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音楽番組【RADIO399】です。音楽番組【RADIO399】は、私、管理人の佐藤さんが毎回異なるゲストとお送りしております。
音楽雑談系番組です。皆様のお気に入りの音楽が見つかるかもしれない、そんな番組です。
それでは、今回もよろしくお願いいたします。今回のゲストは、久しぶりの4人ですね。先生田中さん、まいぼうさんです。
よろしくお願いします。
ということで、早速いってみますけれども、本日3月9日です。収録してるのはね。
ということで、3.11が近いわけですよ。
やはり、私、ちょうどですね、遡ること2年前、第20回ですよ。
RADIO399。
2022年3月16日の宮城福島地震というのがありましてですね、その時。
あったね、あったあった。
で、その時収録した回があるんですけど、宮城福島地震の後にとかっていう。
その時にですね、少しその中で触れてるんですけど、いつか3.11をちょっと扱ってみたいと言ってたんですよ。
で、やっぱり重いテーマなので、2年かかりました。
気軽にできるテーマじゃないよね。
ちょっと重いテーマなんで、軽くはちょっとできないなと思って、やっぱりある程度の時間が必要だったですね。
で、やっぱりね、アーカイブとしてちょっとやっぱり当時の話を少しどっかでね、残したいって気持ちがあったんですよ。
でまぁ、後々話すんですけど、私実はその3.11の時ってこの東北いなくって離れてたので、実際は被災はしてないんですね、私自身は。
なんですけど、おそらく私以外の3人は、おそらくその時って多分、宮城いたんですよね。
いたいた。
で、実はそんな話をしたことって、今までなかったんですよね。何故か避けてたわけではないけど、
何だろうね、何かわかんないけど、軽く語れないっていうかどうしても。
そうね、軽く語れないっていうのがある。
なんでちょっとね、やっぱり皆さんがその時、どこにいて、何を感じ、どういうふうに行動してたのか。
そういうのね、ちょっと聞きたかったんですよ、僕としては。
そういう思いがあって、今回こういうテーマを選んでみました。
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で、ちょうどね、ここ最近千葉での地震っていうのも頻発しててね、そういうところもちょっともしかしたらあったのかもしれませんけれども、
あと元旦のノトのね、地震ありましたよね。
まだね、大変だから本当に一刻も早く日常を戻ってほしいですよね。
なんかね、そういうのもあって、このテーマにたどり着いた必然というかね、気もしますけども。
はい、ということで今日は、じゃあ当時のね、皆さんのちょっと思い出というか、何ていうか、記憶というかね、
そういうのをね、聞いていきたいと思いますよ。
じゃあ始めていきましょうか。
まず田中さんからちょっとね、当時の話聞きたいんですよ。
まずはその2011年3月11日、今から13年前ですよちょうど。
田中さんは当時どこにいて何をされてたっていうところからちょっと話をね、スタートしてみたいと思います。
はい。3.11の当時は、私は大学4年生の卒業間近の年で、
地元が宮城県の塩釜市というところなんですけれども。
海の近くだよね。
そうですね。海っぺりの町で、実家が塩釜にあって、そこでずっと生活してきたので、マンションにおりました。
で、なんかその日は授業だったのか飲み会だったのか忘れたんですけど、とりあえず夕方ぐらいに仙台に行こうかなみたいに思っていて、
準備いろいろしてたような記憶があるんだよね、午後。
私の祖母も自宅に遊びに来ていて、祖母と私の2人でいるときにちょうど震災が起きたっていう感じです。
集合住宅の、僕は2階に住んでたので、まずその揺れが来たときに、建物が潰れるんじゃないかっていう恐れがあって、とりあえずめっちゃ怖くて。
で、一発目のドンっていう揺れが来た、ちょっと収まってきた後に、祖母と一緒にすぐ下に逃げて、
そのまま近所に小学校があるので、そこが避難所になっていたので、とりあえず小学校に向かったという感じで、
その後の話にもなるんですけれども、祖母の家が僕の家のすぐ近くにあって、
そっちでみんなで暮らした方が環境的にもいいだろうということになって、そこから1週間ぐらいは祖母の家で暮らしたっていう状況でした。
で、おばあさん家はどちらにあるんでしょうかね。
同じ塩釜市内にあって。
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市内か。
そんなに離れてはいないんだ。
そうですね。その後の話にもなっちゃうんですけど、そこで1週間ぐらい、電気が復旧したのが3.11から5日後ぐらいで、水道は6日後ぐらいだったんですけど、
それまではライフラインが基本的には使えないので、夜は例えば暗くなったらロウソク立てたり懐中電灯使ったりとか、
あと近所で井戸水使ってる方のお家でちょっとお水もらいに行ったりとか、
そんな感じで1週間ぐらい、僕らの家族とあと親戚の家族で7人くらいで一緒に祖母の家で共同生活みたいな感じでした。
だいたい1週間ぐらいで本当のインフラみたいなところは復旧して、その後に話は進むわけですね。
そうですね。
僕はちょうど4月から東京で働くっていうタイミングで、
そうか、就職も決まっててっていうそのタイミングなんだね。
そうですそうです。
で、まずその塩浜から東京まで行く移動手段がよくわからなくて、電車も止まってたし、
塩浜から仙台までバスが出るってなって、それ乗って仙台から夜行バス乗って東京まで行くみたいな感じで、
どうにかその就職までは間に合わせたという感じで。
実際そんなになってる時になかなかでも気持ち的には落ち着かないよね。
そうですね。結局自分の親とか弟とかを残して自分だけ、
僕ん家は波とか被んなかったんで、そこまで家そのものに被害みたいなのはあんまりなかったんですけど、
ただ家の中はめちゃくちゃで、いろんなものが中途半端な状態で僕だけのうのうと行くみたいな感じは自分的にはありましたね。
正直なんか、逃げるっていうか、感じはちょっとありましたけど。
なるほどですね。
はい。
じゃあ今、改めてその3.11の自分の中での捉え方みたいなのってどうですか?
そうですね。自分の身内では3.11で亡くなった人とかいなかったんですけど、
ただやっぱり塩釜が海沿いの町っていうのもあって、
例えば同級生の親がやっていた水産関係の仕事が被害によってちょっと立ち行かなくなったりだとか、
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それこそ住む場所がちょっとなくなってしまったとか、そういった話は聞いたりしてはいたので、
そういうなんか本当に普通に生活していた普通の生活みたいなものが、
もう一瞬にしてこう変わってしまうっていうことは、なんかあるんだなというか、
それがめちゃくちゃ現実的、現実だったっていうのが結構怖いなぁと思いましたね。
あとはまあ、僕はその東京に出たっていうのも結構地元はあんまり好きじゃなくて。
おー、なんで?
いやー、やっぱり田舎だし、なんか人間関係もすごい近いというか、
自分の家も、家の中も含め、周りの人との人間関係とか、田舎の環境も含めて、
やっぱりこう1回外に出たいみたいな気持ちはめっちゃあって、
地元はあんまり好きじゃなかったんですけど、震災を経て東京だとか、
まあ今北海道で住んでっていうのを経験してみると、
なんかよりこう、地元を改めて思い直すというか。
あー捉え方がやっぱり変わるわけね。
そうですね、なんか嫌いというか、あんまり戻ってきたくないなーって思っていたけど、
今はなんかこう、ちょっとそこも揺らいでるというか。
それやっぱりきっかけはやっぱり震災なんだ、じゃあ。
自分的には震災が大きいのかなと思っていて、
なんかこう、震災が本当にきっかけで普通のことが一変してしまったっていう印象が自分はあるので、
なんかその通り月並みな表現になってしまうかもしれないですけど、
1日1日って大事だし、なんか普通の生活ってめっちゃ大事だなーみたいなのを思っていて、
でなんかやっぱり今、状況として自分の親が一人で地元の塩浜で生活をしているっていう状況なので、
なんかその震災が起きてすぐ東京に一人行ってしまった身としては、
なんかこうやっぱり地元に今後どう接していけるのかなみたいな部分を考えることはあります。
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なんかその今後進むとか、そこはわかんないですけど、
嫌いとは言い切れないなというか。
すごく複雑な田中さんの思いがすごく今、ちょっと伝わりました。
そして今だから言えることは、僕が祖母と一緒に部屋から逃げて1階に降りたときに、
なんか祖母にめっちゃ養子院続いてるのに、なんかその祖母の持ってきたリュックに大事なものが入ってて、
それどうしても取ってきてほしいから取ってこいみたいな感じで命令をされて、
めちゃくちゃ養子院続いてるけど、ダッシュで取りに行ったんですよね、階段登って。
それが本当に一番自分の中で死を感じたというか、人生で生きてて。
その養子院が結構続いたんですよね。
僕は祖母、ちょっと今もう亡くなってしまって、すごい大好きだったんですけど、
そのときは本当にマジかって思って、めちゃくちゃダッシュで行ったんですけど。
何が入ってたんでしょうね、空の中には。
大事なものが入ってきて。
大事なものがね。思い出かもしれないし、不審さんかもしれないしね。
ちょっと曲をいきましょうかね。
選んだ曲がフジファブリックのエイプリルという曲なんですが、
震災の後に自分は上京をしたというところもあって、
上京した春先にすごく不安な気持ちだったり、震災があったっていうのもあって、
複雑な自分の地元から離れてきたっていうような複雑な気持ちも自分の中にあった中で、
結構歌詞だとかメロディーが自分に寄り添って来てくれた曲だなっていうので、
今もやっぱりこの時期になると自然と聴きたくなる曲というか、
それ聴いて結構当時の自分の気持ちを思い出すような曲なので、
今回はフジファブリックのエイプリルをかけたいと思います。
送りした曲はフジファブリックでエイプリルでした。
はい、ということで田中さんありがとうございました。
ありがとうございます。
はい、では続いてまいぼうさん、お願いいたします。
当日ですね、3.11の日、どこにいたかなんですけど、
自分も田中くんとタメなので、大学4年生の卒業間近みたいな感じの時で、
そうか、2人とも、さっきスルーしたけど大学生なんだよね。
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そう、ほんと卒業式の確か数日前だったんだよね、確かね。
そうか、卒業式って3月の中旬ぐらいか。
結局、余談にはなるんですけど、卒業式中止になったんだよね、確か。
そうだよね。
そう、だから田中くんと私は卒業してない。
そうか、式はやらなかったんだね、結局ね。中止なんだね。
そうそう、そんでね、卒業式を控えてたんですけど、
ゼミの先生にみんなからプレゼントを買おうというふうに当時はなって、
それを買いに仙台駅に行ってる時でしたね。
仙台駅でですか。
仙台駅行って、ゼミの先生にフォトフレームかなんかヨドバシで買って、
で、一緒に来てた男の子と、じゃあまたねって別れた後に、
ちょっとなんか買い物しようかなと思って、駅ビル、
名前出しちゃいますけど、エスパルっていうなんかファッションボールみたいなのがあるんですけど、
駅連結してるやつね。
そうそう、その中で、どーんと来ましたね。
どうでした?
なんかこれいろんな感想、あの揺れに対していろんな感想を持つ人がいると思うんですけど、
もう宮城県ってめちゃめちゃ地震多いじゃないですか。
だからもうちっちゃい時からそういうのを何回も経験してるから、また来たかみたいな感じだったんですよ。
なんちゃらバイアスってこういうの言ったりするとかって聞くんですけど、
なんかこう、いつものことでしょうみたいな。
大丈夫でしょうみたいなね、正常性バイアスって言ったかね。
そうそう、それが働いて収まるだろうなって思って、
なんかテーブルの下に隠れているうちに揺れは収まって、
とりあえず家に帰んなきゃなって思って。
私当時住んでたのが田中くんの隣の市なんですけど、
さっきも話にあがったんですけど、公共交通機関が使えないんですよ。
もう絶対地震とかで止まるじゃないですか、電車。
で、なんかちょっと歩き出してみたら、
バスの中にほんとこんなに人乗るのかっていうぐらいすし詰めにぎゅうぎゅうに人が乗ってて、
なんかこれ乗るの無理だと思って、
だいたい仙台駅から自宅まで11キロぐらいあるんですけど、
じゃあ歩いて帰るかってなったんですよ。
で、歩いて帰ってて、結構道中とか、
例えば車のディーラーみたいなすごい立派なガラス張りの建物のガラスがバーンって全部割れてたりとか、
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で、みんな結構混乱してるから、
後からこんなにやばい地震だっていうのがわかってれば絶対そんな行動を取らないんですけど、
道端、道路の上で携帯電話をかけながらパソコン叩いてるビジネスマンとかいましたよ。
わからないよね。情報が入ってきてないから。
そうそう、わかんなくて、とりあえずみんな混乱して、なんかみんな携帯持ちながら歩いてて、でも通じる通じないみたいな感じで、
もうみんなすごい地震だねって言いながら、知らない人と会話しながら歩いてて、
で、まあとことこ歩いて、2時間ぐらいで、自宅の1キロメートルぐらい手前のとこまで来たんですよ。
で、その時に初めて津波を目の当たりにするっていうか、
まあ津波はもう2時間後だと、もう来た後なんですけど、
まあ、もう場所を言っちゃうと45号線。
45号線の何のあたりって言えばいいんだろう。
とりあえず海がだんだん近くなってくるあたりからもう景色が一変して、
自宅に続く45号線の道に車が5台ぐらいダダダダダダって積み上がってるんですよ。
もうそれが来た後なんだ。
来た後、もう去った後だと思うんですけど、積み上がってて、
なんかその当時のバイト先がちょうどその車ダダダダダの横だったんですけど、
腰ぐらいのあたりまで水チャプーンってなってて、
これもう何かが起こったから歩いて進むのは無理だろうみたいな。
腰のあたりまで水が来てるところにわいぼさんはいたわけ?
ジャジャーって来たとこじゃなくて、
たぶんジャーってなって、車が押し流されて積み上がって、
その湖みたいになってて、バイト先のところがもう自動ドアの腰のあたりまで水来てて、
引いてない状態みたいな。
滞留してる感じか、水が。
そうそう。
田んぼとかも、
1分くらい水引かなかったからね。
引かなかったね。
田んぼとかもジャップンジャップ水になってて、
どうしようかなって思って、近くの小学校まで水来てないところに引き返して、
避難して、一夜を明かすっていうのが震災当日の思い出。
じゃあ避難所にいたんだ。
行った。行って、
ここでなんですけど、ただ歩いてきて、みんな何も知らずに歩いてきて、
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今ほどそんなスマホの普及率とかも高くなくて、ガラケーとかでだったんですけど、
この避難所の時に初めて、外からの情報みたいなのがラジオで入ってきて、
ラジオで荒浜で200人、遺体が上がったっていうのを聞いて、
津波来てても誰も死んでないわけって想像つかないけど、やっぱりそこもさっきの
正常バイアスなんですけど、死んでないでしょう、そんなに被害大したことないでしょうって思ったけど、
すごいとんでもないことが起きたんだなっていうふうに気がつきました。
で、やばいなって思ったけど、とりあえずは家に帰ったほうがいいかなと思って、
遠回りして自分家帰ってっていう感じですね。
で、家が川のそばに建ってて、川のそばにあって、川から45号線側っていうのは、
その次の日になってたんですけど、ジャブジャブでやっぱりまだ進めないみたいな。
もう家の半分ぐらいまで水ジャブーってなってて、川の端がかかってて、
端の自分家側、陸側が全部無事みたい、無事っていうか水の被害はないみたいな状況で、
これの川一本でこんなに被害の差があったんだなみたいな。
そこを境にあっちはもうダメ、こっちは政府っていう、完全にこう分かれちゃってる感じですね。
うーん、そうそう。なんか正直言って、海を感じるような立地じゃないけど、
ここまで来たのみたいな、海あったんだ近くにぐらいの感じのですね。
で、震災当時どう感じたかなんですけど、自分一人暮らしをしてて、
自分の面倒を見てればよかった分、結構暇を持て余すじゃないですけど、
学生っていう身分もあって、助けられることばかりで、
結構自分の非力さみたいなのをすごい感じたのが、当時どう感じたかっていうところですね。
なんかこう大人たちっていうかね、例えば役所の職員さんとか学校の職員さんとかだったら避難所開設してみたいな、
やったり、みんなに食料を配るとか、なんかチャカチャカチャカチャカ動いてるけど、
なんか自分何もできねえなみたいな感じのことを感じて、
その後本当自分の非力さが嫌で、近くの学校で子どもの面倒を見るボランティアとかするんですけど、
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そういうことされてたんですね。初めて知りましたよね、そういう話とかね。
なんだけど、何をするにも人の助けが必要みたいな。
住んでたところとか、たぶん1ヶ月ぐらいガスこなくて。
長いっすね、1ヶ月か。
だから人生で一番お風呂に入んなかった時期なんですけど、お風呂に2週間とか3週間以上入んなかったですね。
やっぱガスないと風呂はね。
だからウェットティッシュで拭いてとかいうのも、やっぱり全国の自衛隊員さんが集まってきて、
何週間後かに仮設のお風呂っていうのを近所に作ってくれて、やっとそこで入れて、やっぱりここも人の力を借りてるなって思ったし、
しばらくしたら、最初は冷蔵庫にあるものをとりあえず引っ張り出して、
食用?
うん。なんか、なんだろうな、カチカチになったうどんとか食べたりとか、
あともう食べるものなくなってきたから、じゃあ黒蜜吸って今日はしのぐかみたいな。
でもなんかしばらくしたら、たぶんマンションみたいなのに住んでたから、自治体の皆さんが、全国から物資が届いたのを振り分けてドアノブにかけてくれて、みたいな感じで。
そういうのがあったんですね。
そう、やっぱりそこも人の力借りてるなーみたいな感じで、なんかこう学生っていう身分だけどすごいね、何もできねえなーって感じましたね。
当時ってたぶん、お金はたぶん持ってるとは思うんですけど、例えばそういった時ってコンビニだったりスーパーだったりってところの様子はどうだったんですか?
なんか物は買えない状況だったんですか、あれは。
ほぼほぼ買えないし、正直近所のスーパーとか略奪とかありましたね。
一応無事だったんけどガラスバーン割られて、中に入って強盗する人がいたっていう噂もあって、実際ガラス割れてたしなーとか。
で、コンビニからはもう物なんもなくなって、コンビニの前の張り紙でもう全て売る物はありませんって張り紙されてたりとか。
まあ当然ね、物流届こってるだろうから物が届かないっていうのもあるんでしょうね、道路が使えないとかね。
で、なんかしばらくしたら近所のスーパーでお一人様5点だか3点だか青空市みたいなのをやるから、
5点だか3点買ってもいいよっていうのがあって、金額、会計大変だから全部300円みたいな感じで売ってくれて、
その時にちょっと食べ物買えたかなみたいな、すんごい並んでですかね。
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大変でしたね。
なんか考えるのは、これ多分自分一人だからなんとかなったんだろうなっていうのもあるし、
やっぱり人の力を借りたからなんとかなったっていうのはあるんですけど、
今考えるのは、これなんていうんですかね、子供とか家族がいたら、じゃあ自分もね、
俺もそれは考える。
ですよね。どんなふうに守っていったらいいのかなとか考えたり。
そこ一番に考えるよね。
そうそう、1000年に1回のとんでもない地震だなんて言うし、
この先もう二度とこんな経験、子供にもさせたくないし自分もしたくないけど、
来ないっていう保証はないから、どうしようかなって考えたり、
やっぱりノートとかで地震があった時も、
とっても書ける言葉ってすごい難しかったりするじゃないですか。
そうだよね、言葉は、そういう時ってないんだよね、言葉がね。
ないの、そう、なくって。
Twitterの方でもそちらにお住まいの仲良くしていただいてる奥様とかがいて、
だけどなんて声をかけていいんだろうと思うし、
物とか困ってるのかな、でも送ったら迷惑だろうなとか。
難しいんだよな、そうなんだよな、選択肢がないんだよな。
募金が一番かなとか考えたりとかして、
いろいろ、自分の身にそういう地震がなくても常にこういうこと考えちゃいますね。
なるほどですね。
じゃあ今だから、この3.11の捉え方とか、
今だから言えることっていうところをちょっとお聞かせいただけますか。
捉え方でいうと、結構あれなのが、
自分の地元が結構被害の大きいところで、
結構親戚とか知り合いもなくなったり、
自分家の実家も床上浸水みたいなのをしたのかな。
床上か床下かしてあったり、
身近だし、あと震災の、自分の住んでたところなんですけど、
震災の前日に、ちょっと近所のスーパーに買い物行ったんですよ。
買い物行って、それが川の向こうのスーパーだったんですよ。
で、後から聞いた話だと、結構そのスーパーですごいたくさん人が亡くなったって聞いて、
これがじゃあ3.11じゃなくて3.10だったら私は生きてたのかなって考えたりとかして、
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いろいろさっき言ってたみたいな、人に助けてもらわないと何もできないみたいなことも合わせると、
結果的にたまたま生き延びてしまったわけですけど、
じゃあこの先人生、どんなふうに命を燃やしていこうかなとか、
このシーズンになるとよく考えたりします。
貴重な話だね。
命って、なんでこんなにこんなになんだろうなって思いますよ。
ちょっとの差で生き延びたり、悲しいけど失ってしまったりっていうのがあるんだなっていう感じですね。
なるほど。
趣旨を踏まえて1曲選んできたのが、復興でいろんなミュージシャンが来て、
その中で特に印象的だったクルリの奇跡という曲をお聴きください。
クルリで奇跡をお聴きいただきました。
はい、まゆぼうさんありがとうございました。
ありがとうございました。
はい、ということで本日3.11ということでテーマにしてね、
お送りしておりますradio39でございますが、
では後半戦参りたいと思います。
後半戦残るは先生と私ですけども、
最初田中さん、まゆぼうさんでやってもらったのは、
この4人の中で年代が2チームに分かれるんですね。
震災当時ギリ大学生だったまゆぼうさんと田中さん。
実はもう社会人だった私と先生。
少しだけこういう状況が違う中で経験した3.11。
じゃあ語っていきたいと思いますので、
じゃあ次先生からお願いします。
まず、ちょっと年上ではあるんですけど、
私教員採用試験ってね、ストレートで受かってないのよ。
本人というか、講師してた時代もあるので、
ストレートで受かってれば何年目かだったんだろうけども、
講師してた年代もあったので、
教員というか正規の教員としてはね、
1年目を予約終えるぐらいの時。
じゃあ成り立てなんだ、そういう意味じゃね。
成り立て、だから新任1年目さ。
結構日本全国そうなんじゃないかなと思うんですけど、
その日かその前日ぐらいにね、
世の中の中学校は卒業式をやってて、
3月11日ってだいたい卒業式ですか?
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うん、だいたいそれぐらいの時期だった。
高校受験、合格発表はまだなんだけど、
受験そのものは終わってみたいな、そういうタイミング。
卒業式だったんですよ、その午前中。
教員あるあるというか、教員ならわかるんですけど、
そういう行事とかで早く解放できる日、
夏休みとかもそうなんだけど、
校長先生の裁量で勤務解除っていうのが
言われる時があるんですよ。
勤務解除で帰っていいよっていう風に
言われてた時間だったんですよ。
当時はそうだったんだね。
俺はもう仕事はいっぱい残ってて、
自分の成績つけるとかそういう仕事も
まだ残ってたんだけど、
もう帰りてえなと思って、
帰っていいよって言われてるし。
帰りてえから、帰っちまえよと思って、
帰る途中の車の中で、
テレビを付けっぱなしにしながら
いつも運転してたんだけど、
カランコロン、カランコロンって音が鳴ったんだけど、
俺はわかんないのよ、その音が何なのか。
この音なんだろうって思ってるうちに、
信号待ちしてた時だったんだけど、
すげえ揺れが来て、
これのことだったんだと思って、
すごい揺れるわけよ。
めっちゃ揺れてるって、
揺れも長いから、
これが宮城県沖地震とうとう来たんだなって
思いながら。
そういう風にわかったというか、
察知したというか。
絶対来るって言われてた。
これが宮城県沖かーって思ったんだよ。
車の中で揺れながら、
やっぱり怖いからね、
ちょっと降りたいなと思って
車のドアを開けるんだけど、
揺れが凄まじすぎて、
車がもうバウンドした状態になってて
降りられないのね。
俺も地震には慣れっこなはずだと思ってたんだけど、
俺はもうその時点で
大事じゃないなとは思ったの。
帰ろうとはしてたんだけど、
一回揺れが収まってから、
車の前後にいた人と
今のヤバいっすね、みたいな話になって。
帰ろうとはしてたんだけど、
一旦職場戻ったらさ、
職場の人たちもみんな校庭に出てて、
後で職員室見たら、
棚という棚が落ちててさ、
話聞いたら揺れ始めた時に
ベテランの先生が
「外出ろ!」って言ったんだって。
多分その声がなかったらね、
36:00
大怪我した先生もいたんじゃないかなと思った。
意外とさ、地震が来るから
備えましょうとか言ってても、
無防備に高く積み上げたりすんだよね。
うちの学校が耐震工事とかしてる最中だったんだけどさ、
職員室はもうぐちゃぐちゃになってて、
校庭に先生たちが何人かいて、
みたいな感じだったんだけど、
そうこうも知らなくてさ、
なんとか職員室に戻って、
そのまま職員室で夜を明かしたのを覚えてますよ。
止まったんですか。
スーツ姿のまんま、
自分の机に突っ伏して、
夜を明かしたのを覚えてるんだけど、
その時にテレビなんか通じなくて、
今思えば俺の車、
エンジンかければテレビ見れたのかもしれないけど、
見なかったんだよね、多分ね。
ラジオとかで情報を得てて、
電気が止まってるからテレビがつかないってこと?
そうそう、電気止まってたよ。
でも多分電池で動かすやつだったな。
ラジオがついてて、
そのラジオで、
夕方ぐらいに、
まさに前坊さんがさっき言ってたニュースだよ。
アラハマで、
2,300の死体が上がったっていう話を聞いて、
アラハマなんてさ、
俺も子供の頃から行ってる、
慣れ親しんだ海水浴場の場所でさ、
そこにそんな死体がなんていうのは、
本当に想像もつかないんだけど、
これはいよいよやべえことが起こってしまったなって、
またそこで一段思った。
っていうのがね、覚えてる。
避難所にもね、うちの学校なったんだけど、
向かい側にある小学校の方に、
皆さん避難した人が多くいてて、
うちちは人家族ぐらいしか来なかったんだよね。
ああ、そうですか。
避難所とかも結局市役所の人がやるから、
あ、そうなのね。
うちはそうだった。
たぶん翌日だったと思う。
教頭先生だな、当時の教頭先生の命で、
一旦地元に戻れと。
その時先生は、ごめんなさい、
地元から離れてたんだね。
そうそう、地元から離れたところで、
教員1年目で一人暮らししながら、
教師やってたんですよ。
一旦地元に戻るってことで、
その時一人暮らししてた場所と、
自分の実家がね、
大体40分ぐらいで帰れる場所だったんだね。
一旦それで地元に帰って。
電話とか、
最初地震起こってすぐに、
親父の無事は確認してたから、
無事なんだろうなと思って。
心配して帰ったつもりで言ったらね、
39:00
うちの親父に、
何度お前帰ってきたのか、
クイブチ増えたなとか言われて。
嫌味を言われて。
しばらく実家で過ごしたんだな、
俺その時は。
でも、木の幹のまま帰ったというか。
地元の、
自分が育った出身小学校が
避難所になってたから、
その体育館でみんな雑魚寝とかで
避難してて。
うちは実家は被害大したことはないから、
自分の家で全然いられるんだけど。
せめて何かしようって言って、
避難所のボランティアみたいなところで。
さっき田中さん言ってたけど、
救急車来るから、
救急車の列作るの手伝ったりとか、
救急車で水汲みするのの手伝ったりとか、
そういうのをしてた。
みんなやっぱり、
ボランティアとかやってるし、
当時やっぱり協力し合ってたっていう話は聞くけど。
あの時は、
なんだろうね。
いや、もしかしたらやっぱり
略奪とかさ、
救急車の列作るの手伝ったりとか、
救急車で水汲みするのの手伝いのボランティアとかしてた。
そういうのを覚えてますね。
なんか、みんなやっぱり
ボランティアとかやってるし、
略奪とかさ、
そういう悪いことしてた人もいるかもしれないけどさ、
なんかみんな、
必死だった感じがするよ。
避難所とかでさ、
地元の中学生が結構手伝ったりとかしててさ、
こういう子供たちがいるから、
大人もしょげてらんねぇなっていうか。
どうですか、今思い返して。
3.11の捉え方というか。
やっぱね、あの日とは
あれ以前だとやっぱり
くっきり日常が違うよね。
すごく
大きな出来事だったっていうのは当たり前なんだけど、
やっぱ震災以前と震災以降で、
人生二つに分かれてる気がする。
あの時ね、
去年1年目でもあったんだけど、
おふくろをね、
去年1年目の時に、
4月に亡くしてて、
その1年目がようやくこうやく終わるかっていう時にさ、
3.11の前日が
おふくろの誕生日だった。
なんかよく分かんないけど、
何なんだろうね、これは。
何なんだろう、これはかっていうのは分かるな。
全ての当たり前に思ってたことが
当たり前じゃなくなっちゃった日だったね。
電気もガスも水道もだし、
自分の命もだし。
42:00
急にね、日常が
失われるというかね。
非日常だよね、あんなの多分ね。
もうしばらくね、海沿いの景色は
大変なことになってたし。
幸いにして、俺もさ、
親戚とかでも、
直接的に亡くなった人はいなかったし、
家族とかも
無事だったんだけど、結構命がガラガラだったりして。
そういう人よく聞くよね。
さっきの前坊さんじゃないけど、
1日日がずれてたりとか、
本当にこの選択肢で
左行くか右行くかで
結果が違ってくるっていう人も
いたわけだね。
そうだよね。だって、
俺なんて教員1年目なんてさ、
どこに行くか分かんなかった年だからさ。
たまたま内陸のね、
被害はあったんだけど、
それでも津波とか来なかった場所に
赴任してたから、命あって
五体満足で
いられたけど、
それが海沿いの町
だった可能性だってなくはないし、
同期の結構仲いい人もさ、
海沿いの中学校にいて、
道なき道を避難してる最中に
ちょっと怪我しちゃって、
ちょっと休職したとか、そういう話も聞いたりしたし。
当たり前が当たり前じゃなかったね。
いろいろ思いましたけど、
前にもこの番組で書けたことあるんですけど、
どうしても
何か
災害とかあると、
どうしても
自分の頭の中からちょっと離れない歌ではあるので、
ちょっと流してほしいなと思います。
ソウルフラーユニオンで
満月の夕べ、お願いします。
お聞きいただきました。
ソウルフラーユニオンで
満月の夕べでした。
先生ありがとうございました。
いやー難しいテーマですね。
今の3人の聞いてたけど、
やっぱみんなそれぞれ
違うシチュエーションで
経験したというかね。
僕も先生と同じ歳なんで、
僕も社会人
多分1年目です。
そうなんです。社会人1年目で、
僕ずっと先生の
生まれてから大学まで離れたこと
なかったんですけど、
ちょうどこの2011年
3月っていうのは広島に
仕事でいたんですよね。
当日
ちょうど僕も会社に行って、
東北で地震があったらしいよ
みたいなざわつきを
オフィスで感じたんですよ。
広島の電気もインフラもそのままなんで、
テレビを見てました。
45:02
広島だとさすがに一切揺れなかったんですか?
一切揺れないし、
すぐにやっぱり
ニュース速報というか
切り替わったよね、特番に。
今でも忘れられないのがね、
僕がはっきりと覚えてるのは
津波で車が
おもちゃのように流されていく
あの映像なんですよ。
あったね。
これ
宮城みたいな。
あれ多分
僕のショックと
3人のショックって多分
なんか違うんですよね。
どっちかっていうと
これ聞いてるリスナーさんとか
の感想に近いかもしれない。
あのテレビを見てた。
当日リアルタイムでは
見てないんだよ、それ。
俺も
ライブで
見た映像って
でもあれ以来
一切流れないんだよ。
そうなんだ。
やっぱりいろんな
大人の授業というか配慮とかがあって
あの映像は一回しか見てないね。
なんかトラウマ
SDの考慮で
なんか
本当、私もだから
いまだにそれ見たことない
見たことがない、多分3人はそう
被災地にいた人っていうのは
多分見てないと思うけど
あれはもうね
むちゃくちゃショッキングだったんですよ。
地元でああいうなんか
おもちゃのように車が流されてるっていう
あの空からの映像
あれはもう
仙台空港に津波が押し寄せるやつとかも
すごい覚えてるんだけど
それは何回か後でも
見ることはできたんだけど
車が津波で流されてるっていうのは
なんかね
あれっきりだったっすね。
あれがやっぱり一番僕はショッキングだったな
当日は
いやなんかね
信じられなかったですよ、本当に
なんかそれは
今でもその戦争とか
なんか
ノートの地震とかね
そういうのこう
テレビ見てなんかこう
私も先生いろいろ
まあいろいろこの番組でしゃべってるけど
心が痛むじゃないですか
なんかこう
それとはなんかね
また別の感情
だったんすよね
なんかあれはあれで
なかなかうまく言語化できないけど
心が痛むとかっていう
なんかもうそういうんじゃないんだよね
なんかあれはね
なんだろうね
あれっていまだにこう言葉にしづらい
というか出てこないけど
なんでしょうね
なんて言ったらいいんだろうね
なんて言ったらいいんだろうね
あれって
そう
例えばどっか遠いところで誰か亡くなったとか
そういうので心痛むとかなんかあるじゃないですか
戦争とか
そういうと違うよね
48:00
あの感覚ってね
なんか本当に
怒ったのかなみたいな
現実感がないみたいな
現実感なかったですね
なかった
ゴールデンウィークに戻った時もなかった
なかった
僕はそのやっぱり
広島にいたので
謎のね謎の
罪悪感はありました
あのね
それね俺もあったよ
なんだろう
被害が大きい
県ではあるんだけど
地域としてはさやっぱ梅沿いから
被災地域で
あって
俺は被災者って言っちゃいけねえな
みたいなところもあったし
あったあった
わかります
自分のことなんか
まあそうだね
謎の罪悪感というか
やっぱりあって
うん
そのためなのかわかんないけど
やっぱり復興とかね
地元のために何かしたいという思いは
広島からでもありましたね当時ね
そういう思いはありました
うん
でやっぱり
今じゃあそれをね
13年経ってどうこの3年1日を
思うかというところですけど
やっぱりねなんだろうね
時間かかりましたよ
これ喋るのって
うん
わかんないんだけど
さっきちょっと言ったようにね
なんかね
簡単に言葉が出てこないっていうか
そういう
まあ
事案でしたよね
これってね
俺ってほら
あんまりこの番組では言ってないけど
昨年ぐらいまで
結局は
ずっと2011年から
震災復興
いろいろやってきたわけですけど
2本あげて
その関連の仕事を
ずっと僕はしてたんですよね
昨年まで
そうずっとしてて
やっぱり
一番被害がひどかった
海っぺり
のところに僕も住んでましたし
その仕事の関係で
実際に本当の
家族を亡くされてる人たちとも
接してきたわけですよ
本当に仲良くさせていただいて
やっぱり
そういう人と付き合いも
あったからなのか
軽々しく語れなかったというか
俺もねやっぱり
地元の人たちに
聞けないのよこの話って
なんか聞いちゃいけない気がしてさ
いやまあ
ご本人たちはどういうふうに思ってるかわからないけど
聞けなかったよね
ずっといたけど
うん
なんかこの話題を
話すに当たって
なんか自分の
発言とかで
51:00
自分は何気なく
言ったことなんだけど
誰かを傷つけてしまうんじゃないかとか
いうのを
考えるし
管理人さんが仲良くしてもらった人に
これを聞いちゃったら
なんかチクッとなんか
嫌な思いになるんじゃないかっていうのを
そうだね
気にして聞けないっていうのはすごいわかります
その人たちがこの記憶とかを
呼び起こさせない方がいいんじゃないかという
配慮とかもあったりですね
そういう
思いがあってなかなかやっぱ
ずっとその人たちと接してたけど
最後までやっぱり聞けなかったよね
この話っていうのはね
何があったか全部知ってるからさ
当時悲惨だったことをさ
言っちゃえば
管理人さんがいた地域って
本当に町一つ丸々
亡くなった地域
そうですね
そこにやっぱ数年行ったからね
なんかやっぱり
一人一人の被害の状況とか
身の回りの一人亡くなった人が
いるかどうかとか
っていう捉え方がやっぱり
ちょっと微妙にだったり
全く違っていたりする部分があるので
そこを話題にしづらいですよね
しづらい
テンションを合わせるのが
むずいというか
決して勘違いしてほしくはないんだけど
その人たちはすごく前向きに
未来思考で生きてるしね
なんか後ろ向いてる感じはしなかったから
それはよかったんだけど
じゃあちょっと次の今だから言えること
っていうところいきますよ
さっき前坊さんも先生も
言ってた例のラジオニュースっていうのは
俺も聞いていて
あれはちょっとね
あれを本当に言っていいかも
ちょっと俺はわからなかった
むしろお二人が先に言ったんで
よかったんだけど
あれもトラウマですね
そのラジオニュースっていうのは
俺も全然あれがね
でもなんで俺知ってんだろうと思って
全国ニュースだったんだね
だから
俺は広島で聞いてるんだ
だからそういう意味では
全国の人が多分あれを聞いていて
結構やっぱり重いものがあると思うね
今までね
テレビで当時の津波のニュースとかって
結構流れるじゃないですか
津波のニュースが流れるし
さっき俺車が流れてるのが一番
印象に残ってるって言ったんだけど
本当は
それと同じくらい
きつかったのがあれなんですよね
気仙沼ちょっと言っちゃいますけど
気仙沼が燃えてる
映像が当時流れてたんですよね
夜に
54:00
火の海で
あれも当然もう流れないんですけど
あれはきつかったね
今だから言えるけど
いやなんか本当に
僕らが見てるのは多分本当に
広島から見てたから
一部なんだろうけど
本当にもうなんかこう
いろんなことがあったんだろうなっていうのは
想像します
いろんな災害的
がれきとかがねいろんなゴミとかほら
いっぱい流れ着いたりもしただろうしさ
ということで
なんかこう
少しだけ語れた気がしますね
なんかこの
あの13年
かかりましたけど
で2000
第20回か
あの時の地震の時
からもまあ2年経っちゃいましたけど
まあ少し
語れたかなと
いうところですね
このテーマをやっぱり
語るのは東北の
人のなんかまあ
義務というかまあ使命というかね
他の県の人はまあこれを
なかなか話せないでしょうから
実際に経験した人であったり
見てた人がね
やっぱり
語らなきゃいけないかなって気は
僕は語り継ぐというかね
なんか残さなきゃいけないかなっていう気は
しますよねどっかで
そうだね
語り継いでさ
その間もなんかねこっちの地方のニュースで
書いてあったんだけど
今の小学生のさ
3分の1とか
なんだろうな
あの正確な震災の日付を
言えないとかそんなのも
ニュースになってたんだけど
あの知らなかった世代に
教えなきゃいけないっていう気持ちもありつつさ
あとね俺
自分自身も
何回もなんか
思い出させなきゃいけないなっていう
思いはあるな
それは
なるほどね
すごい
生かされた感がすごいあって
なんかそれ
薄れてるわけじゃないんだけど
やっぱ忘れがちになってしまうところは
あるよね
まあどうしても
時間の流れで風化してしまう
部分とかがね
ありますからね
ただ
今日いろいろ
言いましたけど
実際に一番被害がひどかったところに
何年かいた私の
思いとしてはですね
どうしても震災の近くになると
テレビとかニュースで
取り扱うじゃないですか
その被災地ってやつをね
それ以外にも
注目してというか
すごくいいところなんで
ぜひこれを聞いた人とかいれば
ぜひ
前向きにというか
観光に来てもらいたいなというのが
ずっとそこにいた
僕の思いではありますね
57:00
復興してますからね
ちゃんと
すげえいい場所だよね
本当にそれが一番
その
被災地って言い方ももうどうなのか
わからないですけど元被災地なのか
わからないですけど
そこにいる人はそれが一番やっぱり
いいと思うんで人が来てくれることがね
その3.11の時だけ
メディアが行くんじゃなくてね
って思いますよ
うまいもんとかもいっぱいあるんでね
魚介もうまいですし魚を食いに来て
もらいたいもんです
ということで
曲に行きたいと思います
曲がですね
これがね
覚えがありますよこれは
あの
さかのぼること第20回
ちょうど述べた私と先生でやったの
宮城福島
地震の後に
あの時何を喋ったかっていうと
震災の翌日に
もう気持ちが落ちちゃって
本当はその日アイドル特集をやるつもりだったんですけど
そうそうそうそうだったよね
アイドル特集の話だったよね
その時
そんな気持ちになれない
でも無理やり気持ちを上げたいってことで
僕かけたのがプロレスの
ないとーてつやの入場テーマと
スーパー戦隊の
オープニングテーマ
それと影山博信の
チャラヘチャラだったんですよ
ちょっと泣いてしまった
それは
ちょうどね
ここ数日鳥山先生の
譜報なんかもあって
あーっていう思いもあって
さっき思い出したんですけど
その話も
その時僕が
番組の中でちょっと話したのが
そういう気持ち落ちた時とか
震災の時って
スーパーヒーローを求めるっていうか
気持ちが
音楽聴けない気持ちもあるんだけど
やっぱりヒーローを求めちゃうところが
あるんですよね
で今回かける曲が
ヒップホップのね
ブルーハーブ
スーパーヒーロー
っていう曲なんですけど
ちょうどね
この曲
自体は2019年のアルバムの
曲なんですけど
震災を歌っているんですね
震災をまさにテーマで歌っていて
ミュージックビデオがね
ちょうどこの3月に公開された
おそらくだから多分3.11
を前にして
新たに公開された
ですね
でブルーハーブが
3月の17
来週かな
日曜日石巻に来るんですよね
おお
うん
なんかすごくこう
思いがあるなと思ってブルーハーブは
そういう意味でも
はいということでじゃあね
えーと
聴いていただきたいと思います
1:00:00
じゃあザ・ブルーハーブでスーパーヒーローですどうぞ
はいということで
ザ・ブルーハーブでスーパーヒーローを
聴いていただきました
ということでエンディングです
まあということで
本当ね
いつそういう地震って来るのは
予見できないですから突然で来ますからね
うん
今のうちに
備えれるものは備えておかなきゃな
というふうに僕も
元旦の地震を
見て思いました本当に今なんかすごく
防災グッズみたいな
あれってアウトドア
用品兼ねてるのもあるじゃないですか
うん
まあそういうところもあって少しずつ
手に入れられるものから
少し買ったりは
今してますね防災グッズなんかもね
あの今間違いなくさ
うん
地震とか多い時期だと思うのよ
地球規模で考えて
うんうん
正直ね
あの震災の前にさ
宮城県沖地震が
高い確率で来ます
半信半疑だったけど
言ってたもんね
実際来てさ
あんなでっかい地震も
その後
なんか生きてて
あるわけがねえだろうって思いもあったけど
うん
その後に俺記憶にあるだけでも
相当2回すげえ地震さ
こっち起きて
あるね
渡りの方とかもさ
うん
金河原がね
ダメになって直したと思ったらまたダメになっちゃったとか
そんな話もあったりとかさ
うん
すげえ地震がどんどん他人事じゃないんだよね
うん
3月16日もすごかった
ひどかったもんね
実家の被害はね
なんか割と最近あった
3月16日の地震
うん
おととしか
2022年ですね
うちの実家は震災のときはひどかったみたい
おお
落ちてきたとかそういう
うん
ちょうど僕もあれは避難した地震でした
はい
ということでじゃあ
ね
なんかすごく
貴重な回にはなりました
なんか
うん
音楽番組でおもはやなくなりつつあります
当番組ですけど
ここ削るかもしれません
うん
ミュージックプラストックもなくなるんで
はい
じゃあということでね
当番組ではご意見ご感想をお待ちしております
X
のDM
もしくはお問い合わせフォームから
いただければと思います
あとはねSpotify星の評価とフォローも
どうぞよろしくお願いします
はいということで本日は長丁場なところ
皆さんありがとうございましたね
お三方
ありがとうございました
1:03:00
ありがとうございました
ありがとうございました
ではまた次回
よろしくお願いいたします
Radio 39でした