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僕も初対面でおばあちゃんと呼びたいところなんですけど、今日はインタビューの中で、Tsuyaさんと呼ばせていただきました。
Tsuyaさんって平仮名なんですね? 片仮名です。
昔はって言ったら怒られるかもしれませんが、やっぱり片仮名のお名前って多かったんですか?
そうですね。 平仮名じゃないんですね。
私たちの当時は、Tsuyaという名前は、漢字やら何やらで多かったです。
私たちどこ行っても、Tsuyaさんって言いましたね。
本当ですか? じゃあ一人だけじゃなかったんですか? そうなんです。
ちなみに、Tsuyaさんのツヤっていうのは、どういうところから来てるんですか?
母がツルで、父がヤキチなんです。
本当にそれから? そうなんです。
まあ、末っ子なもんですからね。 どうでもよかったんじゃないでしょうかね。
Tsuyaさんは何人兄弟? 姉妹というか。
私が生まれる前に死んじゃっているのが4人おりまして。
その間もあったんですけど、私の姉が10年年上の。その間はないんですけどね。
8人兄弟の末っ子なんです。
一番近いご兄弟が10歳上? はい。
その間は誰もいないんですけど、ですから上には詰めてあったんでしょうけどね。
じゃあ、すごいかわいがられた感じだったんですか? そうでしょうね。
ご自身じゃあんまりわかんないですよね。
さりげなくこのまま入ってますけど。
Tsuyaさん、今95歳? 95歳、7ヶ月です。
あと半年もしないと96歳ですけど、大正?明治? 大正13年です。4月7日を生まれということで。
今日ここご自宅? そうですね。
Tsuyaさん、ご自宅でお話を伺っているんですけども、ここは葛飾、柴又? 柴又。
柴又といえば僕、正直トラさんのイメージしかないんですけど、
Tsuyaさんからするとむしろトラさんより前からしているんですね。 ずっとここですか?お生まれも。
生まれは北千住です。 北千住。
金町育ちです。 なるほど。でも大体この辺ですよね。
この辺は当時、生まれになって最初の記憶でいいんですけども、どんな町だったんですかね?
田んぼと畑ばっかりです。 田んぼと畑ばっかり。
じゃあ本当に農業というか、何か産業があったとか、工場があったとか。
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そうですね。三菱がありましたし、江戸川科学がありましたし、水道局がありましたもんね。
それで駅の向こう側、北口の方には防石会社がありました。
そうなんですね。 あれは工団ですよね。
あそこにあったんです。
それはもう、一番最初のこの辺の記憶って何歳ぐらいですか?
そうですね。
4、5歳の時に、江戸川の方には桜土手がありますでしょ。
ですからお花見っていうと、遊びに行ったり。
4、5歳ですか。90年前じゃないですか。
そうですね。
川沿いの景色とかってあんまり変わってないんですか?90年も経つと。
そうですね。この頃は行きませんからね。
よかったですね。水道局は、水はもう上から見えるようでしたしね。
そして、この辺りでもずっとそういう意味では、人生100年近く過ごされてきた
今日は津谷さんに、戦争の時の記憶を中心にお話しがかっていきたいんですけども、早速なんですけど、津谷さん、戦争の記憶と聞いて最初に思い出すものって何ですか?
一番最初はね、うち人形屋であったもんですから。
人形を作っている時に、目の前に何か違う、見たことないような飛行機が通るわーっていうのが
戦争の一番最初のあれですね。 それは何歳ぐらいの時ですか?
17ぐらいでしょうかね。 16、17っていう時ぐらいでしょうかね。それははっきり記憶ないですけどね。
僕、年齢で計算させていただいたんですけど、確かに太平洋戦争がちょうど開戦した時って、たぶん、そうですね。
16ぐらいですね。 そうですね。41年とかね、そのくらいですもんね。
その時、飛行機が飛んでいるのを見た時に、 戦争の記憶っておっしゃいましたけど、何を感じましたか?
アメリカの飛行機かしらって思いました。 特に、怖いなーとか、戦争始まらないみたいな。
怖いなーっていう気持ちはなかったですね。 空襲があまりなかったですからね。
それで、それだったかどうだったかはっきり記憶ないんですけどね。
今の八日堂がね、金町の八日堂。 あそこにガードがあるんですよ。
あれは十番線でしょうかね。 その向こう側に落ちたんですよ、爆弾が。
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あ、そうなんですね。 それで破片を落として、ずーっと手前に私の同級生がおりまして、
その人のお兄さんだったか、お父さんだったかの足の上に落ちて、足が怪我したという、見ないですけれどもね、
友達に話を聞いて。 それは、さっきツヤさんがおっしゃった最初の飛行機を見た記憶と
だいたい近い時期。 近いです。最初ですからね。
金町ってあんまりね、空襲のひどいのっていうのは、ちょうど3月26日だったように思うんですよ。
20年の。昭和20年。 その時に、金町の2丁目あたりにだいぶ落ちたんですよ。
焼夷弾が。ですけど、雪が降りましたもんですからね、不発でもって。 雪が降っている時に焼夷弾が。
たくさん積もっていましたので、この頃あまり雪も見ませんけどね、ひどかったんですよ。
それで不発弾で、何箇所かは燃えたところも無きに火も払ったんですけど、でもあまり被害がないので、大した私、被害なかったもんですからね。
戦争の当時はそんなもんでね。 でもその時だから当然いらっしゃったんですよね、金町が空襲を受けた時も。
空襲がありました時は3月の9日、10日ですか、浅草の方。あの時なんかも火ができたからね、金町が。
それで、その時じゃないですけれども、防空壕にやっぱり空襲になって入りまして、パーッと明るくなったから、これは大変と思って出てみましたらB-29がそのまんまの
真っ赤な火だろうがなってB-29がそのまんま落ちていて、今度これはどこに落ちるかなと思ったらあやせに落ちちゃう。そういう記憶があります。
結構ね、鮮明にそういう意味でちょっと覚えていらっしゃる感じですけど、そんなにね、そこまでひどくなかったっておっしゃいましたけど、でもやっぱり当たり前ですから、今の時代からしたら非日常じゃないですか。
そうですね、毎日空襲がありました。
その時って、だからまだ最初は10代のね、16、7とか。もうそれは20年ですから結婚してました。
その4、5年間というか、まさに16歳から20歳とか21歳ぐらいの時じゃないですか。なんて言うんでしょうね。
淡々とお話しされたんですけど、やっぱりもう毎日命の危険を感じるとか。
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でも意外と当時は、怖いけどもうなんか眠れないほど毎日怖いとかっていうわけでもなかったとか、どういう感じだったんですか。
もう寝ると空襲がありますからね。モンペトをね、あれに来て、それで寝てましたからね。さーっと逃げられるように。
それで昼間はね、やっぱりお勤めしてないと。軍塾、まああの当時は軍塾をしていたわけですからね。
勤めて。それであの、呼ばれて私本社の方へ行ってたんです。岩本町の交差点のそばなんです。
そこがあの、向こう空襲の時に、ちょうど三越辺あたりに爆弾やられたとおりに、その辺にいたものですから。
それからまた金町へ移って、やられましたもんね。事務所も。その前、しばらくは神田の方に勤めてました。
そうなんですね。その軍事工場っていうのは、何を作ってたんですか。
何かわかりませんけど、小さいネジを作ってましたからね。飛行機の何か。
じゃあ何か知らされないんですね。知らされません。
知らされずに、でも飛行機の何かって言っても、なんかすごい大きいものを作ったとか、日によって違うものを作ったとか、一日どのくらい何を作ったかとか。
どのくらい作ってましたかね。それこそ、若い女工さんにはあまりそういうことは知らされないですね。
その軍事工場で働いてた時の一日の流れって、例えばなんか9時に出勤して、なんか夕方までとか、どういう日にもよるのかもしれないですけど。
やっぱり夕方までですね。だいたい8時頃ですかね。8時頃から夕方まで。
そういう日々がどのくらい続いたんですか。軍事工場で働いている日々って。
もう勤めるようになってから、そういうことは平和産業はダメですからね。
人事部屋なんてやってられませんのでね。それからお勤めするのにはみんな軍事工場だから。
そうじゃないと、やっぱり低薪剤で取られる。どこにやられるかわかりませんから。
とにかくそういうところで、一応ね、お勤めしていなくちゃ。まずい時代でした。
今はそうですよね。平和産業っていうことで、そのご家業が人形っていうことでしたけど、そうするとその時はご両親は
人形屋をちょっと止めて、お父様お母様はそれぞれどんな感じになったんですか。
父はその時もう亡くなってましたから。母と兄がやっておりまして。
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それで兄嫁と、子供が20年までに3人ぐらいおりましたからね。
その子供の面倒を見ながら。
あ、そうだったんですね。
そうか。
じゃあそのさっきの話に戻りますけど、ご自身にとって、津谷さんにとっての最初の、ある意味戦争の始まりは16、7歳ぐらいの時におっしゃいましたけど、
その時の飛行機を見た時の前後というか、街の空気とか国の空気というか、なんかもう戦争始まるぞみたいな感じだったのか、意外と。
もう始まっていたんでしょうね。最初なんでしょうから。
だけど見たことのない飛行機っていうふうにね。その時は周りが空襲空襲なんて言ってませんからね。
ですから始まりなんですね。
その時はこれから自分の人生どうなるんだろうとか、なんか生きていけるのかなとかまで結構考えたのか、意外とそこまでは深く考えなかった。
そこまでは考えないですね。
そこから軍事工場での一日が。軍事工場はお金とか日当みたってもらえないんですよ。どういう感じですか?
それお勤めですからね、いただきましたけどね。
それはそうか、普通にもらえるんですね。
それは変な話ですけど、その時、軍事工場で働いてる時のお勤めと、もし仮に戦争がなくて、普通にツヤさんがどこかで働いてた時のお手当、比べたらやっぱりそれは軍事工場の方が低いんですかね。わかんないかもしれないけど。
どうですかね。その当時30円ぐらい。
全然わかんないですね。その当時何が変えました?
何が変えたでしょうね。買うものもないんですよ、その当時は。何もないんですよ。
もう私なんかも洋裁学校に行って、それで洋裁の10代の時は糸もないし、切れもないんですよ。
それは戦争だから。
戦争だから。ですから行っても、ただ製図ばっかりなんですよ。
そいつをミシンかけるのを教えてくれて。でも私5年生からミシンかけられるもんで、ミシンかけるのを練習しなくてもできるんですよ。
じゃあもううずうずしますよね。やることないけど。
それで帰りには空襲がありますから、しょうがないかと思って辞めたんですよ。
それでそうしましたら、母の方としては読み入り前だから何かを仕込んでっていうことなんでしょうね。
それで今度和裁の方に行ったんですよ。それで縫ってある浴衣を解いて、それを持って行って縫って。
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あ、それをそうか。材料というかね。
そんな感じでしたもんね。
当然ですけど、戦争が始まってからは想像つくんですけど、始まるちょっと前とか、今振り返ればその1年前とか、もう物がなくなってたんですけど、どういう感じでしたか?
だんだん物はなくなってくるしね。戦争始まったら本当に敗臭敗臭でね。
少しばかり敗臭ですからね。
敗臭ってどんなものが出るんですか?
いろんなものの敗臭はあるんですよ。お醤油もあればお塩もあるし、お砂糖もあるけどほんのわずかですからね。足りるほどないんですよ。
ほんのわずかって例えばどんな量ですか?家族でも決められているとか、家族の人数に応じて?
人数に応じてです。
それは多少多くなるんですよね。人数が多ければ。
それでお野菜なんかでもね、葉っぱはいくつかに何枚かに分けるんですよ、葉の部分。
大葉の部分切って、人数割りにね。ですから当番に当たった人大変です。
ああ、そうですよね。
そういう時代でしたね。
当番もみんな回ってくるってことですよね。
はい。
敗臭に関して当時なんかそれで揉めたりとかそういうのは全然なかった?
それはやっぱり自局柄という言葉がありますよね。自局柄。みなさん大人しくて。
でもやっぱり食べ盛りのお子さんがいる人がいますからね。
お茶は持ってきて、ちょっとお醤油貸してっていう人数の多い人がいましたけどね。
まあそれは買えることはないですけど。
軍事工場での日々が大体どのくらい、何年くらい続いたんでしょうね。
何年くらいできたかしらね。でも4,5年ありましたかね。
その途中で結婚もされた?
はい。19年ですからね。
差し支えなければご主人とはどういうふうに知り合ったんですか。
どこにも遊びに行くとこがないので、私は初めてでしたけど、
友達は何回か病院に異聞に行って、それで異聞に行きましょうと言われて、行ったことないかと。
行こう行こうと引っ張られて、それでね、行ったのがこの台なんですよ。
そこで、誰も知らないんですけれど、友達も。
誰か、病院の門の外から出てくる奥さんがいて、
18:00
その奥さんのご主人の名前を、私の方が年下なので私はしゃべらないんですけど、
友達がその人に交渉しているご主人の名前を借りて中に入ったんです。
そうなんですね。
そうしたら、主人が向こうから来て、
その時にこういうわけでってその人が話して、
決まった人じゃないから、
僕なんて言わないんですよ、兵隊さんって。自分て言うんですよ。
自分たちと遊びましょうかって言うんで。
それで、部屋の人たちを呼んできて、
一部屋らしいんですよ。
4人来て、その中の1人です。
戦争の時代でも、もちろんご主人は兵隊、陸軍。
でも、ある意味出会いの場はあったんですね。
そうですね。
それは、ちなみにご主人はなぜ病院にいたんですか?
マラリアやって。
大統領初めてのときにも陸前領域やってますからね。
マラリアになって、それで帰ってきて、
元気な人は沖縄でもって戦死してるんですよ。
病気だったために病院に入ってたので逃れて。
不幸中の幸いというか。
不幸中の幸いなんですね。
それが、もう昭和19年とか?
そのくらいなんでしょうね。
それでも現地の人たちは、みなさんよく知ってくれたそうですよ。
そうなんですか。
病院にいるときに、栄養になるからってスープを持ってきてくれる現地の人、
兵隊さんじゃなく、そういう人がいたって言ってましたね。
それでバナナを持ってきてくれたりっていうので、フィリピンにおりましたので。
帰ってきてもあんまり食べすぎたから、バナナ食べたくなくて。
そうか、その思い出があるわけですね。
そうですね。
ご主人はツヤさんと知り合われて、結婚もされて、
そういう意味では療養というかしながら、そこから戦争には出なかった感じなんですか?
そうですね。一応ね、行くことになって、結婚してからなんですけれども。
兵隊さんたちが留めに入ったんですって言って、なんか短眼症だしたんですって。
そんなんで、一応送別会やったんですけれども、行かずに住んで。
そんなので助けられて。
21:02
本当に幸運というか。
そうですね。割とそういう点ではうまくね。
本当にそのたった一つのそれが生死の境を開けるわけですね。
そうですね。
その短眼出るか出ないかの時に、ツヤさんもご結婚されてたんですか?
はい。結婚したばっかりでね、その時に出ればもう、代わりに出た人は亡くなってますから。
その時、ご結婚する決断とか、どういう気持ちだったんですか?
つまり今の話じゃないですけど、ご主人ひょっとしたらそのまま戦争に帰ってこないかもしれない。
もうね、皆さんそうだから、やっぱり覚悟をしながらね。
そして結婚してからも、軍事工場はちょっと働いてたんですか?
働いてました。
結婚って言ってもね、今と違ってもう、だから19とか20歳で結婚されてるわけですよね。
そうです。
昔の言葉で、21歳で。
よくね、21歳でっていうことは、母親がよくね、21歳になったら、なんて自分が早かったものですからね。
結婚して軍事工場で働きながらでも、ご主人もいて、
妻としてというか、考えたこと、心がけたこととか、今の結婚と当時の状況が全然違くて、
違いますからね。
役割って言ったら、今の時代は時代作業って言われるかもしれないですけど、
でもそういうのってあったんですか?妻としてあらねばならないとか、言われたとか、自分で思ってたことでもいいんですけど。
それこそ今と違ってね、昔は男の人はね、立てるっていうのがありましたからね。
だから、男子は厨房技だという口で、全部やりましたよ。
全部っていうと、軍事工場で働きながらも、家事、水事、料理、全部やって、
その日、朝何時に起きてたんですか?
そうですね。昔はね、今と違って、何にも道具があるわけじゃないですから、たらいで洗濯をするって言われますからね。
それこそ、子どものおむつを捨てても、今みたいに捨てればいいんじゃなくて、洗いますから。
布ですもんね。
それで、たくさんあるわけじゃないですから、生地がない時代ですから。
それで、おむつ洗って干して、みんなの寝てるうちに、全部やります。
その日々っていうのは、今の話でいくと、実際、海戦があってから終戦まで、だいたい4年ぐらいかなと思うんですけど、振り返ってどうですか?長かったですか?あっという間でしたか?
24:09
まあ、やっぱりね、あっという間ですね。
もう無我夢中って感じですか?
無我夢中でね。
そういう意味では、日々、なんだろうな、それこそ70年以上前のことですから、難しいかもしれないけど、日々、何を考えていらっしゃったのかな、その時代。
戦争が終わってからですとね、うちじゃ人形屋をやっていたもんですから、隣にやっぱり焼け出されて、隣に入ったのが、うちの兄の知り合いが入ったんですよ。
それで最初にね、ガングをやって、いろんなものがちょくとずつ出始めて、動物のガングをやってて、そういうのをやってたんですよ。
で、それを内職にやってくれないかって言われたもんで、それをやっていて、でも私がね、ミシンかけられるのにこういうのをやってていいのかなあ、なんて思って、その当時はよくね、焼け出された人がね、曲がりをするんですよ、近所に曲がりしている人がいて、
その曲がりをしていた人が、旦那さんと息子さん、その人がね、裏の家へ曲がりせたんですよ、四畳半に。そこで煉鋼刀をやってたのがね、三越の煉鋼刀なんですよ。
で、それをやっていたんで、私はこの人魚さんのガングをやるよりこっちがいいと思って、頼んで、そこで教えていただいたんです。それで家が見つかったもんで、引っ越しをするので、その人が本物を紹介してくれて、それが後旦那なんですよ。
そこへ通って、それでそこで、私の仕事は煉鋼刀なんです。煉鋼刀をやたらと出してくれないんです。
それから、さっそく今度、このゴム引きの煉鋼というのはいろいろあったんですよ。ですけど、それをね、布のほうを教えてくださいと言われて、それで二箇所に教えに行ったことになりました。
そういう意味では、戦後は、戦中とかは、なかなかね、学んだことが活かせず、ちょっともどかしかったけど、戦後はむしろなんかすごい忙しかった感じなんですかね。忙しかったですね。
戦時中は、さっきの話ですけど、本当に無我夢中で、どうしても僕は経験していないので、イメージだけで日々、毎日生きられるのかなとか、命の危険を感じていたのかなと思いつつ、それすら考える間もなかったのかとか、戦時中はどういう感じだったんですか。
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そうですね。神奈川県ってあまりひどい意味にあってませんからね。やっぱりどうなるのかなと思って。それほどじゃなかったのかしら、なんて思ったけど、後でね、セリフなんか見ると、どこもここもね、戦争の後がひどいでしょ。あ、こんなだったんだわと思って、セリフがあるみたいじゃないですかね。
意外とその中にいると、よくも悪くもあまり感覚がわかんない。そうですね。必死だったようなもので。
金町そんなにひどくなかったとおっしゃいましたけど、最初の3月の前半の方には東京大震災もあって、一晩で10万人とかの方が亡くなった。その時、金町自体はそんなにって言っても、東京全体は明るくなりましたけどね。
はい、あちらでも明るくなりました。
その時は、やっぱり東京大震災の夜は防空壕とかなんですか?
防空壕ですね。
いつもよりも、でも金町はそんなに変わらない。
変わらないですからね。でも防空壕が入ってて、チャリーンと音がしたことがあるんですよ。
そうしましたら、焼夷弾を捨てたバンドみたいなのが起こってきてましたね、戦火の前に。
そういうことが一度ありました。
それはちょっと驚きますよね。
驚きました。
僕もこの取材してて恥ずかしながら、まだまだ勉強不足で知らなかったんですけど、
オグが日本で初めて空襲を受けた場所っていうのを、オグで戦争体験した方から聞いたんですけど、それはご存知でしたか?
知らないです。
じゃあ、やっぱり今の逆に金町の話じゃないですけど、僕ら教科書とかで見て、東京大空襲って一括りですけど、
その前にオグでそういうふうに何年も前に多分開戦してすぐにあったらしいんですけど、
だったりその金町がそこまでじゃなかったっていう。
他の場所のことはもう東京って一口に言ってもわからない。
そうですね。
いろんなところにあったら、あら、こんなにひどかったの?なんてね。
でもね、原爆が広島に落ちたという防空壕の中で、原爆って言わなかったんですよね。
なんて言ってたんですか?
新型爆裂。
それは防空壕の中で言うとラジオかなんかで聞いたんですか?
ラジオです。
そうですよね。その後長崎もあって。
いわゆる僕らが知っているテレビの原爆のイメージはあるんですけど、その当時は原爆すらわからないわけじゃないですか。
原爆って言ってなかったですからね。
30:01
新型爆弾ってどんなんだろうという感じでしたね。
でもその直後に何万人、十万人亡くなったとか、そういうイメージが入ってくるんですか?
そうですね。
それで80年、草木も生えないって聞いたんですよ。
ですけどね、主人は九州ですからね。
終戦になってから向こうへ行ってたんですよ。
そうなんですね。
ちょっと緑見えましたもんね。
ですからその80年というのはちょっと大めさでしたね。
それだけ地球というか自然の力というか。
実は僕も広島に住んでたこともあって行ったんですけど、
ちょうど80年、まだ経つか経たないかですけども、戻ってますもんね。
そんな中で、スヤさんの中で日々戦時中の支えというのは何だったんでしょうか?
支えね。
それこそ、もっと生きていけば。
日々食べられればいいわということでしょうかね。
日々食べられるっていうのはギリギリは食べれたんですか?
そうですね。
人によってはもう全然本当に食べるものなくて。
僕が昔、広島の方だったんですけど、昆虫とか食べたりとか草とかって知りましたけど、スヤさんはそこまではなかった?
主人が飼い出しに行ってくれましたからね。
うちのここの長男は配給のお芋は食べないんですよ。
そうなんですか。
まずいから。
もっとおいしいのを食べれると。
ですから、主人が自転車で鎌ヶ山でお芋買いに行ったり、そうやってましたからね。
それほどではなかったですね。やっぱりこの辺はね。
その中で、スヤさんが実際ご自身が作ってたんだと思うんですけど、その当時の懇達、今思い出すとしたら何がありますか?
貧しい苦しい中でも、ちょっと贅沢こんな感じだったらいいんですか?
お砂糖がご飯の代わりに配給になったことがあるんですよ。
全然想像がつかないですね。
想像つかないですよね。
それでね、軽め焼き串、お砂糖で子供のおやつ。そんなのとか。
粉なんかでもね、大豆の粉ね。でも大豆の粉はきな粉ですよね。
ですけど、だし大豆ですからね。粉そのものがまずいですよ。
だしってつく時点でおいしくなさそうですね。
33:00
ですから、そんなのすっちゃってね。
それで、主人にちょっと何か小嫌いなのが好きなもんでね。
木の箱割りして、ブリキみたいなものをやって。
そのくらいね、できるんですよ。やったせいで生徒に参ったから。
それで持ってパン焼き串出してくれて。
器用だね。
そうですね。そんなのやってくれましたけどね。
そうか。今のお話、やっぱり津谷さんが前向きでボーっとっておっしゃいましたけど、
今の部分だけ聞いててもあんまり戦争を感じさせない日々があったのかなと思いつつ、
当然ですけど戦時中で。なかなか思い出しにくいかもしれないですけど、
これが本当に一番つらかったとか、体験でもいいですし、エピソードでもいいんですけど、
それこそ死ぬかと思ったでもあるかもしれないし、そういうことじゃなくて本当に一番苦しかったっていうのはどんなことですか?
苦しみじゃないけど、びっくりしたのがB29が真っ赤になってね、そのまんまの形で落ちていくと、
これ、あああああと思って手を叩いたんですよ。ですけど、さあこれはどこに落ちるかなっていうのがね。
それじゃあ今でも鮮明に覚えてるんですね。映画のワンシーズンなんですけど。
はい。
的確なわけですもんね。
当時、津谷さんのご主人や、息子さんはすぐお生まれになった?
その後ですからね、20年の10月。
戦後ですね。
戦後になりますね。
その前か、16歳17歳で開戦してから終戦までの4年間ぐらいで、日々いろいろある中で何だろう、ご自身のつかの間の一時というか、
こういう時間がちょっとほっとしたとか楽しかった、遊び、趣味の時間でもいいんですけど、そんなのあったのかちょっとわからないですけど。
趣味の時間、趣味なんてね、10代の時お花行けばならんに行ったっていう、それぐらいで。
それこそ洋裁学校もそういうわけ、和裁の方もそういうわけで、もうそれこそできない時代でしたしね。
それで帰りがけに空襲になっちゃいますからね。
帰りがけに空襲。
空襲ってどうですか、特に終戦の直前20年とか19年あたりは毎晩のようにだったのかとか、どういう感じだったんですか。
もうしょっちゅう空襲ね、夜に限らずね、昼間もありましたしね。
その時ってちょっと変な質問ですけど、空襲来たら、今日この時もう死ぬかもみたいに思うのか、結構もう慣れてて、
36:03
まあ大丈夫だろうぐらいの、怖い中でも大丈夫だろうぐらいの感じだったんですけど、毎回もう死ぬかもみたいに感じたのかどういう感じだったんですか。
田んぼと畑ばっかりですからね、その当時ですから、そういう気持ちもなかったんですね。
命の危険までは感じなかった。
その辺がね、僕も体験してないんでわかんないし、ある意味麻痺してたのかもしれない。
麻痺してたんですよね。
ご結婚するまでは当然、お母様とお兄さんと一緒に、ご結婚してからも一緒に住んでたんですか?ご結婚してからご主人と一緒に。
一緒です。母と。
当時でね、もう20歳前後だと今よりすごくしっかりされてたとは思うんですけど、
お兄さんがある意味お父さんがいるかもしれないけど、どういう話を普段日常会話ってしてたのかな。
日常会話ね。
子供だったら、今だったらもうお母さん大丈夫なのかなとか、色心配だったりとかそんなことなくて、むしろお母さんを支えるぐらいの気持ちで頑張ってたのかとか。
それはね、私が親を見ようと思いましたからね。
私の母親は広島なんです。
広島はどこですか?
どこかわからないです。
僕も結構広島に縁があるので、広島なんですね。
広島なんです。
それで、もうそれこそ赤ちゃんの時に両親が亡くなったんです。
その友達が育ての親なんですよ。かわいそうだって言うんで育てて。
育ての母親の方は忙しいから反対だったんです。
父親の方が友達の子供だから、両親が死なれちゃったから育ててくれて。
小さい時に東京に出てきて苦労したというので、結婚しなくてもいいから一緒に見ようと思ったんですよ。
そうなんですね。
そうしたら、主人がいいよって一緒に見るよって自分に母親が3歳の時に亡くなってますからね。
だからいいよって言うんで一緒に見てくれました。
そうか。さっきのご主人のお父様も、三谷さんのお父様も結構若い頃に亡くなられてる?
十分の時ですからね。
これはご病気でとかなんですか?
老衰ですし、両親とも。
今で考えたら早く亡くなられた。
早くもないですよ。69歳ですから、父が。あの当時ね。昭和15年。
39:00
平均寿命も今より短いし。
しかも三谷さんは一番末っ子だったんですね。かなり離れた。
そうか。そういうことだったんですね。
当時の今、戦時中の食事については少し聞いたんですけど、異食重というか。
お住まいってどういう感じだったんですかね。
お住まいはね、母が建てた家なんですけどね。2丁目、金町のね。
一軒は兄たちが住んでいて、隣を人に貸すつもりで、こっちは税金のためにって言って建てたんです。
あの当時家がないものですから、そこに住んでたんです。母と3人で。
そういう生活も長かったんですけどね。
それは運が良かったですね。そういう一軒が。
じゃなかったら、要するに曲がりするとかね。そういうことになりますけどね。そういうことなくて住みました。
さっきおっしゃったように、当時特にね、戦後もなくは焼け野原みたいな感じだから、曲がりが結構いっぱいあったわけですよね。
そうですよ。
そうするとやっぱりいくら助け合いって言っても、みんな片目狭かったりとかいろんな思いされてたんですよね。
そうですよね。
私も40歳の時に、42歳の時に焼け野原に建てていってね。それは母に見せられなかった。
そうなったんですね。お母さんはいくつまで?
81歳ですね。
でも長生きといえば。
結構長生きでした。
その遺食中、今お住まい、消えて、食べ物、服装とかって戦後じゃないですよ?戦時中?
戦時中。
どんな服装だったんですかね。
戦時中の服装って、戦時中はモンペですもんね。
やっぱりそうですよね。
モンペに、それこそ、色気も素っ気もない。
戦後、1945年の終戦後。
それこそ、例えば当時、小学校とか中学校行ってた方にお話がかかったら、そこから一気に帝国主義から民主主義に変わって、教科書も変わったっていう。
すごい極端で驚いたっておっしゃってましたけど。
今の、津谷さんはもう20歳過ぎられてて、ご結婚もされてて、戦前戦後というか、戦争終わった後と戦争終わる前の境目で一番変わったことって何ですか?景色でも生活でも何でもいいんですけど。
そうですね。
一気に変わった。終わってすぐ変わったことって何かありました?
私は特にいなかったですね。
42:01
天皇陛下の玉音放送があっても、すべてがすぐ変わるわけじゃないですよね。
そうですね。
玉音放送はどこで聴きました?
家で聴きました。
天皇陛下から発表があるぞみたいな、そういうのが?
ありましてね。その時間に聴いて、「ああ、終わったんだわー。」なんて思っただけでね。
その日の天気とかって覚えてます?
あの時は晴れてたんじゃなかったかなと思いますけど、特にはね。記憶ないですけど。雨降ったっていうような感じはないですからね。
その玉音放送も当然ラジオだったわけじゃないですか。
ラジオですから。
先ほどの新型爆弾もラジオ。
ということで当時はラジオ、新聞もあったと思いますけど、ラジオでいろんなニュースを得ていたと思うんですけど、一番ツヤさの中で印象的だったニュースって何ですか?
特にはね。
ああ、終わったなんてね。これからすべてが良くなるなんて、あんまりそういうふうにも思わなかった。
でもすごい暗いって感じでもない。どういう感じでした?その終わった時。
終わって、裏にいた人がね、「ああ、これで帰ってくるわー。」ご主人がやっぱり出てますからね。
お父さん帰ってくるわーなんてそう言ってましたけどね。そんな感じでしょうかね。
8月15日ですけど、その前に戦争が終わるかもとか、実は負けてるとか、そういうのはツヤさん入ってきてたんですか?
負けると思っておりませんでしたね。みんなそういう風情ですからね。
じゃあ、その漁港放送までそんなことすることは思ってなかった?
思ってませんでした。
そういう意味ではちょっと驚いたというか、晴天の霹靂みたいな感じですか?
終わったっていうあれでもって、負けたのかしらに勝ったのかしらって。
ああ、そうか。まずそうか。終わったけどそうか。
まさか負けたとか、それまで情報は入ってこなかった。
漁港放送終わったっていうことでね。だからね、あれは敗戦決めみたいな。
その負けたっていうのはツヤさんの中でいつ分かったんですかね。
まあ、すぐ分かりましたけどね。
その時ご自身はどんな心境だったんですか?負けたっていうことに関しては。
45:03
負けて、あとどうなるのかななんて思って。
それで、主人もちょっと残無整理で残って、皆さん返して、それから帰ってきましたからね。
9月になって帰ってきました。皆さんそれまでこう返してね。
ご主人は一回どこかに働きに行ってたんですか?
軍、陸軍に。その病院で一回ね。
今度は厚野台の連隊に。
そこで配置されてて。
そこでやっぱり73部隊してましたね。
8月15日で一応戦争終わってますけど、ご主人にしてみたら、まだ9月までやったりとか。
人それぞれで全然。
そういう意味では、ツヤさんが戦争終わったのはいつなんですかね。
ツヤさんにとって。
そうですね。流れでもって、ただ育ってきただけのもんで。
あまりつらい思いもしませんしね。
ようやく終わったなって実感できた出来事、エピソード。
こんな食べ物が入らなかったら入ったでもなんでもいいんですけど。
それはね、それこそ、主人が、腕時計を買いに行こうなんて言って。
それで買いに行くときに、まだ学校行ってないぐらいの小さい時に、ここの長男がね。
その時に途中でね、八百屋さんの前に通ったらね、バナナを売ってたっていうんですよ。
バナナなんかもいくらでも食べられた前はね。
ですけど、戦争中から全然そういうものなかったので。
で、バナナがあったんで。時計買わないでバナナ買ってきたっていう。
それで、ここの長男がそのバナナを持って、食べ方わかんないです。
こうやって持ってこうしてました。
で、見つかりました。
食べて、それがね、そんな通りね、食べ物ね。
でも先ほどね、そのご主人がフィリピンでしたっけ?
バナナ。
やっぱりバナナが何か一つね。
スヤさんには何か一つありますね。
そうですね。
当時その戦争中、すみません、話が行ったり来たりしますけど、戦争中のタブーというか、禁じられてたこととか、これは口に出しちゃいけないとか、気をつけてた、何かあります?
48:02
そういうのはあまりないですけどね。
どうしても僕もその映画とかいろんな本とか読むとね、国とか天皇陛下が何かを言ったりとか、何かあるとそれで叩かれてどっか連れてかれたとか、非国民だみたいな。
そういう、ね、非国民っていうことありますからね。
まあ私なんかそういう経験はないですけどね。
周りでなんかそういう連れてかれちゃった人とか、すごい反戦的な活動をされてた方とか。
そういう人も見たことないですね。
当時はでもそうですよね。
じゃあなんかご家族でご主人かもしれないですし、結婚前だったらお母さんお兄さんとかと、なんかこの日本がどうなるんだろうとか、実は戦争が負けてるんじゃないかみたいな、そんな会話は別にない?
ええ。もう主人もそういうことを一切言わないですからね。多少わかっているんでしょうけどね。
やっぱりそういうのは一切口に出さない。
ご主人と戦時中に戦後の話したことあります?もし戦争が終わったら。
あんまりないんですね。
ただ爆弾が落ちたときにフワーッと土が盛り上がりますよね。その時に埋まったんですって、もう一人、二人。
それで主人の方を一生懸命あれして出してくれて、相手の方は亡くなったんです。
手分けして出せばいいんでしょうけどね。
やっぱり主人はわりと優しいから、きっと兵隊さんたちにも優しくしてたんでしょうね。それで助かったって言ってましたけどね。よくそういう危ないところで助けられたようなあれがあるんですよね。
さっきの弾丸賞もそうですけど、本当に神ひとえというか、僕らは孫の世代としては、松屋さんや皆さんが、やっぱり一人一人が生きてきてくださったから今があるっていうのは頭ではわかってるんですけど、今の話聞くと本当にそうですよね。
そこでそのご主人が、もし掘り起こしてからスナやってもらってなかったらってことですよね。
そういうことですよね。
息子さんも生まれてない。
生と死は神ひとえというのがよくそういうところでわかりますよね。
物がどんどんなくなっていく中でってありましたけど、物価とかってやっぱり上がっていったんですか、戦時中は。物がないから物価上がるのか。
51:00
物がないからね。もうね、着るものを出すんですよ。
農家の方、娘さんいますからね。そうすると着るものが欲しいけど着るものが売ってませんからね。
そうか、そうですね。
ですから当時、たけのこ生活っていう。一枚ずつ。
みんな薄着だったんですね。
ですからね、やっぱり若いうちはお正月なんかっていうと着物を作ってくれるんですよ、親はね。
そうしますと、そういうのが着れる時代じゃないですね。ですから、モンペばっかりで。
今度戦争が終わってから、兵隊さんにみんな行っちゃうから、農家の方も大変ですよね。
作る人が年寄りの女の人がね。ですから物がないのも当たり前のことでね。
やっぱりこれは切り抜けなくてはいけないと思ってね。
それで着るものも、時期が変われば買えるんだから、そう思ってこれを脱いで、それで買うんですよね。
お金も添えるんですよ。
ですから着るものを。
肝心のこと、ご結婚されたのは昭和何年?
昭和19年です。19年の5月25日です。
その日は役所に入籍届き、どういう感じだったんですか?
やっぱり軍隊の正面もいて、それで入籍して、九州の方に送ったんです。
九州、あ、そっか。
天草ですからね。
ご主人が。
でもご主人も一緒にいたんですよね。
でも入籍のそういうのは向こうにも送らなきゃいけない。
その日ってどんな感じだったんですか?お祝いしたとか、戦争の中で。
どうしてもかっこばさせたいらしいんですよ。
そうですよね。
もう祝状に行くわけじゃないですから、家で。
そういうのいいって言うのに、やっぱりね、
富士袖じゃないですけど留め袖で支度をして、
金町に火災神社があるんですよ。
火災神社に行って、帰ってきて、すぐ脱いで、
頭も取って、洗って、文部に来て、ですからほんのわずかの間。
その時、写真とか撮れたんですか?
写真撮りました。
それは今もあるんですね?
あるんです。
後で見たいな、ちょっと。
どこで決まっちゃってるか、写真だってなんで。
でも撮ったのは確かだったんですね。
それが結婚された日でもある意味結婚式でもあるってことですね。
54:04
戦争終わってから改めて結婚式したとか新婚旅行行ったとかあるんですか?
ないです。
もうその後もそうですよね。
終戦後、8月15日の後から、東京も何もないような感じではあったんですけど、
いろいろご苦労されていく中で、どういう感覚だったんですか?
本当に何もないところからもう一回始めるんだみたいな感じなのか、
もうずっと終戦前から、とにかく淡々と毎日必死に生きてたのかとか。
江戸川に江戸川の合戦式やって、それで台風が来て、それダメになっちゃったっていう。
ジャガイモが育てたんですね。
ジャガイモを植えて。
戦後はいろいろそういうね。
あとは子育てですもんね、何かしながらね。
私が連行とやるようになったのも、やっぱりお勤めすると家守れませんからね。
それは家に持ってきてやれるんですよ。
そんなんで子育てしながら仕事って。
それで夜中までやって。
頑張ってね。
どうです?もうそこから75年ぐらい経って、
本当僕もたくさん戦争体験した方から、いろんな方から聞いて、人それぞれなんですけど、
人によっては戦争終わるまでの時間があまりに濃かったので、
そこから先の70年ぐらい、今日至るまでは、ある意味ギフトというか、プレゼントで生きているっていう感じの方もいたんですけど、
ツヤさんはその後の75年ってのはどんな感じなんですか?今も続いてますけど。
そうですね。
子供を学校やって、でも私はね、勉強しなさいって言わないだけなんです。
あ、言わないんですね。
言わないです。
なぜですか。
自分がね、自分の頭でやればいいし、どう言われるかわからないし、
やれって言われてやれるもんじゃないと思ってね。
確かに。
それでね、あれ何?これ何?って疑問を持つことがあったんですよ。
学校に入るときに名前を書く。それだけで。
あと、これは覚えておいた方がいいかなと思って、新聞なんか切り抜いてパッと貼っておいて。そんな感じでね。
それで学校行って、幼稚園も行ってませんからね。幼稚園も行ってないし、何も教えてませんからって先生に言って。
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先生もいい方でね、幼稚園行ってても一学期一部ぐらいなもんですよって言われて、でも成績良かったです。
そしたらね、皆さんに漫画の本を貸してくださったんですよ、先生が。
それで、うちの息子には疑問という本を貸して。
あれ何?これ何?でね、先生も兄者疑問をとってやろうってね。
本当にそういう少年学館ですね。
どうでしょう、戦争体験をされてきて、そんなに私はっておっしゃいますけど、やっぱり今からしたらもうすごい壮絶な体験だったと思うんですけど、
ご自身自身が感じたことでなくてもいいんですけど、やっぱりその精神の狭間を生き抜く上で、最後の最後に人に必要なものって何だと思いますか?
そうですね、やっぱり気力でしょうかね。私ね、病気しないですけどね、怪我しましたでしょ。怪我治っちゃいました。
あの階段は登るよりはちょっと無理でしょって言われたんですよ。
ですけどね、骨折された。
何年前ですか?
3年ぐらい前です。
今普通に歩いてますよね。
はい。階段は平気です。傷口も治って、腕の方が慣れない。杖を持って歩くようにって言われるもので、杖を持って歩くから腕の方が…
逆に調子悪くなっちゃったみたいです。
今度こっちの方がね、脚の方が治りましてね。ですから、やっぱり気力もあるでしょうね。
元気も気だし、病気も気ですもんね。肉病態って言わないですもんね。身を持ってそれを証明されてますね。
先生も良かったんでしょうけど、ディハビリテーションに行ったんですよね。1、2ヶ月。
そしたら、またそこでも良かったんですよ。
良い姿になって、みなさんが院内を回ってくださって、その方が休みの時に行った時に、
足早いですね、ついて行くの大変というくらいによく歩いて、院内をぐるぐる回って、
それで家に階段があるの知ってるもんで、ある一人の人が階段を登ったり運転させてくれましてね。
1:00:00
脳トレとかなんとかやる先生もいまして。
まだにね、その気力とおっしゃってましたし、今も95歳で本当にお元気で、
ご自身の生き方というか、
今日初めてお見かけになりましたが、僕もお話ししてるときにすごく元気いただいて、
ご自身で大切にしている生き方でも習慣でも、座右の銘でもいいんですけど、何かありますか?
若い者、足引っ張らないように。
私がぼけたり病気したりすると、若い者、やりたいことできないじゃないですか。
家が心配でね。それのないようにと思ってね。
ですから、私が鍵閉めて出るような時はね、全部チェックしている。
一番しっかりしているみたいな。
そういうご自身の性格というか、そういうのってどこから来ていると思いますか?
例えばお母様の影響とか、実はこの年で出会ったこういう人にすごい影響を受けた。
この人の本を読んで影響を受けたでもいいですし、自分ではわからないのか。
私の母親はね、わりと清明な人でね、後のためにって言うんですよね。
後の人のために、これこうしておきなさい。後の人のためって言うんですね。
ですから、こうやっておくと、後から帰っていけないとかね。
だから、後のためになんてね、なかなか守れませんけどね。そういうんですよね。
戦争体験されて、今振り返ってご自身のここに戦争の体験が大きな影響を及ぼしているなって思うこと。
ネガティブなことだけじゃなくて、ポジティブなことでもいいんですけど、何かあげるとしたら。
戦争ではね、あまりそれこそ何がありましたかね。
あまりこう、もうそれこそあまりなかったもんでね。
ただそのB29があっていうのとかね、そのくらいのもんで。
大して特にという、ただこの辺が空襲になったら水道局はあるしね、江戸川河原はあったり、そういうのが道々があったり。
その先には日立がありましたからね、亀やりですけどね。
そういうのがあるから危ないかなという心配はありましたけどね。
それほどのこともなくて、その日に終戦になりましたからね。
戦時中、あの時ああしておけばよかったな、みたいな思うことって今振り返ってはありますか。
そういうのはないんですよね、私には。
1:03:01
なんかすごい謹慎者で、そういう意味では命を落とした方とかもあんまりいらっしゃらない。
うちじゃね、兄も兵隊に行ってないんですよ。
なんで行かなかったんですか。
昔はよくね、長男は兵隊に行かないでいいとか、そういうようなことを聞いたことがありますよ。
戦時中じゃないですけどね、そういうことをね。
ですから、健康じゃなかったのかななんていう、そんな感じで戦争には行ってません。
兄が私より18年上の兄ですけどね。
そうか、でもお兄様いて、それより上のご兄弟はもうみんな亡くなってたんですか。
私より20年上の姉がいて、それで18年上の兄と、10年上の姉がいて、その4人なんですよね。
すごいですね。お兄さんお姉さんって言ってもね。
下手したらだって、津谷さんの息子さんが20歳で生まれてたんですけど、その年代と一緒ですよね。
あの、私、メインがね、一人私より上のメイト。
親がよく上の親がいる。
ちょっと不思議な感じですよね。
生まれたらすぐおばさんになってます。
そうですね。生まれたらおばさん。
話が飛びますけど、今の時代、いろいろ集団的自衛権とか憲法9条が云々とか、それこそ10年15年ずっと言ってるじゃないですか。
津谷さんご自身はどう思われますか。
そうですね。やっぱり戦争のテレビなんか見ると、学徒出陣なんて気の毒なもんじゃないですか。
そこまで恐怖した親の気持ちね、それこそ帰ることなく飛び出ていくんでしょ。
そういうことは絶対嫌だと思ってね。
男の子がいると、うちに男の子がいるとね、もう抱きしめちゃいますね。
もう戦争にはやりたくないってね。
やっぱり僕も子供いるんであれですけど、お孫さん、ひ孫さんとか見てると、もちろんこの今平和の世の中ですけど、
ご自身が小さい時に重ねちゃう時もあるんですよね。
そうですね。それはどうしてもありますよね。
いろいろね、それこそ朝鮮だ中国だなんて、どうなるのかなぁなんて思いますけどね。
それはそれとしてね、やっぱり朝平制度になったら嫌だわぁと思いますもんね。
今ってどうでしょう?いろんな意見があるじゃないですか。
実はもう戦争に近づいているみたいな言う人もいれば、いやいやさすがにそこまではみたいな。
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なんか空気をどう感じますか?日本の時代の。
なんかね、ちょっかい出してくるなぁみんなと思いますよね。
勝手なことを言うあれがあるけど、どうだったのかしら、そういうふうなことは私なんかにはわからないことでね。
ちょっかいというのは?
なんかこう、ああでもない、こうでもないって朝鮮やら、韓国やら、中国やら、それで北朝鮮なんかも出してしたね。
あるじゃないですか、そういう西洋人がどうなのこうなのっていうこと。
まあどうなのかなぁ、ほんのり黙ってていいのかなぁ、なんていう気持ちもね。
少し愚かした方がいいのかなぁ、なんていう気持ちもありますけどね。
だけどもし憲法が変わって、なんていうと、どういうふうに変わるのかしら、なんてね。
ああいうそういうことをね、私みたいな分くらいじゃわかりませんけどね。
やっぱり、男の子はね。
これは戦争体験と関係なくてもいいんですけど、95年、もうすぐ96年生きてこられて、人生で一番嬉しかったことってなんですか?どんなことでも構いません。戦争と全然関係なくても。
もうそれこそね、うちじゃね、みんなね、健康なんですよ。健康でみんな周りにいるんですよ。
それであの、元日はここでもって、親戚に言っても、あの、私、じいさんがそばにおりますのでね、集まるんですよ。
それが一番楽しみでね。
今ね、来ている子のひまごなんかでもね、もう赤ちゃんの時からね、抱っこさせてって言うとね、飛んできて抱っこさせてくれるんですよ。
チューしてくれる。
それがまた健康若さの秘訣ですね。
そうです。
ですから入院している時にボケちゃいけないと思ってね、
何もしない時にはね、内緒で編み物をしてね、少し頭を働かせておかなくちゃと思って編み物をしてました。
ボケないように、ボケないようにと思ってね。
本当言わず、やしゃごも。
今どうですか?今後なんか、まだまだお元気だと思うんですけど、今後の楽しみでもいいですし、今の生きる原動力でもいいですし、
あえて将来の夢でもいいんですけど、津谷さん、なんかありますか?
そうですね。もうね、このままみんな元気でね、私より先に行かないように。
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みんなで120歳、130歳。
もうそれだけですね。
私はいつ行ってもいいんですけどね、私より先行っちゃダメ。私がここにいる限り、私より先行っちゃダメ。
だから次男の方にもね、嫁に電話するんですよ。
私がいる限り、私より先行けないよ。はい、頑張りますって言ってますけどね。
いつまでもお元気でいてください。ありがとうございます。