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2024-07-05 42:47

自分の汗を誰かのために 後編 | Ireneさん(NPO職員) with mog

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Host

第十七回目のゲストはNPO法人日本ファンドレイジング協会で働いているIreneさん。1週間と思って東日本大震災の被災地へボランティアとして入り、気がつけば9年間も石巻市で被災地支援の活動を行い、現在はNPO法人を支援するNPO法人で働くIreneさんの働く話を時に広く、時に深く聞いていくことで、働くって何だろうを考えます。


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サマリー

アイリーンさんは東日本大震災のボランティア活動をきっかけに9年間石巻に滞在しています。彼女は人と人との関係を大切にし、被災地の復興に関わっています。被災地での生活の大変さにも慣れてきた中で、アイリーンさんは仮設新聞の立ち上げに携わり、地域のニュースや活動を取り上げて住民の頑張りを紹介し、地域の復興に貢献しています。2020年の1月に最後の一人として仮設住宅を出たアイリーンさんの体験を通じて、復興の過程でのストレスや見捨てられる感情などを考えています。防波堤に絵を描く活動やファンドレイジングについての話を聞きながら、復興の現場とNPOの役割について理解を深めています。

マイクロソフトからボランティアへ
はい、では後半戦ですね。Ireneさんのお話、 これまで前半聞いてまいりました。
後半からも聞いていきたいと思いますと。 これまでIreneさんのお話ですね。
まずはマイクロソフトという、超大手ですよね。 世界のグローバル企業に入っただけれども、
ビスタというですね、なんとも言えない、 いいんだけれどもやや恵まれないOSと出会ってしまい、
それがきっかけで自分のやりたいことを見つめ直す。
結果として社会貢献であるというものを見つけたIreneさんは、
ひょんなことから東日本大震災のボランティアに行かれると。
そこから始めは1週間だったのが、気づけば9年間になっていたんですよね。
そうですね。
9年間の間ボランティア活動をして、ここからまた東京に戻ってきて、
今いるNPOですね、日本ファンドレイジング業界で働かれているということになります。
後半からはですね、主にこの東日本大震災の被災地でのボランティアのお話を聞かせていただきたいなと思いますので、よろしくお願いします。
お願いします。
というわけで、マイクロソフトからいろいろな意味で大きなジャンプをしてですね、
ボランティアに行かれたと思うんですが、そもそもこのひょんな出会いというのが、
石巻でのボランティア活動
青年海外協力隊に行こうと思って会社を辞めて、そしたら東日本大震災が起きたというこういう流れなんですよね。
そうですね。何かしら社会貢献に大きく鍛冶を、キャリアの鍛冶を切りたいと思った時に、
思い浮かんだのがたまたま青年海外協力隊だったというわけで。
なるほど。
すごく別に子供の時から夢だったとかっていうわけではないんですけど、
課生隊員になりたいなと思って家庭科の教育免許を取るためにちょっとした学校に入りました。
そうなんですね。課生隊員になるために家庭科の教育免許を取るための学校にまで入っていた。
そう、1年、英語と社会の教育免許を持ってたんです。大学時代、教育学科だったので。
でもちょっとね、社会と英語では青年海外協力隊にはいけないので、他に何で行こうかなって思った時に、
私、お菓子作ったりするのが子供の時から好きで、お裁縫するのもすごい好きで、ずっと家庭科5だったんですね。
すごい。
これじゃないかと言って、海外留学してた時もあるんですけど、大学時代に。
留学してた時も家庭科っていう授業があるっていう風にホストマザーに言ったら、
そんなクラスはアイルランドっていう国にいたんですけど、アイルランドにはないと。
それはコックさんになる人が、そのクッキングのスクールに行ったらクッキングは学ぶけど、小学校でクッキングは学びませんって言われて、
家庭科って日本だけなんだなって感動したのを覚えていて。
それができたらいいなと思ったんですけどね。
ちょっとなし得ぬまま石巻で9年過ごしてしまいました。
いやいや、それはすごいなと。行動力が凄まじいなと思うんですね。
協力隊に行きたいって言って、協力隊って基本的には今あるスキルからできること、職種がたくさんあって、
それを探して自分にできることを探して、その職種に応募するっていう形ですよね。
その応募をするための準備を、わざわざ教員免許を取ってやるっていう話は聞いたことがなくてですね。
僕自身ももともと協力隊員っていうのがあるんですけど、聞いたことがなくて。
それは凄まじいなと思って。いや、語学の勉強をしますとかは結構聞くんですけど。
教員免許を取ってまでっていうそのモチベーションの持ち方は凄まじいなと思うんですね。
すごいなと聞いていて。そこからでも、じゃあ学校にも通っているステータスの中で、
2011年3月11日を迎えるわけじゃないですか。
で、それを見て自分にも何かしたいって気持ちが当然湧くだろうなっていうのはお話を聞いていてもわかるんですけど、
そのまま青年海外協力隊っていうプログラムは別に変わらなかったと思うんですよ。
停止しなかったと思う。海外ODAとか国内のあれは全く多分プログラムが違うので、
協力隊自体は、協力隊の正確に言うとですね、訓練所は被災したと思うんですけど、
訓練所というのが西日本松と細かいにある。日本松は被災したと思うんですけど、
プログラムはなくならなかったと思うんですよ。
つまり何が言いたいかっていうと、行くこともできたんじゃないかなと思うんですね。
しかも学校まで行ってるっていう状況じゃないですか。
そこから、いやでも現地のボランティアだっていう風になれたって何でだったんですか?
最初から別に9年行くつもりじゃなかったんでね。
1週間だけ勉強するつもりだったんでね。
そんなに思い切ってないんですよ正直。
結果として9年行っちゃったから、すごい決断をしたかのようなんですけど、
私一度も大した決断はしてなくて、
たった1週間ボランティアに行くために石巻に行き、
もう1週間いるかっていうぐらいのモチベーションで気づいたら1年経ち。
よく石巻に移住を決意しましたねとか聞かれたりするんですけど、
人間関係と継続の意思決定
別に一度も移住別に決意してないっていうか、
準備票を移したんですけど、準備票を移したのも運転免許を取るために、
試験を石巻で受けたいから移しておいたほうがいいっていうぐらいのつもりで、
別に一生石巻で住むつもりじゃなかったし。
なのでそんな大きな決断は実はしてない。
流れに流れて今があります。
それも面白いなと思う。
1週間っていうつもりだったら全然、
協力対応者さんの時は別に行くつもりで、
でも1週間だけボランティアしようと。
もちろんまだ受験してなかったので、
協力対応者さんはまだ勉強してるっていうステージだったので、
1週間。
現地で活動したらその経験もちょっとね、
試験の時とかに行くんじゃないかぐらいの打算もあったかもしれないし。
はいはいはいはい。
そこからこの1週間1週間が伸びていき、
1年になり9年になるっていうこの積み重ねというか、
スモールステップを繰り返すの、
苦問式みたいなものを少し覚えかけてしまったんですけど。
確かに。
1週間っていうマイルストーン、
このプリントを1週間の間これだけやればいいんだよっていう、
この意思決定が積み重なって9年っていう。
苦問式だと学力が上がるみたいな、
その白痴を見たなっていう気もしなくはないですけど。
とはいえですよ、
スタッフになるタイミングがあるじゃないですか。
つまりは初め1週間が伸びて1年。
1年間はおそらく無休でご自身の貯金を切り崩していたんだと思うんですけど、
そこからスタッフになるタイミングだと少しジャンプがあるのかなと。
つまりそこで切り上げる協力対路線もある。
でもスタッフになるっていうことはもうそこである一定の期間、
1週間というわけにはいかないっていう意思決定だと思うんですけど、
それはどうだったんですか。
そうですね。
当時はもうちょっと石巻にいたかったんですよね。
どうしてかなって思い浮かべると、
やっぱり石巻で長く活動してると出会う人たちがいて、
中にはやっぱりちょっと心配だなって思う方もいらっしゃったんですよね。
例えば私が初期の頃に手伝いさせてもらっていた水産加工工場があったんですけども、
その水産加工工場の社長さんがいらっしゃって、
すごい社員に対しては厳しい社長さんで、
常に隣散らしてるっていうか葉っぱをかけてるような勢いのある社長さんだったんですけど、
やっぱり7メートルの津波にあい、工場は本当に全開状態で、
再開させるにあたっては何億円もの借金を、
もう60過ぎなのに背負うわけですよね。
すごい決断だったと思うんです。
ご主人もすごく実は不安だったと思うんですよね。
しかもその周りの社長さんの周りの方で高校の同級生だったりとか、
近くで同じように中小企業の社長をやっていた方っていうのが2人、
立て続けに震災後自殺されたんですね。
身近な人が自死をするっていうのってすごく影響されちゃうっていうか、
下手すりゃ自分もみたいな気持ちになりがちかなと思うんですけども、
本当に死んでしまった方が楽なんじゃないかと思う時があるっていう話を
私にしてくださった時があって、
普段は社員の方の前とかボランティアさんの前とかあれば
すごい元気のいい社長さんなんですけど、
私の前で、私はすごく長く毎日毎日校長に通ってたのでね、
私の前でそんな風に言ってくださって、
すごい心配になっちゃって、
もうその社長さんが自殺する夢を見るぐらい心配になっちゃって、
この社長さんがもう大丈夫、もうこの人大丈夫だって思うまでは
私は石巻にいて代わり続けようっていう風にその時思ったんですよね。
そういう意味で、ちょっと心配な方々が大丈夫になるまで、
私は石巻を離れないで、
そばにいるよ、いつもいるよ、何かあったら連絡をしてね、すぐに行くよ
みたいな、そういう関係でいたいというか、そういう立場でいたい
みたいなのが気持ちとしてありましたかね。
もう1年いたほどに寄ってできた人間関係というか、
人と人とのお付き合いなのかなって今お話を聞いていて思って、
ボランティアもこう、単純に助けに行ってやるみたいな感じではなくなってくるじゃないですか。
初めはもしかしたらそういう思いなのかもしれないですけど、
僕自身も海外に行って、それは感じたんですけど、
だんだん人間同士の付き合いになってきて、
支援と非支援者みたいな感じじゃなくなってきますよね。
それが、アイリーンさんを石巻により強く結びつけていったというか、
社長さんの話もそうですけど、おそらくいろんな方がいる中で、
その人間関係をしっかりと守っていきたいというか、
そういった思いだということですかね。
そうですね、本当におっしゃる通りで、
人と人としての関係というのがどんどんできているし、
ボランティアしていると自分が助けられることもたくさんあるじゃないですか。
差し入りいっぱいいただいたりとか、
どれだけお魚ご馳走になったかわからないですけど、
そういうことだったりとか、年齢が上の方だったりとかすると、
私のこといろいろ心配してくれて、人生のアドバイスをくれたりとか、
人と人としての関係というのができてくると離れがたい。
キャリアだけで見ると、もしかしたらどこかのタイミングで石巻を切り上げて、
青年会が協力隊にもし行ってたら、また今違う人生を歩んでたかなとか、
こういうキャリアの可能性もあったかなとか思ったりはするんですけど、
やっぱり当時の私がその選択はできなかったなって。
でもすごい関わってくださって、
その社長さんは今でも元気で新しい工場、内陸の期待しないところに立ち上げられて、
その工場も見学にも行かせてもらいましたけど、
本当によかったなと思って、
それは私が別にずっと石巻にいたからだけではないというか、
もちろんその社長さんが頑張ったからなんですけど、
でもそのプロセスを曖昧場で垣間見させてもらえてよかったなって。
本当に素敵な話だなと思ってですね、
なんでしょう、胸が熱くなるというか、
なかなか内地の話って、
最近やっとみんなまともにできるようになってきたかなとは思うんですけど、
しばらくあれを体験した、
僕自身は東京にいたので、そんなに直接被災したわけではないんですけど、
ただ映像で流れてきたものの衝撃を残すものって、
それなりにあったなと思っていて、
なかなか語れない時期があった、
口を閉ざすがられないという時期もあったかなと思うんですけど、
今改めてもう時間が経って話を聞いてですね、
こういう話が聞けるのはすごく嬉しいなと思うんですね。
しかも生のその現場にいらっしゃってということですので、
被災は結構直後に入られているってことですか、そういう意味だと。
テント暮らしと石巻でのボランティア活動
被災から1ヶ月ちょっとぐらいかな、4月の下旬ぐらいです。
そうですよね、かなり早い段階で、
受入れ体制が整うか整わないかぐらいのところで入られている。
そういう意味ではじめはテントなんですよね。
そうですね、はい。
テント暮らしっていうことは、自分たちで食料とか水も全部持っていった状態で、
テントの場所だけ借りるって感じなんですか。
テントも持っていくんですけどね。
そうですよね。
テントを建てる場所だけ貸してくださいみたいな。
そうそうそうそう。
でも私、あんまりアウトドアしたことがなくて、
テントを建てるの初めてだし、寝袋で寝るのも初めてだし、
でももちろんそうおっしゃっていただいたように、水も食料も全部1週間分持っていくので、
準備をして集合場所の新宿駅に行くのが一番大変で、横浜から。
当時計画停電っていうのがあって、節電節電ってすごかったんで、
エレベーターとかエスカレーターとか止まってて、
ちょっと困りました。階段登れないんですけど。
なりながら、なんとか新宿駅に行って、そっからエコバスに乗っていくんですけど、
正直そんな大変な思いをして、
石巻って1週間も、しかも1週間もちろんお風呂にも入れないわけですよね。
そんな生活したら、私めっちゃ偉いんじゃないかと思ったんですよ。
偉くないですか?と思って。
確かに。
さぞかして私偉いと思って行ったんですけど、
1週間全身筋肉痛になって、3日目からテントの中で起き上がれないぐらい痛いんですよ。
泥かきするんでね、全身筋肉痛で。
そんな全身筋肉痛になって、大人が最初の2日は15人で1軒担当したんですけど、
放射能問題と石巻での生活
15人で1軒のうち泥かきしても、2日かけても終わらないんですよ。
そうなんですね。
っていうぐらい泥がすごい量。
水を吸った畳なんかもめちゃくちゃ重くて、
台の男5人、6人でも本当に持ち上げられるかどうかっていうぐらいっていう作業で、
こんな1週間やっても全然変わらんやん、街って。
これがね、もちろん石巻だけじゃないわけですね。
遠岸部、東北の広い遠岸部、全部こんな状態かって思ったら、
1週間ボランティアしたぐらいなんも偉くないと思って、
もう1週間、もう1週間、というわけですね。
これもすごいなと思うんですよ。
そこで心が折れちゃう人もいるんじゃないかなと思うんですね。
こんなことずっと自分にはできないし、きりがない。
途方もない話じゃないですか。
だって家が何万軒そこにあるっていう世界線の中で被災した、
泥かきをしなきゃいけない家がたくさんある。
それを1軒ずつ地道にこなしていくことの途方もなさってあると思っていて、
それに圧倒されちゃう人もいると思うんですけど、
そうではなくて、私全然すごくない。
もっと頑張らなきゃって思えるアイリーさんが、
それはすごいなって思うんですけど、
なんでそう思えたというか。
情報が少ないっていう良さみたいなのもあって、
テレビとかないわけじゃないですか。
テント暮らしだからね。
東京に帰れば、東京とか当時は横浜か、
横浜に帰れば朝から晩までテレビ見てるぐらいしかないみたいな感じになりますよね。
そうすると、
なんて自分は役に立たないだろう、何もできてないとかっていう気持ちになっちゃったり、
当時すごい放射能のニュースが、
毎日毎日何百ドルとか、
いろいろあったと思うんですけど、
すごいそれに一喜一憂じゃないなって、
うおうさおうして、水飲んでいいのかとか、
これ食べていいのかとか、
すごい気にしてたと思うんですけど、
下牧に行けば放射能なくなるんですよ。
情報がないから。
誰もそんなに何ベクレルとか、誰も気にしてないから、
ここ放射能薄いみたいな感じで。
近いんですけどね、東京と比べると福島の距離は近いんですけど、
でもすごい東北に行くと放射能から解放されてる、
なぜなら情報が入ってこないかと。
感じがありまして、
仮設絆新聞の立ち上げと活動内容
それよりかは目の前の泥滝を、
ちょっとでも1ミリでも、
前に復興が進むんじゃないかっていう気持ちになれるので、
すごい前向きな気持ちになりましたね、横浜にいるより。
あーなるほど、今その話すごい、
なんだろう、違う現実というかがあるなと思って聞いていて、
僕なんかは東京にいた立場なんですね、その当時。
なので放射能あったんですよ。
すごい怖かったですよ、よく覚えている。
テレビで見る酷さ、現状の酷さみたいなものに、
ただひたすら絶望するみたいな、
無気力にテレビを見てしかなくなるみたいな状況ですよね。
ただ一方で記載した現実、
目の前は泥だらけみたいになると、
手を動かさずらえないっていうリアリティが、
多分そこにあって、
もっと密度が違うリアリティがそこにある。
かつ目に見えない放射能みたいなものは、
情報がなければないのだから、
そんなことを気にしても仕方ないというか、
むしろ遠くにいるリアリティが薄い我々の方が、
そちらをただ怖がる。
東京にいる人たちの方が怖がる。
それは別に言い悪いの話ではなく、
誰かを責める話ではないとは思うんですけど、
リアリティの迫り方が全然違う中で、
単純に東京からいる側からしたら、
なんでそんなことできるんだろうっていうことが、
違うリアリティを持って迫ってきたときにはできる。
つまりこの泥を掻くしかないじゃないって気持ちに、
なるんだろうなっていう話を聞いていて思いましたね。
そうですね。
目の前に掻く泥があってよかったわ。
そうなんですよね、逆に。
目の前にやることがあってよかった。
確かに確かに。
すごい前向きな気持ちになるっていうのは確かにそうなんだろうなと。
多分東京の方が、もしかしたらそういう意味だと、
エネルギーの持ち方としてはネガティブだったかもしれない。
被災地は被災地の当然悲しみがあったと思うし、
絶望もあったと思うけれども、
でももう明日生きるしかないっていう状況の中では、
これを考えるしかないってことですもんね、ある意味では。
そうですね。
何度かずっと石巻にいたわけじゃなくて、
東京に帰ったりする時もあったんですけど、
石巻に帰ってくるたんびに、
あ、なんか楽だわってやることいっぱいあってよかった。
あとね、生活の大変さって慣れるんですよ。
お風呂入れないのとかも考えられないと思うじゃないですか、
1週間お風呂入れないのってどういうことって思うと思うんですけど、
それはそれでちゃんとノウハウがありまして、
お体に拭くとかシートで拭くとか、
水のいらないシャンプーとか、
いろいろ知恵があったりするので、
慣れました。
その適応力はアイリーンさんの強みなんじゃないかなと思いながら、
いやでもそこでこう、
若かったからできたのかも、
20代だったからできたかもしれない。
ちょっと今1週間お風呂入れないとかしんどいなって、
一応思います。
ありがとうございます、そうですよね。
その中で、とはいえ一週の巻でやることがある。
この前向きなエネルギーの中で、
ご自身が社会貢献したいというような思いもある。
そこも合致して、結果として9年暮らすことになると思うんですけど、
活動の後半、スタッフになってから、
仮設絆新聞でしたっけ、
編集長をやられるっていうことだったと思うんですけど、
これはもう、仮設絆新聞というのを作ろうという時から、
立ち上げからずっとやってるって感じなんですかね。
実は立ち上げのタイミングは、
工場の支援担当してたので、
毎日水産加工工場に通ってたので、
ちょっと固めで、そういう仮設の支援始めるんだなっていうのは、
別のチームが動いてて見ていて、
始まってから1ヶ月ぐらいしてからかな、
当時はボランティアで新聞発行していた方がいたんですけども、
その1人で新聞の使命を作っていたので、
もう1人ぐらいいた方がいいだろうということで、
その時に、「アイリンちゃん、
君、元マイクロソフトらしいね。
パソコン得意だよね。新聞作れるんじゃない?」
みたいな。
メールを打ったことがあったんですよね。
議事録を送るか何かの時に、
その団体の当時の現地の代表の人に、
メールを送った時に、
まず営業だったので、ちゃんとしたメール。
お疲れ様な団体なので、お疲れ様ですから始まり、
以上よろしくお願いしますって終わるようなちゃんとしたメール。
あのメールがかけたら、記事かけるよって言われて、
いやいや、やめる。
ビジネスメール、勝たなかった。
誰でもできるからと思ったけども、
確かに私もマイクロソフトに入った時は、
当初はあんなメールかけなかったよねっていうのを。
でも4年ぐらい勤めてたので、
かけるようになった。そのメールを見た団体の代表の人が、
文章かけたら大丈夫だよって言って、
後で工場の支援から、
新聞係みたいに新聞作る人になって。
なるほど。
そうだったんですね。
それもまた面白いの。ありますよね。IT系など何でもできるでしょみたいな。
テレタイプみたいなのもありながら、
じゃあ偶然新聞を作ることになって、
新聞の紙面構成、それこそインタビューとかニュースとかって話なんですかね。
仮設住宅の中で。
そうですね。
いろいろ、私も新聞配りに行ったりして、
住民さんからお話を聞いて、
こんな記事が喜ばれるんだっていう経験値を貯めていき、
どんどん新しい、こういう記事書いたらどう、
こういうのを載せたらどうって提案していって、
どんどん新聞が充実してきたんですけど、
団地へお邪魔しますっていうコーナーがあって、
仮設住宅で暮らしている方で、
すんばるしい活動している方とかだと、
雲の上すぎて、
読んでる方もふーん、すごい人いるねみたいな感じになっちゃうんですけど、
すごい、ちょっと頑張ってるみたいな。
最近、
おばあちゃんになってからピアノを習い始めて、
それでぜひ団地の人に喜んでもらいたいって言って、
団地の集会所でピアノの演奏会をした、
すごいちょっと拙いというか、
頑張ってピアノ弾いてみんなに喜んでもらいました、
みたいな小さなニュースというか、
っていうのを取り上げたりして、
そうすると、大変だけどみんな頑張ってるんだな、
団地団地で
いい暮らしができるようになって、
より充実したコミュニティができるように、
みんなそれぞれのところで頑張ってるんだな、
っていう風に思うと、自分も頑張ろうって、
自分も頑張らなきゃっていう気持ちになるらしいんですね。
っていうのを住民さんとお話ししている中で
気づいて、そういう記事を載せてみたり、
あとはやっぱり、
もともと住んでいた地域っていうのは被災しているので、
内陸の方に仮設住宅が建てられることが多くて、
そうすると、もともと自分が住んでいた地域が
今どうなってるのかっていうのを知りたいっていう声があるんです。
その地域が今どうなってるのかとか、
これからどうなっていくのか、
どういう復興計画になっていくのかっていうのがやっぱり
知りたいっていう声があるので、結構沿岸部の復興
アイリーンさんの仮設住宅生活
まちづくり会議みたいなのとかも何回も参加させてもらって、
そこのレポートを書いたりとか、
またその沿岸部の方で行われているイベントに
自分も参加してみて、こういうイベントで
こんなににぎわいがありましたよとかっていうのを
伝えたりとか、
やりましたね。
いろんな地域に行きながら。
面白いですね。
1回に実は新聞配りを
メインで担当していること、
大変なことがあって、
初期の頃、私が編集長になったばっかりの頃に、
街中にやっぱり出てきてほしい。
仮設から一歩外に出て、
街中のところに来てほしいっていう思いがちょっと強くて、
街中の記事ばっかりみたいな新聞になっちゃった時が
あったんですよね。
そしたら、こんな新聞誰が読むかみたいなことを
めっちゃ言われて、
いやいやいや、一生懸命書いてるんだし、
しかもこれを載せてほしいっていう依頼もいっぱい来るんですね。
キズナ新聞っていうのを
仮設に向けて、
4,000枚とか7,000枚とか印刷して毎回発行してるっていうのを
地元の人たちもだんだん知り始めるんで、
これ載せてほしいっていう記事も来たりするので、
満載にしたら、たまたまその後は
街中特集みたいな感じになっちゃったんですよね。
仮設に住んでる人たちのみんなが街中に興味がないと、
ほぼ興味がないと、
みんな足がないんだし、街中には行かないんですと。
街中の記事で読めてくれるなって感じで
大変化になって、
でも私もぶち切れて、もう新聞なんか書いてやるもんかみたいな。
私が新聞書かなかったら、あんたたち新聞ないんだからねって言って。
もう大泣きして、
1日ぐらい家で伏せるみたいな。
そういう時が1回あったんですけど、
その時に結構いろいろ議論をして、
新聞っていうのは幕の内弁当なんだと。
記事が載っていて、
バラエティーみたいなと。
自分の興味のある記事ばかりじゃないけども、
でも興味が持てる記事も1つや2つは必ず載ってるっていう
そういう状態を作っていて、
すごいバラエティーは気をつけましたね。
新聞から伝わる地域のバラエティー
新聞は幕の内弁当なんだって、
すごいいい言葉だなと思って。
確かにそうだなという。
端子とかだと本当に地域の、
行事だけが載ってるみたいなのがありますけど、あれ読まないですよね。
なんだけど、たまに手に取る新聞が面白いなって思うのは、
なんか謎のコラムとか載ってて、
それが妙に面白かったりとか、
でもそれって多分人によって着目するポイントが違う。
豆の煮物が好きな人もいれば、
玉子焼きが好きな人もいて、
そうではなくて載ってる梅干しが好きな人もいるみたいな。
なんだけど相対として美味しいみたいな。
そういうものが新聞は大事であると。
そういうことかなと思っていて、
それって別に大きな新聞も小さな、
でも6千文、7千文って結構大きいなと思うんですけど、
それぐらいの新聞も全部同じで、
すごく真摯に取り組まれていたのかな。
それがすごい伝わってきたのかと思うんですけれども、
いい話ですね。
この新聞をご自身で引き継いで、
ご自身が代表となっても継続されるわけじゃないですか。
継続されるながら、
まくのち弁当、美味しいまくのち弁当を作っていたんだと思うんですけど、
最後、まだ今も続けられていると思うんですけど、
一旦引き継ぎになるのが2020年の1月なんですよね。
この時のお話、
結構感動的な何かを期待してしまう、
そういう下心から聞くんですけれども、
メモリアルだなと思っていて、
つまり、仮設住宅から誰もいなくなる最後の一人と
立ち会った人ってことなのかなと思うんですね。
最後の一人の体験
言い換えれば。
それって仮設住宅があるよ、
孤独死とかあるよってみんなが言って、
新聞とかニュースで問題になる、
あれは想像していて、
ただリアリティがなくもそういうものもあるんだな、
それでもみんな忘れてしまう、
記憶の彼方に飛んでいってしまうと思いますと。
そこをずっと追って最後の1、
Nイコール1を見た人の話ってなかなか聞けないなと思うんですけど、
その辺りってどうだったんですか?
あんまりいい話じゃないかもしれないですけど、
ラスト2人になって、
この2人のうちのどっちかが最後の1人だなっていう感じで、
毎月新聞で届けに行って、
届けに行きがてなくお話をしてたんですけど、
最後本当に1人になった時に、
行政の方からは、
早く仮設出てくれってすごい言われてたんですよね。
もうここまでですよって言われてたんですけど、
延長期間ここまでですよっていうのの、
第一締め切り、第二締め切りじゃないですけど、
そういうのがあるのを、
ずっとなかなか出られないっていうご事情があったんですけど、
2人ともご事情があって、
ここまで来ていて、
最後は出ていく前に解体工事が始まったんですよ。
仮設住宅に。
仮設住宅に。
建てる建物は残しますよ、もちろんさすがにね。
一つの団地の中にいくつか塔がありますよね。
その別の棟とかは、
解体を始めたりしていて、
幕で覆って、
骨組み立てて、
本当に解体するっていう、
大きな重機も駐車場のところに入っていて、
外から見たら、
解体工事中っていう感じ。
解体工事中っていう風に見える中で、お一人で住んでいらっしゃったんですね。
なんてひどいことするのと思って。
担当者の、
早く出て行ってほしい感が、
ありありと感じられる状態だなって思って。
その中で、
暮らしている人のストレスって考えたことあるかもしれない。
思いながら、
最後、1週間、2週間くらいですけどね。
訪問していましたね。
すごいストレスだと思うんですね。
私がその時にそれを見ながら思い出していたのは、
仮設に住んでいらっしゃった方で、
仮設住宅の一時期集約っていうのが行われたんですよ。
石巻って133、134団地が最初あったんですけども、
それが徐々に歯抜けになっていって、
最後、5人くらいしか住んでいないような、
2世帯しか住んでいないという団地がいっぱいできてくるわけですね。
2世帯のために団地として取っておくって、
コストもかかるし、
団地の数が多ければ多いほどコストもかかるし、
治安的にもあまり良くない。
空き家ばっかりのところになるし、
管理も行き届かなくなるので、
雑草とかがものすごいことになるんですね。
なので、あまり一時期、
こっちの団地から別の団地に引っ越してくださいって言って、
仮設の集約が行われてきた時期があったんです。
その集約が行われるから、
あなたはそこそこ団地に引っ越してもらわなきゃいけませんって言って、
引っ越さなきゃいけない女性がいて、
なんとその集約先が決まってから、
実際に引っ越すまでに2週間しかない。
でも引っ越しラッシュだから石巻は、
どこどこでもずっと集約されてるから、
引っ越しラッシュだから平日にしか引っ越し屋さんは頼めなくて、
2週間後の平日に引っ越しをします。
だからそこにいる中学生のお嬢さんがいらっしゃったんですけども、
朝、仮設を出て行って、
中学校に行ったら別の仮設団地に帰ってくるっていうような。
その間に引っ越しをするしかない。
そういう状態で、
彼女は次の日まだ学校だから、
すぐに学校の生活が始められるように、
引っ越し屋さんに丸と投げないで、
すぐに生活が始めやすいように、
計算をして引っ越しの準備をしてたんですよね。
そうすると2週間ほぼほぼ徹夜で、
毎日毎日毎日彼女の仕事もしてたので、
昼間は仕事で、夜は準備をしていた。
5人家族だったんですけど、
お亡くなりのお父さんお母さんと、
おじいちゃんおばあちゃんと一緒に住んでいたので、
介護とかもすごく大変な思いをしていて、
引っ越しを終わらせたんだけれども、
半年後に脳卒中を起こして、
生きるか死ぬかという感じだったんですけど、
なんとか一命を取り留めたんですが、
今でも右半身が満腹しているという状態ですね。
それは引っ越しのストレスが効いた体に、
お医者さんにも言われたというふうに言っていて、
そういう極度のストレスで、
一生のことを体に及ぼす可能性がある。
3日寝込むとかじゃなくて、
脳卒中を起こした時には、
無視した右半身は戻ってこないですよね、
とかいうのを発覚しているのかなと思って。
そういう追い出し感がいなめない最後の一人だったので、
それに対して私自身も何か提言をしたわけでもないし、
市役所に文句の電話をしたわけでもないし、
何もできなかったんですけど、
最後まで話を聞かせていただいて、
大変だね、つらいねって。
不幸住宅に移られてからも、
何度か不幸住宅に移られてからも、
何度か不幸住宅に移られて、
不幸住宅に移られてからも何度か訪問して、
お寄せ伺いに行ったりとかしたけど、
それぐらいしかできなかったんですが。
やっぱりその時はね、
オリンピックを控えてたんですよね。
なるほど。
オリンピックの時までに、復興オリンピックとか言われてたので、
当時は、
オリンピックって言ってるのに仮設住宅がいっぱいあるっていう状態には、
なかったんじゃないかなと、
ちょっと焦っちゃったのかな、
なんてことを思ったりしました。
なるほど、ありがとうございます。
そうですね、そういう意味だと、
ややお涙ちょうだいみたいなお話を、
期待してしまった自分を恥じましたという。
恥じました。
ある意味お涙でしたけどね。
復興っていうものに関わってくる人たちの思惑が、
たくさんある中で、
多面的な視点があるんだろうなと思って、
お話を聞いていました。
その中で、
最後の一人になった方からの視点だとそうですし、
いろんなものが混じって、
復興、大きなものが動いていく。
その中の過程で見捨てられるものもあるでしょうし、
そこは全部見ているのが、
アイリーンさんなんだろうなと思って、
すごい貴重な、これは本当に貴重な話だなと思って、
貴重なお話ありがとうございますっていうテンプレートを飛び越えて、
いや、これは本当に。
9年間そこにいらっしゃって、
ほぼ復興イコールですよね、9年間って。
復興なんて何を復興というかですけれども、
ただ、アイリーンさんは、
ある程度生活を立て直すには10年という時間、
9年という時間はある程度は十分とまでは言えないですけれども、
必要な時間で。
それを見ていらっしゃったお方のお話としてですね、
すごい、
働く僕らという番組の趣旨を飛び越えているんですけれども、
でも全然個人的に面白いなと聞かせていただきましたし、
聞いている方もすごい、
これは貴重なお話ですし、
貴重かどうかわかんないですけど、
生々しいというか後味の悪かった、
綺麗な話ばかりじゃないんですっていうことも知っていただけたら。
いや、そうですよね。
本当にそう思って、いつも少し話変わるんですけど、
美術館にする活動と復興の現場
せめて復興で少し話題になったのが、
防波堤ですよね、
すごい大きな防波堤をずっと沿岸線に立てていくという話。
まあ、
あれは景観的にどうなんだろう、意味があるんだろうか、
みたいな議論があったと思うんですけど、
その防波堤に対して絵を描くことによって、
海岸線の美術館みたいな活動をされている方々が、
たまたま知り合いでいまして、
そうなんです。
その活動とかもすごく素敵だなと思っていて、
結局それも切り捨てられるもの、
切り捨てなければいけないもの、
行政の理由とかいろいろなものの中で、
後上げのいいだけの話じゃないなと思って見ていたんですけど、
それに対して、
じゃあここを美術館にしようよと、
絵をそこに描いていくっていうその活動、
その捉え方、
捉え方ってすごく素敵だなと思っていて、
そういうものが生まれる余地も、
復興の現場ではあるんだなと思ってですね、
そういったものを見ていたんですけど、
まさにこう一つの正解じゃないものをみんなでこう、
なんでしょうね、
わせわせしているというか、
そこに人間の生きる姿があるのかなと思ってですね、
今後石巻、僕なんかが何か言える立場ではないんですけど、
石巻さんとかどうなんだってすごく気にしてはいるんですよね。
ありがとうございます。
というわけで、だいぶ時間が経ってしまったので、
ファンドレイジングとNPOの役割
今度はファンドレイジングの話までいきたいんですけれども、
時間がね。
しゃべりすぎで、すいません。
いやいやいや、全然あれなんで、
この番組ですね、
2回目宣伝できていいですかっていう方もいらっしゃってですね、
おかわり会みたいなのをですね、
企画しているエピソードが何話かありまして、
もしよければエリーンさんにもおかわり会をして、
今度はファンドレイズの話を聞くっていう。
いいんですか。
ぜひですね、そういう会をしていらせていただきたいなと思いましたし、
よければですよ。
またお時間いただいてよければなんですけれども、
番外編をぜひよければ撮らせていただきたいなと思いました。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
よければ。
これ聞いてる方もですね、
それを楽しみにしていただければと思います。
この後ですね、実際復興に携わられて、
自分で団体まで立ち上げられている。
その経験を生かしてファンドレイズということをやられていると思うので、
ファンドレイズとは何なのか。
そしてNPOとして、結構重要な話題だと思うんですよ。
つまり社会課題を解決するっていうことに、
世の中の視点は少しずつシフトしている。
日本って少し遅れている印象があります。
別に早ければいいって話でもないと思うんですけど、でも重要ですよね。
その中でファンドレイズ、お金の問題って絶対に切り離せないと思うんですよ。
そこをどうしていくのかっていうお話はできればと思うので、
少し違う働く僕らとは違う番外編としてですね、
そのあたりはどうなっていくんでしょうねというお話、
ちょっと拡大して聞かせていただければと思うので、
次回はファンドレイズ協会、
日本ファンドレイジング協会か、
のアイリンさんとしてお越しいただければと思いますので、
よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
というわけで、一旦今回の働く僕らはここまでとさせていただければと思います。
本日のゲストはアイリンさんでした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
最後にですね、番組聴いてる方向けに番組の感想等々あれば、
Twitterのハッシュタグをはたらしてください。
番組の詳細欄に載っているGoogleホーム、
もしくはTwitterアカウントへダイレクトメールいただけると、
とても嬉しいなと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
では、以上となります。ありがとうございました。
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