面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第37回の本日は、現代思想入門について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
今回は2人のターンということなので、2人のターンっておかしいけど、2人回ということなので、
内容をそれぞれ相手に紹介するというスタンスではなくて、この本をどう読んだかみたいなところからいきたいかなと思うんですけども、
まず、現代思想入門という本ですけど、これフランス現代思想の入門書なんですが、
goryugoさん、この本以外にこういう包括的な、つまり個々の哲学者に包括したものではなくて、
フランス現代思想の入門的な本って読まれたことあります?
現代思想的なので言うと、1冊だけなんですけれども、
岡本雄一郎さんのフランス現代思想史、構造主義から、
中古史、デリ大語彙。
っていうやつですね。
中古新書のやつですよね。
そうです。は、読みました。
僕もその本は読んでるんですよ。
もう1冊、チクマ新書から、現代思想進入門とちょっと似てるタイトルの本があるんですけど、
その本も大体フォーカスしてるところは一緒なんですが、
あくまでその3冊の比較なんですけど、
抜群にこの本が読みやすかったし、わかりやすかったし、面白かったっていうのが個人的な、
まずファーストインプレッションでしたね。
そうですね。同じような感想で言うと、
今まで読んだ本の中で一番哲学って役に立つんだねっていう印象を受けた本でもあって、
なるほど。
世の中一般において哲学というものは人文の世界でも一番に、
予算を削るべきだみたいなことを言われているような学問の文系の中でもそのトップだと思うんですけども、
この本を読んでいると、読み方によっては自己啓発というかセルフマネジメントというか、
そういうところにまで、哲学という学問をうまく解釈すると、
こんなに役に立つ話につなげられるんだっていうのが一番すごいなと思ったところですかね。
思想と実用のブリッジというか、そういうことをしていると。
それは例えば倫理の授業で教科書で習うだけでは身につかないレベルのことで、
そういう意味でまさに入門として興味が持てる。
その前提で読めば続きの本というものをますます読みたくなるだろうなっていうのはすごく思って、
そういう意味で今まで読んだ中で一番印象に残った哲学入門書ですかね。
たとえば倫理に話を戻すと、トロッコ問題というのがあるわけじゃないですか。
トロッコ問題って難しいよねっていうところから自分がどう生きるかっていうのは、
ちょっと導かれませんよね。どう考えても。
なんかね、やっぱね、かっこいいことを言い過ぎなんですよね。
社会のために人は人を殺してもいいのだろうかっていう言い方をするのはかっこいいんだけど、
そんなかっこいいことよりも、なんかもうちょっと地に足ついた話っていうか、
自分の身にもうちょっと近いところを知りたいんだろうって思うところが、
これがかなり近いレベルで話がわかったっていうのはありますね。
なるほど。その辺が新書の新書たるゆえんなんでしょうけど、
ポイントはやっぱりタイトルの違いっていうところで、
僕がさっき挙げたその2冊はやっぱり思想史なんですよね。
史っていうのは歴史の史ですけども、
だからどうしてもいわゆる年表を追いかける形になると。
で、この本は年表はどっちかっていうと副というかサブというか、
年表を追いかける形にはなってないと。
そこが逆にでもすごく読みやすさの特徴になっているなというのを感じました。
そうか。単純に考えたら、一番最初にその人物3名、
フランス現代思想の3名が1章、2章、3章で出てきて、
その後、この人たちに影響を与えた3人ですもんね、その次が。
だから史的には逆順になっている形的には。
歴史で言うなら逆に言わないといけないし、
前提知識としてこれを知っておきましょうってまず話すのが典型的なパターンですよね。
層を覆しているところを、覆したくて覆すというよりは、
この順番に並べた方が現代思想というのを捉えやすいという意図の下で、
こういう配置されているというこの大胆さというところは、
かなりすごいなあっていう感じがしますね。
そうですね。やっぱり多分学者である人であるほど、
ちゃんと書こうとする意識がきっと強く、
正しいことを書くためには省略できないことがいっぱいあってしまう。
確かに。でもこの本が実現した通り、
そうしなくても理解はできるし、そうしない方が理解しやすいということすらある。
ある意味、著者の変なエゴを取っ払えば多分できるんじゃないかと思うんですよね。
確かに。
でもそれをできる人であればあるほど、
それを取っ払えなくなってしまうのをかけてしまうのがすごいのかなっていう。
その点はあるかもしれないですね。
さっきも出てきたんですけど、まずこの現代思想というのは、
一応フルで言うとフランス現代思想のことですと。
1960年から1990年ぐらいのフランスの思想の一つのグループということではないですけど、
そういう人たちがいたよというので、
ポスト構造主義という言い方とポストモダンという言い方がされていて、
この本ではあまりポストモダンというのは採用されていなくて、
どちらかというとポスト構造主義という言い方が採用されています。
フランス現代思想イコールポスト構造主義っていう話だったら、
やっぱり最初はじゃあ構造主義って何やねんっていう話から入るはずなんですよね。
一応軽く触れてるんですよね、構造主義の話とか序章のところで。
他の本ではだいたい構造主義の説明から章を割り当てられてるんですよ。
だいたいは、ベースとなるのはレビストロースの神話の構造の捉え方で、
その前のソシュールの言語学における構造っていう説明から入って、
その後を受けてポスト構造主義として現代思想が出てくるっていう一つの流れ、
歴史、ヒストリーを紹介されるわけなんですけど、
やっぱりその流れにとると、話のメインテーマである現代思想っていうものが、
ちょっと2歩3歩先になってしまって、関心が続かないというか、
結局何が言いたいねということになってしまうので、
まずその現代思想の一番著者が一番中心であると考える、
3人の思想家、哲学者をドンと3つまず持ってくるっていう、
その大胆な構成がすごいっていうのが一つと、
この本を読んで、最初の本を読んで驚いたんですけど、
2つ言い方してあって、
現代思想の主な主法、メインの主法は脱構築にあるっていうのと、
現代思想は差異の哲学としてくくれるっていうことを言ってあるんですね。
これはかなり大雑把というか、大胆な言い方なんですけど、
大雑把かもしれない。
別に大きく否定するわけじゃないんですけど、
その3人、最初に上がってる1章から3章、つまりデリタ、ルルーズ、風光のこの3人を、
脱構築というキーワードで綺麗にまとめてしまっているところ。
デリタは概念の脱構築、ルルーズが存在の脱構築、風光が社会の脱構築っていうふうに、
なんとかな、綺麗に分類されていると。
これはね、なかなかすごいんですよ。
なぜなら別に、デリタはもちろん自分で脱構築と言っているからいいんですけど、
ルルーズも風光も別に自身の思想を脱構築として表現しているわけではないんですよね。
うん。全くそんな言葉は一切触れていないですよね。
このまとめ方は著者のある種の解釈の提示なんですけど、
これによってものすごく綺麗にこの3人が分かる、
自分の理解の中で配置できるようになる。
この人たちは何を言っていたのかが配置できるようになるっていう、
大胆かつ繊細なこの仕事。
ここがもう僕は、すごいなっていう平たい言い方しかできないですけど、
こんな大胆に言い切っていいやっていうのはちょっと思いました。
そうですね。それで言うと、
おそらく俺と同じような哲学というものが何なのかよく分からないという人からすると、
概念の脱構築、存在の脱構築、社会の脱構築みたいな見出しのワードが並ぶと、
割ともうそこでなんなんやねんって思うんですよね。
なるほど。
そこで言うと、まず最初にちゃんと現代思想が何で役に立つのかっていうところから、
すごく分かりやすい表現で書いてくれていて、
一番最初に出てきて素晴らしいなと思ったのが、
まず現代思想を学ぶと複雑なことを単純化しないで考えられるようになる。
その前提条件が書いてあったことによって、
多くの人は読む気になれると思うんですよね。
つまりこの哲学を学ぶ意義が最初に示されていたと。
例えば比較対象として決して悪いというわけではないんですけど、
フランス現代思想史にそういうことは書いてないんですよ。
書いてないですね、もちろん。
フランス現代思想ではどういうことがあって、
そこで著者はちょっとこう思うみたいなことは書いてあるんだけれども、
入門としてのモチベーション、
自分にとって価値を与えられるかどうかというのが一番重要なところで、
この本を読んで何の役に立つの?
じゃあ難しいことを単純化しないで考えられるようになるんですよと言われれば、
それを念頭に置いて続きを全て読むことができる。
そのレベルの入門が自分にとってはすごく重要だったと思うし、
その初めにの問題提起から何からすげえ良かったんですよね。
確かに。
哲学は何の役に立つかっていう問いに、
その正面から答えない哲学者もいるわけですよね。
そもそも役立つかどうかというとこを問うのが哲学だみたいなことを言って。
それはね、哲学界では正しいと思うんだけれども、
一般界では正しくないと思うんですよね。
一般人に向けての説明としては。
そこを正面切って、しかも初めにの2ページ目というかなり冒頭で提示してくれていると。
確かにそうやな。
そういう意味で実用的な側面をきちんと抑えている、
実践的な側面を読む人にとっての実用性というのを考えられているってことかな。
そうですね。だからフランス現代思想って何なんて言われた時に、
一番自分の身近な話にできるっていう印象なのかな。
なるほど。
さらに上手かったのが、やっぱり序盤で、
最近世の中息苦しくないっていう語りかけというのが、
若者から見たらどうなのかわかんないんですけど、
割と近い世代の著者が書いていることがすごく自分の実感と一致しているんですよね。
うんうん、なるほど。
10年前まではインターネットで悪人というものが悪いことをできなくなったということは、
すごくいい時代になってきたなって考えていたんですけれども、
ここ2,3年というか、
いつっていう風に言い切れるわけじゃないんですけど、
やっぱり過剰だなと思うようになってきたんですよね。
はいはいはい。
その息苦しさというか、
Twitterでは炎上に気をつけて発言をしないといけません。
それは10年前には少なくともやっぱりなかった。
くだらないことを朝起きておはようって呟くだけのことを日課としてやっていたんだけれども、
現代だとビジネスで使う場合にはそんなことをすると、
自分のツイートのいわゆるページランクみたいなのが下がっちゃうからやらない方がいいということになって、
いうようなツイートをし続けないといけないみたいな。
はいはいはい。
なんか娯楽であったものですら気が付けば結構息苦しいものになってしまっていて、
現代思想というものが割と早い段階でそこへの注意を促していた、
警鐘を鳴らしていたということだったり、
それに対してどうアプローチすればもうちょっと生きやすくなるんだろうっていうことを考えるきっかけというか、
かなり考え方として参考になる部分は多かったなと思って。
なるほど。
そこがあるおかげで、おそらく前提知識が俺と同じぐらいすごく少ない人でも、
まず読む気になれるし、読んでわかったつもりになるんじゃないかと思います。
本当にわかったつもり、楽しく通読できるというのか。
そこはやっぱり本の中では重要なポイントでしょうね。
どれだけ立派で精緻で正しいことが書いてあっても、読み切れへんかったら意味がないわけですからね。
先ほど言われたんですけど、現代的な状況に対して、現代思想家たちが非常に有用なことを言っているという話なんですか。
現代思想って言ってますけど、現代じゃないんですよね、つまり。
用語がまず悪いんですよね、言ってみたら。
1960年代から1990年代のフランスで活躍した思想を現代思想と言うと。
現代というのはモダンということなんですね。
ポストモダンと呼ばれてて、現代思想っていう訳なんで、
ポストなんか現代なんかはっきりせえって感じなんですけど。
そこで言われてるモダンっていう言葉、ポストモダンのモダンっていう言葉が、
近代的な考え方って言うんかな。
つまり大きな国家があって、その中で個人が一つの集団として生きているっていうことが正しいっていうモダン的な考え方から、
先に行く大きな物語っていうのが崩れて、人がバラバラに生きていく社会の状況はどうなるかをイメージした思想っていうので、
ポストモダンと呼ばれたと。
現代はそれよりも後の世代なんで、ポストポストモダンなわけですよね。
実際の今の現状というのはね。
だからその意味で最初に言われてるのは、
既に20,30年前の思想をなぜ読む必要があるのかと、そこで問題的と回答が与えられている。
でもやっぱり現代的な状況をスタートさせた、あるいはその根っこにあったところが20,30年前であろうと。
実際それはそうなんでしょうね、きっと。
多分その高度成長、どこの国が何も考えずに高度成長できていたのがおそらく80年90年代ぐらいまでで、
多分90年代にはもう停滞ということは言われ始めているんですよね。
あんまりその頃は子供だったのでわかっていないんだけれども。
大国がいろいろあって、結局その辺もうまいこといかへんままみたいな感じで、
社会が目指すべき方向みたいな、こうすれば正しいみたいなのが失われつつあった。
その象徴としていろんな事件、アメリカとかでいろんな事件があったわけですけど、
それはそういう事件がきっかけで大きな物語が壊れたというよりは、もう一つ壊れていく一つの現象でしかなくて、
もっと前からそれは壊れてたと。
その壊れ方は現代までも続いていると。
だからその当時問題とされていたものはもう現代に脈々と受け継がれていると。
だからこの2、30年前の思想こそが、逆にやっぱり現代をきっちり照らしているというかね。
だから逆に現代的な思想、今の思想は、やっぱり先を行き過ぎている可能性もあるんですよね。
そうそう、それで思い出した。
大きな物語が終わった、リオ・オタールってあれいつの時代の人でしたっけ?
同じぐらいです。
ほぼ同じぐらいでしたっけ?
あれをね、哲学の本を読んで、入門書を読んでいて、あのフレーズは結構感動をして、
なんていうんだろう、哲学者ってこんなに先のことをこんなに早い段階で言っていたんだってすげえ驚いたんですよね。
あー、なるほどね。
確かおそらく60年代、70年代ごろにその大きな物語、みんながみんな一つになって、
同じようなその夢というか世界を共有していて、
娯楽はみんなが国民的ドラマ、国民的女優、国民的なんたらっていう、
みんなが同じことを見ている時代というものはもう終わって、
これからは一人一端末、スマートフォンを持ってっていうことを未来を暗示していたと思うんですけど、
一人一人がそれぞれの趣味と興味が、他の人と隣の席での人と共通の話題が被ることもなく、
そういう大きな物語が終わって、その小さな物語という時代が始まるということを、
60年代、70年代に言ってたかっていうのは、哲学に大きく興味を持ったきっかけ、大きな転換点でもあって。
これはね、確かにその点はあるでしょうね。
そういう分析ができるところが、分析というか解釈ができるところが、やっぱりこの辺の思想のすごいところだと僕は思うんですよね。
いわゆるその大陸哲学的なものの射程の広さというか、
生地分析哲学ではないからこそ、こういうことができたんではないかなと僕はちょっと思うんですが。
分析哲学というのは、いわゆる言語学みたいな、それとは何を指しているのか。
面白かった本について語るという言葉は何を意味しているのかみたいな、そういうことを考えるやつですよね。
そういうのはどんどん精緻に分析的には進んでいくんですけど、やっぱり大きな射程で人の生き方を捉えるっていうところとは、得意分野が違うんかなという気はします。
そっちはそっちで、確かに学んでみたらちょっと面白いなっていうことは感じているんですけれども、
一番実用度が高いのがおそらく、この前後、現代思想前後ぐらい、1920世紀ぐらいの哲学というのが、
自分の生活にマッチした考えやすい話っていうのが多い印象はありますね。
なるほど。ちなみに、この本で挙がっている哲学者、あるいはデリダ・ドゥルーズ風光あたりは、少し前から名前は知ってありましたかね。
少なくともフランス現代思想史というものを読んでいて、テストで一問一答で書かされるような答えなら多分書けるようになっていて、
デリダ、脱光築、ドゥルーズはよくわからなかったな、そういう意味でいうと。風光、監視社会とかパノプティコンみたいな用語ぐらいは認識はしてましたかね。
なんかその時印象みたいなのありました?なんか良さげ良さ良くなさげみたいな。
まず、ドゥルーズ語りの、今の印象ではなく当時の印象なんですけど、ドゥルーズ語りは何が言いたいのか全然意味がわからん。
デリダの脱光築というのは、なんとなく考え方はわかるんだけど、パロールエクリチュールが違うみたいなのが、
話し言葉は書き言葉よりも優れていると言われていたみたいな、だからなんなんみたいなことを思っていて。
風光の場合は、風光が考えていたことはなんとなくイメージはできたんですけれども、歴史と何が違うんだろうぐらいな考え方というか、
っていうイメージがその3人の印象ですかね。
逆に好ましいとか好ましくないみたいなのはなかったですか?
えっとね、ラカーンとかが意味わからんくってムカつくなって思ってた。
なるほどね。さっきポストモダンという言い方を採用してないと言いましたけど、やっぱり日本の思想の中でポストモダンというのは嫌われているところがありまして、
僕も最初のうちはポストモダンってなんかうさんくさいことをしている人たちだとずっと思ってたんですよ。
絶対じゃないけど多くの人はそう思うと思います。
で、どこかあったかな、あずまさんか千葉先生かどちらかスターとかはちょっとわからないんですけども、
脱構築という考え方、あるいはデリーターの著作っていうところの紹介を読んで、
実際に解説書とかを読むと、全然思ってた印象と違うなっていうひっくり返った感じが僕はありまして、
だから余計に最初にマイナスのイメージを持ってたから、余計にすごいというところはありましたね。
僕は結構デリーター好きな人ですね、この3人の中では。
これまでに出てきた名前とか喋りとかでも、そういう印象はすごく受けますね。
この3人の人がどれもすごいなと思うし、多分影響を受けてるんですけど、
このデリーターの手つきっていう概念の脱構築っていうまとめ方されてますけど、
その二項対立の扱い方っていうところが独特というとすごい弱いですけど、
独自の存在感を持ってて、僕の考え方に結構強い影響を与えてるなと今振り返って思いますね。
俺、それで言うと個人的な印象で言うと、まず大きく変わったのが、
そのドゥルーズが言っていることというのは、一番今の社会での生き方のヒントになりそうなことが多いのがドゥルーズじゃないかと思ったことと、
デリーダーはそういう意味で言うと、そのコンポーネントの仕組みを考え出したっていう印象なのかな。
フーコーは役に立つではないんですけど、一番興味深かった。
今の社会というものをこういうふうに捉えてみると、わからなかった、気がついていなかったことにすごくたくさん気が付かされたという印象があったのがフーコーで、
個人的に一番面白いなと思ったのは、そういう意味で言うとフーコーの話かな。
なるほどね。一応軽く1章から3章を見ていきましょうか。
そうですね。
例えば後から出てくるニーチェが言ってることとかっていうのも偉大な哲学者として残っているんですけど、ニーチェなんかも偉大すぎて後世に影響を与えすぎてしまっているせいで、今の俺たちからしたら何当たり前のことを言ってんじゃっていうことを結構いっぱい言っている。
現代で言っても、多分多くの人は話せばわかるという言い方をするので、書き言葉より話し言葉の方が優れているという印象を持つ人が多かったんですけど、多分この時代までが比べ物にならないぐらい書き言葉より話し言葉の方が大事だと思われていたという前提があるんですよね。
データが言ったのは、エクリーチュールの方が優れているというよりは、エクリーチュールが間違って読まれてしまう可能性というのにプラスを見出したという。これは以前言いましたけど、誤配という概念が出てくるんですけども。
思った通り自分の意図の外に出てしまうことに独自の可能性があるという、転換というほど大きいものでないですが、新しい物差しを持ってきたってことかな。
遊び心っていう感じですよね。
そんな感じですね。だからここがポイントで、脱光地区というのはAとBの対立構造があるときに、一般的にAがいいよって言われているのを、いやBがいいよってひっくり返すことじゃないんですね。
Bの方がいいと言える新しい平面を探すことなんですね。これは口で説明してどこまで伝わるかわからないんですけど、ここが脱光地区の面白いところなんですね。
だから弁償法ってあるじゃないですか。提示・人提示・提示・アンチ提示・人提示って。あれは新しい価値に向かって進む感じなんですけど、脱光地区はむしろ一個前に前提となる考え方を一個戻すというかひっくり返す?
どう言ったらいいんだろう。作り変える?先に進むというよりは自分の足元を移動させる感じかな。どっちかっていうと。
何が価値であるかっていう考え方そのものを揺り動かすのが脱光地区っていう僕なりの印象です。
やっぱ面白いなと思うのが、そういう意味で言うと、そんなことして何の役に立つのってすごい思うんですよね。きっと僕の人は。
単純に今ここで何の実例もなく言うとそうでしょうね。おそらく。
そこで面白いのが、この本で書かれているのはやっぱりそこから、ただもうちょっとあれなのかな。大雑把な言い方をすると、その方が息苦しくないでしょっていう言い方をしているというのかな。
この意見とこの意見があってどっちが正しいかとかって争ってるのってなんか不毛で苦しいよね。
だったらまず争う前段階からちょっと考えてみようよっていう実理によった説明をしてくれているという印象なんですかね。
そこがやっぱすごく入りやすかったですね。
まずそこで脱光地区、俺も同じく脱光地区という概念のイメージはなんとなくできていたんですけど、それが何になるのかというのがすごくイメージができていなかった。
話を抽象的に進めながらも所々ちゃんと具体の話、私たちの生活に近い話を添えてくれるから身につくというか頭に入ってくるっていう構造になってるわけや、この本は。
そうですね。たぶん100%抽象で語られる方が学問としては素晴らしいだろうけれども、賢い人じゃないと無理なんですよね。
そうですね、確かに。
具体例を1個挙げてもらうと、じゃあ他にもこういうパターンでなら使えるかもしれないということがちょっと想像しやすくなる。
なるほど。
というのが各それぞれ、デリダ、ドゥルーズ、風光で全部あったのかなって印象ですね。
うんうんうん、確かにそれはありますね。それ通定してますね、そういうとこは。
デリダでいうと大雑把に言うと、不毛に争っているのもやだ、息苦しいからもうちょっと緩く考えてもいいんじゃないっていうのをかっこよく言うと脱構築になるというのが自分の印象ですかね。
うん、なるほどね。
デリダの論理っていうのはそういうところで、最後ら辺に実用的というか、脱構築っていうのは何をしてるかっていうところで、僕たちが認識を安定させたい。
あの人たちは敵で、僕たちはこの辺は味方だっていう二個対立の安定構造を揺り動かして、違うことを考えられるようにする一つのテクニックだと語られていると。
この辺が現代思想、この本通しての主要な考え方ですよね。
どっちがいいかっていう話とは別の問いを立てられるようになることっていうのが多分全体を通しての一つの目指すべき地点な感じがしますね。
単純にこっちがいいんだって、複雑なことを単純な答えを出してはダメだっていうところに戻ってきますね。
あとこれを例えば脳科学的に、そういう揺り動かすことが正しいって言える何かもあるはずなんですよ、きっと。
ありそう、その辺の話は。
そこが結びつくとまた面白いかなっていうのはちょっと思いますね。
そういう意味で言うと、脳神経科学系と哲学のリンクは今面白いですね。
ちょっと出てきましたよね。確かどっかのシーンで自由エネルギー原理について軽く一行とかだったけど、増えてるところがあって。
そういうのは多分将来的には結びついていく気がしますね。
というのがデリタ、第1章。
第2章、ルーズ、存在の脱構築と。
存在の脱構築っていうのは著者が捉えた構造なんで、別にルーズが存在を脱構築しようと言ったわけではないと思います。
僕は全部読んだわけじゃないからあれですけど、これは著者の捉え方だと思うんですけど。
一番大きいのがリゾームですよね。
ルーズの考え方の中で主要なポイント、リゾーム。
根っこですね、根のことなんですけども。
これは対比というか二項対立を持ってくると、リゾームに対するツリーなんですね。
木というか樹木構造というんですかね。
木の構造、つまりある子はある親の一つの親にしか属さないみたいな状況。
リゾームはもっとネットワークに近くていろんなものがつながっているという考え方。
ツリーって二項対立の肩書によく持ってこられるんですけど。
クリストファー・アレクザンダーという人の都市論でセミラティスというのもあって。
それも単純なツリーじゃなくて、複数の親を持つ項を設定する。
一つのノードが複数に設置されているようなものがセミラティスと呼ばれている。
このようにツリーじゃないものを考えるという時のリゾームなんですけど。
このリゾームは、いわゆるハイパーリングの思想なんですね。
これまではだいたいあれですよね。
1対1で何かのものは何かとつながっていて、他とは関係ないみたいな考え方が一般的だったものが、
実は全然関係ないと思っているやつも、すげえ関係あるんじゃないのかっていうようなことを言い出した人という認識ですかね。
ドゥルーズは基本的にリゾームの考え方って、いろいろなものと見えないものとつながっているというところをよくピックアップされるんですけど、
千葉先生はつながっているところが突然切断されてしまうっていう思想もあるよというところを取り上げられて、
動きすぎてはいけないっていう著作があるんですけど、
それはドゥルーズのその面を取り上げている著作です。
これは非意味的切断という名称されていて、ちょっとわかりづらいかもしれないけど、
ネットワークっていうのは広がるところに全てが密に、全てとつながるんじゃなくて、
つながりが途切れているところ、あるいは切れてしまうところもある。
ネットワークの図を変えたらわかりますよね。
全部が全部密につながっていることはまあないですよね。
オブシリアンとかでも、端っこの方にポツンとしたやつもあれば、ハブのようにいろいろつながっているやつもあって、
ネットワークの形って均一じゃないですよね。
そのようにつながりとともに切断もあるというところが、このドゥルーズの面白いところで、
それを表すのがリゾームという言葉がある。
ハイパーリンク的な一つが複数とつながるっていう、
このネットワーク的に捉えるというのは、まさに現代デジタル的な情報の捉え方というか、
ネットワークの型のノートは全てリゾーム型を目指してますよね、基本的には。
そうですね、そういう意味で言うと、
それは俺のイメージで言うとだいぶ高尚な解釈っていう感じがしてね。
そうなんや。
そんな難しいことを考えていなくて、
俺もっとシンプルにすげえなって思ったところで言うと、
一番すげえわかりやすく、哲学が役に立つという実例が書かれていたっていう印象があって、
世の中のものは、ドゥルーズの用語で言うと、
純安定状態と呼ばれる言葉。
世の中のすべてのものというのは、ずっとそういう状態であるっていうことは全く存在していなくて、
常に必ず変わり続けるものだ。
生き物というものもずっと一緒にいることはなくて、いつかは死んで肉体がなくなるし、
全てのものは純安定状態であるっていうことを考えると、
世の中のすべての物事に始まりとか終わりなんてものはないっていう考え方ができるんですよね。
そうすることによって、仕事を始めるっていう概念をなくすことができるっていう感じの言い方をしていて、
今から本を書くぞって気合を入れて書こうとしてしまうとやれない。
でもこの純安定状態という認識をすると、仕事というものはいつから始まっていつから終わるものじゃなくて、
やっていたらいつの間にか始まっているものなんだよっていうのが、
文中にも直接こういう概念ってビジネスとかライフハックみたいなものに応用できるよねっていう、
ドゥルーズ的仕事術みたいな言い方もできるよねっていうことを言っていて、
今までで一番わかりやすい、哲学がこうやって考えたら役に立つんだっていうサンプルがこれだったんですよね。
おだしょー 最後に出てきた、仕事をするつもりなく仕事をし始めるっていう。
気がついてたら仕事してたみたいな状況。
例えばメモ書きしてたつもりが本番の原稿を書いてるっていうようなシチュエーション。
僕のイメージ、パッと思いついたのが、ワークフローリーだと思ったんですよ。
アウトライナーのいいとこっていうのはそういうとこなんですよね。
つまり、ちょこちょこと書き始めたら本文になったから本文の方に移動させようみたいなことができる。
それがプロレスのシームレス化っていうところで、
プロセス型のアウトライナーってまさにこういうことをしてるんだろうなっていう、
ツール的理解、あるいはライフハック的理解をまずしたっていうところがありますね。
そのライフハック的理解はすごくよくわかるんですけど、
その考え方の基盤に哲学から持ってこれたっていうのが興味深いんですよね。
なるほどね。
その哲学の、例えばさっき言った脱構築っていう概念にしてもなんですけど、
言葉を覚えるのは簡単なんだけれども、
それがこういうふうに持ってくると、
こういう息苦しい社会がちょっと楽になるという考え方ができる。
か、純安定状態という用語だけを覚えてもつまんないじゃないですか、単純に。
いや、俺はつまんないんだけど。
ラッシャーさんはつまんなくないかもしれない。
多くの人たちはテストで、ドゥルーズって言ったら、
リゾーム、純安定状態、なんとかかんとかって答えを覚えるので、やっぱつまんないんですよね。
なるほど。
そのつまんないものというものを、この考え方をこういうふうにしたら仕事術になるやんっていうサンプルが出てきたっていうのが、
しかもこの考え方自体は、今現在千葉さんがめっちゃ実践しているコアになってる部分ですよね。
ワークフローウィーを使っていて、なんとなくアウトラインを作っていたら本文が書けそうな気がしてしまったので、
もうそのままここで原稿を書くことにしてコピペしたら仕事が終わっていたじゃない、終わったわけじゃないな。
そこでも終わったわけじゃなくて。
仮に終わりですね。
仮に終わった。
そういう、なんていうんだろうな、哲学の概念が無意識にインストールできると、
そうやって応用できるなっていうのは、なんとなくイメージはしていたつもりなんですけど、
具体例を見せてもらえたら、すごく人に話すときにもすごくいいなっていうふうに思って。
そうやな、その辺をちゃんと具体的に言えるっていうところが、やっぱりちゃんとそこを理解してるってことの勝差なんやろうな。
概念を暗記して人に伝えることはできるけど、
具体例を混ぜて伝えようと思ったら、やっぱり一段深く理解しておく必要があるから、
それができるっていうことが、やっぱり力がある人の書いたものだっていう勝差なんでしょうね、きっと。
圧倒的に自分のものになってるんだなって感じがして。
無意識に多分出てくるんでしょうね。
ドゥルーズのこういう概念というのが、あれこれって仕事術と一緒やんっていうことが無意識に気づけるぐらいまで、
リゾームだったり順安定状態みたいな言葉が染み込んでいるというのかな。
なるほどね。
そこまでわかったら、やっぱり役に立つだと思うんですよね、もうこれは結構。
これは言っていいっつうに役に立つと言っていいと思うわ、それは。
哲学って何の役に立つんですかっていう、一事例でしかないんだけれども、
このサンプルというのは多くの人の哲学の印象が変わるんじゃないのかなと思って。
帯に人生が変わる哲学って書いてますけど、確かに生き方の一部が変わっていく感じはありますね、そうやって聞くと。
ドゥルーズはそれで言うと、やっぱり働き方に近いニュアンスがあったんですよね。
ちょうどいい繋がりなんですけど、そこでさらに言うと風光はそれで言うと、
やっぱり生き方とか社会の捉え方というものが結構変わったような気がして。
ドゥルーズは個人が目指したい生き方の方向性っていうのを提示して、
風光は僕らを取り掛けている社会ってどんなものなのかを批判的に見る眼差しを育ててくれるっていうところがあるでしょうね。
ちょうど事例としてすごく印象に残っているのが、かつてこれからの正義の話をしている時に、
国家が結婚を認めるというのって結構考え方縛られてるよねっていうのに衝撃を受けたんですよね、自分が。
結婚というものは、本来というか国に認めてもらうという同性婚、賛成、反対みたいな意見って、
そもそも結婚という概念を国に認めてもらおうと考えていること自体が、規模の小さい自由を求めている感覚だと思って、
役に立つではないんだけど、世の中の見え方が大きく変わったというのかな。
結構小さい枠に留まった考え方しか自分はできていなかったんだなって思わされて、
で、風光はそれをもっと一般化して、もっとでかいレベルの話で、
あらゆることが全部、結構小さい枠に収められていることに気づかずにそうなっていないっていうことが書かれていて、
そこがすごかったんですよね。
風光はいろいろ、権力の分析っていうのが優れていると思うんですけど、
やっぱり正政治っていうと、伝わらへんな。
難しい、あれは。
公正政治っていう言い方もするんですけど、
昔の権力っていうのは、人を殺す、処刑するとかいうところで発揮されていたけど、
今は、心地よく生きるためにこうしなさいという、ある種の強制力を持っているという。
それって結構怖いよねっていう。
著者でいうと、たぶんタバコ禁煙の話とかそうですし、
僕でいうとお酒の値段が高くなるとか、みたいな問題を含むんですけど、
正政治って良いことなんですね、ある価値観においては。
間違いなく。
だからそこで働いている権力が、権力として見えない、あるいはそこにある権力の怖さが認識されにくいっていうところがあって、
これはもうまさに現代的な問題ですね。
ポリコレの問題とかもほぼここに直結してくるかなという気はします。
LGBTQとかポリコレとか、その辺りの話が出てきたんですけど、
同性愛を認めろという言い方が、そもそも枠が小さいレベルでの意見になっていないか。
風光がいうには、古代には同性愛というものがダメだっていう概念すらそもそも存在していなかった。
多分言葉がなければそんな概念は存在しなかったというものの、まさにそういうところだと思うんですけど、
同性愛がダメだということが割と近代になって作られたのに、
同性愛を認めろという運動をするのって、
小さい枠の中での反逆にしかなっていなくて、
それって結局大きな権力に囚われているだけなんじゃないのか、
ということをすごくわかりやすく書かれていて、
全部そういう話ですよね、ここで言うと。
さっき言ったデータの脱構築は、A、Bの対立効率のC層を逆にする。
つまり、同性婚が悪いから同性婚を良いっていう風にするんじゃなくて、
そもそもその良い悪いって言ってる土俵はどうなのっていうところに戻すっていうのが脱構築だから、
確かにこの風光の手つきっていうのは社会の脱構築、
社会を捉える僕らの視点の脱構築が行われているというところでしょうね。
それで言うと、脱構築という概念がわかりやすくなるような気がする。
同性愛は正しい、同性婚を認めるべきなのか認めるべきじゃないのかという二項対立ですよね。
という前提で、認めるべきだとか認めないべきだとかって言ってるのって、
やっぱりそんなちっちゃなことを言っているか、
そもそも結婚なんてものを国に認めてもらう必要があるのかというところから考える。
それはおそらくそのいわゆる脱構築という概念に相当するわけですよね。
おそらくそう思います。
その二項対立を崩して新しい問いを立てられたらそうなっていると思います。
今時の社会問題がめっちゃ脱構築できるなっていうのがこの辺りを読んでいると思うんですよね。
特に日本のメディアは二項対立大好きっ子ですからね、基本的には。
多分どこの世界も争いを、敵を作ることは仲間を作る最強の手段じゃないですか。
はい、確かに。
なのでひたすらそういう新しい敵を見出すというか、対立を煽るっていうのはスポーツなんかでも上等手段なんだけど、
いかに対立を煽られて二項対立というものに囚われてしまうのか、
メディアというものがすごくそういうことを煽ってくるし、
デュルーズのところで出てきたのかな。
そういう正義のために活動しようとすると、
そのことをメディアが放送することによって結果実はまたメディアが儲かってしまう。
あらゆるコミュニケーションが金銭に毒されてしまうようになってしまった。
というのも何となく思っていたかもしれないけれども、
言葉にしてもらってすごく腑に落ちたというか、すごく人に喋れるようになった。
なるほど。
という意味で、ほぼこの3章だけでだいぶ満足できるぐらいいろんなことがありましたね。
この3人が一応現代思想の中核とあって、
章立てが面白いんですけど、3章の次の4章は1個戻るんですよね。
現代思想がどういう流れでできたのかという。
第5章が現代思想とある種平行に走っている精神分析という楽案の話で、
6章が現代思想の作り方というある種のノウハウになっていて、
7章がポストポスト構造主義といって現代思想の後なんで、
もう順番がすごいバラバラなんですね。
時系列でいうとバラバラなんですけど、でも非常に読みやすい。
これって自分の書評にも書いたんですけど、章立てがツリー構造になってないんですよ。
要するに時系列の。
ああ、そうか。構造はあるけれども、構造がツリー構造ではない。
構造じゃない。
むしろ話が後とか後とかに繋がっているリゾームになっているなと僕は思ったんですよ。
こういうのも思想が実践に移されている一つの例やなという感じ。
そうか。この本の構成、章立てすらも、
ドゥルーズが言っている哲学のテクニックを応用して章を立てたと考えられる。
実際、ツリーとリゾームを考えた時に、我々のリアリティに近いのはリゾームなんですよね。
ツリーっていうのは仕立てられたものというか、
切断、伐採したものっていう感じかな、どっちかっていうと。
なので、自由に書くとどうしてもそうなってしまう。
その素材の語り方に任せるとツリーにはならない。
ツリーにするためには非常に繊細な知的努力が必要であって、
ナチュラルに書くとリゾームになるっていう感じ。
それは多分、デジタル時代の執筆論にも僕はつながっていくかなという気がしている感じですね。
そもそも今までノートというものが前から後ろまで順番に書いていこうということが、
ノートの構造上ごく当たり前のことだったけれども、
ノート同士がリンクできるようになると、
いわゆるツリー構造みたいに、これが先にあってその後これが来てみたいなことをしなくてもよくなり、
一個一個のページは当然バラバラになって、
時系列を無視して関係ないページとリンクによって前後につながるようになる。
これの考え方が要するにカード法、ツイッターカスタムを含めたカード法の思想なんやけど、
ここにさらにもう一歩進めるのが、さっき言った順安定状態。
それはすげえ思うんですよね。
つまりデジタルであると内容すらも書き変わってしまう。
ページのつながりすらも静的じゃなくて動的なものになっていくっていう。
リゾート的思想とデジタルカードシステムっていうのが、
僕の中ではこうしてるなっていうのが知的生産論から見た時の現代思想って感じかな。
めっちゃ腑に落ちた感じがしますね。
ノートが特にいわゆるネットワーク型のノートで整理しようとすると安定しないんですよね。
なんとなく全部完成してなくって、
全部途中の状態ですごく気分がすっきりしないんだけれども、
それもDruzの順安定状態という言葉を聞けば、
世の中のものは全部固まってないんだって思えれば、
ノート術としても理解ができるし応用しやすいですね。
そういうことを次は言えるかなと今思っているところやね。
スクラップボックス使っててもやっぱり整理されへんから、
最初は気持ち悪いっていう気持ち悪さをデジタルが言った語配的に捉える。
つまり悪いことに思えるけど、悪いことに価値があるんだよっていうふうにひっくり返すと、
つい整理してしまう人に対しての新しいメッセージになるんじゃないかなっていうふうに、
この本を読みながら思いました。
そうですね。それはあれですね。
ちゃんと現代思想入門を倉下さんが実用として捉えることができている。
っていうことかな。
問題意識がそこにずっとあって、
それを考えながら読んでたっていうところはあるかもしれないけど。
でもあれじゃないかな。
やっぱり深く理解できているから、
自分の考え方に持ってこれるっていうのかな。
まあ確かに。
そのデリダとドゥルーズはまさに今話を聞いているとまさにノート術ですよね。
そうそうそうそう。
だから知的の知ってやっぱり動的なものなんだよね。
止まっていないはず。
止まっていないから常に脱構築っていうのも止まらないものなんだよね。
脱構築の先はまた脱構築できるしっていうふうに動いていくし。
リゾームも根が広がるのと根が切れるっていう両方の道がある。
繋がるとき切断の両方の道があって止まってないもの。
人の人生も止まらないし地位の動きも止まらないっていうふうに考えたときに、
それまでの哲学はやっぱり静止的なものをかなり扱ってた気がするんだよ。
終わったもの。あるいはスナップショットだけを論じてた気がするんだけど。
このデリダとドゥルーズの思想はやっぱり動いているものを扱うために非常に有効かなという気がしております。
ノート術の次の世代という感じはすごく受け入れますね。
全然違うんじゃないかな。
当たり前のようにデジタルツールでノートを取っている人と僕らとは書き物の硬さっていうかな。
あとで書き換えたらいいやんっていう気持ちの強弱はだいぶ違う気がしますね。
あれが持てないとデジタルノートは使えないですよね。
完成しないままに丸とかまでついていない段階で文章が終わっていてもOKっていう。
っていう風にできることによって逆にそれが違う、広げることになっていくっていう逆転の発想っていうかな。
それは理解できていると理想、複雑に繋がり合っていて突然切れたりもしているし、変わり得るし。
あと順安定に近い言葉で仮固定って言葉が多分千葉さんの言葉だから出てくるんだけど、仮固定なんですね要するに。
アトミックノートとかもすべて仮固定なんですよ。カード法のマメ論文とかすべて仮固定っていう風に。
固定しないわけにはいかないですね。記述は必要なんですよ。
頭の中で自由に発散しているだけでは進まない。
でも考えを100%固めてはいいっていうものでもないっていうその半固めの状態。
これをいかに維持していくかっていうことが多分この時代の知的生産のコアかなっていう感じですね。
そうですね。紙が前提になっているとやっぱりその順安定状態という言葉が仮に分かっていたとしても、
おそらくやっぱその梅沢忠夫さんとかもうちょっと固定していたと思うんですよね。
うん、それはそう思う。
が現代であればそこはもうもっと相当フワフワにできるっていうのは多分多くの人が想像するよりももっと過激な
書いたもの全部を書き直すことが何ら不思議な行為ではないぐらいのところにまで至るのはデジタルだからなのと
その辺の概念が当たり前になってくればやりやすくなりそうですね。
これはもっといろんな人に開かれる方法論になると思うけどなきっと。
いいな、フランスデリダ・ドゥルーズ執筆術みたいな用語が一番ニュアンスが近いような気がする。
あるいはリゾーム式執筆って言ってもいいけど、どっちでもいいよ。
それはそうですね、それもやっぱり根拠もなく書いていることよりも言っていることにすごく説得力が出るから
論理的バックボーンがあるっていうのは強いよ。で、論理的バックボーンがあるから批判できるっていうのもあるし。
でもやっぱり私はこう思ったのでこうですっていう方法論で批判しないじゃないですか。
だってその人はそのやり方で成功するわけだから。
でもある論理バックボーンがあったときにその部分これは違うんじゃないかっていう議論が初めて可能になるから
権威づけだけじゃなくてその論理の発展のためにも何かバックボーンを持っておくっていうのは結構有効かなという気がします。
あと先人がそういう用語をある程度考えて固めてくれているのでその用語にのっとるとやっぱりそういう意味で言うとやっぱり思考のフレームワークなんですよね。おそらく哲学というものは。
もちろんでもそこに参加するんやったらやっぱり自分なりの概念構築も必要になってくるから
やっぱり自分でカードを書くノートを作るということもしていかなければならないと。
逆に言うと哲学でもそういうことですもんね。
哲学も学ぶのはただ歴史なだけで自分で考えないといけないですからね。
全ての哲学者は他の哲学者とは違うことを言ってるから名前が残ってるわけだからね。
それも最後の方にさらっとありましたね。哲学者も商売なんで人との違いを生み出さないと生き残っていけなくて。
極論を言えばだから自分が考えている自分の意見というよりも自分が考えたものであれば人と違うものであればそれでいいというのか。
これはでもやっぱり遺伝子の生存戦略とも一緒じゃないですかね。
あえて自分で突然変異を起こすみたいな。
そういうことをやっぱり思想だけじゃなくて情報を生み出す人はそういう認識がいるんじゃないですかね、きっと。
思いもやらないことを歴史を経て生き残るものは敵者であれば生き残ることができ、そうじゃなかったものは生き残らなくて。
だから何が生き残るかはわからないけどやっぱり違うものを出し続けることによってその全体の中での価値が生まれてくる。
他との差異によって価値が見出せるようになってくる。
見出せるようになってくるっていう感じかな。だからやっぱりあの人の言ってることをコピーするんじゃなくて何かしのアレンジを加えていく。
あるいは違うことをあえて言ってみる。そこから何が見えてくるかを考えるっていうようなことから新しい思想が生まれてくるっていう感じかな。
あえての逆張りというよりは逆張りしたことによって見える新しい思想を探すみたいな感じ?
そうですね。そもそも現代思想という学問が割と全部そうなんですよね。
悪意を持って捉えるとすべてのことにイチャモノをつけとるなっていう言い方ができるんだけれども、そうじゃなくちょっとひねくれた言い方をすることによって
今までには気づかなかったことに気づこうとしているというのか。
こういうのは結構一つのテクニックで、例えばエクリーチュールにもし価値があるとしたらと考えてみる。
そうした時に何が言えるかっていうような思考の展開の仕方があるから、やっぱり著名人の思想をなぞることは必要だけどなぞってるだけで終わらないようにするっていう。
その手順が第6章で語られてて、これも面白かったですね。
こういう手の内が、もちろんこの通りにやってはるわけじゃないでしょうけど、あるパターンを取った時にこういうやり方がなされてるんだっていうのが開示されるのは結構興味深かったですね。
そういう意味で言うと、さっき言った哲学の概念を現実の世界でこうやって考えることができるっていうことをすることによって役にも立つし、その概念自体の理解も深まるし、おそらくそこから自分独自の考え方みたいなのが生まれてくるかもしれない。
やっぱりこうやって一般に読まれることによって、彼らの思想がミームとして残っていく、受け継がれていくっていう役割も当然あると思いますね。
そうですね。やっぱ印象、多くの人のフランス現代思想というものの印象が変わる本なのではないのかなっていうのはやっぱ。
そうでしょうね。やっぱり最初に僕が何かお勧めするのだったら、まずこの本から読んでほしいなという感じはしますね。
なんかシンプルに現代思想に、哲学の用語を全く知らなかったらやっぱ辛い部分は結構あったもんだ。
でもまあ読み通せたら、つまりその塩梅が多分良くて、難しいことが何もないっていうのは逆に面白くないわけで、ちょっとところころ詰まるぐらいが実は良いと僕は最近思う。
そうか、1年前の自分にはかなり辛かったんじゃないかと思うんですよ。今だから結構読めたけれども、そうすると1年前の自分と同じぐらいの人が読んだらどうなんだろうっていうのをちょっと思って。
逆にだから聞きたいよね、そういうの。今までこんなの全然読んだことないですって人がこの本を読んだらどう思うのかとか、どこに引っかかるのかみたいなのはちょっと知りたいかなっていう気はします。
例えばで言うと、構造主義みたいなことが何の役に立つかわからんけど一応なんとなくイメージできていたりだとか、少なくともルジャンドル以外、名前は全員知っていたんですよね。
なるほど。
っていうぐらいの前提知識はあっての話だったりするので。
いいんじゃないかな。多分読み切れへんかって、わからなくても最後まであるいは部分的に読めれば十分じゃないかな。
そうかもですね。俺ちなみに1回読んで、今回に向けてもう1回読んでいたんですけど、2回目になって全然わかってなかったなってことがめっちゃよくわかりましたよ。
そうやね。だからこの本読みやすいけど、ところどころ結構難しいことが書いてあるんですよ、これ。
だからそういう難易度で、1人前のゴリゴさんが最初から最後までわかる内容にしたら、こういう本にはなり得ないというか。
そうですね。通読は不可能ではなかっただろうなって思うので、何回も読めばいいんですよね、その結論で言うならば。
あるいはここで上がっているいくつかの本を1回読んでからまた戻ってみるとか、読み方も結局線形じゃない?本を読むって声も線形じゃなくて、行ったり来たりするもんですから、基本的には。
だからこの難易度を下げすぎる最近の宇宙は、やっぱりよろしくないんじゃないかなという気はしますけども。
まあそれはね、それも多分割と現代思想な思想ですよね。
多分ね。でも、読者を信頼して、身近な事例とかを交えることによって読者を引っ張る力がある程度あれば、内容に難しいものが含まれていても、多分読者は読んでくれるんじゃないかなっていう信頼を持つことが結構大切じゃないかな。
つまり、すごい簡単な方にしてるってことは、ある種ちょっと読者をバカにしてるっていうことでもあるわけで。
そこら辺の、もちろん出版社の意図とか、著者の考えとかがあって、難易度は決まってくるわけですけどね。
やっぱり市場の中に、つまり本壇の中に簡単な本しかないっていうのはやっぱりちょっと歪ですよね。
順番で言うと、例えばヤムチャさんの哲学入門は、やっぱり当たり前だけどもっとわかりやすいんですよね。
わかりやすい。はい、わかるわかる。
順番で言うと、その次。その次にでももうちょっと入門書、哲学書をいっぱい紹介しますみたいなのがあって。
その次ぐらい、難易度で言うならその次ぐらいなのかなっていう印象ですかね。
難易度で言ったらそうかな。ヤムチャさんの面白さって、いろんな面白さの交わり合いの面白さやから何とも言えへんけど。
あれはね、俺めっちゃ良かったですよ。
何て言うんだろう、何もわからないところから読むならもうあれしかないんじゃないかぐらいに言えると思います。
興味が持てるようにちゃんと作られている。
いい意味であれだとわかったつもりにならないんですよね。
短いもんね、それぞれが。
なんとなくイメージがつかめて、こういう人がいて、哲学ってこういうことをやるもんなんだなっていうイメージがつかめたのがあの本だったかな。
一冊目の本っていうのは難しいですね、仮に提示するとしたら。
完全哲学一冊目ではやっぱ辛いなとはやっぱり思うかな。
高校倫理終わってればいいと思うんですけどね、全部ちゃんと勉強して。
なるほどね、そういう前提はあるか。
でも俺、高校倫理なんてやれてた記憶がないからやっぱ。
そうやね、確かに。
全部を語るとさすがに時間がないんで、大体こんなもんかなという気はしますが、何かありますかね、取り上げておきたいこと。
もうちょこっと、ドゥルーズの話で面白かったなっていうのが、
ドゥルーズも人間関係についてもドゥルーズって結構役に立つ話があるんだなというのを思って書かれていたのが、
動きすぎてはいけないっていう千葉さんが書かれていた本の内容前後の話で書かれていたような内容だったんですけど、
深すぎる関わりというものは、やがて監視になって支配へとつながっていくみたいな言い方。
動きすぎてはいけない、関わりすぎてはいけない。
すべての物事というのがつながりあっているんだから、逆にすべてのものに深く関わりすぎてしまうと、
例えば仮に親族だとしても、親族の介護に人生のすべてを捧げてしまうと、
その人は自分自身の生活がリアルにも無理になるし、
介護される側も過剰な介護というものは監視されるように感じてしまう。
それは結果的に監視というのがやがて支配につながってというのはすごく想像ができて、
介護疲れによって親族を殺してしまうみたいな話とかっていうところにも、
ドゥルーズの概念を応用して人間関係というものも適度な距離感というのが大事なんだよって、
哲学から教えてくれるというのは、実用度でいうとやっぱりドゥルーズだったなって思いましたね。
人間関係を概念的にどう捉えるかっていうのは、確かになかなか実社会では出てこない考え方ですよね。
だって仲良くするのがいいことだとか、ケアし合うのがいいことだっていう、ある種の道徳的な考え方が先に来て、
もっと全体的な視点で人間と人間の関係はいかにあるべきかみたいなことはあまり考えないし教えてもらわないもんね。
さらにいうと風光の監視とかともつながっていたのが面白いんですよね。
それが深く関わりすぎることが自分にとってだけじゃなくて、相手にとっても監視になる。
よくある小離れできない親みたいなのも、そういう観点で説明できるし。
それはケアの哲学につながっていく話だね、きっと。
そうですね。ケアの哲学とかっていうのも最近、たぶんおそらく時代的にも需要が増えてきているような印象はありますけど。
あと関わりすぎないっていうところで言うと、たぶん造用論ともつながってくるんよね。
ただ与えとけばいいってやつかな。
造用が失敗する時っていうのが、つながりすぎてしまった時っていうこととしてたぶん理解できると思う。
それを哲学から事例として持ってきてくれるというのがやっぱりわかりやすいというか、哲学感が変わるっていうかな。
なるほど。
特にドゥルーズは他の本を読んでいた理解で、この人は結局何が言いたいのか何もわからんかったっていう印象だったんですけど。
こうやって哲学者を捉えると、自分の役に立つ捉え方ができるようになるんだなって思えるようになったというのか。
なるほど。
ソクラテスとかプラトンの頃はシンプルで素朴だったので、
正義とは何かとか、うん確かにそれは考えるべきだと思うとか、物事の究極の形とは何かみたいな、自分の身に沿って考えやすいんですけど、
20世紀になるとやっぱり難しすぎるんですよね。
やっぱりデカルト以降の哲学は、一回素通りしただけではまずわからない形になってるよね、きっと。
前提が2000年くらいいろんな人が考えてきた前提があって、その上でわからんことを考えようと思うので、
一個人が平凡に暮らしていると、おそらくそこまで到達しないんですよね。
確かに。
で、それがちょっと到達のヒントが得られたというのかな。
なるほどね。
という意味で、ここに書いてある内容だけじゃなくて、書かれている内容から、
例えば全然違う哲学者のわからんことなんかにも応用できるんじゃないかなという感触を受けましたね。
すごいね、そういう感触を与える本っていうのはすごいよね。
すごいですね、すごいと思う。
哲学入門という枠ではないレベルだった気がする。
これは勉強の哲学っていう本、千葉先生が書かれてるんですけど、
あの本も勉強論でありながら、ほにゃらら論っていう、
ここのほにゃら論、いろんなものを入れられる読み方ができる本ってよく評されてるんですけど、
この本もやっぱりそういう捉え方ができるっていう、
マジックのようだね、これは素晴らしい仕事ですね。
そうですね、これは良い意味で哲学という枠では収まらないような印象はあるかなという感じですかね。
やっぱり印象が変わった哲学、フランス現代思想がだいぶ現代とつながっている思想なんだなという。
一応この本読んだら、できれば興味を持って別の本、紹介されている本をお読みになるのがよろしいと。
さっきも言ったように、このまとめ方は千葉先生の解釈でのまとめ方になってるんで、
また違った切り口もあると。
ちなみにドゥルーズは本はめっちゃ難しいですね。
めっちゃ難しいです。デリタは初期の頃は読めます。
けど中期はちょっと難しいです。
風光も文章はあんまり難しくないけど、結構本格的にマナ読めへんかなという感じ。
原著を読むよりも、特に本にも書かれていたけど、やっぱりクッソ難しいというか、
あまりにも哲学界の中でも独特な書かれ方をしているものが圧倒的に多いので、