1. 広告を楽しむ『アドバタラヂオ』
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2023-01-16 31:38

#109【伝説的広告制作会社"日天"を経て広告業界50年】ゲスト:黒田明さん vol.01

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00:02
どうも、アドバタラヂオはじまりです。
スナゲンでございます。
富永誠です。
よろしくお願いします。
この番組は広告大好きな2人が
広告に関わる出来事や出会いを通して
聞いている皆さんに
広告に興味を持ってもらい、
そして広告を好きになってもらいたい
そんな広告人学をお届けするラジオです。
はい、来た。
というところで、本日はまた素敵なところに伺ってますね。
今日もまたね、素敵なところに来ちゃったよ。
今回はゲスト会で、
今回は素敵なお食事が目の前にありながら
お酒も出てます。
お酒もいただいております。
今回、ほろ酔いな気分ではありますが、
ゲストの方に登場していただきましょうか。
私からではご紹介させていただきます。
私が結構昔からお世話になっております
CMディレクターの黒田明さんです。
よろしくお願いします。
どうもいらっしゃいました。
本当にありがとうございます。
また日曜日という。
また日曜日にですね、
伺ってしまっているという状況ではあります。
すみません、ありがとうございます。
ありがとうございます。
毎日日曜日ですね。
黒田さん、ご紹介をしてもらってもいいですか。
すみません、すみません。
ではですね、私から説明させていただきます。
1948年の京都生まれでいらっしゃいます。
確かサッカー部。
ずいぶんそこから始めるんですね。
サッカー部で確かいらっしゃいましてですね。
そこから武蔵美の産業デザイン学部芸能空間科卒されて
そこから1971年に卒業されて
同年に日本天然色映画に企画演出部として
ディレクターとして参加されたと。
そこからはですね、もうですね、
言うのも大変なぐらいの仕事をいっぱいされていて
CM以外にもコンサートのディレクションであるとか
時には商品とかのネーミングとかをお考えになったりとかですね
日本天然色映画から独立をされて
ハイスクールというCM制作会社をお作りになって
そこから2007年ぐらいに
アマナという会社のグループ会社にMAをされて
そこからアマナインタラクティブという会社で取締役をされて
そこからまた時に流れて
ワンダラクティブとアマナだからまだ系譜があるんですけども
そこで会長さんをされてというような形を経てですね
今はアフタースクールというところの名誉校長
スクールですから
そこの会社の精神的支柱と申しましょうか
そういうところで今CM界隈のことを
社内的にとか抗議的にですね
アドバイスとかされているという形で
今黒田さんいらっしゃってます
ありがとうございます
もし黒田さん加えることだったりとか
いや違うよみたいなところもあれば
全くその通りでございます
なるほどありがとうございます
ちょっと砂堅さんもちゃんと追っていただいて
全然飛んでません
ちゃんとこういうこと大事なんで
そうです
はい
というところでちょっとまずはですね
03:00
黒田さんと砂堅さんの
なぜ砂堅さんがご存知なのかというところから
ちょっとご説明しないといけないかなと
そうですね
ではちょっと私と黒田さんが
どのような形で会ったのかというのもありますけれども
黒田さんですね2023年も入りましたけども
なんやかんや広告の世界にも50年以上いらっしゃるんですね
そうですよね
もうそこでですね
またこのお父さんが結構ですね
しゃべりがお得意でらっしゃいますので
いつもですね
ありがたいなと思いながら話を聞いて
そんな得意じゃないけどね
内気な性格なんで
僕が広告業界社の新聞記者をしているときにですね
黒田さんが当時経営されていた
ハイスクールという会社がありまして
そこにそのときは六本木に移転されたときでしたかね
あれは
そうなんだ
恵比寿からね
はい
当時恵比寿に事務所があって
そこから六本木に移転されたというときに
私は記者としてですね
そのとこに伺って
お話をさせていただいて記事にさせていただいたというのが
僕一番最初の出会いです
そうなんです
なので僕が広告業界に入ったのが2002年なんですよ
はい
自分が入ったのが
入ったので
もちろん恵比寿のときにも行っているので
僕が入ったときからお話しさせていただいて
20年ぐらいですね
そこから20年のお二人お付き合いと
最初インタビューされたというところで
インタビューとか
はい
クラウさん砂犬さんの印象というか
仲良く結果今なっているわけじゃないですか
実はね
こういうことを話していいかどうか分からないけど
砂犬の社長が亡くなったんだよね
はい 亡くなりましたね
その篠深井のときに東大でやったんだよね
東大でやりました
どこかの高等科なんか
そこで砂犬君が挨拶をしたときに
立派だったなと思って
スピーチが
そうですか
てっきり僕は後を継いで
会社をつくのかなと思ったけど
そのときに僕は継ぎませんと
そのときにスピーチをして
そうなんだみたいな
僕はそのとき全く覚えてないんですよ
そうなの
全く原稿も全く用意
いや原稿用意しようと思ったんです僕
でもどうせ泣いちゃうし
たぶんしっちゃかめっちゃかになっちゃうし
当時篠深井をやったときに
新役もスピーチね
はい
この前来てくださった中島新也さんも来てくださったりとか
いろんな
そうですよね
06:00
なだたる方がいらっしゃったので
当然僕はその場の思いつきで
お話しさせていただくのもあるんですけど
そんな感じで僕は
おだぎりさんとかね
みんなね
現地の方も結構多く来てましたね
そうなんです
そうなんです
インタビューを経て
スピーチが印象的だったなというところが
結構頻度お会いしてますよね
特に待ち合わせはしていないんだけれど
どっかの飲み屋でバッタリ会ったりとか
当時僕銀座とかでちょいちょい飲んでることがあって
その時に黒さんに連絡すると
今俺も銀座いるよって言って
そうすると若いから
ご馳走してもらえると思って
それ覚えてますか黒田さん
ご馳走してもらえる雰囲気があるって
僕がいつも行ってるお店があったんですけど
そうじゃないところに連れてってもらえるみたいな
そういうのがあると黒さんが行ってたお店に
銀座のお店に連れてってもらったりして
やったみたいな
そうすると黒ちゃんのところの若い子のお姉ちゃん
じゃあ今度来てもいいわよ
安くするからみたいな
やったみたいな
顔が広まるというか
そういう感じで
たまに飲み過ぎちゃって
もう全然家に帰れませんっていう時は
当時お住まいになってた家に
お邪魔して
お邪魔して寝てる
そうすると朝になってくるとコーヒーが出てきて
怖いとってましたね黒さん
ずいぶん
それでも何度となくお世話になりました
もう少し深掘りしますけど
愛嬌があったっていうところなんですか
なんか憎めないねキャラがね
やっぱりずいぶん得してんなみたいな
俺もこういうキャラだったら
もっと成功してたかもしれないな
なかなか可愛がってくれてた時間が
もう20年
そうですね
ちょっともうそろそろ黒田さんのお話に
移っていきたいなと思うんですけど
CMディレクターになろうと思ったきっかけ
こういう話はなかなか黒田さんに聞けないのよ
飲みの席とかも
そこら辺は僕もすごい興味がある
僕は武蔵美の芸能デザインって
昔は言ってたんだけど
今は空間デザインっていう
名前になってるんですけど
ディスプレイとかグラフィックじゃなくて
立体の方
舞台装置とか
映画美術とか
ディスプレイとか
いろんなことができて
中にはアニメーションとかもあって
いろんなことができるから
面白いなっていうカードを選んだわけよね
09:02
ポスターだけだと
ちょっとつまんないかなみたいなことがあって
いろんなことができるということで
そのデザイン化を選んだんです
それでやってる間に
いろんなことに興味を持って
もちろんグラフィックもそうだけど
ちょうどテレビコマーシャルが
盛んにというか
伸び始めた頃だったのね
相当昔の話ですよ
まだモノクロだったり
カラーがちょっと出てきたなというところで
前のオリンピックかな
東京オリンピックの頃が
僕が高校生だったんだけど
その頃からテレビが
やたら盛んになってきて
カラー化になってきて
だからコマーシャルもどんどん
面白くなってきた時代だったのね
それで僕はどうしようかなと思って
何の方向にしようかなと思って
就職する時に
一応伝通は受けてみようかなと思って
伝通に行ったわけ
黒田お前コネクションある?って聞くから
ありませんから
無理かもなみたいな
それ学校の先生に?
伝通の人に?
伝通ってコネクションないといけないんだよ
当時はですね
それでそうかなって
グラフィックが得意じゃなかったんで
専門じゃないからね
テストはグラフィックデザイナーだったんで
コピーライターのテストって
その当時なかったんですよ
企画とかそういうことじゃなくて
何しろ平面の試験だったんだ
周り見たら日系のやつがばっかりで
写真のような絵を描いてるわけ
でもなんかそれつまんなくない?って
俺思って
俺はイラスト描いて
背景を真っ白にしたわけよ
そしたら訪ねて行った先輩が
そこに来て
試験中に
黒田
背景を描け背景を
だって先輩がない方が
すっきりしてかっこいいじゃないですか
ダメだ
背景を描かないと受からないから
であの字を落っこちまして
背景があったかないか
いやそういうことじゃないんだけどね
ないけど
それで日本天然食に入って
また伝通にたまたま行った時に
先輩と会ったんですよ
試験館の
はいはいはい
黒田どうした?
日展に入りましたって言ったら
その方がいいよ
先輩も経験してて
でもその日展のやつは
それはなんか求人が学校に来てた?
うん
なぜに選ばれたのかっていう
だっていっぱいやったじゃないですか
美術手帳で
12:02
美術手帳って今
美術手帳っていう
美術専門の雑誌があるの
はいはい
そこに
そこにいろんな求人が出てるわけ
はいはいはい
ソニーあったりとか
ソニーかっこいいねと思って
御坂田に受けに行ったのよ
で何のお仕事かなと思ったら
取扱説明書のイラストって書いてあったから
えー地味だ
俺には向かう
地味ではありますよね
僕の作品集見たら
試験館が
黒田くんはね
広告の方がいいんじゃないかな
きっとね
つまんなくなるよって
取扱説の絵ばっかり書いてると
なるほどね
なるほどねって言ってから
午後の学科の試験受けないで帰ってきたの
お弁当だけもらってね
それでいい思い出かなみたいな
そこの美術手帳で
ソニーは今の話になって
日展があって
日展には
制作部募集とか
そういう
企画部募集
企画部募集
ディレクター募集とかじゃなくて企画部募集
企画部募集
日展はディレクターのことを企画部って言って
はいはいはい
いわゆる花から企画しろという部署だから
なるほど
当時は日展っていうのは
100%に近い
99%直だったんです
はいいいですか皆さんいきますよ
ここで言います直
直とは何か
つまりですね
広告会社
つまり広告代理店さんとかが
普通はクライアントさんが
広告会社に
こういう企画考えてちょっていうのを
広告会社に挟んでから
制作会社に来る
だけどその広告会社がない
クライアントさんが直接
CM制作会社に発注をすると
それを直と言います
クライアント直
クライアント直ですね
クラ直ですね
ですから僕が入った時は
代理店さんっていうのは知らなかったの
みんなクライアントさんと
直接プレゼンして
企画を作るわけだから
日展ってそういう会社だったんですよね
なるほど
でもそれで当時
黒尾さんが企画部で通った時の
同期って何人いたんですか
企画演出部という企画部においては
一人だけ
4人
それ全部含めて
じゃ企画部で4人
企画部4人
1200人受けた
すごい倍率ですね
すごい倍率だよ
一時が一回やったんだけど
誰も取らなかったらしいのよ
僕日展に電話したの
何に入りましたかって言ったら
誰もいなかったから取らなかった
って言われて
取るんだったらもう一回試験あるんですか
やるよって言うから
じゃあ僕受けますわとか言って
それで日展に受けに行ったの
じゃあその時電話しなかったら
15:00
入ってないね
そうだね
すごい
濃いですね
やっぱりさっきおっしゃったように
当時テレビCMが盛り上がってきているから
受ける人も多かったとか
そうね
日本で一番だったのよ
その会社が
だから希望的にも作品的にも
僕はサビの頃にラーメン屋でテレビ見てたら
すごいかっこいいマーク2のコマーシャル見たわけ
ちゃんと調べたら
それが杉山敏さんの作品だったわけ
なるほど
どこで作ってるのかなって言ったら
日本天然色映画っていう古めかしい名前の会社で
全部漢字みたいな
そうそうそう
総天然色映画じゃないんだからみたいなね
日本天然色映画
それで調べて
でさっきの電話をして
それで受けに行った
もうそれで全く
企画っていうことを
企画部に入って
映像で撮るとかっていう経験全くないわけですよね
いやあの三味の頃から
8ミリ映画で
8ミリカメラで
友達を映して
ゴダール風とか
当時流行ってた
そういうのを作っては遊んでたのよ
編集したり
でもそこのプロの仕事というか
そういうとこではもちろん初めてですよ
もちろん初めて
それはやっぱり修行の時代はいかがでしたか
結構好きだったからねもともと
だけどカメラマンはいるわ
撮影部があって
美術もいて
あらゆる部署が全部デパートのように
コマーシャルを作る
デパートみたいになってるわけよ
ここはちょっとね次の日展っていう
いわゆる伝説と言われている
日展という会社があるんですけど
すごいのよ本当に
それで車両部もあったし
クライアントがトヨタも日産もやってたから
一緒にロケに行くときに
その会社の車じゃないとまずいわけ
だからロケバスも
トヨタ日産のロケバス
ワゴン車も機材車も
全部トヨタ日産って分かれてて
それでロケはもう
トヨタのロケはトヨタ
日産は日産っていう
まあそういうね
それはもう完全にお客さんへの
パフォーマンスというか
日産仕事でこんなにゲーム
だからアサイビールの仕事の時は
アサイしか飲んじゃいけないよとか
そういうあれなんで
その文化って結構前からやっぱあるんですね
気遣うよね
プロデューサーなんかみんな気遣うよね
そうだから今のお話ですけど
車両部もあって美術部もあって
18:02
照明部もあって
そうそうだから
桑田圭介と道重祥太のロケ行った時に
桑田がコーラって言うから
コーラコーラ
ダメだよお前
道重祥太?
結構ね
そうですよね
ダメダメってなりますよね
だって旅館中から
ビールを全部なくさなきゃいけないんだから
結構大変よ
そうですね
その辺は今も気遣うよね
まあもちろんそうですね
変わらず
そう変わらず
でも会社の中で車両部も持って
美術部も持ってっていうのは今はもう
ないね
ない
だから僕の知ってないですけど
新宿御苑の前にあったんですよね
ビルが
そうそう柳通りね
花園町かな
そこにあって
今新車のあれになってるけどね
そこのところにあったというのがあって
それはじゃあさっき部署も話ありましたけど
メンバー構成的には黒田さんいらっしゃってくる企画と
プロデューサーとかもいらっしゃる
制作部
制作部ってなるんですね
プロデューサーといわゆるPM
はい
制作振興
僕も企画部で入ったけど
1ヶ月間は制作やらされました
まあ
みんなそうだね
そうだねみんなそうだね
現場を経験しろと
それって黒田さん的に企画部で入ったけど
制作部で1ヶ月研修しないですか
やっぱ俺企画だなと思った
制作向かないなと思った
いや向かないよりは仕事の流れよ
そうですね
モデルの断るのに
モデルクラブに電話するのも俺がやったんだからね
モデルクラブ
すいません今回ちょっと狙いと違ったんで
またよろしくお願いしますっていうね
そういうのを勉強しました
なるほど
そういう風に断るんだね
そうそう
先輩たちからのこうね
そうそうそう
そういうのは勉強になったね
なるほど
確かに1から10知るのは確かに現場制作をやるのは
そうですね
学びの場としては大事です
そうだよね
でそこで1971年に日展にお入りになって
黒田さんがだからハイスクールを作る
1986年
だから15年間日展にいました
最後は副社長最後
最初で最後の副社長と言われてました
最初で最後の
今まで社長しかいなかったのよ日展はね
はいはい
岩町之介っていう
岩町之介伝説のね
その岩町之介がこの仕事を始めたっていうきっかけもすごいのよ
何なのそれ
戦後ね
戦後
戦後GHQとか経由で岩町之介さんは
21:05
大林組とかそういうところに
ガソリンを分けてあげる担当だったわけよ
だからみんな仕事するためにそういうのは必要じゃない
その時にお前んとこ何ガロンね
お前んとこ何ガロンねっていうようなことをやってて
岩町之介さんが戦後これから何が儲かるかなって
アメリカの人に聞いたんだって
広告に決まってるだろうって言って
発展させるには広告業だということで
じゃあ広告やろうって言って
岩町之介さんが杉山都市を
引っこ抜いて
いやいや日芸の学生だよ
そっから引っこ抜いて
作れって言って作らせたのが始まり
元々は映画のシネアドって言うんですか
昔はテレビが普及してないから
駅前にある街灯でエレキドーザー見てるような時代だったから
映画館の中の映画の合間にフィルムをやってたわけ
だからそれで日本天然色映画ってなったのよ
僕もずっと気になってました
なんでだろうって
昔はモノクロだったんだからテレビは
でも映画はカラーになれるから
そこで日本天然色映画っていう名前になって
カラーのコマーシャルを作り始めてたの
なるほど
そういう流れなんですね
そこの15年の間岩町さんが社長で
もう15年の間に黒田さんがCMとかガンガンやって
最後にはもうちょっとしたら社長ねみたいな感じのフェーズになったんでしょ
そうそう
日天って業界一番給料安かったの
それでみんながボロボロの生活してたわけよ
それで僕は若い子たちがかわいそうなんで
社長になったらみんなの給料あげてあげるよと言ってたのよ
社長に早く社長にしてくれと俺をって言ってたら
副社長にはしてくれたんだけど
もうすぐだなと思ったわけよ
順番的には
ある日約束の日が来たんで
良い社長ですかって言ったら
もう3年待ってっていう
頭が来てそれでハイスクールを作った
そうなんですね
話が違うと
話が違うと
24:00
それでハイスクールを業界一番給料の高い会社にしたの
そうですか
そうしたらあんまり持たなかったけど
ここ笑うとこじゃないんで
今となってはそういう話になってます
すごいですねそこからの流れが
そうなんですよ
僕とかはそういう広告マニアですから
やっぱり日展で言ったら伝説的な人
さっきもおっしゃってた杉山敏さんという伝説的な方もいらっしゃったりして
今僕もいろんなところに飲みに行ったりすると
やっぱり日展にいた方々
当時プロデューサーをされていた方とか
そういう方たちが今もいろんな仕事されてますけど
だけど一番本当に現場にいたのは黒さんだから
ちゃんと鮮明に覚えてらっしゃる
ちゃんと僕たちにそれを伝えてくれるので
話聞くとおもろみたいな
日展に行った時に関谷くんかな
当時の伝説映画社の
たまたま日展でフリーで仕事をすることがあって
関谷くんが日展に行った時に僕のところに来て
黒ちゃんこんな良い会社やめられないだろうって言うわけよね
なんでって聞いたら
映画社とカラーが全然違うから
みんなが一本の作品を作るために
すごいクリエイティビティを発揮してると言うのよ
だから昔オールスタッフミーティングっていうのは
僕ら本読みと呼んでたんだよね
これから本読み始めますという時に
関谷くんがその本読みに立ち会ったら
もう車両部から美術部から全部一緒に
一つのコンテを見て打ち合わせするわけよ
その時に関谷くんがもう車両部から
これだったらあの道路の
あの何々県のあの道路がいいよとかね
車両部からヒントが出るわけ
へーすごい
だからすごいの
今まで言うコーディネーター業までもやるみたいな感じですよね
だからそういう
だからみんなが一本の作品に
みんなで知恵を出し合って
いいものを作ろうというカラーがあったんで
関谷くんはもうびっくりしたなっていう
今ないですねそんなに
今そんなにこうみんなが集合してっていう形には
取らないですね
取らないもんね
だからさっき言ったみたいに
コマーシャル作りのデパートみたいなところだよね
っていう感じはしたね
27:00
じゃあその時だからマックスですけど
全部何人ぐらい社員いらっしゃったんですか全部含めて
最高の時で200人かな
まあそんなに多くはない
そうですね
だけどもう日本のね
思ったコマーシャルをほとんど作ってたみたいな感じはあるよね
そうですね
そうなのよ
そういうところで
そっからハイスクール
そうそっからハイスクールをこう作りになって
いうところもあるんですけれども
まあ一番給料高いね
そういう話ですよね
そういう思いがあってハイスクールを
独立っていう形になるんですかねそうすると
まあそうですね
いやそれとまあみんなの給料を上げたいっていうね
それもあったし
もちろん私自身の給料も
自分自身も
いやその代わりその時に天天岩長之介さんが
奥さんと二人で神奈川県の長者バンズ家の1位2位なんだから
そのぐらい税金をお払いになっていたのに
我々にはどういうことだと
僕なんか真冬でも地位じゃんですからね
コートが買えないみたいな
おかしいぞおかしいと
そこハイスクール作られて
そうするとメンバー的には黒さんが選ばれる
当時最終的に僕と一緒にやっていたPMの子たちを
連れて行ってみんなプロデューサーにして
でやったっていうことで始めたんだよね
その時っておいくつですか?
36歳7歳かな
同じ年齢で来た
そうなんです
なるほど
36歳7歳の時ですよ
いやというのは杉山敏さんが
自らお亡くなりになった時が37歳なんですよ
36歳か37歳なんだよ
その頃からすごくその年齢が気になってて
なんか日天にね
36歳7歳過ぎてもいるのは
ちょっと考えられないかなみたいな
僕なりに決めてただけで
37歳になったらもう独立して
日天から世界を変えないとなみたいな
感じがあったからその年にしたのかな
なるほど
杉山さんの年齢もちょっとあるんですね
ありますよ
だって杉山さんが36歳7歳で
30:00
あそこまでたどり着いたっていうのが
やっぱりすごいじゃないですか
だから僕も必死でその年までに
なんとか極めたいなと思ってたんで
これ以上日天にいることはないかなみたいな
感じがしたんで
ぜひ杉山敏さんについて検索していただけば
wikipediaがありますからね
ぜひご覧になってくださいね
黒澤さんゲスト回初回から
だいぶ話してますけどね
濃厚な内容になっておりますが
次のお題にいくとともに
今回一回示させていただこうかなと思いますので
引き続きよろしくお願いします
ありがとうございました
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31:38

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