晴れの一環として足元にトレランシューズ、
トレランシューズっていうよりもこういうシューズ。
トレランシューズってか、ソールが硬いぐらいのイメージですか?
トレ級シューズと違うし、
スニーカーとも違うみたいな。
カラーがそういうちょっとアウトドア、そういったものがあって、
そういう当時のファッションのアイコンなりの人たちが、
パタコニアの当時の古着であれば30万も40万もするような、
昔出た時はそんな感じじゃないですよ。
ただね、ブームになっちゃって、着てって揃えるっていうのが流行りで、
その時にはそういった入ってはいたんですけど、
じゃあこれを使って入ってトレランシューズするって人は買えるんですよね。
そこがですよ、ファッションリーダーっていうか、
ああいうスタイルありなんだ、かっこいいじゃんっていうのをやられてたわけじゃないですか。
僕の中ではパタコニアとの出会いもそうだったんですけど、
僕もやっぱりその頃まだトレランシュしてなかったし、
誰にも出会ってないし、やっぱりパタコニアってもの、
ああかっこいいな、色とか形もかっこいいなと思って買って使ってた中で、
全然トレラニー出会うまではそういう感じだったんですけど、
出会って、要はトレラニーを出会ってて、やまんしるこの出会ってからは、
パタコニアをこれもうボロボロにして使うのがかっこいいんじゃんっていうのは、
僕の中でやっぱり高いんですよね。
本当にキャプリンとか、今でこそストライダープロみたいなランニングショーツがありますけど、
その時はランニングショーツまだなかったんですよね。
だからバギーズショーツとかで走ったりして、
後々アメリカに行ったりすると、アメリカではランニングショーツがあったりはしたんですけど、
今は入ってきてない。
やっぱりバギーズショーツで走るのもかっこいいですよ。
当時やっぱりモジックスとかね。
当時ランニングって言ったら割とピチッとタイトな駅での人が走るような感じですよね。
ある意味水着で走ってるようなもんですからね。
ルーズな格好でね。色も奇抜なっていうか、アスカラみたいなもんで。
だからちょっといろんな順番飛んじゃいますけど、
僕最初に出たレースで、初めてレース出る前に、
僕2年間くらいもレースとか関係なしで走り回ってたから、
走り回ってた結果に結びついていきなり出たレースで2位になるんですよ。
そこが。
でも才能はあるんですよね。
そういう人いるんですよ。話聞いてたら。
まだまだ置いといて。
2位で帰ってきた時に、僕がふざけた格好で走ってるわけですよ。
みんながピタピタのハチ巻きとかして走ってるので、
本当にでかいパンツで帽子こんなになって被って入ってきて、
こいつ本当にレース走ってたのか。
横から入ってきたんじゃないでしょうって言われつつ。
でもその時は割と同世代の人たちと走ってたんですか?レースも。
もう同い年っていうかいないですよね。
20代前半。
上の方たちばかり。
破節年の前にまた違うレースに出て、
その出たのが21とかぐらいの時ですかね。
その当時そういう年齢で走ってる人たちっていなかったですよね。
ある意味、かぶいた格好ですよね。
でもそれが僕の中ではすごい自分のスタイルっていうか、
自分はこういう感じで走ってるんで。
だからそのスポーツブランドがかっこいいってわけではないですけど、
やっぱりその当時からアウトドアスポーツっていうところに憧れて。
もともとドライブ始めたきっかけみたいなところで。
アドベンチャーレースっていうものに最初出会って興味を持ち出したので。
アドベンチャーレースの中の種目って全てがアウトドアスポーツじゃないですか。
だからそういったスポーツに憧れがあったから、
やっぱりそのスタイルでトレーラーニングっていうものをやっていこうみたいなところがあったから。
自分の中でもその当時からこういうスタイルを自分で広めていったらいいんじゃないかっていうので。
それはもちろん周りにいなかったと思うんですけど、すぐについづいする方たち出ましたか?
まずいないですよ。
なんだこいつっていう感じだったと思う。
まだ真似しないんですね、皆さんは。
でもそういうふうに2位になったとか結果を残し始めたら、
それはそのスタイルっていうのは割とみんな憧れていくんじゃないんでしょうか?
僕も別に戦略的にとか意図はあったわけじゃないんですけど、
やっぱり自分の中でも、先ほどご紹介の中でプロっていう言葉、
プロランナーとして日本で初めてっていう紹介をいただきましたけど、
プロになろうと思ってね、プロで食っていくんだみたいな、
今の若い子たちはやっぱりいろんな目標があってそういう子たちもいるかもしれないですけど、
僕はもうそんなプロになっても一生食っていこうなっていう考え方は全然なくて、
自分でやらなきゃいけないこととかやりたいことをやっていこうっていうのを一つ一つやっていく中で、
まずはアスリートっていうかも走る分野でどれだけ自分が強くなれるかっていうところと、
あとは最初に見たトルランの世界がやっぱりアート・ダ・スポーツの楽しい世界っていうか、
ストイックじゃない、その当時のヤバい、別に否定するわけじゃないし、
それが今までの歴史を作ってきたんですけど、
山岳マラソン、登山競争っていう世界の根性、根性はちまきをして、
鼻水をたどるたどりしながらもうぜいぜいハーハー言って、
お前弱いな、誰が強いかそこの勝ち負けじゃない一つのアート・スポーツのカルチャーというか、
レジャースポーツとして広められたらいいんだ、
三角形の、昔は先の尖った三角形だったわけですよ、人口が。
それをもっと庭園の低い三角形にしたいなと思って。
本気で走れないとやれないっていう世界ですよね、昔は。
ただでもそれを伝えるのに、僕は尖っちゃいけないと思ったんですよ。
ただでも尖っちゃいけないけどヘラヘラ、
例えばレースに出て、後ろの後ろを走るのが悪いわけじゃないですけど、
ヘラヘラのんびり走りながらしてて楽しいでしょかっこいいでしょって言っても、説得力ない。
やっぱり勝って、もしくは強い姿、かっこいい走りを見せて、だからそれがいいでしょっていうのを。
それはもちろんですけど、それは難しいですよね。
だからそれもあって、やっぱり結果っていうのは自分としても残さなきゃいけない。
それでハセツネを2連敗したりとかして、やっぱりそこで伝えられたことっていうのは非常に大きかったですよね。
そういう思考になったのはやっぱり北米のカルチャーが。
そうですね、順番がすごいあって、もともとさっきも申し上げましたけど、
サッカー、サッカーバカだったので、
サッカーから違う世界に入ったのがアドベンチャーレースに日本で初めてアドベンチャーレースに出たっていう方に出会って、
アドベンチャーレースの話を聞いた時に、
もう人生が180度変わったっていうかね、
なった中で、アドベンチャーレースを最初は目指すんですよね。
何年かかけて、最初に情報としてアドベンチャーレースを知ってから、
じゃあ自分が本当に世界的なレースに出るまで5年かけてますけど、
20歳くらいという話を聞いてから、僕初めて、
今でこそね、もともとクレイジージャーニーとかで出てくる田中さんとか、イーストウィンドーとか、
僕はあのチームにもともといたので、
あの門を叩く。
それまでもいろんなお世話になった人とか、いろんな僕をそこの世界へ導いてくれた方がたくさんいるんですけど、
イーストウィンドーというチームに入って、3年間いろんな海外のアドベンチャーレースに出る中で、
その後、2001年から、自分の一番得意だった山足ウルトラランニングっていうものをフォーカスして、
僕は極めたいなと思ったんですよ。
勝ちに行こうじゃなくて、トライマスターみたいになりたいなと思ったから、
まずいろんなレースに行ったり、いろんな人に会ったり、いろんなフィールドで走ってみようっていうので海外に出てったんですよね。
そこで見てきたトレランニングの楽しまれ方と、海外選手の走り方と、ライフスタイルみたいなものにすごい感化されたっていうか、
こうだよねっていうふうに思った。
やっぱりもう外国では石川さんがイメージされてたような、そういうラフなカルチャーというか、
そういうスタイルで走ってるっていう楽しさはあったんですか?
敷居は低いです。
もちろん例えば欧米人、特にアメリカ人のアウトドアスポーツ、自然のフィールドに対しての敷居、距離が短いというか、
小さい頃からキャンプとかアウトドアっていうものが身近にあるじゃないですか。
ボーイスカウトとか普通にありますからね。
したい人に対して、アウトドアスポーツとかトレランニングしない人にとってみても、自然を遊ぶとか膝の中で何かをしているってことに対しての抵抗感も低いでしょうし、
やり始めるための敷居も低いから、本当にいろんなカルチャーショックまでいかないですけど、
すごいなと思ったのは、いくつもいろいろあるんですけど、
山を走っていて、林道みたいなのを走っていたら、なんか変な女の人が走ってくるなと思ったら、
ベビージョガーってわかります?
子供を押して、労働はあるんですよ。
労働はもちろんあって、そのエクササイズとして、お母さんが小さい子供をベビージョガーに乗せて、労働を走るみたいなスタイル。
トレイルをそういうことをやっている人もいたりして。
トレイルはどうやってやるんですか?
子供の子もこんなにゆらゆらなんですけど、すごい良いなと思ったんですよ。
そういうことまでして、このお母さんはトレイルランニングをしたいんだなと。
したかもね。
でも子供はケッケッケッやってたりとか。
トレイルランレースは僕が日本で始めた分もあって、やっぱりレースもレースシーンも好きだし、
例えば絶対的に当時のレースは、食べ物飲み物を絶対的に持って運ばなきゃいけない。
水しか出ない。
だからトレイルランレースは荷物を背負って走るみたいな部分がありました。
ハイドレーションパックを背負って走るものじゃないですか。
でもアメリカのレースに行ったら、ほぼ9割くらいみんなハンドボトルだけで走るわけです。
僕も最初トレイルランニングを始めた時に、今映像見れるじゃないですか。
これ何なんだってずっと不思議だったんですよ。
こっちはみんないっぱい持って走ってるのに、100マイルの映像とか見ても、
トップ選手たちはほぼほぼ。
持ってないですよね。
トップ10に入る人たちはほぼほぼハンドボトル。
なんでこれで行けるのってすごい不思議に思ったことがありました。
本当にロードを走る、ジョギングがトレイルに入ってきただけっていう感じで、特別なものがないんですよね。
そういう敷居の低さ。
当然そういったものを見ながら、これをそのまま日本に持ってきてもダメだと。
ダメだと日本に合わせ合った楽しみ方っていうのを伝えなきゃいけないと。
今いろいろな日本のことを考えながらやってきたんじゃないですか。
その頃には日本にどうやって広めていくかとか、そこを落としていっていくかっていうのも考えられてた。
自分がこういうことをしていて、やりたいことの一つに自分が楽しいから、これをシンプルに人に伝えたいなっていうのがあって。
スタイルも含めて、ライフスタイルも含めて伝えたいなと思ったので、やっぱりそういうところっていうのがあって。
ただ当時、自分で普及させるのに参考にするものがないんですよ。
トレーランナーって人がいないので、ノウハウもないわけですよ。
大会自体っていうのはどうだったんですか?
2000年前後ぐらいであれば、トレーランニングって名前のつくレースは片手もないです。
山岳マラソンっていう感じですか?
山岳大休レース、そういった名前のレースしかないので、
トレーランニングレースっていう、今ほどレースであってもレジャー感のある漂うレースはないわけですよね。
トレーランって通用するような言葉じゃないんですね。
通用するというか、じゃあみんなで行こうよわいっていう感じじゃなかったと思いますね。
山足レースであっても、タイムとか順位とかっていうところが割と比重が大きくて、
じゃあそこへ行って、今のようにね。
じゃあどこどこまで行って、旅の要素があって。
もちろん地方でそういうレースもないですよね。
日本自体に少ないんだから。
点々と各地方にそういう山岳マラソンっていうものは逆にあったんですよ。
福岡で言えばカントリーレースっていうのは山岳前の方たちが。
そういう名前であったり、まだカントリーみたいな名前が使われていれば横文字っぽいですけど。
日本で山を走る文化って言えば、修行僧とか信仰みたいなものがあって、
それの一環として山を走って鍛えようみたいなね。
精神を鍛錬しようみたいなところの延長であったような大会っていうのは、
結構地方にも点々と短い距離ではあった。
ただ長い距離はないですけど、そういったものはある。
トレーニング意識を欧米のトレーニングカルチャーに寄せていくのはかなり難しそうですね。
そこはでも面白いところではあった。自分のやりがいとしてはあったところなんですよね。
だからまずは自分のノルハウを伝えるのに何をしなきゃいけないかっていうので、
例えば走り方を伝えるのに。
じゃあ今でこそトレーニングのハウトゥーボーンがあったりとか、
雑誌とかYouTubeだ、いろんな人がいろんな走り方を伝えてるじゃないですか。
それを参考にするようなものがないから、自分がこうしたらいいんじゃないか。
走り方をこうやったらいいんじゃないかっていうことを、
自分もそういうことを伝えたことがないから文字起こししたんですよ。
当時はまだメディアのYouTubeとかがないからですね。
登りに関して走り方はこうしたらいいんじゃないかっていうのを自分の中では勝手に走ってるわけですけど、
それを人に伝えなきゃいけないから文字起こしして、
登り方、下り方、転ばないようにしたら危険なこと、マナー、モラル、そういったものを全部文字起こして、
それで最初にやったのが2002年かな、2002年に。
それこそパタゴニアとのイベントになったので、
最初でもいきなり最初やったのに40人くらい来たのかな。
20年前ですよ。
でもそれは本当にパタゴニアが、
パタゴニアエクスペリエンスっていう企画をパタゴニアでバーンと打って、
参加者で参加無料っていう。
パタゴニアさんらしいね。
経験をしてもらう、パタゴニアと見せて色々選ぶけど、
その一環として情報として、こんなスポーツが無料でできるんだみたいなところで来てもらうみたいなイベントで、
本当に人が集まって清里でやったんですけど、
そうやった時に、こんなことやるんだったらちゃんとやんなきゃいけない。
ある意味パタゴニアというプラットフォームがあったっていうことは、
そういう普及に関してはすごく弾みになったんじゃないですか。
そうですね。
だから今そこに参加した人もまだにやってる人もいたり、
場所によって本当にその地域のアイコンだって言われてる子たちもいるんですけど、
そういう子たちが当然ながら最初からトレーニングのスタイルになってるわけじゃなくて、
スタンスミスで着てたりとか、トレッキングシューズで着てたりとか、
本当にジャージで着てたりっていう子たちがバーッと集まって、
そこでやっぱり初めてトレーニングのスタイルっていうか、
こういう世界があるんだなっていうのを伝えられた、
そういう方たちにとっては知った時間だったと思うんですけどね。
しかもたぶんこれ10話ぐらいにまとめられそうで、
すごいヒストリーですからね。
ヒストリーがもう半端ない。だってまだ22年前ですからね、この話ね。
例明期で言えば、まだまだ初っ端の初っ端ですよね、またこれの話っていうのはですね。
そこから今もすごく飛ぶ話ですけども、
トレーランニングっていうのの裾野がすさまじく広くなってきてるんじゃないかなって思うんですけど、
僕らが知る範囲でもここ4,5年なんですけど、
石川さんも20年以上見られてきてるわけじゃないですか。
最近のやっぱり広がりっていうのはどのように感じられてますか?
でもすごい本当に一つのアウトドアスポーツであり、
ランニングであり、スポーツリズムにも通じる一つのトレーニングっていう、
日本のいろんな部分でのカルチャーに僕はなってきてるんじゃないかなって。
イメージ通りな感じですか?
そうですね。ただ本当にここまで、始めた当時にここまでの規模になるかっていうのは想像もしてなかったですけどね。
そういう状況だったってことですよね。
ここまで広がるとは全く思ってなかった。
この20年っていうのは結構爆発的にいろんなものが変わった感じですか?
メーカーにしても意識的には変わった感じも受けますか?
そうですね。
だってブランドも本当に、今でこそあらゆる手術メーカー、ウェアメーカー、いろんなメーカーがね、
例えばヘッドランプメーカーがウェア作ってたりとか、
あらゆるブランドが、ギアではないブランドが、もちろんガレージブランドも出てきてきましたし、
その広がりっていうのは日本国内だけではなく、
でポンと来て、平尾台を本当に飛行機で北九州駅帯で電車に乗って、その当時レンタカーとか借りてこなかったから下からタクシーになって平尾台で回らなくて、バーンと広がるわけですから下から見えないですよね。
うわーやばいなここって感動しながら走って、それが2006年とか7年くらいだったと思うんですけどね。
そこで走って、そのタイミングで僕はハッピートレイルっていうね、いろんな全国でパタゴニアとOSGA、パワースポーツさんですね。
トレーニングを普及させるために本当に日本全国でイベントをやってたんですね。
それこそ今でこそコミュニティってものが各地域にあるじゃないですか。
その当時は本当にみんな点だったんですよね。
みんなそのトレーニングをしてみたいけど、どこをどうしたらいいかな、どこを走ったらいいかわからないっていう人たちを点と点をつなげるようなイベントを本当に全国でやってて。
その中で福岡点ができた当時なんですよ、パタゴニアの。
それを回せて平尾台ってところで、まずはちょっとやってみようかなっていうのでやったのがきっかけみたいなところがあって。
最初一人で走りに来て、フィールドで合わせてハッピートレイラー、こんなイベントをここでやったらいいんじゃないかなっていうのがあって、平尾台でやったっていうのがきっかけなんですね。
なるほどな。
最初やった時もね、本当の最初平尾台来て、僕当時ドレッドだったんですよ。
だから2005年だ。
2005年です、来たのね。
2005年くらいまでドレッドだったんですか?
ドレッドで走ってて真っ黒じゃないですか、サービスもしてるから。
真っ黒で、チューブで出てる四国から。
当時だから。
変わり当てた時ですよね、でも。
1000年前ってチューブするって言われた時代ですからね。
平尾台観山センターとかでいろんな資料とか取りに行った時に、何しに来たんすかって。
高校で山走りに来たんです、みたいな感じになって。
すごい良いフィールドだから、じゃあそんなイベントをするのに。
こんなイベントをまず当然やるからには、こういったスポーツをちゃんと伝えなきゃいけないという話だと。
変なことしないでくれるかなとかって言われたわけですよ。
確かにね、国定公演だ。国立公演じゃない国定公演だし、そういうとこだなと思いつつ。
ただでもやるんだったら、いついつと人数とどういうコースを回ってくるかっていうのを教えてくださいねって言われて。
で、やったんですよね、平尾台。
なるほど。
ここからなんですね。
そう、そこからなんですよ。
本当に九州、初めてっていうのは、まず平尾台とそのボラティックトレイルドっていうとそのイベントっていうとこだったんですね。
その時のハッピートレイルドの人たちがまたコミュニティ作って、今では九州では割と主要なボラチームができてたりとか、そこで知り合った人たちがその後コミュニティになっているものってあるんですよね。
だからまさに平尾台に関してはそこのハッピートレイルドとその地元のアウトドアショップの人たちとの、でいた店の人たちがそこのイベントみたいなとこで繋がり、それでその後平尾台っていうレースが開始されるまでに至るんですけどね。
なるほどですね。九州も平尾台もそうでしょうけど、全国つつ裏裏そのような動きをされているわけですよね。
摩擦してきたんですね。
それをレースをしながらっていうのがすごいなって思うんですけど。
今でこそ戦っている選手たちが海外の成績出してますけど、そこまでの戦い方はできてないですけど。
2005年っていったら2007年、グランドスラムの予選は2007年ですよね。
バリバリやってた時ですよね。
レースは戦ってましたね。
すごいやっぱりコミュニティをね。
そこで自分の活動とコミュニティ作りとか国内のローカルなところにわざわざ行くっていうのは相当パワフルなイメージですけど。
そこがねでも面白いところなんですよ。
トレランニングっていうのはいろんなところでセミナーとかやったりするときに伝える話なんですけど、
トレランニングってネアウィティブに考えちゃうとフィールドまで行かないとできないスポーツじゃないじゃないですか。
でもポジティブに考えるといろんなところに行けるスポーツなんです。
行けるそれが楽しさなんですよ。
フィールドに行くこと自体が楽しい。
そこまで一つの飛行機なのか船なのか列車なのか。
その移動と食と地域の文化っていうのはその当時僕はもうそこがセットで魅力だったから。
当然あの移動の時間っていうのは確かに大変だったりレースタイムだったら時間もったいないなってのもあるんです。
そこが楽しかったからね僕はどこ行くのも楽しかった。
鹿さんよくトリップって言い方しますよね。
今でも普通にトリップって言葉が使われるようになりましたけどやっぱりサーフィンしてたから。
僕の中でトレランニングに本当にマッチする表現だなと思ったからそういった言葉を当時から使ってきてはいるんですよね。
確かに行くっていうことが必要ですもんねトレランニングはですね。
そこを合わせて楽しんだよっていうことをねスタートした。
だからそこが今一つトレランのレースみたいなものが地域の活性だったりとかそういったところでトレランレース大体地域の観光業界とか
そういったところがかかってたりとか青年会議所とかそういったところがかかってきてやっぱりそのトレランというのが一つの地域起こしとか地域活性に役立っている部分につながっているというのはそこがうまくリンクできてきたかなというふうに思うんですよ。
特にやっぱり日本は山の割合が多いですからですね。
そういうものがそのトレランニングが地域の活性化の役割を果たしてくれればかなりの地域でそういう活性化ができるということですもんね。
だから以前はその本当にこうトレランニングっていうのはまずその地域地域なりに伝えていくことから始めなきゃいけなかったんですよね。
トレランニングとは何ぞやっていうものをただ地域の人たち集めて本当にこうスライドを見せてこんなもんですとかこういうレースなんですこういう人たちが走るんですっていうものを伝えながら各地域でやってたものが今は逆にその地域の人たちがもう知ってるから知っててあの依頼をしてて来たら声をかけてくることも今は当たり前になってきて
その地域の誰々がそのトレランニングっていうものに興味を持ったかやりたいんだけどでも地域の誰も何も知らないからまずそこから伝えてほしいっていうところから始まってたんですけど。
ヒラオーダーのトレランニングといえば割とそっちに近かったんじゃないですか?
立ち上げから規模を決めていったというかスケールも含めていろいろディレクションされていかれたわけですか?
そこは最初にできたそのコミュニティの人たちがヒラオーダーの大会できるまでって最近大会の役員されている安倍さんがその経緯に関してをブログで書いているので
そこに細かくなってますけど
僕がやったハッピートレイルドイベントに役所に勤めている方がトレランニングっていうものを知って
ヒラオーダーとトレランニングの可能性を感じてもらってそれを役所内でいろんな形で伝えて
それがいい経緯があってじゃあヒラオーダーというところでトレランニングっていうものをしてみましょうかっていうところで再び僕は呼ばれて
そこへ行っていろいろ始まったわけですけども
四川さんが全国各地でコースのディレクションをやったり大会の規模を決めたりスケールを決めていかれるということを背景したんですけど
そういう枠作り自体も慣れていらっしゃる方っていうのは当時いらなかった?
そうですよね
どこから始めていいか?
レースを作ってるのがメインだから今プロデューサーのような立場だったりアドバイザーだったりいろんな形で関わってますけど
僕自身もレースを作るっていうところは自分でビジネス的ってやってるわけじゃないし手探りですよね
でもその手探りの背景にはやっぱりそこは僕の経験というか海外で見てきた経験
それを日本と比べて海外のレースを参考にしながら
日本の道場というか文化に合わせてどうやったらいいかというところをうまくやっていったかなって
だからそこは最初から人を呼びたいからって言って
じゃあ1000人2000人もじゃなくてやっぱり環境を配慮して
なんでトレーニングが楽しいかというと自然があってのスポーツ
CMオーバー対策しながらレースをしなきゃいけないというところから僕はアプローチをしていたので
だからそのからの規模ですよね
その差し加減がやっぱり難しいなっていう風に思うんですね
どうしても商売っていう風になってくると人数が多い方がいいしっていう風になってくるじゃないですか
そこが例えば自然とどこまで兼ね合ってそれが適切なのかどうかっていうのってわからないと思うんですよね
でも石川さんそういうような環境保全活動的なこともされていらっしゃるんで
そこの差し加減がすごい上手なのかな
上手というかそれは本当にもう海外見てきたところに尽きると思いますね
私もアメリカの最初のレース行った時にとにかくいろんな情報収集したりとかいろんなものを見るのに
とにかく参加人数の大きい大会とかまずいろんなところに足を運ぶんですね
最初出たのが600人ぐらいかな
でもそれでもいろんなレース出ていく中でこんなに参加者が盛り上がってるのに120人しか走れない大会があったりとか
そういった時に海外のレースディレクターとかオーガナイザーと話す中でいろんな話をしていて
例えば日本で大きな大会を2000人回してるんですよ
加藤羽瀬さんとか内藤さんや北田さんという大会を2000人回してて
海外のレースが100人しか走れない大会もある中で
そういったディスカッションをしている中で
そんな人数多かったら選手面倒見れないでしょっていうところと
やっぱりそれは自然に対するインパクトが大きすぎるだろうっていう話をやっぱり
そうだよね
まだ自分がレースをやる前にそういうディスカッションができたっていうのは大きいですよね
当時から日本よりはアメリカ、北米のほうが環境保全とかの意識は高かったんですか?
そうなんですよね
PRするようなレースとかっていうのは別にないですけど
当たり前に
自分たちのフィールドを守るっていう感じ
こういうことでやるからインパクトをかけないんだとか
こういうことでやってるから自然に対する参加者の意識が高いんだっていう
今でこそ聞くようになったトレイルワークっていう言葉がありますけど
当時から例えば100万円レースに出るにあたっては
トレイルワークっていうトレイルに従事した作業を8時間以上しないと
このレースには出れませんよっていうレギュレーションがあったり
そういうことがあることによって
なんでトレイルがあるのか
なんで安全快適に走れるのかっていうのは自然に培われますよね
こういうこといいなと思って
もともと僕もいきなりレースから出てたわけじゃなくて
さっきも雑談ながら走りましたけど
レースで2年間くらいレースなしでひたすら山を走り回ってたから
速さとか順位じゃなかったんですよね
サッカーやってて山の山地も知らない中で
いきなり山へのアプローチが歩くじゃなくて走り始めちゃったから
自然の気持ちよさとか自然の雄大さとかそこが大事だったんですよね
走ってての気持ちよさだったから
競技で初めて国体の人たちとかそういう人たちが
目の色変えてレースの順位を競ってるのを見たりして
本当に例えばなんですけど
ある選手がレースを勝つためにスパイクで走ってる
トラック競技のピンのついたスパイクあるじゃないですか
あれで走ってたので勝ち負けにはもう手段選ばないんだなと思って
そうじゃねえだろっていうのがあったりして
そうじゃなくて
ちょっとまた話し飛んじゃいますけど