントしているのかっていうのが立ち現れてくるしあるいは逆に何にコミットメントしたくないのかというのもその炙り出す形で出てくるっていう感じがしますな。
うんでやっぱそれってね文学的な表現技法だと思うんですよね直接的に言ってしまったら野望でかっこよくないものをその人は何を重要視しているのか。
俺ちょっとそこまで読めていなかったんですけどさっきのその負けという言葉を口にしないというところで負けず嫌いなキャラクターが出せるのかもしれない。
でちなみにその先輩そういえばなんですけどえっと俺大学1年の時ちょっとだけ陸上部にいたんですけどあの少なくともその陸上部100メートルでねその10秒台で走れるという驚異的な人でその身内の大会とかでならほぼほぼ負けなしな人なんですよね。
なんかあるのかもしれない。
ありそうよね確かに。
そういうことすらもあるのかもしれない。
その日本一とかそういうレベルではないんだけれども全国大会でいい勢いけるぐらいのところまで強いような人だったので。
うんだから勝負ごとにこだわる場合負けたものは勝負として扱わないっていうのはあるやろね。
そうすれば生涯無敗でいられますからね。
そういうことじゃないそういうことじゃないよ。
うん。
今日は自己ベストが出せたっていうことであれば負けても問題はない。
だ、そうだよね確かに。
そうやってゲームをずらしていくというものはそういうまあ諸誠実じゃないけどこうメンタルの保ち方っていうのはあると思うね。
うんなんかアスリートとかはねひょっとしたらそういうことが結構大事なのかもしれないですね。
そういうそういうメンタルが持てるようになることというのが。
でえっとまあそういう感じのことっていうのがまあ分かりきってもあえてそういうっていうのはそんなような意味があるよっていう話でえっともう一個ねその会話の変わった特徴というかそういうこれもまたああ言われてみるとよくわかるわっていうやつなんですけどえっとね間違ってるとわかっていても話を進めるということを我々はやってしまう。
ほう。
でそれがそのオリエント急行殺人事件の例を出てくるようなやつなんですけどえっとものすごく簡単にあらすじを述べないと全くわかんない人にはわかんないと思うのでえっとすごく簡単に言うとオリエント急行殺人事件というのはあのまあいわゆる探偵が電車に乗ってて電車の中で殺人事件が起こるんですよね。
で状況的にあのこの中の乗客が犯人でしかありえないという事件だとでえっとまあポアローはあのちゃんと名探偵なのでサクッと推理をできてしまいあの最後の推理の段階で答えは2つあるって言うんですよね。
一つはあの見事に真犯人を言い当ててしまうような推理。
でもう一つというのがえっと本来ありえないんだけれどもなんか電車の中にどっか誰か外部の人たちっていうのが侵入してきてその人を殺していなくなったんだっていう2つの説でえっと。
犯人の話を聞いてみるとあのなぜ殺したのかっていうのがものすごく周りから同情を得られる犯人だったというのかな。
っていうのであの最終的にその列車に乗り合わせていたその人たちっていうのは全員が名探偵ポアローが提案した正しい答えではなくて。
あの犯人がどっかからやってきてその被害者を殺して逃げていったんだっていう説であることにしようということで全員が同意をしてお話が終わる。
でこれもえっと結局はえっと約束事を守ろうというのが目的のそういう約束事を会話にコミュニケーション会話によって作り上げたっていうのがその著者の解釈っていうのかな。
その間違っているかどうか正しいかどうかではなく我々は外部から犯人あの殺人犯がやってきてその人を殺して逃げていったということにコミットメントしましょうっていうことを全員が会話にすることによって会話じゃない口に出して同意することによってそういう約束事を作り上げ。
一生の話を踏まえるのであれば全員がそのことについて責任を負おうと決め、犯人にあの真犯人については口にしないことで全員が存在しないということを了解しようとしている。
約束事っていうことで大事なのはその個々人がどう思ったじゃなくて我々がそのどういう規範を共有していこうかということがその会話の価値なんだと。
そこのその言説そのものを当人が例えば信念として持っているかどうかは二の次だと。
我々がうまくやっていくための規範を作るために会話をしている。
そう聞くと例えばですけど、宗教的観念というのがございますけどもいろいろ。
なのでその嘘を言ってはいけませんということは社会をうまくやっていくためには正しくない行為なんですよね
だから社会その先ほど成立していった社会の共同社会的共同体の存続を危ぶませる嘘はいけないってことよね
嘘全体がいけないというか部分的な嘘はよくないってことだねきっと
うんその全ての嘘が良いとか悪いとかではないんだけれども
その全ての嘘を悪いと言ってしまうと社会が回らなくなってしまう
確かに
でそのさっきのマージャンの話とかもこれもやっぱそうだよなって思ってそれを良いことだと認めてしまうと
我々は全員日本国の法を破ってもいいものだという規範を作ってしまう
なるほどなるほど
だからそれを口に出してしまうとそれは約束になってしまうんですよね
あなたも私も法を犯しました
だけれども口に出さずに中国語の授業料という話にすることによって
私たちは法を犯していないし社会の規範を乱そうともしていない
だから例えばドラマとかでも耳にしてしまった以上問題にせざるを得ないみたいな
そういうのとかもドラマとかでやりますよね
これだから変な話
あらゆる生物の中で人間だけが認知した現実をスライドさせることができるわけですよね
そもそも言語が人間にしか今のところないと思われているので
その言語を使うことで立ち上がってくる認識を別の認識にずらすことができる
そのずらすことによって共同体の成立とかある場を成り立たせることができる
これはすべて虚構言ったら作られたもので虚構でしかないけど
その虚構が社会を支えているという変わった
そうなんですよね
そうやって考えると社会ってそもそも虚構なので
みんながやっぱり虚構を守ろうとしないと社会というものは守れなくなる
それがその会話という観点からも
うかがい知れるというふうに今話しながらそうだなというふうに思いました
これが主に間違って取ると分かっていてもやってしまうというやつ
あとこういう約束ごとって
もし例えば誰かが破ってしまったとしても
それで何もかも誤破算になってしまうとかそういうことではなくて
その場合はもう一回約束を作ることでOKなことにしてしまうみたいな
柔軟性も持っていると
一度のルール違反
結局それはルールが外部に存在するだけするのではなく
それぞれを信じている人の心の中で分散しているから起こることなんでしょうね
魔人探偵の大神ネウロ
あれの第1話って覚えてますか
主人公の女の子と探偵がいますよね
第1話って主人公の女の子の家族が全員殺されてしまって
犯人が見つからないままになろうとしていたところを
ネウロの推理によって
犯人が無事逮捕されるっていうのかな
最後の大神ネウロっていうキャラクターは
謎を栄養にする魔物みたいなやつで
第1話の最後のところで
最も我が輩は謎のないこの家にはもう用はないかなって言って
いなくなるんですよね
第1話終了直前に再びネウロが現れて
お前あんたもうこの家に用はないんじゃなかったの
っていう場合に
家には用はないが貴様には用がある
っていうのでお話は続いていきますという展開になっていくんですけど
これも同じように
最初は我が輩は謎のないこの家にはもう用がない
っていう約束事が作られたので
私とあなたは今後交わることはないだろう
っていう宣言をしているはずなんだけれども