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2024-07-16 1:09:02

BC094 『熟達論』

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面白かった本について語るPoadcast、ブックカタリスト。

今回は、『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』について語りました。

この本は、「デジタルノートの熟達」というごりゅごが今ずっと考えているテーマに見事に刺さるものでした。

これは思いっきり自分に引きつけた話になるんですが、なにかを「練習して身に付ける」ことの大切さというのは、スポーツや芸術に限った話ではない、というのを改めて感じました。

最近はずっとObsidianというデジタルノートを「どうやって役立たせるか」ということばかり考えてるんですが、それも結局ある程度は練習して身に付けるしかない。

そして本で書かれていた5つの習熟の段階というのは、人になにかを教える時の手順においても参考になる本でした。

結局、大事なのは一番最初の「遊ぶ」部分。

どんな技能にしても、これができるかどうか。その部分こそが「才能」という言葉で適当に誤魔化されてしまっている、熟達の本質なんだろうな、ということを思った次第です。

以下、要約です。

* 今回の本

* 第94回のテーマ:『熟達論:人はいつまでも学び成長できる』

* タメスエ大さん著の本を取り上げる

* あいさつと前回の話題に関する余談

* 前回の余談:旅行の荷物準備の楽しさ

* Twitterでリスナーが「旅行の荷物を準備するのが楽しい」と共感

* 「過不足なく荷物が足りたことが嬉しい」

* 部屋の整理には興味がない

* パーソナリティたちの反応

* 情熱の方向性は個人差があるが、共通点も存在する

* 1000人に1人くらいは同じ趣味を持つ人がいるかもしれない

* 旅行荷物準備のコミュニティについての話

* アメリカの巨大掲示板「Reddit」にも関連するコミュニティがあるかもしれない

* 「旅行の荷物準備」に関心を持つ人はもっと多いかもしれない

* 本の紹介

* 『熟達論』は2023年7月に新潮社から出版

* タメスエ大さんの背景

* 陸上選手として400mハードルで世界選手権メダリスト

* 一般的な競技者とは異なるアプローチを取ってきた

* 引退後、競技や熟達に関する知識をまとめた本を書いた

* 本の内容とその共感部分

* 学びの方法が頭だけでなく身体でも覚えることに重点を置いている

* 自分の経験や取り組みに重なる部分が多い

* 例:アトミックシンキングやデジタルノートの使い方

* 学びの方法が学校の試験以外の生活全般に応用できる

* 熟達論の5段階

*

* 主体的に行う、面白さが伴う、不規則である

* 例:設定をいじる、いろんなボタンをクリックするなど

* 最初に基本を教えるよりもまずは「遊ぶ」ことが大事

*

* 基本の型を覚える

* 例:片足で立つ、デイリーノートに何でも書く

* シンプルで検証が多分視されず、効果が期待されすぎない

* 型を覚えた上で試行錯誤を重ねる

* 型が良いか悪いかを見極めるポイント

* シンプルではないこと

* 検証が多分視されていること

* 効果が期待されすぎていること

*

* 観察し、パターンを見出す

* 量をこなすことで行動の境目やパターンが見えてくる

* 自分にとって役立つものや不要なものが分かるようになる

* 分ける行為に必ず取りこぼしがある

* 完璧を目指さず、試行錯誤を続けることが重要

*

* 中心を知り、それを基に冒険ができる

* 基準があることで冒険ができる

* 例:手足の動きが中心に支えられる

* 個別性が重要であり、全員に同じ最良の方法は存在しない

*

* 無心になり、行為のみがある状態

* 考えずに身体が勝手に動く

* 時の流れが違うように感じる

* 思い込みの中でしか思考できないことを自覚する

* 勘を尊重する

* 行為のみがある状態は仏教的なニュアンス

* その他のポイント

* 苦しいことと成果が結びつかないこと

* 効率の良い練習が重要

* 努力が報われるとは限らない

* 言われた通りにやるだけでは止まってしまう

* 自分の個別性を考慮することが大切

* 練習時間よりも集中の濃淡とリズムが大事

* 量より質が重要

* 環境を整えることも練習の一環

* 人間の特性として環境に適応する力が強い

* イメージによる動作の導き方

* 例:ハードルを飛ぶときのイメージ

* 著者の思い

* 宮本武蔵の『五輪書』の現代版を目指したい

* 競争と学びの違い

* 競争は勝ち負けがあるが、学びは全ての人に開かれている

* 学びを娯楽化することが熟達への道

* 学びを楽しむことが最も重要

今回出てきた本はこちらで紹介しています。

📖ブックカタリストで紹介した本 - ナレッジスタック - Obsidian Publish



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サマリー

『ブックカタリスト』の第94回では、『熟達論 人はいつまでも学び成長できる』について語られています。本書では、5段階のスキルや学びの型について説明され、遊ぶ、型、観察、中心、空という5つの漢字がそれぞれの段階を表しています。型の練習と試行錯誤の重要性について考察され、遊びやシンプルさが型の良さの基本であると述べられ、デイリーノートの使用を推奨しています。デイリーノートを通じて型や言葉の意味を習得し、量を積み重ねてパターンを見出すことが重要であります。また、自分に合った記録の方法や集中の濃淡やリズムを見つけることも必要であり、一定期間の継続が肝要です。ゲームのスキルの変容と時間の費やし方、集中の濃淡とリズム、中心とその体験、知的好奇心の仕方、自分なしで進む段階の話もあります。語学学習において遊び心や楽しみが重要であること、他の人も似たようなことを言っています。

熟達論について
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第94回の本日は、『熟達論 人はいつまでも学び成長できる』についてかたります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
えっと、余談というかですね。
今回、旅行の荷物を準備するのが楽しいっていうのを、ツイッターで、私も楽しいって言ってくれた方がおりました。
なるほど。
その方曰く、好きなポイントとかもめっちゃ同じらしいです。
へー、面白いね。
株足なく、荷物が足りたことが嬉しいっていうのと、部屋に関してはあんまり興味がないっていうのも一緒っぽい。
なんかそういうのはちょっとやっぱり、ある情熱の方向性っていうのはやっぱり、なんていうかな、個々人で違うにしても共通点みたいなのはあるんやね、これ。
そうですね、だから千人に一人はいないかもしれんけど、千人に一人、二人ぐらいまでならいるかもしれないってことか。
そうやね、ということは全人口とかを相手にすると、それなりのボリュームの仲間がいるかもしれない。
そう、自分が主体的にやろうとは思わないんですけど、旅行の荷物考えるコミュニティというので、一定のそういう人は興味を持ってくれるかもしれない。
アメリカのレディって言ったかな、超巨大掲示板とかは何でもあるらしいから多分あるかもしれないね、それ。
ありそうですね。国民性というだけではない気がするので。
確かに。
はい、という感じで。もし他にも好きな方がいれば、千人に一人よりももっとだいぶ多くなるかもしれないので、ぜひ教えていただきたいなと思います。
今回はですね、以前のブックカタリストのサポーターコンテンツのアフタートークの中でちょこっと紹介した本なんですけども、
タメスエ大さんの熟達論という本。
新調者から2023年の7月、大体1ヶ月ぐらい前に出た本。
タメスエさんに関して言うと、自分は多分中学生、高校生ぐらいの頃から陸上選手としてずっと知っていて、当時自分は陸上部だったので。
タメスエさんが400mハードルというちょっと一般的にはあまり知られていない競技ではあるんですが、短距離会で初めてメダルを取ったんだったかな、世界選手権とかで。
という方で、さらに当時から変な人だみたいな印象があって、褒め言葉として。
コーチをつけずにある時期から練習をしていたりだとか、いわゆる一般的な競技者とはちょっと違う感じの人だった方で。
引退してから結構いろんなそういう勝負とか競技とか熟達とかそういうことに関して、知名度があるのでいろんな方とお話なんかもされているみたいで、そんな感じの学びをまとめた本と言えばいいのかな。
なるほど。
あとは以前紹介した体は行くっていうのと大きな意味で似ているかなと思っていて。
自分が最近学ぶということが、いわゆる頭の中で学ぶだけじゃなくて、まさに熟達という言葉と言ったらいいのかな。スキルを身につけて、かつ体で覚えるという言い方が多くに伝わる言葉だと思うんですけど。
ということに興味があって。サイエンスな本ではないんですけど、めちゃめちゃ共感できる部分がたくさんあったのと、この内容というのが、自分が今やろうとしているアトミックシンキングとかデジタルノートの使い方を覚えるとか、さらにコンピューターが上手に使えるようになるとか。
そういう分野でかなり応用ができるんじゃないか。
だから運動競技ではないけども、あるノウハウを身につける上での考え方として参考になるみたいな。
そうですね。思ったのが極論、学校のテスト以外全てに使える勉強の仕方なのではないのか。
いわゆる丸暗記型の知識の習得とは違う形の、もっとある種生活全般的な学びに使えそうということか。
例えば料理の仕方を覚えるとかって、机の上で勉強したって当たり前だけど覚えると普通の人は思わないですよね。
そうですね。
ギターが上手になろうと思ったって、それは机の上で勉強したって覚わないですよね。
例外的にテストで点を取ることは、机の上だけで結構なんとかなることは多いんだけれども、
ただそうだとしても、やはり多分、身体、五感と全身を全部使って覚えた方が、より効率よくというか上手に学べるということも、
ブックカタリストを通じて学んできたこと。
そうですね。ある種極端な見方をしたら、学校の試験に答えるというのも、ある種の問題提出に対して単語を書くという動作をしているわけじゃないですか。
結局、身体化された知識ではないしろ、テスト問題に答えるというタイプの身体化された技能を習得していると捉えれば、
多分、あらゆる分野で人間がやっていることはこれなんだろうなという気がしますね。
そうですね。そういう感じはあります。
本の内容を同時に紹介しつつ、今回は自分が今考えているオブシリアンを使って上手に考えるとか、
アトミックシンキングという名前をつけたデジタルノートの使い方というのかな、そういうのとも絡めて紹介できたらなという感じのことを思っています。
はい、お願いします。
まず、熟達論。大雑把に言うと、5段階のスキルというか学びの型というのがあると言っています。
5段階ってことは、いわゆる下から上に、低位から上位に向かっていくイメージ?
積み重ねていくというのが自分が受けたイメージかな。
なるほど、なるほど。
最初に導入で、例えばなんですけど、タメセイさんの場合陸上なので、陸上の話だとして、早く走れるようになるためにはどうすればいいんですかって言われた場合に、
同じ人が言っているんだけど、相手に対して答える答えが違うらしいんですよね。
Xという先生がいたとして、AさんがX先生に相談した場合と、BさんがX先生に相談した場合の答えが違うと。
そうですね。それが、要するに段階に合わせた指導の仕方があるというもので、
結局、例えば小学校1年生の子にいきなり400mハードルを教えるっていうのと、
大学生の人に競技で勝てるためのハードルを教えるというのは当然違うだろうぐらいのことは想像できると思うので、
そういう感じで、5段階の型に応じて、基本的には下から積み上げていくというようなイメージだと思うんですけども。
それと同時に、導入でめちゃめちゃ面白かった話があって、
努力と成果の関係
例えば、高いところから飛び降りるっていう練習と、高いところに飛び上がって登るっていう練習というものが、
例えばいわゆるジャンプ力を身につけるとかそういう系のことで、そういう練習方法とかってあったりするんですけど、
高いところに登る練習は辛い感じがするんですよね。
高いところから飛び降りる練習ってそんなに辛い感じがしないんですよ。
ただ、筋肉への負荷の度合いでいうと、多分これ明らかにっていうレベルだと思うんですけど、
高いところから飛び降りる練習の方が圧倒的に負荷が高い。
なんなら、俺たちの時代でも言われてたけど、
飛び降りる系って危ないから不要にやったらいかんぐらいの高負荷なトレーニングなんですよね。
ただ、辛い感じしないんですよ。
やりすぎてしまえるぐらい。
そして、飛び上がって登る練習って結構辛い感じがするんですよ。
します。
日本人のみに言えることではないんですけど、
スポーツと人格形成を一体にして、
運動部活をやることが教育の一環だみたいな言い方をよくするじゃないですか。
日本社会だと思うんですけど。
そうですね。学校教育の中で体育っていうのが育まれてるから、
そういう体育イコール教育の感覚のまま大人になっていく感じはありますね。
そうすると、人格形成というものを目的にして運動をしようと思うと、
辛い感じの、努力した感じの、やったつもりになる練習というのを結構人は選んでしまう。
極端なことで言うと、苦しまないとやった価値がないみたいな感じになってしまう。
そう。ただ、さっきの練習の話で言うと、
飛び上がるのは苦しい感じがするけど、筋肉への負荷という観点においては、
飛び降りることに比べて圧倒的に負荷が低いんですよね。
なるほど。
この勘違いというか、これはたぶんね、仕事とかにもまさに応用できる話だと思うんですけど、
やったつもりになった、大変な感じがした仕事をしてしまうと、
結局目的がわからなくなってしまうというか、容易に目的を見失ってしまう。
目的を見失ってしまうと、やった感だけで本人が満足して、そこで終わってしまうみたいなことが起こると。
そう。なんかめっちゃ勉強してるのに、俺全然勉強できるようにならねえとか、
めっちゃ練習してるのに全然上手くならねえとかっていう人って、
世の中にはいろんな分野でいっぱいいると思うんですけど、
まずやった感に惑わされるなっていうのは結構、特に日本社会においては重要なことのような感じがして。
まあそうだね。いわゆる日本語では頑張るという言葉があって、
頑張ったことが評価に結びつくっていうのは結構普遍的に見られますけど、
努力っていう言い方、努力の質とかっていうのはあまり問わない傾向がありますね。
そう、努力したことを評価されますからね。
うん、確かに。
努力したことを、確かにそれは美しいし、物語にはなるし、
さらに言うと競技の話で言っても、ある一定のラインを越えてくると多分精神的な部分って結構大きくって、
確かに確かに。
効率のいい練習をしているだけではなく、俺はあんな辛い練習をやり抜いたっていうことは、
一定の成果があることは自分の体感として間違いはないと思うんですよね。
うん、なるほど。
ただ、それだけを主眼にしてしまうとダメだし。
そうか、だから変な話。
能力は向上していないけど、自分はやった感だけ持っている人間って、なかなか挫折に弱そうやからね。
さらに言うと一番社会で役に立たなさそうじゃないですか。
まあ、あんまり、うん、そうです。言いづらいけど、まあそういう傾向はありますよね。
なんか会社の話でちょっと思い出したやつですけど、一番取ったらダメなのが、やる気のある能力のないやつで。
まあ、そうやね。
で、同時に大事なのが、辛い練習とかとも関連するような話なんですけど、
言われた通りやっているだけではやっぱり当たり前なんだけど、絶対どこかで伸び悩んでしまうんですよね。
で、それっていうのが、なぜかという話が面白くて、私というものの個別性を無視してしまうから、どこかで伸び悩んでしまう。
5段階の中で、最初は言われた通りにやっておくべきことっていうのはもちろんあるんだけれども、
そこの上に乗っかって、すごくよく言われる、人はみんな違うので、違いに合わせたことを最終的にはやっていかないと、
番人に通じる方法だけでは自分はある一定のラインを越えられない。
簡単に言うと、番人が持っている共通項の部分だけで留まってしまうということね、その場合は。
そうですね。だから平均よりちょっとできるで終わってしまうぐらいっていうのかな。
で、例えとして面白かったのが、ダイエットの方法って科学的にほとんど確立されていて間違いないじゃないですか。
食べた量を減らし、食べる量を減らして消費する量を増やせばいい。
なのに、みんなできないんですよね。
できないですね。
それはやっぱり、個別性を無視しているからだと。
その人にとって一番相性のいいやり方というものを考えてあげないと、ダイエットも言われた通りできる。
逆に言えば言われた通りできるなら簡単だとも言えるし。
そうですね。確かにその通りだ。
っていう感じで、大事なのは苦しいことと成果が出るということが繋がるわけではないということと、言われた通りやっているだけではどこかで止まってしまう。
それを前提にして大きく5段階の話になっているのかなと。
5段階の技能の具体例
5個ならギリギリ覚えられると思うので、まず最初に5つ紹介します。
全部漢字1文字が当てられているんですけども、一番最初にやるべきことが遊ぶっていう漢字、遊なのかな。
2つ目が型、型にはまるの型。
3つ目が観察の観。
4つ目が中心の心。
5つ目が空。
この5つの段階で技能というものは熟達していくというか、そういう段階を踏んで技能を習熟させていくと良いぞというイメージかな。
ある程度遊ぶで一定の経験積んだら、次は型々の練習とか考え方でアプローチして、
そこである程度習熟したらちょっとずつシフトアップしていくみたいな感じかな。
そうですね。まさにその通りで。
いきなり言ってて大事なことは、まず最初に遊ばないといけないんですよね。
例えばなんですけど、これもつい最初に基本を教えますみたいになりがちじゃないですか。
それはまさに言われた通りで悩むという典型的なものを作ってしまいがちなもので。
なるほど。
まず遊びということを主体にやらないといけない。
でもここで変な話だけど、遊びましょうっていう目的を設定するのは遊びじゃないよねきっと。
そうですね。だから遊びましょうを目的にしてしまうと遊べないのは同時にある。
だからその人が遊ぶという感覚を身につけていないと、なかなか逆に一番難しいのはここじゃないかなという気がします。
どうしたら遊びになるんだろう。
例えば競技だから体をちょっと動かしてみましょうみたいなことがここでは言われるのかな。
そうですね。まずタメセイさんの定義で言うと主体的に行うものであること。
そこに面白さが伴うものであること。そして不規則であること。
ルールにのっとっていないというニュアンスかな。
そうですね。だから結局遊びましょうと言われて遊んだ時点で遊びではない。
ですよね。
そこはすごく難しいというか本質的にとても難しい。
特に僕らの考えているデジタルツールの場合ってさあ遊びましょうって言われてもたぶん戸惑う人の方が多い気がして
ここどう解決するのかなというのは本筋とは違いますけどちょっと興味を持つところですね。
俺が思う遊びましょうというのは例えば設定をいじってみるのは遊びとして認めていいんですよね。
それは確かにそうですね。
自分が面白いと思って遊びとしてやってみるとかいろんなボタンをクリックしてみるとか
適当な文章を作ってみる。例えばオブシリアンみたいなやつで言うならフォルダをいっぱい作ってみるとか
じゃあ自分が普段の話でまずデイリーノートを使いましょうって言うんですけど
それはですね次の型なんですよね。
型に入る前にまず適当にいろんなことをやってみることができるかどうか。
なるほどねそういう説明をしている本はあんまりないね確かに。
そうどうしてもやっぱ。
型から型の説明から入りますね。
型の覚え方と評価
そのなので自分も型から話すしかやっぱないので人に教える場合に。
うんそうですね。
そこを主体的にというかやっぱりやれている人ほど習熟が早いんだろうなっていうのも同時に想像できるかなって。
それはそう思う確かに。
じゃあ今度教えるのでやりましょうって言った場合にそれまでに触ってきている人というのはやっぱり高い確率でできていると思うし。
だからある種その他の人が危険とかめんどくさいとか危ないとか感じるようなその心理的指揮が低いからこそ遊べるというわけであって
遊びをどう促すのかっていうのは別の課題として常にありそうですねこれは。
もう一個これはちょっとデジタルノートの話ではあんまり関係ないかもしれないんですけど重要なのが思いっきり動くこと。
なるほど。
これができていないとその型の次とかその次の段階で留まってしまう。
型を型通りに動こうとするのってその前回法から抑制した状態なんですよね言ってみれば。
その抑制が正しいと思ってしまうとその型を超えていくときに超えられない。
そういう意味でまず一番最初に思いっきり動くっていうことをやれていないとその実際に抑制していることすら気がつけなくなってしまう。
確かに。
っていうところでこれはそのデジタルノートにまんま応用できるではないんですけど料理作るもそんなに重要ではないか。
いやでもどうなんやろ例えば言うと発想の分野で言うとブレストっていうのがあるわけですけどブレストってやるときにまず実現可能性は一切無視しましょうと。
まず思いつき最大量の発想をしてそこから現実に落とし込みましょうと。
逆のパターンその現実的なものからアイディア的なものに発展させていきましょうっていうのはあんまりうまくいかないという研究結果を見たことがあって。
やっぱり先に自由にやるっていうその自由っていうのはつまりある制約を気にしないでやるっていうのは多分アイディアっていうものについてデジタルノートの使い方とか料理の作り方とかっていうことについて一回自由に考えてみるっていうのがこのアソビに位置するのかもしれないね。
そうですね料理なんかで言っても何て言うんだろう実用的な料理ではなくやっぱりもう一段階上の創作ができる料理人を目指すんだったらそのやっぱり遊びの要素がないとマジでこれに牛乳入れるのみたいなことを思いつけないとダメですからね。
そうだよな。だから料理の場合は型レベルで一応日常生活は成立するっていうところはあるから。
そうですね型さえ身につけておけばほとんど困らん。大半の人は困らん。
そこからもう一段楽しもうと思ったら次に行く必要があってというところがあってその必要としているスキルのレベルが人によって違うところはあるよね。
それもねそうですね同じく結構大事なことだと思っていて自分がこの本を読んでいてやっぱり最後はいわゆるゾーンとか無心とかっていう空に至るんですけど、
例えばなんて言うんだろうデジタルノートで自分の一つの専門分野としてなら空を目指せるようになりたいとは思うけれども、
やっぱり料理で空まで至りたいとは特に思わないし。
そうだね。
そのあたりは必ずしも最後まで別に行かなくてもいいというのは思ったかな。
確かに。
自分がそこまで至れているスキルがまだ一つもないなというのも思ったところですかね。
はいなるほど。
遊ぶことを覚えたら次にやるべきことがその型、基本となる型というものを覚えておきましょうと。
これは人間の特徴みたいなんですけど、例えば魚みたいに人間は泳ぐことは得意じゃないし、
獣みたいに強い爪とか牙もないし速く走ることもできないけれども、
割とそれなりに何でもできるっていうのが人間の特徴というか強いところ。
そうですね。
そこに道具が使えるとかもちろんそういうことはあるんですけど、
この自由なアプローチがいくらでもできるっていうところが強みでもあって弱みでもあって、
どうとでもやれるからこそ最初にその型というものを覚えておくと、
型の習得と試行錯誤
次のステップへ早く行けるっていう言い方をしたらいいのかな。
はいはいはい。
この人が書いていたので言うと、走るということに対する覚えておくべき型っていうのが片方の足で立つということ。
はい、なるほど。
それをとにかく、例えば次の段階とかに行って何か困ったりとかうまくいかないなって思ったときは、
とにかくこの基本の型に戻ってそこをもう一度やり直してみる。
見つめ直してみるというのが非常に大事なことで。
ただ同時に型では基本しか身につかないので、型さえ覚えたらできるなんてことは間違ってもなくって。
はいはいはい。
型を身につけた上で、そこから自分なりの創意工夫、試行錯誤を積み重ねていくことでやっと次の段階に行けるというのかな。
だからまず、この型っていうもののその段階の内側にすでにもうちょっと試行錯誤の目があるということ?
だから型が終わって次に行ったから試行錯誤始めますよじゃなくて、もう型の段階で試行錯誤始まっている感じ?
型を一度身につけた上で試行錯誤ですね。じゃあちょっと言い方が良くなかったかもしれない。
はいはいはい。
その型を身につけてその中でより試行錯誤するというのかな。
分かった分かった。
その次のところとも繋がるようなことになるんですけども、まずは言われた通り覚えるしかないって言ってるんですよ。
型の意味が分かるのは型が分かるようになってからで。
型が分かるようになるためには何回もその型を繰り返さないといけない。
これは同時に非常に恐ろしい要素が含まれていて、型を覚えるときはその型が良い型なのか悪い型なのか分からないんですよ。
良い型というものを定義してあげるのはとても難しいんですけども、この型は良くない型だっていうのなら言えると。
タメスエさんが言ってる良くない型、悪い型の条件というのが大きく3つあって。
一つはシンプルではないこと。
はいはいはい。
もう一つが検証がタブー視されていること。
もう一つが効果が期待されすぎていること。
うん、なるほど。
さっき言った片方の足で立つってこの上ないぐらいシンプルですよね。
そうですね。
検証がタブー視されているっていうのは十分、これをきちんと説明するのは難しいけど、片方の足で立つということに対してそれをタブー視されているとも思わないし。
そうやな。
それができるようになったからってめっちゃできるっていうような感じも言われてみると良い意味でしないんですよね。
そうですね。今聞いててその3つ挙げてもらったものって、型そのものに言及しているのって1個目だけですよね。
そうですね。
2つ目と3つ目は型に対する評価とか、その型がどう位置付けられているかということですよね。
うんうん。
だから基本的にはまずシンプルであるということが型のベース的な定義というか原理性ということなのかな。
そうですね。あとはどっちかというと宗教的な要素というか。
そういう感じやな、なんとなく。
でね、一応ね、俺が推奨しているアトミックシンキングというのはね、デイリーノートを使いましょう。
デイリーノートだけを使い、まずはとにかくデイリーノートを使いましょう。
という意味で一応ね、1位はちゃんとクリアできているかなと思っていて。
だから2と3は周りの人たちがそれをどう評価していくかということやから。
ただ、3についてはやっぱり結構言えるんじゃないかと思ってね。
あーなるほど。
なんかデイリーノートを使ったらウジディアはもう最強に便利になりますと、良い意味ではあまり思われない気がするんですよね。
まあでもそれはあれちゃおうかな、その言い方。
そうなるかな。
言い方が良ければなんかそういう装飾自体は可能やから、
ゴリウコさんとかゴリウコさんの周囲にいる人が過剰に持ち上げていないことがこの良さにつながっている。
結局過剰に期待感はあるけど多分その型そのものが新設されて柔軟性が失われていくみたいなことが多分問題なんだろうなと思いますけどね。
そうだからデイリーノートをこうこうこうこうやって使いましょうという時点でやっぱり型としては良くないなと思って。
なるほど。
何でもデイリーノートに書きましょうを超えたらもうそれはやっぱり型ではない気がする。
ちなみにこの子で想定される型は1タイミングで1個というか複数あり得るのか、1回やるときは1個の型だけを習得した方がいいのかという言及はなかった?
型を覚えておくとそのチャンク化して次の段階と組み合わせられるみたいな感じのことを言っていて、
無意識で一つの型を覚えてあげることでそこからその技術を応用してより高度な型というよりは型レベル2みたいなイメージだと思うんですけど、
というものにつなげていくことができるみたいな感じ。
なるほど。
同じくこれももう1個、結局型を身につけるって良くも悪くもだからひたすらやるしかないという要素が一定以上あるんですよ。
そういえば陸上部で自分も高校の頃って基本みたいな名前でゆっくりつま先立ちをして片足上げて下ろして上げて下ろしてでちょっとずつ進むみたいなことをやっていて、
当時は意味とかもほとんど何も考えずやってはいたんですけど、やっぱその型を毎日毎日必ず何回も繰り返す。
これはタメセイさんの観測みたいなんですけど、成功とか失敗のリアクションが大きい人ほど諦める傾向が強いらしいんですよ。
まあそうやろうなという気はする。
型や言葉の意味の習得
やったーできたーっていう人とか、くっそー全然できねーみたいな少年漫画っぽい反応っていうのかな。
そういう人ほど諦める傾向が多いみたいで。
それは理由の分析みたいなのあったんですかね。
そこまでは書いてあった感じはしなかったかな。結局型の習得がつまらんということの裏返しみたいなのはあるような気がする。
なるほど。
それに大きな期待をしてしまうのが、やっぱさっき言っていた?
うんうん。
上手くいかない理由なんじゃないかな。その人にとって悪い型になってしまっているというのかな。
うーん、そうか。なるほど。
期待しないで、続ければいつか上手くいくんだけれども、すぐ上手くいくとは限らない。そう考えて淡々と続けるしかない。
逆に言うと、今やっている意味って何だろうっていう起こりがちな疑問を一旦封鎖して、ともかくやるんだとできる人の方が上達しやすいっていうのは、そりゃそうでしょうね。
相反することなんですけど、試行錯誤をしないといけないけれども、ともかくやるんだと淡々とやらないといけない。
うーん、そうやな。この先、型の意味がわかるのは量を積み重ねてからという発言があったんですけど、これすごい文やなと思ったんですけど、
型っていうのを言葉って置き換えたら、言葉の意味がわかるのは量を積み重ねてからってなるんですけど、まさにその通りなんですよね。
僕らの言葉使い、日常の言葉使いが一つの言葉を習得できる感じっていうのは、一回その言葉を発したときじゃなくて、
いろんなシチュエーションでその言葉を試しに使ってみて、通じたか通じてなかったかを繰り返しながら、その言葉が周囲にどう受け取れられるかっていう、つまりそれを言い換えると意味なんですけど、意味を習得していくんですよね。
だから言葉を身につけるっていうことと、ある身体的な型を身につけるっていうことは、多分脳的に掃除というか、多分ほとんど同じことをしてるんだろうなというのをちょっと思いましたね。
何なら言葉というのはやっぱり人間、現代社会の人間の基本的な型なんじゃないですかね。
そうですね、確かにそう言えそう。
多くの人がコミュニケーションの基本の型というのか。
確かに。
これも一応なんですけど、やっぱりデイリーノートの話にもちゃんと応用できるなと思っていて。
やっぱり1週間デイリーノートを使ったからってすぐ上手くいくわけないんですよね。
そりゃそうだね。
ただ、1ヶ月使えばちょっとわかってくることはあると思うし。
ロギング仕事についても何か変えたか変えたかわからないけど、
大体2、3週間程度を変えて初めてログ残してた価値が自分でわかるみたいなところがあるから、
3週間とか1ヶ月とかっていうスパンを淡々と続けることは欠かせない感じはしますね。
そう、振り返って別のことを試すっていうことはやらないといけないんだけれども、期待しないで淡々と実験ができるか。
淡々と実験ができるという感じは非常に重要で。
そういうと、昨今煽りまくってるノウハウボードはどうなんだろうという気がせんではないが、まあいいです。
たぶんどんなものでも人類が求めるのは、やっぱり面倒くさいことはやりたくないが人類の本能なので。
確かに。
そうなることは当然で、あとはそこを理性である程度どうにかするしかないんですよね。
デイリーノートの効果
まあそうなんよね、結局淡々とできひんっていうのも人がストーリーを求めるっていう物語欲求があるからこそそういう淡々には耐えられへんにあるけど、
それができる人は理性で抑えてんのか、自分なりの別の物語を描いてんのかどっちかはわかりませんが、何かし対策があるんでしょうね。
うん、まあ何かしと、よくラスターさん喋って出てくるのは実験してるんですよね。
そういう感覚はあるね、確かに。
うん、何かこれは上手くいくか上手くいきそうか試してみて、しばらくしたらこれは何かあんま意味なかったなっていう感じで、
例えばそのデイリーノートにしても何を書くかって方は教えてくれないので。
そうですね。
デイリーノートに書くしか教えてくれないので、その方で自分が何を書くかはやっぱ個別性を無視できないので。
でもそこも方はいるっていう考え方もあるよね。だから一番最初はこれを書きましょうって言った方がいい可能性もあるよね。
そこはあれじゃないですかね、まず遊ぶと方を次の段階ってことになるんじゃないかな、やっぱ。
だからまずデイリーノートという方を入るけど、デイリーノートの中で何を書くかは遊びの段階に設定するみたいな感じかな。
デイリーノートの前に例えば設定いじってみるとか、フォルダいっぱい作ってみるっていう遊びが終わって、
デイリーノートに何でもまずは書くっていうのが方ではないか。
何でも書くのが方か、なるほど。
その上でちょうど勘の話に来るんですけど、勘って観察の勘ですね、見ること。
結局量をこなさないといけなくて、量をこなすことで一つ一つの行動に境目というものが見えてきて、そこからパターンが見出せるようになってくる。
これはタメステさん曰く、行き地を超えると突然起こると。
なるほど。
これもデイリーノートで全く同じことが起こるとは言えないけれども、量をこなしてたくさんデイリーノートに書くべきことを書いて、
たくさんのことからパターンが見出せて、自分の場合こういうことは役に立つ、こういうことはあんまり必要がなかったということが少しずつわかってきて、
その上でそこから次のレベルというものに至れるっていうのかな。
1個注意しないといけないのは、分けるという行為をする限り必ずどこかに取りこぼしがあるので、完璧ではないと言ったらいいのかな、言い方として。
だから自分が何かしらのパターンを見出したとしても、そのパターンが整合的であるとか他のパターンがないとかそういうことはないってことだよね。
そうですね。必ずそうなるとは限らないし、いろんな答えがあるだろうし、どこかに分けてしまうと見えなくなるものがあるということをわかっておかないといけない。
観察をして、さらに意識を向けることができるようになってしまうと、必ず良い方向か悪い方向かわからないけれども必ず何らかの変化が起こってしまう。
その辺りも分かっていないといけないことで、例えば自分が毎日、デイリーノートではないんですけど、食べたものの写真を撮ることをすごく習慣にしていて、
これが必ずそのうちいつか忘れることみたいなものも出てくるだろうし、それを意識するという時点で、
まず目の前に出てきた料理を思う存分に楽しもうという前に写真を撮ろうと思ってしまうというのは、美容によってはネガティブだと思うので、そういうことは必ず起こってしまうことだと。
観については、自分が面白いと思ったことはそこぐらいなんですけど。
記録の方法と集中の濃淡
これはどっちかというと観やから観察やから練習内容というよりは、自分が今までやってきたことをどう捉えるかみたいな話が多いんかな。
そうですね。練習をして、さらに言うと、やっぱり型をちょっとずつ自分なりの分析ができるようになるみたいなニュアンスがあるかもしれない。
さらに言うと、アトミックシンキングで言うとノートを分けるとか、結構これは近いところがあるような気がして。
書いたことを細かく分けていって、自分はこういうことがデイリーノートに書きたいことで、書いておくと便利だと思うことで、ということの流度が少しずつ上がっていくというのかな。
何でも書きましょうが、もうちょっと当人にとって具体化されていく。
はいはいはいはい。
例えば自分、ラスタさんはあれでしたよね。何時何分みたいなのあんまり…あ、違う。ラスタさんは書いているのか、デイリーノートみたいなやつに。
時間だけ書いてる。分は書いてない。
っていう人もいるし、何時何分がないと気持ち悪いという人もいるだろうし、そんなものが面倒で、むしろノイズになるから書きたくないという人もいるだろうし。
そこに何を書きたいかみたいなことっていうのもやはり人によって違うし。
俺はクラスターさんに教えてもらって文章で書くっていうのは面白いなと思って、性に合ってるし、多くの人にこれは良い方法だと思うんですけど、必ずしもそれが答えだとも思わないし。
もちろんね。
何を持って、どういう単位で記録をしていくと自分にとって最適なのか。何々を書いたレベルでいいのか。参議を書いたまで書くのか。今から5分間で5文字書いたまで書きたいのか。
それをやりたい人は流石にあんまりいないと思うけど。
でもそれこそ一遍やらないとわからない。一遍というか何回かやらないとわからないよね。
デジタルノートでありがちだけど、どうしたら自分がいいのかっていうのをやる前に考えてしまって、永遠に答えが出ないみたいなのがあるわけですけど。
実際にそのやり方で一定期間やるっていうことがどうしても必要で。
それは多分、肩がないとブレてしまうんですよね、きっと。
だからある一定のやり方でしばらく続けるっていうことは人間の意識では結構難しいから、肩に導かれることによってこのやり方が自分に合うかどうかっていう観点が初めてできるんじゃないかなというのはちょっと思います。
ちなみにそのブレてしまうが4なんですよ。
なるほど。
そこは後で話そうかなと思うんですが。
同じく肝の項目に書いてあったことなので一緒に紹介しようと思うんですけど。
例えば、普段オブジディアンって何分ぐらい使ってますかとか、音楽家の方に1日何時間ぐらいギターの練習してますかみたいな話だったりとかってありがちで聞かれがちな質問ではあると思うんですけど。
ある程度の段階になってくるとそこは重要ではないというか、時間じゃなくて集中の濃淡とリズムなのだと。
例えば、よくわかると思うんですけど、作家が本を書いている、小説を書いている。その人が1日30分しか書いていないとしても、ほとんどの作家ってそれ以外の人生経験があったからこそ書けていることですよね。
もちろんそうですよね。
仕事に関してもアイディアを出すみたいなことって、歩いている最中にアイディアが出てくることなんて当然あるわけで。
1日20時間コンピューターの前に向かっていたからいいアイディアが出てくるかと言われると、当たり前だけどそんなわけはないし。
ずっとその間集中し続けることができるのかって言われたらもちろんそんなことはないし。
陸上選手の話で出てきたんですけど、例えばある一定以上の段階まで行くと、練習より寝る方が大事らしいんですよね。
それは体を休めるということもあるでしょうけど、学習的なこともあるのかな。
最強のパフォーマンスに持っていった上で、これまでを超えた動きができないと次の段階に行けないみたいな。
レベルアップができないってことか。
そういう感じ。レベルアップをするためには経験値ではレベルが上がらなくなってくる。
ある程度休めばいいってことは、回復してない状態だと強い敵と戦えないから高い経験値がもらえないみたいな感じなのかな。
レベルキャップが回復できないんですよね。その敵を倒せないと。
なるほど。
最強によく寝て、最強にいい体調で、その上でハードルを飛んでみるとかなのかな、想像なんですけど。
そういうことをやってみて、これかっていうのが見えてくるというのが、ある一定以上の練習スキル熟達で必要になってくること?
RPGの例えでいうと、ある段階までいくとスライムを1000匹倒そうか1万匹倒そうかレベルが上がらない地点にきて、いわゆる階層ボス、フロアボスを倒さないと好きなところに行けないみたいな感じになるってことだよね。
そう、なのでレベルキャップがあるっていう表現がゲーム的な表現だと一番底になるんじゃないかなと思うんですけど。
スライムを倒して経験値は入るんだけど、レベル上限に行ってしまったので、これ以上レベルが上がらない。
なるほど。
ある意味、ゲーム的な感覚で現実を捉えてしまうと、当たり前だけど間違えるぞってことでもあるんだけど。
ゲームのスキルと時間の費やし方
そう、ゲーム的な考えと細かい敵でも1万匹倒したら1ぐらい上がるみたいな感じを覚えてしまうわけですけど、スキルの変容ということを考えるとなかなかそうはいかないと。
うん、そう。再現できる体験というものをどれだけ、より高い、濃度の高い体験ができるというのかな、ちょっと表現が。
この辺りから自分のスキルを、自分の身体値を超えている感覚の感じはするので。
だってこれはスキルを常に向上していく人向けにシフトしてるもんね、なんとなく。
そうですね、こういう人ならではの体験で非常に面白いけれども、それはわかるかと言われると、そうなんだっていう感じではある。
確かに。
でも、どのぐらい時間を費やすかではないっていうのは結構重要なことだと思ってて。
確かに。
オブシディア1日8時間使ってますとか言ったって、特にオブシディアの話に関して言えば、この人すげえなとは思わないだろうし。
でも例えば、最初の段階、遊ぶ段階とか肩の段階はある程度時間の投下は必要ってことだよね、これは。
もちろんもちろん。
時間を費やすことを正解だとしないこと。
はいはいはい。
で、集中のノート案とか、例えばオブシディア案で日常的にデイリーノートを書いているときと、振り返って改善案みたいなことを考えているときと、それをどんなリズムでやったらいいのかっていうことも重要になってくるし。
確かに。
集中の濃淡とリズム
我々は生活をしているので、その上でだったらどこまでそこに時間を費やせて、そういうことに時間を費やしていいのか?みたいなことも考えないといけないので。
確かに。
特に体を使う競技とかって、使える時間とかが限られていることとかって多いと思うので。
確かに。
まあ陸上なんかはまだいいかもしれないけど、野球だったりなんだったりっていうものを練習する場合、その時間でどれだけきちんと練習ができるかという環境を整えること。
うんうんうん、確かに。
それすらも練習だと考えると、それあれなんですよね、ちょっと前にギターの練習をしているときに思い至ったことでもあったりして。
ギターを練習するという行為は、ギターを弾いている時間のみをカウントするのは間違っているなと思って。
なるほどなるほど。
ギターが練習しやすい環境を作るために、例えば机を整理するとか。
うんうんうん。
時間だったら、その練習メニューをどうしようか考えることはなくてもできたりするので。
はい。
例えばそのサラリーマンが通勤時間に練習メニューを計画することは可能なんですよね。
そうでしょうね。
で、その寝る前の15分で最大の成果を出すみたいなことはできると思うので。
うんうんうん。
結局時間を費やすんじゃなくて、その集中の濃淡とリズムを考えるというのは、結構どんな分野でも応用できる、非常にいい話だなと思います。
なるほど。
中心と体験、知的好奇心の仕方
で、これで3段階。
はい。
あと2段階はだいぶレベルが高い話になってくるので。
はい。
共感というよりは納得みたいな感じではあったんですが。
はい。
まずその心っていう、心という書き方をしてるんですけど、
はい。
ハートの意味ではなくて、
あーそうなんや。
センターみたいなニュアンスっていうのかな。
あーまさに中心の心ってことね。
中心の心ですね。
はい。
一度中心というものを、肩と肝を経て、自分のしっかりした肩のもう一個上の基本みたいなものができるようになると、
うん。
えーと、そこからレベルの高い遊びができるって言ったらいいのか。
うーん、はいはいはいはい。
中心を知った上で、わざとずらすことができるようになるとか。
うん。
あのセンスの哲学みたいな話とかにもちょっと似てるような気がするんですけど。
確かに。
その基準というものがきちんとあると、その基準を使って、その冒険ができるようになるみたいな言い方をしている?
はい。だから中心があるからこそ偏境に旅に出られるってことだよね。
そうですね。偏境というものは中心がなかったら偏境は存在しないじゃないですかね。
そう、存在しないからね。
で、例えばスポーツなんかだと、やっぱね、不慣れなスポーツをやると、手足が疲れやすい、疲れる人が多い、末端が疲れてしまう。
はい。
で、慣れてくると、やっぱ手足じゃなくて、その中心が疲れるようになる。
うーん。
で、それもやっぱ末端が中心を補正してしまうせいで、そうやって疲れやすくもなるし、
うん。
早く動かそうと思うと、やっぱ末端を動かしていても、その速い動きってできなくって、
はいはいはい。
中心がきちんとある上で、その早く動かしてあげないと、素早い動作とか力強い動作みたいなことはできない。
うーん。この中心っていうのは多分、軸っていう言葉に置き換えても多分いいと思うんやけど、
うん。
これは、実践している当人に、当人の観点からの中心っていうことだよね、要するに。
うんうん。
だから、自分の軸を持つということね、これは要するに。
そういうイメージだと思います。
肩の場合は視点が外に向いてたけど、肝を通って心になると視点がどんどん内側に向かってきている感じがしましたね、今。
そうですね。だから肩というのは本の言い方で言うと、万人に共通なものなんだけれども、
はい。
ここでその個性になってくる。
うーん。中心のありよっていうのは人それぞれ違ってくるってことやもんね、多分。
そうですね。それは人によってやっぱり違うって。
人間の話で言うと、手の長さから足の長さから何もかもがぴったり一致する生物なんて何一つ存在しないので、
はい。
そうだとすると、全員に同じベストな走り方というものは存在し得ない。
はい。
結局、生物学的に同一個体が存在しない限りは、最終的な万能の肩というものはなくて、
基本となる肩の次はその人の最も良い方法を見つけていくしかない。
うん、なるほど。
この話のみで言うと、まんまデジタルノートの使い方一緒だよねっていう。
そうやね。そして先週の自分中心主義の研究とも多分話が繋がるところで、
結局その本人の心のありように合わせるしかないし、合わせるのが一番というところは、
知的好奇心のあり方においても多分言えることでしょうね、これ。
そうですね。だから自分がどこに興味があるかっていうものが、やっぱ多分一度肩を学んで観察をして、
より中心、その知的好奇心の中心というものが見えてくる。
うん、だから先週の話と今週の話を合わせるとやっぱりいきなりは分からないってことだよね、これ。
そうなんですよね。だから例えば学校の勉強つまらんけど多少やってみるべきなんですよね。
それはそう言えると思うね、確かに。
うん、だから子供になんで学校の勉強するのって言われたら肩を身につけるためだって言えばいいと思うっていう。
納得せんと思うけど。
そうやな、結局どう説明したってその時点では意味が分からないことが確定してるわけやから、
意味が分からないなりにやってもらうしかないってことやね。
そうで一応多分学校は学校なりに良い方だと思っているし、さらに言えばやっぱ効果がされすぎていない方だと思うし。
まあ逆に失望感の方が最近多いかもしれんけど。
でも常に検証はされ続けているものだし。
まあそうやね、多分そうであってほしいね。
シンプルという言い方で言うと、例えば国語算数理科社会ぐらいならシンプルだと思うしやっぱ。
まあそうやね、特に学習塾で教えているような解法の取り方はシンプルと言っていいね、複雑な人文的アプローチではないからね。
まあその、という意味でやっぱ勉強というのは人生における型なんだなみたいな捉え方もすることができるし。
うん、なるほど。
まあ算数なんかでもやっぱそのアホみたいに計算せんとわからんことってやっぱいっぱいあるような気がするし。
そうですね。
うん。
まあそれを踏まえた上で次の段階に行ける。
で、やっぱ感覚で言うと、感ぐらいまで行けて真ぐらいが見えてくればほとんどいろんなことで、何て言うんだろう、便利に使える応用できるというのかな。
はい、そういう気がしますね。
うん、そのぐらいのところまで行けるか行けないかぐらいが大体のところのまあまあできる段階なのではないか。
まあそうやね、だから一流の競技プロじゃなくても、いわゆるちょっとプロ、セミプロぐらいの実力がこの真の中盤から後半の人は多分それぐらいのレベルなんでしょうね、きっと。
うん。で、ちょっと前の20時間での話とかにも出てきたんですけど、20時間で感に触ることぐらいがやっぱできるようになってくるんじゃないのかなと思って。
ああ、そうか、なるほど。
型がなんとなく身についてパターンが見えてきて、その中心となるべきものがそろそろ見えてくるというのかな。
で、そこで当たりか外れかが大体わかってくる感じもあるか。
で、そこまでできて型が固まりさえすれば、ある程度やっぱ自分なりのそこから練習というか楽しめるに至れるようにやっぱりなってくる。
逆にここからは自分なしで歩くしかないってことやもんね、その型を抜け出してしまったら。
もちろんアドバイスとかいろんなことがいっぱいあるので、なんですけど、そうですね、言われた通りではダメになるのはこの次、この辺り。型を終えたところからですね。
あとはその人間の身体的な特性として、やっぱりね、これも面白かったなと思うんですけど、環境に合わせるっていうことがとても得意な動物らしくて。
例えばっていうので、これもハードルの話で出てきたんですけど、そのハードルの上にある障子を思いっきり蹴破るっていうイメージでハードルを飛ぶといいぞって言われると、
ものすごい複雑な動作をシンプルな理解で実践できるようになる。
だから実際に障子があるわけではないからイメージ、シミュレーションの中で動作が導かれるみたいなことが起こるってことね。
で、これがチャーシュー麺とかに前に出てきたやつとかも結構近いところなんじゃないかなと思うんですけど、やっぱり言語とか説明を超えてくるところはやっぱりここにあるんだろうなっていう。
だからイメージの力ってことだよね、これを要するに。
そうですね。これは言語的な表現をするけれども、伝達の仕方が言語的ではないというのか。
他にも出てきて、つるつる滑る床の上を滑らないように歩くって言われたら、ある程度の大人ならやっぱりできると思うんですよね。できるというか少なくとも想像できる。
足の力の入れ方のイメージはできるね。
でもそれって逆に言うとどうやって歩くって言われたら、やっぱりほとんどの人は説明できないと思うんですよね。
実際、極端な状況、氷の上を歩くじゃなくて、ペンを持つってことすらも多分説明できないよね、きっと。
どの指に一番力を入れてますか?
わからんよね。
わからんね。手のひらにちょっと乗っかってる感じがして、この辺に。
逆に言うと、人にそのような手の形を真似したかったら、ペンを持つように持ってくださいと言えば、一気に伝達できるという言語が喚起するイメージによって行動を伝達できる。
これは教える側として非常に大きいことなのかなとも思うし、人が例え話だと分かりやすくなるっていうのはまさにそういうことだと思うし。
例えば、デジタルノートで言っても、ウィンドウが狭いか大きいかで、短くまとめやすいのはウィンドウが小さい方やっていうのも環境に合わせることが多分効いてると言えると思うね、きっと。
そういうのもあるかもですね。自分が思ったのは、例えばトピックノートというものは、料理のレシピみたいなものをイメージするといいよっていう、料理のレシピ集を作るっていうのかな。
それは非常に分かりやすいと思う。
語学学習と遊び心
肉とか魚とか野菜とかっていう分け方もできるし、和食と中華と洋食となんとかっていう分け方もできるし、朝ごはんっぽいものとかそういう観点でも分けられるし、いくらどういう観点でも整理できて、それってフォルダで分けたらできんよねみたいな話とかっていうのは、ちょっと近いところなのかなっていう。
そんなことをトピックノートを作りましょうと言われるよりは遥かに具体的なイメージがあるね。
この辺りも自分は教える側としてまだ真の段階に至れているかっていうとちょっと自信はないんですけど、そういう意味で役に立ちそうなことは結構いっぱいあったかなっていう印象ですね。
なるほど。
最後が空、空、無心、ゾーン。
これがちょっと仏教的なニュアンスになってきますが。
これに関してはほとんどが、言ったらタメセさんが実際に本人が銅メダルを取った時にそれを体験したらしいんですよね。
ほうほうほう。
本人が言っていたもので言うと、考えていない、勝手に動いていて、時間と身体の動きが別々っていうか、やっぱり時の流れが違うように感じるとか、音が何も聞こえないような気がするとか、ただ多分聞こえてはいるみたいで。
そうですよね。
そういう特殊な状態すぎて、ちょっとやっぱりこれは体験したことにしかわからない人の語りなんだなっていう感じがしたので。
しかも多分100%言語ができない体験でしょうね、それはきっと。
簡単に説明を、その要素について簡単に説明ができるわけではないんですが、いくつか重要そうなことが書かれていて。
まず人間は思い込みの中でしか思考ができていないということを知っておけと。
そしてその思い込みの中でしか思考ができていないということにやっぱり人間は気がつけないと知っておけと。
あとは感みたいなものがバラバラに、バラバラっていうかバカにされがちなんだけれども、やっぱ感っていうのはその経験をもとにした意識に上らないレベルでの論理的な規決であろうと。
っていうのがある程度スポーツを熟達してきた人とか、他の人も似たようなことを言っているみたいで。
熟達者の視点
現代社会が論理とか言語とかを過剰に重視するというか、重きを置くみたいなものはあるんだけれども、感みたいなことがバカにしてはいけないよっていうのは、
最近いろんなところで言われてはいるんですが、やっぱこの熟達者からの観点でも同じようなことがやっぱり言えてくるんだなと。
最後はもう言っていることが分からなかったんですけれども、クートは価値観から解放されて行為のみがある状態。正しいかどうかの評価もなくなって行為のみがそこにあるという状態だったらしいです。
いや、分かるよ。だからまさにこれ仏教的な感じですよね。
やっぱり仏教になってきますね、かなり。
そういう感じ。仏教的な説明でよく聞くフレーズだよね。ただあるとかただやるとかっていうことをよく言われるけど、まさにそういう感じだね。
あと仏教の人たちね、分かるとか分かんないとかっていうのが言葉にできないから苦行をするんだみたいなことを言っているし。
あと全問答、言葉で答えが出せないものっていうのはさっき言った自分が思い込みの中で思考の外に出れないっていうことを問答で自覚させるというようなことがあるから、この辺はやっぱりちょっとそういう感じがするね、全体的に。
ちなみにちょうどまとめ的なところなので言われるあれなんですけど、読者が編集の人に言われた、違う、タメスエさんが言ってたのが、いつか宮本武蔵の五輪の書の現代版みたいなものを出したい。
はいはいはい。
で、編集の人がいつかじゃなくて今出しましょうって言われて、じゃあやるかって書いてあるのがこの本らしくて。
あーなるほどね。
その辺りもたぶんなぞらえて、その五つの型みたいな形に入れてもいるだろうし。
結構ね、割とそういう武道書っていうか、そういうようなニュアンスは結構あったけれども、スポーツではなくあらゆる分野に応用できそうな考え方とか思考みたいなのはいっぱいあったかなと。
はい。
で、終わりに最後に書かれてたことなんですけど、ずっとタメスエさんの場合競技者をやっていたので、競争っていうのは絶対に勝ち負けがあるし優劣がついてしまうんだけれども、学びという行為自体は全ての人に開かれているものだと。
はい。
で、その学びを娯楽化すること、学びそのものを娯楽化するというのが熟達への道と一番いいつながりがある話だっていう。
なるほど。
結局だからどれだけ遊べるかなんですよね。
結局スタート地点から遊びはもうね、だって。
そう、やっぱ戻ってくるんだと思います。五輪道書とかってちょっと知らんけど、五輪ってことは輪っかですよね。
なるほど。人間が閉じるわけや。
そう、そこまで行くと戻ってくるんだろうな。
うんうんうん、なるほど。
遊びを通じた成長
で、結局楽しめることが最も熟達への道なので、結局一番大事なのは遊びが上手であること?
うん、まあそうでしょうね。今までの説明を振り返ってみるとですよ。遊びっていうのは主体的で面白くて不規則なものだったわけですけど。
うん。
で、最後の空っていうのは価値観から開放された行為のみ。だからこれ遊んでるっていう状態やね、きっと。
うん。なので回るんですね。
戻ってくる。そういうことだと思うわ。
で、ちょうど自分の読書メモにも書かれてたんですけど、
ちょっと前に、はるなさんが、絵の具グラデーションが、インクでグラデーションをつけるということを気に入っていて、
つけペンっていうのがあるんですけど、最初にあらかじめ万年筆にインク入れといて、つけペンみたいに先っちょにインクだけつけて字を書くと、途中から色が変わっていくんですよ。
なるほどなるほど。
で、えっとね、それが楽しいと言って、ずっとそのインクを、色んなインクを使ったり、色んな字を書いたり、色んな絵を書いたり、色んな図形を書いたりして、
そのインクのグラデーションを作ることで、横で見てた感じ、2,3時間くらいは遊んでるんですよね。
へー。
で、やっぱ、自分はそこでね、そこを娯楽として楽しめなかった。
うんうん、なるほど。
で、1回ピーってやってみて、おーすげー、なんか綺麗なグラデーションになった。で、やっぱ終わってしまっていて。
はい。
ま、ここなんだろうなっていう、そういう得意というか、好きな人が上手くなるというのはこういうところなんだろうなっていう。
当人の衝動がどこにあるかってことだよね、それは結局。
うん、そうですね。衝動の話とちょうどやっぱ戻ってくる。
うんうん。
一周回ってみて、まだ遊びたいかどうかが、自分が好きだと思えるかどうかっていうところなのかなっていう。
ま、そうやね。で、ほんとは全てのプロジェクトにおいて遊びスラッシュ探求の心が動いてるのがたぶん一番いいとは思うけども、
でもやっぱりどっかの段階でその遊び心が無くなったら、まー無理して続けるもんではないなという感じはするね、なんとなく。
うん。
ま、俺万年筆修辞とかやってみたんですけど、あれは遊びとしてやっぱ飽きてしまったので、
うんうんうん。
なんかやっぱまあ、まあいいかっていう感じがするし、
ま、お絵かきみたいなのは今んところまだ型と遊びと両方できている?
はい。
とか、ま、そのギターの場合逆に言うとこう、上手くなろうと型にとらわれすぎていて、遊びが足りないんじゃないかとか。
そうね、遊びが足りん、練習にこだわりすぎると遊びが不足することはあるかもしれないね、もしかしたら。
そう、で、あの、やっぱ原点に帰ると俺はプロになることが目的じゃなくて、
そうね。
楽しむことが目的なのに、っていうことも思うし、ま、デジタルノートに関してはやはりその大きな意味で遊びみたいなものはまだ無くなっていないと思うんですけど、
はい。
ただ、その自分の話で言うと、やっぱね、例えば何でも新しいものを試そうみたいなことが例えば減っている。
うーん、じゃあ僕もそうだよね。
そう、とかっていうのは、ま、こういうのを読んで、今、ま、もう一周回ってきたらいけるところなのかもしれないけれども。
ま、そうだよね、あるいはもうゴリゴさんは人にどう教えるのかっていう別の道のこの段階に入ってるのかもしれないけど。
うーん、でも当人がやっぱね、遊んでいないとね、伸び悩むというか結局止まってしまうので、そこはやっぱ大事じゃないかなって思うんですよね。
確かに。
うーん、なので、あの逆に、逆にではないんだけれども、この遊びというものをどんなことに関しても忘れたらいかんなっていうのはやっぱ読み終えて改めて思うところですね。
なるほど。だから、えーっと、リメンバー遊び心ということだよね。
うーん、ま、やっぱブック語レストで紹介してきた本がいろんな意味でやっぱ繋がっているなぁとも思いますね。
その、遊び、遊びあれ何て本だったっけ。リベラルアーツの本に出てきたやつ。
ちょっとその固有名詞とかがパッと出てこなかったりはするんだけれども。
なんかでも、あの、遊び人が転職して賢者になる話は覚えてる。
あー、それそれ、それリベラルアーツの本。
うんうんうん。
うん。やっぱ、えーっと、一定以上熟達している人はやはり似たことを言うのか、自分が興味を持つのか似たことを言う人なのか。
ま、そのバイアスの可能性はあるね。
うん。ま、バイアスの可能性はあるけれども、えーっと、Nイコール1ではないと。
ま、そやね。そりゃそうやし、嫌で嫌で仕方がない人が熟達してるとはちょっと想像しにくいもんね、ちょっと。
うん。ので、そういうあらゆるツール、あらゆることに関してやっぱ遊び心は大事じゃないかなというのが、えーっと、一通り読んで感じたところですね。
なるほど。
はい。ということで、ブックカタリストは番組を支援していただけるサポーターも募集しておりますので、ポッドキャスト概要欄などご覧いただければ幸いです。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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