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絶望カフカの何者かになりたいラジオ、この番組は元アスレイトのカフカが日々の絶望と些細なヒントをお送りするラジオです。
最近の絶望は、春です。 さて今回はですね、
ボイシーのパーソナリティーでもあるドモン・ランさんのお話を聞いて思ったこと、 そして走ることについて久々にお話していきたいと思います。
ドモン・ランさんは文筆家でありエッセイイストでもある方ですね。 「死ぬまで生きる日記」という代表作を書かれています。
彼女のボイシー、最近ハマってまして、 とっても心の疾病を繊細に言葉で表現される、
そのなんていうか、感覚、感性がとっても素敵だなぁと思って聞かせていただいています。
これからも長く続けていってほしいなぁと思いつつ、 ある一つの放送がすごく僕の中で刺さったんですよね。
それがドモンさんがボクシングを始めたという話なんですよね。
ドモンさん、ご自身ではヒョロヒョロの女性というふうに表現されてましたけどが、 なぜボクシングを始めたのか、
そしてボクシングを通じて言葉の折りを超えられたかもしれない、 そんなお話をされていたんですよね。
そして僕は半年前までアスリートとして陸上の長距離をやっていました。
そしてずっと走り続けていたし、今も実は趣味で走っています。 そういったところで体を動かすこと、
しかも一人で体を淡々と動かすスポーツみたいなところに、 何か共感する部分っていうのがあったんですよね。
そこでドモンさんが感じられた感覚というのを、 なんか自分なりに紐解いて、それをランニングに置き換えて、
僕なりにお話していきたいなというふうに思います。 実はドモンさんは知り合いにボクシングをしている人がいたとか、
ボクシングの映画を見ていたことがきっかけで、 ふとやってみようということで始めたそうなんですね。
なんかそういう直感があったと。 相手がいるスポーツなんだけど基本的には一人で黙々とやるっていうところに魅力を感じて、
そこでどんどんボクシングにはまっていったっていうふうにおっしゃっていました。 そして
ボクシングをやった功用、良かったこととして、 よく眠れるようになったという話もされているんですけど、
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彼女はその文筆家なので、 言葉にとらわれている時にボクシングをすると、その先に行けるような感覚があるっていうふうに表現されていたんですよね。
あるいは言葉の檻を越えて言葉を獲得できるんじゃないか、 そんなふうにも言ってました。
それは腰を入れてパンチをする、みたいなことで指導されるそうなんですけど、 確かにそれは言葉ではわかると。でも体が全然それがわかっていないし、
そもそもできないっていう経験から、それがだんだんとできるようになることによって、 やっと言葉を獲得できる、なんかそんな感覚があるんだ。
なんかそんな奥深さを感じているんだって表現されていたんですよね。 で、僕はボクシングやったことないんですけど、
まあランニングにおいても、 ああ確かにこういう感覚ってあるよなーってふうに思ったんです。
それは早く走ることが、 頭ではイメージできるんだけれども、体がその思うように動かない、できないっていう時に、
淡々と繰り返し走る、 練習をしていくわけですよね。トレーニングをしていく。
その時に、だんだんと自分の体が強くなっていく。 それは心肺機能もそうだし、筋肉的にもそうだし、
だんだんと成長していく。そうして、やっと思い描いていた動きや、 そうですね、気持ち良さを手に入れることができる。
そうやって、なんか言葉のようなものを獲得していくっていうことが、 なんとなくわかるような気がしたんですよね。
あるいは、 走るとか、
ボクシングって、やっぱり心拍数が上がるスポーツだと思うんですよね。 最初のジョギングの段階では、
心拍数は上がりづらい。 ゆっくりのペースで走るっていうことが大事になるんですけど、
これ以上ペースを上げるときついなっていうペース。 このくらいのペースなら、
走れるな、長く走れるなっていうペース。 そういう、専門用語で言うと、
有酸素運動の域地、 あるいは乳酸が溜まりやすい域地、あるいは無酸素の領域の域地、みたいな部分っていうのがあって、それぞれフェーズが分かれているんですよね。
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そのフェーズを自分で、感覚で、手探りで探りながら、 そこを走りながら探していく。
そんな感覚ってあるんですよね。 その時、
それ以外のことを考えられなくなる瞬間っていうのがあります。 そういう時、言葉は
無駄、いらなくなるっていうことなんですよね。 その時、言葉の檻を越えられるっていうドモンさんの表現、まさにだなっていうふうに思いました。
もっと言うなら、今はジョギングの例だったんですけれども、 高負荷のトレーニング、あるいはレースに出る時なんかは、
言葉っていうのはもう本当に無駄なものでしかないっていう感じなんですよね。 まあ僕らはインターバル層と言って、
ある程度短い距離を速いペースで走った後に、 心拍数、高くなった心拍数を整えるために、ゆっくりジョギングをして、
また速いペースで走って、またゆっくりで走って、 その交互を10回、20回と繰り返す、まあそんなトレーニングがあるんですけど、
そうやって速く走ってる時っていうのは、もう言葉では考えられない領域になってきます。 それでいて、
なんていうかな、どこか言葉を残しておくっていうか、 ある程度理想の動きに近づくために
完全に 身を任せないというか、最低限力を入れるところは力を入れておく。
そして動かすところは動かす、みたいな、 最低限自分でコントロールできるところだけをコントロールしていく。
あとはもう無我夢中に走る。 まあそんな感覚になるんですよね。
もっと言うなら、人間の体ってめちゃくちゃ複雑にできているので、 日々の体の調子っていうのも当然変わってきます。
だから自分がコントロールできない部分っていうのは非常に多くあるんですよね。 思っていたよりも体が重いとかきついとか、
そういったものも感じながら走っていくわけです。 そういう時っていうのは本当に強制的に言葉というものがなくなっていく。
まあそんな時間があるなというふうに思っています。
ある種、そういう高強度のインターバル層っていうのは究極のマインドフルネスだなっていうふうにも思うんですよね。
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まあただ、その言葉の檻を超えるっていう表現は言えてみようだなって思っているんですけれども、
言葉の檻にがんじがらめになっている、まとわりつかれている人にとってはきっと言葉のない世界に
行くっていうことによって、また新しい言葉にがんじがらめにされていた自分の、各の自分が出てくるみたいな部分っていうのはあると思うんですけれども、
もともと言葉に覆われてない人、もしくはそういう状態の時に、 まあそういう
高強度のトレーニングをしたり走ったりすると、
まあもともとないんだから超える檻もないっていう感じになるんですよね。
何が言いたいかっていうと、走っている人、みんなが
何か常に新しい自分になれると言ったらそういうわけではない。 これはあらゆるスポーツにおいてもそうだと思っています。
まあ自分に置き換えて考えてみるとですね、 現役時代はまあこう考えすぎてしまうタイプだったので、何にも考えずに走る、
ゆっくりジョギングをする、それだけに集中するってことを意識してました。
それが逆に何かこうメンタルブロックになっているものを 自然と剥がしてくれている、そんな感覚っていうのもあったんですよね。
だからこそ引退した後も僕自身走り続けているんですよね。 まあ例えば今仕事が
8時から10時まで働いてたりするんですけど、 10時に汽車して、実は家は走って10分ぐらいの場所にあるんですけれども、
ちょっとあえて遠回りをして、近くの公園に行って、 チノパンとシャツと
ウィンドブレーカーとどうでもいいラニーグシューツで公園の中をぐるぐると走り続けていたりします。 完全に不審者ですね。
まあそうやって20分ぐらい走って帰るようにしてました。 まあそうやってするとやっぱり頭はスッキリするし、
仕事中にああでもない、こうでもないって考えていた言葉で、 言葉の鎖で元気絡みになっている状態からある種解放される感覚っていうのがあるんですよね。
まあそれはちょっと切り替えのようなものになっているかもしれない。 まああと単純にこう汗をかくということで、
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なんかその言葉というものから解放されるっていう側面もなんとなくあるなというふうには思ってます。
たまたま僕にとってはそのランニングというものがとっても性に合っていたし、
それはまあ一生を続けていくんだろうなっていうふうに改めて思いました。 というわけで今回はドモン・ランさんのボイシーを聞いて、改めて走る高揚、
スポーツの高揚、そして言葉の折りを超える感覚というのを考えてお話していきました。 最後までお聞き下さりありがとうございました。ではまた。