この使い方ってどう思います。
おもしろい。やっぱりそこって、まさに自然感。
例えば自然って西洋だと、克服してコントロールするもので、
だからベルサイユ宮殿の庭園と、
日本の茶室の路地の違いみたいな感じですよね。
あれはある種任せっぱなしで自然に木が生えて、
木の形がむしろ自然にできてきて建物を覆うようになってきて、
でも片谷、ベルサイユ宮殿行くと左右対称に完全に刈り込まれて、
いかにコントロールできてるかっていう。
そこの違いとも重なるし、
お茶の例えばもてなしって、
いわゆる品種互換、品種歴年なんて言葉ありますけど、
今みたいにまさにほら、
一方的に私が邸主でお茶立ててもてなすんじゃなくて、
そもそも今日は私がもてなされてるホストはジョイチさんですけども、
私来て今お茶立ててる間は私が邸主で、
でも今変わって立ててもらって、
その時は今度は私が客になってて、
こういうインタラクティブなやりとりっていうのがすごくお茶の楽しみですよね。
茶事なんか呼ばれても、最後に邸主にじゃあ私一服立てますよなって変わったりとか、
例えばお道具を受け取って、
それを落とさないように非常に丁寧に扱ってみるっていうことは、
逆に言うとその邸主を大事に思う客の気持ちに現れて、
その瞬間は客が邸主をもてなしてるわけだし、
邸主が自慢の道具を出してくれたことに対して客は、
今度は逆にどういう言葉でそれを受けて返せば、
邸主が喜んでくれるかってことを考えるわけで、
その時は逆にやっぱりね、
邸主が客にもてなされてるわけで、
常にそのもてなしっていうのは、
もてなすしもてなされるっていうお互いの相互関係で、
それは相手がどういう球を打ってくるかっていうのは、
本当にその時にならないとわからないわけで、
ある種コントロール不能だし、
でもそこをお互い楽しむみたいなところから、
全然また別の価値観や言葉の世界が生まれてくるわけですから、
それによって結果的にできてくる世界観っていうのが、
日本的なもてなしの在り方だと思いますし、
でもそれはお互いにやっぱりもてなすしもてなされるっていう関係性を
作っていくためにやっぱり積み上げてきたものがあっての結果だし、
ある種どこまでもフェアな関係性ですよね、
そのいわゆる上下関係では絶対ないし、
お互いをやっぱり自立した存在として認め合って、
相互にお互い影響を与えていくみたいな形ですから、
そこはやっぱり極めて東洋的というか日本的というか、
感覚なんじゃないかなと思いますけど、
実際AIはそういうことは可能なんですか?
そうなんですよ、英語ではtheory of mindっていうのがあって、
これ何かっていうと認知科学とかで出るんですけども、
子供もそうなんですけども、他の人間が何を考えてるかっていうモデルを自分持ってて、
その人と話すとそのモデルがどんどんアップデートしてきていて、
お互いが相手が何を考えてるかっていうのを常にモデル持ってるんですね。
今のLLMとかはそれないんですけども、
脳と認知科学が出てきてるAIっていうのは常に相手の気持ちとかをモデルしてるんですよね。
それをテストしたり、これがあると相手が何をやろうとしてるかを予測できるんですよ。
だから例えば、奥さんが何かやろうとしていて、これがあったら便利だなって思うと、
サポートに入れると。そうすると命令しなくても常にいて、
常に我々がやろうとしていることをサポートするAIを作ろうとしていて、
ただAIとAIがモデルもできるんだ。人間って常にそうじゃないですか。
お互い何を考えてるかを考えて、その中でそれを反対する人もいるんだけども、
できればサポートしちゃう。これはAIと認知科学の研究の分野であって、
これ教育とかいろんなところで今応用が始まってます。
そういうちょっとおもてなしっぽいですよね。
確かにかなりおもてなしっぽいですよね。
そこもお茶と日本の文化はかなりAIに貢献するんじゃないかなと思って。
ですね。そのうちAIがお茶をする、テイストをする、
その客に合わせてどういう組み合わせをしていくかとか考えられる時代も来るかもしれません。
そうなんですよね。そこの時にテイストのところって大事で、
深くお茶を知らないのに作っちゃうと多分表面、形だけになっちゃって、
本当にお茶のおもてなしとかの心理のところを覚えれば、
もっともっと面白い取り込みの仕方があるんじゃないかなと思っていて、
今本当にそういう意味でそうくさんの本だと濃い本質まで入っていくので、
この勉強がすごく重要だなと思ってて、
今一生懸命勉強してトランスレーションしようとしてるんですけども、
いくつか他のコンセプトまた聞いていいですか。
マンションの中のお茶室、今もうすぐできるんですけども、
支柱の三峡。
そうくさんの写真はちょっとこの間見せてもらったんですけども、
本読むと改めてあれ結構重要なコンセプトなんだなっていうのが分かって、
うちの建築やってくれた三井さんもやっぱりそのコンセプトをちゃんと読んで、
一生懸命やってるんですけども、説明していただいていいですかね、支柱の三峡。
これはもともとお茶というよりも、中世に陰邪の思想というか、
隠れ住むものというか、いわゆる陰遁者。
それはやっぱり中国の文人から来てるんだと思うんですけど、
そういうことは伊藤さんみたいにその街の中で忙しく立ち働いてる人が、
ふと自分自身を取り戻す場として、その自分に帰る場所というか、
昔の知識人、文化人とか、そういう人たちはやっぱり、
たしなみとしても常に陰邪としての自分というものを確保しておかないと、
やっぱり精神的に危うかったりもしたと思うんですよね。
だからそのマインドを持ってるっていうことが、やっぱり非常にたしなみとして重要だったわけで、
それは山の中に隠れ住んでも完全に隠居しちゃったら、
それはもうアウトなわけで、そうじゃなくて、
そういうものに憧れてそれを内に秘めながら、世俗に揉まれて忙しくするっていう、
自分の中でバランスを保つみたいなところがあって、
それを象徴する意味で、街の中に静かな場所を持つ。
例えば室町時代の禅僧たち、京都の五山といわれるトップの国立大学みたいなもんですよ。
当時の禅僧というのは国立大学の教授みたいなもんですから、
いわゆる中国の文人、中国の文人だっていわゆる官僚ですよね。
官僚がどこかで田舎暮らしに憧れて、そういうマインドをどこかで常に持っているってことが、
自分の一つの見出し並みでもあったわけで、
そういう街中に隠れ住むような容量を立てて、あるいは自分の書斎であったりとか、
室町時代にああいう山水画みたいなものがありますよね。
ああいう書斎図って言うんですけれども、
春芸な岩山があって、滝が流れて川があって、風光明媚なところに草案がポツッと立ってて、
そこに書物が置かれてて、そこに李白や徒歩みたいな人物がいる。
でもそれは実は自分の自画像であって、それを自分の街中の書斎にかけて、
心はそこの中にあるっていう一つの、いわば自分なりのマニフェスト宣言みたいなものなんですよね。
だから自分は今は背底に揉まれて忙しく過ごしてるけど、
本来の自分はここにあるんだっていうことを、
そういう書斎図と自分の書斎にかけて、自分の戒めにもしたし、
またそこに人が遊びに来た時にも、
いや俺は本当は忙しくてやってるけど、本当はこういうものに憧れてるし、
これが一番だと思ってるんだっていうふうに言うことが、
一種のイケてる自分、イケてる俺みたいな感覚だと思うんですけども。
そういう思想の延長にやっぱりお茶もあって、
例えば和美茶っていうものが特にその流れの中にあった時に、
路地にしても茶室にしても、あえてその街の中の贅沢な屋敷の中にポツッとその庭を囲って、
小さな容量を建てて、で作ろうと思えばもっと多分豪華なものもできたんでしょうけど、
あえてそれを簡素にして、山の中のような風情にして、
そこに自分がエスケープできる場を作っておいて、
まあでもそういうことで言って、その一種のギャップを楽しむって言ったらいいのかな。
その文化ってやっぱり山中の山境からは生まれないわけで、
そのギャップをどう埋めていくかっていう中での工夫が文化的な魅力というか見どころになっていったと思うんですけども。
今言われて思い出したのはティクニョクハンっていうベトナムのお坊さんがいて、
彼がベトナム戦争の時に国から追い出されて、自分の教え子たちがベトナムでお坊さんやってるんだけども、
もう子供も殺されれば大変なことになってて、
で、お坊さんたちがこんなとこで私たちの瞑想と修行できないとか言って、
で、彼はお寺で瞑想は誰でもできると。
そういう現場でできるのがあなたたちの訓練だっていうのに似てますよね。
一緒だと思います。だから教中の山水なんて言葉もありますけれども、
自分のマインドの中にいかに自分の心をちゃんと確保しておくかっていうことが大事で、
それがまさに市中の山境っていう、
だからそれは逆に言うとどれだけ自分がそこで確立できるかっていうことの表れなんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
でもその真逆の考え方もあって面白いなって思うんですけど、
人間の心ってのは非常に弱いと、これは仏教的な感覚で、
比叡山でね、私が聞いた話というか、伝経大師が残した歌があって、
オノズから住めば次回のこの山は誠なるかなえしんよりえしょって歌があって、
何もしなくてもその山に住んでいればオノズとその貝を保てる、
その自分を利することができる。
人間の心というのは格も弱いと、
だから心によるより所によった方が修行っていうものははかどるっていう、
だからこれはある意味市中の山境と真逆の考えですね。
だから人の心というのは弱いっていう前提にあって、
だからその修行をする場所を、環境を整えることによってその心を支えようっていうのが、
だからその山深く奥に入ったらほっといたって何もないから、
結局修行するしかないっていう、
でもそうすることによって逆に修行が整ってくるんだっていう考え方もあれば、
その真逆は逆に心をいかに保つかっていうところで、
そっちの方がある種より自力ですよね。
足りきか自力かっていう話になってくると思うんですけども。
今、やっとお茶室がまだ完璧にできてないですけども、
大体できて、朝起きて自分でお茶やってて、半分お稽古なんですけども、
3時とか4時に起きて、6時の会議までにお湯を沸かせて全員やらなきゃいけない。
何がね、これ面白いかっていうと、
それとも一人でやってるんですか。
一人でやってるんです。この間思ったんだけども、