康太郎雑技団チャンネルの始まり
はい、康太郎雑技団チャンネル始まりました。このチャンネルは、ツクルをテーマに空間と時間を共にした仲間が、それぞれが持つ発行させた技を対話を通して、さらに次のツクルを実現する番組です。
康太です。今日もよろしくお願いします。今日は、今日もこのメンバーでお送りしたいと思います。天野さん、よろしくお願いします。
はい、お願いします。 ハセロさん、よろしくお願いいたします。はい、お願いします。
はい。 今日はどんなテーマで話そうかというふうなことで、前回天野さんの話があったんですけど、もうちょっとフラットな感じで
最近お二人が気になる話、気になっていることみたいな形で、ちょっと
フラットな形で言いていきたいなというふうには思うんですけれども、じゃあまず、
ハセロさん、最近気になることあればよろしくお願いします。
気になることですね。
今度、 3月13日に、あの
臨済宗系のお寺の法話会行ってくるんですけど、それが今すごく楽しみですね。
はい、法話会。じゃあ僕もあんまり何するか、あまりよくわからないんですけど、母のつてで、なんかこう月に一回そう、なんかあの、母の友人が
幸福寺の愛好庵っていうところがあるんですけど、そこの
なんか住職って言ったらいいのかな、わかんないんですけど、の、まあ母親と友達でみたいな、なんかいっちゃんって言うんですけど、いっちゃんがいつも仲良しで、あんた行ってみたら、みたいな。
で、行くんですけど、はい、それが楽しみですね。
それで、なんで行こうと思ったんですか?
行こうと思ったのは、そうですね、結構、仕事の影響結構大きくて、
去年ぐらいから、あの、
こう、なんて言うんでしょう、仕事のテーマがずっと重くなったんですよね。
うん。
うん、あの、なんて言うんでしょう、経営者のこれからにより関わるというか、
うん。
なんて言ったらいいんですかね、これ、事業生計とか、まあそっち系なんですけど、
で、なってきたら、やっぱりもうその人の結構、素が出たりとか、まあいい面、悪い面っていうところが、まあ諸々に出るんですよね。
うんうん。
で、なったときにこっち側も感情あんまり乱されちゃうとアレやし、
うん。
うん。
で、まあなんか人間の理解深めたいという感じですかね。
多分、
かなあ。
うん。
で、なんか変に誘導しようとしても、ファグるじゃないですか。
うんうんうんうん。
相手を。
うん。
なんかそうしないとか、あとはなんか向こうからの、まあこう感情の起伏にあまりこっちもびっくりしすぎないようにとか、
うん。
なんかそんなことを考えたときに、善とかっていうのって結構、いいんかなあみたいなのは、なんとなくこう思ったという感じですかね。
ああ。
うん。
で、まあそういう話があったときに、じゃあ行ってみようみたいな。
うんうんうんうん。
って感じですね。
まあ行って、これから行くんで、
じゃあどんな感じかわかんないんですけど、まあそれも含めて楽しむって感じですね。
うん。
面白い。
うん。
なんかやっぱりこう、
相対しているのが人なんで、今の話聞いて思ったのは、
人にも振り回されたくないし、
自分の感情によっても振り回したくもないみたいな、そんな感じですか。
なんて言ったらいいんですかね、これ。
なんて言ったら一番ピンとくるのか、僕自身もあんまりよくわかってないんですけど、
うん。
うん。
まあなんか、うん。
そうですね。
いやちょっとこれうまく言葉できないんでアレですけど。
うん。
うん。
うまく言葉できないですね。
いい、俺行って。
あーどうぞ。
経営者との相対
今聞いてて思ったのは、なんか経営者と相対することが増えてきて、
なんか人間理解って言葉もあったけど、
例えば経営者だったら、経営者を理解したいっていう風に聞こえながら、実は自分を理解したいみたいな風に聞こえてて、
うん。
こっち、自分の方側がこう、なんかやっぱりリスルというかコントロール、自分をコントロールできるようになりたいみたいな。
うん。
なんかそういう風には聞こえたけど。
そうですね。だからまあ、相手をコントロールするなんて不可能じゃないですか。
変数多すぎて。
うん。
向こうの友人関係だったり、ご家庭の関係だったり、まあ市場の変化だったり全部あるんで、まあ無理なんで。
ただ、でもなんかその、そういうこともあるよねっていうのを、なんかこう、
一番なんか体感する修行みたいな。
うん。
に近いのが禅なんちゃうかなーみたいなのは、なんかふんわり、この3年ぐらいなんとなくは思ってたんかもしれないです。
うん。
禅の教えっていうこと。
とか、なんかマインドフルネスとか、なんかあの藤田一生さんがハーバードビジネスレベルとか出てきてて、書いてる内容とか、
なんか見てたりとかすると、なんかそっちってすごく、こう、
いいのかなって。あとやっぱ、意外と経営者の方ってそういう、
その、あそこでも結構その経営者のワークショップとかやってたりするんですって。
ただ、なんか、うん、
割と近いんかなーって、なんて言ったらいいんですかね、まあ、
自分をこう、見ながら、
こう、相手も見るみたいな。
うん、で、自分は自分なんですけど、
あんまこう、自分に誘着しないというか、自分をこう客観的に見るみたいなのが、
なんか前の、座前の目的みたいな感じらしいんですよね。
だからこう、だからこう、実際誰かと相対しながら、
まあこう話をされて、で、イラッとするシーンってそんな死ぬほどあるじゃないですか。
悲しい気持ちになったりとかも、まああるわけなんですけど、そうなった時に、そのまんまそれをストレートに、
自分の感情として受け止めるんじゃなくて、なんかこう、一歩引いて、それをこう上から見てるみたいな感覚になれると、
あの、
まあ、不要意に相手を傷つけなくても済むし、
待てるし、
なんか全部、こう、
悪い方向にはいかないようにはなるんじゃないかなっていう。
全然言葉はできないですけど、なんか、
うん。
うん、なんかこう、スパッと言い切れないですね、まだ全然。
うん。
なんで受けたのかは、まあ、言ったらご縁みたいな話ですよね。
うんうん。
なんか、今の話聞いてて、
すごい難しい話を、話だなーって、
あの、
高いレベルというか。
うん。
相手を受け入れつつ、
自分のこう、感情を、感情を、
押し殺してはいないのかもしれないんですけど、
客観的に見つつ、
っていう部分と、
なんか、まあ、ビジネスの文脈だから、
こう、それで成立していいなーと思うんですけど、
押し殺しすぎて、
どうなっちゃうのかなーっていう、なんかこう、
儚さというか、危うさみたいなところも感じていて、
なんか、そこのバランスであるんじゃないかなと思ったりとか、
うん。
したのは、まあ、僕自身もそうだったんで、
そういうふうに、まあ、僕は経営者で相手することはなかったですけど、
やっぱりこう、組織の中で振る舞う時に、
自分の感情をあらわらにしてた時代があって、
それは、やっぱ、よろしくないなーと思って、押し殺していて、
で、押し殺しすぎて、
ちょっと自分が破綻しそうになり、みたいな。
っていう、その、
塩梅が、こう、よくわかんなくなった時があって、
で、ある人からもらった言葉が、
冷静沈着っていうのを、
言葉として、メッセージとしてもらって、
あっ、その、冷静沈着っていうふうなことを掲げてること自体が、
自分を客観的に見る基準になるというか、
そういうようなことはありましたね。
うん。
うん。
あの、その話で言うと、
結構、うち、父とまあまあ話すんですけど、
うん。
うん。
なんか、宗教の本とか結構好きなんですよね、お父さんが。
うんうんうん。
だから、その辺の話とかもすごい好きで、僕も。
うん。
よくするんですけど、
お坊さん、だから、その話で言ったら、
僕も疑問として思ったのが、
お坊さん、そんなん言ったら、じゃあ感情ないんじゃないみたいな。
うんうんうんうん。
悟ってる状態って、もうじゃあ、その、
はっきり言って、苦がない状態っていうことは、自分がないっていう話らしくて。
うんうんうん。
うん。
だから、それはもう、でも、
まあ全てからすごく言うたら、
時放たれてるんで、めちゃくちゃ幸福感高いらしいんですけど、
うん。
こう、でもすごく傷つく言葉を言われた時に、それも全部、なんかスルースルーみたいな話をちょっとしたんですけど、
イラッとするらしいんですよね、一応。
悟ってる人でも。
うんうんうんうんうん。
イラッとした時に、
なんかこう、
イラッとしてる自分がいるっていうのを、
うん。
こう、一応見れるというか。
うんうんうん。
で、見てからどう対処するかっていうのを決めていくっていうことなんで、
どっちかっていうと、こう押し殺すというよりかは、受け入れるというか。
うん。
受け入れて、一泊置いて、こう、どうするかっていうのを、悟ってる人は、なんかそんな感じらしいっていう。
まあ、お父さんも別に悟ってるわけじゃないんで、あれなんですけど。
でも、悟ってる人同士って分かるらしいんですよ。
対話と娘との時間
ああ。
へえ。
君悟ってるね、みたいなの分かるらしいですよね。
分かってるよね。
君悟ってるね、みたいな。
そうそうそうそう。
めっちゃおもろくないですか。
悟ってるね、みたいな。
悟ってるね。
そうそうそう。
あるらしくて。
イエーイ、みたいな、ハイタッチするみたいな。
そうそう。
まあ、そんな、うん。
押し殺しちゃうのはやっぱそうですよね。
やっぱどっかで絶対バグると思うんで。
うん。
うん。
というよりかは、こう、
あ、これで自分は傷つくんだ、みたいなのとか、
あと、臨済主ってすごく、
なんとかって言いますよね。
なんとか問答って言いますよね。
だから、あなたの父と母が生まれる前のあなたはどこにいたのか、みたいな。
まあ、言うたら答えないような問答とかを考えたりとかするらしいんですけど。
うん。
なんかそれをしながら悟りを開いていくみたいな感じらしいんですけど。
なんかこう、考えるというか、
なんて言ったらいいんですかね、なんかそんなんとかも、なんかこう、いいなぁとは思ったっていう感じですかね。
なんて言ったらいいんやろ、ほんまに、ほんまに、
全く言葉にできてなさすぎて、ちょっとびっくりしてるんですけど、自分でも。
まあでも、
そうですね、なんかでも、目的あるっちゃあるけど、別にないっちゃないみたいな感じですね、今。
一番は、なんかこう、自分の心の処し方みたいなのは、やっぱり、
身につけたいなぁとは思いつつ、で、それを経た上で、やっぱり、
相手にこう、
うよい発言をしないとか、変にこう、自分の感情をぶつけないとかっていうのも、身につけたいなとは思いますし、
そうしてくると、なんとなく相手が置かれている環境とかっていうのが見えてきて、
その人の気持ちだったりとか、環境に共感できるような器にもなれるんじゃないかな、みたいなのもあるんですけど、
まあ、
それが目的でもあるけど、別にそうでもないみたいな、まあ言ってみたいみたいな、
で、なんかその全問答って、そうですね、全問答ってすごくない?みたいな、
ほんまマジで、でもそれ一応、それちゃんと一応理論立てて喋れる人がいるっていう、さっきの問答とかを、
その全く自分がわからない世界観っていうのは、
ちょっとこう見てみたいですね。 なるほどね、なんかこう、好奇心と、
自分自身の精神の筋トレをしに行くような感じですね。 そうですね。
だから本当に仕事のなんか、フィールドをちょっとだけ変わった時に、
チベット文学と音楽
ブワーッと目線が開けた感じもあって、自分を壊すとまでは言わないんですけど、なんとなくこう、
全く畑違いなところに行くのって、いや本当に、
自分自身に対する認知も変わりますし、いやすごい楽しいなと思って、
積極的にこう、わからないところに飛び込んでみようかなっていうのは、ちょっとありましたかも。
いいね、ワクワクするね。 はい、僕そんな感じですね。
あ、では、天野さん。 俺?
はい。 いっぱいありすぎて、
はい。 じゃあ3つ出すから、どれ、どれかいいか。
本屋巡り以外。 本屋巡り以外ね。
いや、本屋巡りがだいたいその、インプットなんだけど。
あ、インプット。 その1、
えっと、チベット。 チベット?
その2、えっと、墨開き。
墨開き? 墨開き。
墨開き? うん。その3、えっと、一箱フルホインチ。
あー、それはなんとなくイメージついちゃうな。
1番、2番かな。
どうですか、はっせんはっせん。 いや、やっぱチベット気になりますよね。
うん、気になる気になる、チベット。 チベット。
チベット、いきなりチベットなんだ、みたいな。
ほんとに、チベット料理とか言われたらちょっと気になるんですけど。
チベット料理知らないしな。
まあでもなんか、この間の、それこそ本のイベント、本屋さんのイベントっていうか、
本屋さんが何件か集まるイベントに行ったら、
書士カンカンボウっていう出版社さんがあって、
そこのブースがなんかザワザワしてるわけ。
どうしたんですかって、なんかちょっとその辺にいる人に聞いたら、
なんかチベット文学でめちゃくちゃ有名な、
ラシャムジャさんっていう人が、
今日はなんと、日本に来てます。
今、そこにいるあの人が、
あの有名なラシャムジャさんなんですって言うわけよ。
ああ、みたいな。
そもそもチベット文学知らんし、みたいな。
そしてなんかものすごい熱心な、
信者みたいな大ファンの人が2人いて、
その人が一生懸命説明してくれるわけ。
チベット文学っていうのは、
最近1980年ぐらいにやっと始まったもので、
なんかそれまではやっぱりチベットって中国の自治区に入って、
なんか中国の文化圏でなんかやらなきゃいけないとか、
だからそういう区別された中で、
いわゆる交互体の文章っていうものは全然できてなくて、
だから小説を書くっていうこと自体がもうなんか全然できてない。
それが1980年ぐらいからだんだん文化として成立してきて、
だから今その小説っていうのはちょうど復興期で、
めっちゃなんかこうエネルギーあふれていてすごいんですみたいな。
今日はその中でも一番有名なラシャムジャさんが来てますって言うわけよ。
その翻訳家のホシさんっていう人もいて、
その人は日本で東京外大の教授でなんかチベット文学を普及する活動をしていて、
そのホシさんも来てますって言って。
すごい言われて。
なんかわかんないけどみたいな。
自分の言うんだったら一冊買いますとか言って。
ほんとですかって言って。
じゃあせっかくなんでサインもらってくださいみたいな。
サインもらって。
なんか僕チベット文学全然知りませんでしたって言ったら、
人の縁と集まり
隣に翻訳する人がいて、
翻訳する人はラシャムジャさんにいっしょけんぼそれを翻訳して、
ああそうなんだみたいな。
そう訳すんなよみたいな。
それでなんかそっからなんかこのチベット音楽の話になって、
今度コンサートがあるから是非来てくださいって言われて。
今度行くんだけど。
いいっすね。いいじゃないですか。
なんか急にチベットが俺の中にやって来て。
現れた。
でもなんかその買った本は短編集で、
まだ最初の2つぐらいしか読んでないんだけど、
なんかすごい良いの良いのよ。
結果的にはなんか良い出会いになったな。
新たな何かが開いた感じ。
ちょっと面白いよっていうね。
チベット面白いですね。
なんか独特の文体とかあるんですか?
チベット文学とか音楽とかも。
あまりにもわからなすぎて。
音楽はねなんだろうな。
なんかいわゆる民族音楽みたいな感じで。
何に近いって言ったんだろうな。
まあでもそれが全てかどうかわからないんだけど。
ちょっとあれに近いみたいなのは言えないんだけど。
なんかすごく良いからって言われて。
安全だし良いかってちょっと言ってみた。
まだ言ってはないっていう感じですね。
そう。再来週ぐらい。
そうなんですね。
楽しみですね。
良いですね。面白いな。
みんなちょうどずつ変わってきてるから面白いですね。
じゃあホウタちゃん。
僕ですね。僕は
あれですかね。
娘が小6に入ってくるので
なんかもうあと娘と戯れる時間が
あとどれぐらいあるのかなって考えると。
そんなにこう
今なついてくれてますけど
そんなにこうたくさんあるわけじゃないなっていう風に思っているので
どれだけこう対話を楽しむかみたいな
ところが一番興味はありますね。
であとはまあ
あとはなんだろう。自分自身のこれからどういう風にこう
作り上げていくかみたいな感じで
ここ数年はあのこのあわけもそうですけど
やっぱりこう
幸いお二人はじめいい仲間と巡り合わせさせてもらったんで
こういうことをどうやったらこういうのって
自由つなぎでつながっていくのかなっていうのを
すごい分解したいなって思うことがあって。
なんか人の縁ってやっぱり
まあ僕今までどちらかというとこう受け身でこう感じてたんですけど
積極的にこう作るってどうできるのかなみたいな
いろんなところにこう顔出して
はいはいはいってやることはまあ多分できるんでしょうけど
なんかこうそうじゃない感覚があるような気がしているんですよね。
でそれなぜそんな風に思ったかっていうと
今ちょっとこう
フライヤーさんのこうシューターとしてお手伝いをしている中で
その
大石春さんのキャンプもお手伝いをしてたり
渡辺幸太郎さんのキャンプもそうなんですけど
なんか絶妙にいい人が集まっているような気がしてるような
してると思っているんですよ。
でこう
強く干渉もしないし
それぞれを尊重するしみたいな
で少しちょっとそれぞれの人の弱さを持ってたりとかするっていうようなところで
こういう人たちが集まる場っていうのはどうしてこう
作られるんだろうっていうのはすごく興味があったりしますね。
会社とかじゃないし
集まる人たちの理由
そういう潜在的に持ってる人いるのかもしれないですけど
そういうのがこう
じゃあサードプレイスだっていうところでこう一括りして
集まっている感じもないので
そこの構造を知りたいなっていうのがちょっと興味あるところでありますね。
その絶妙な人たちが
なぜ集まるかっていうこと?
そうですそうですそうですそうです。
なんか俺はやっぱり何か人に集まってきているからかなって思うけどね。
あーそれもあるかもしれないですね。
それは小太郎さんであり
春さんでありみたいなそこはあるかもしれないですね。
そうだよな。そうかもしれないですね。
お二人は渡辺小太郎さんはどこに聞かれてきたんですか?
あそこはあんまり聞かれてないですね。
いやいやでも小太郎さんの話聞いてて、もう今全然聞いてないですけど
あの
でもまあなんかやっぱ価値観が好きですよね。
僕思ったのは集まった人たちみんなその価値観が好きで集まっている人たちなんで
話合わないわけがないっていう感じやっぱり
あとまあ価値観は一緒だけど属性違うじゃないですか。
働いてる場所だったり年齢だったり性別だったり国籍だったりとか
っていうのが違う人たちが集まるんでよけ楽しいっていう。
最終的に目的がみんなで何かしようとかいうわけじゃなくて
めちゃめちゃ個人的なものを作って
終わるみたいな感じが結構フライヤーのものって多いと思うんですけど
最終こう別に誰かに評価されるわけでもなく
自分で完結するっていう形なんで
変な競争意識もないし
目的がないんで目的というかゴールが別にある集団じゃないんで
だから多分すごい居心地いいんだろうなっていうのは
なんとなーく思ってたんですよ。
でもやっぱり会社とかになっちゃうと目的が必要になりますし
目的が必要になるとやっぱり逆算で
異なる表現と共通の価値観
これをしなければいけないっていう
しなければいけないがやっぱり発生しちゃうと思いますし
マスト感がね。
それがないっていうのが一番ふんわりしてる
良さなのかなとかやっぱ思いますよね。
なんか今日ちょうど読書会があって
ある人が13歳のアート思考を話してて
その本めちゃいいですよね。
いいよね。
僕大好き。
根っこがあって種があって
花が咲くっていう表に現れている花じゃなくて
根っこの部分の探求心とか価値観みたいなことを育てることが大事だみたいな話で
まさに価値観、根っこの部分が一緒で
出てくる花がみんな違ってて
花の部分はもう言ったらどうでもいいというか
それぞれいい花だねっていうだけで終わるっていう
根っこの部分が一緒だっていうところがやっぱり
土の中でつながってるというか
そういうことで
そのつながる根っこの中心には誰か人がいるっていうところがあるんだろうな
そうか。
確かにありますね。
試しに全然価値観合わなそうなコミュニティに参加してみるっていうのはどうなのかな
引き分けのところ行く?
キンコグニシノさんとかさ
知ってるもんね、疲れちゃいそうだけど
あれに参加してる経営者の僕あれですよ
いますよ
行っててもうやめたいって言ってましたけど
ちょっとそうなんですよ、だからそこら辺ちょっともうちょっと深めてみたいなみたいな
自分なりの理解をちょっと深めたいなっていうのはありますよね
だから皆さんめちゃ観察しますよ
これって一人一人を観察してわかることなの?
いやなんかねちょっとそこは一概に言えないような気はしてるんですよね
一人一人の個性があってそこに集まってきているその
なんかこう動機みたいなところもあるし
そこに現れるこう
表現みたいなところもあるから
で、別にこう
必ずこうだっていう風にする必要もないかなって最近は思っていて
ある意味唯一無二の空間っていう風な整理の仕方もあると思うんですよね
再現性を別に求めなくてもいいしみたいな
で、コピーはいらないような気もしているので
それぞれの集団というかコミュニティで違う表現をすればいいっていう
それこそ猫が一緒だから違う表現をしてるから
ちょっとこう微妙に冴えは出てもいいなっていう風に思いながらも
なんかこう本質的なところになんか中心軸になんかこう
揺るぎないものがあるんじゃないかなっていったところを探ってる感覚というか
そういうのに興味がありますね
それこそは好奇心で再現したいっていうよりは
単純なそのなんでっていう
ああそうです
そこがめちゃくちゃ強いと思いますね
一方でだからそれが何につながるのかって言われると
それはちょっとわかんないけどみたいな
いいじゃん別にみたいな
感覚のそこがありますね
なるほどね
いいですね
相変わらずみんな素敵な話をする3人じゃないですか
パセロには言語化してもらわないと
まだ言ってない
言ってない中で何もえらい語ってた
それでちょっと恥ずかしいじゃないですか
全部断片情報ですから僕らは
その後の話もまた改めて聞いてみたいということで
今日はもうちょうど30分過ぎちゃってるという感じで
今回も終了したいと思います
どうもありがとうございました
ありがとうございました