神様の存在と捉え方
人生ついでにゆるっと覚醒してみちゃう?
こんにちは、こんばんは。霊性開花の専門家、リアルスピリチュアリスト橋本ゆみです。
この番組はビジネスや人生を変えていきたい方に向けて、エンタメでもファンタジーでもないリアルなスピリチュアルで人生を切り開いた
ゆるっと覚醒マインドをお届けします。
今回のテーマは神様のおあすところの話と六根清浄ということで、
ちょっとスピリチュアル寄りの話をしようかなーなんて思いました。
神様って何?っていう話もあると思うんですけど、
ここでは宗教の話とかはしないので、
何か特定の宗教を信じている方にはちょっとムムっていう部分もあるかもしれませんが、
そこは脇において聞くか、あるいはもうこの話は聞かない選択をするか。
一神教とかになってくるとね、もうね神様っていう定義がまづもって違うっていうことがね起こりますんで、
その辺ゆるっとできる方は聞いていただき、
本当にね、信仰心が厚い方で、
日本的な、神道と仏教が入り混じったような話がちょっと苦手な人は、
今日は聞かないでおいてもらえればいいのかなと前置きしておきます。
さあさあ、神様どんな存在思い浮かべますかね。
神社とかにいる存在って思う人もいると思うし、
まあいろいろですよね、神様の捉え方。
その捉え方がその人の人生を作ってたりっていうのもあるかと思います。
猫さんもそうだねーって。
神様の捉え方はね、外にいる存在で守ってくれて、
天にいてお願いも叶えてくれて見守ってくれるみたいに思う方もいれば、
自分の内側にいる存在である。
自分そのものが神の訳見玉というところでね、
私も神である、そういうふうに捉える考え方もありますね。
あとはね、自然そのものを神と呼ぶと。
これがアミニズム的な考え方ですね。
山とか木々、岩、海、太陽、月、そういうものに神聖さを見て神格化していく。
そういう捉え方もありますね。
まあまあどう関わるかっていうのは本当に人それぞれだと思います。
六根清浄の概念
正解ないよねっていう。
で今日ちょっとタイトルにも入れた六根症状ですが、
これはですね、仏教の目と耳と鼻と舌と身体の心と意、
意識の意っていうね、六識っていうね、感覚の相性のことなんですね。
まあそのね、六根っていうのが般若心経でいうところの、
無限に微絶心にってやつですね。
これ言葉、漢字見ないとなんだかよくわかんないかもしれないんだけど、
漢字見るとね、無限は無し、目、耳、鼻、舌、
まあ今言った身体の心に意がないよって、無限に微絶心にっていう言葉なんですけど、
まあでもこれそもそもというか、
アマテラス御神が話していると、
のたま枠っていうところから始まるんですね。
はいはい、もう長いからあれなんだけど、
これは空では覚えてないんですけど、
まあ簡単に、めちゃくちゃ簡単に言うと、
神様と同じだよっていうことを言ってるんですね。
すっごいすっごい全部省略してます。
でもシンプルに言うと最後、
そうなんですよ。
六根が象徴なるがゆえに五臓の神君安寧なりって言ってね、
その五臓、五臓の五臓ですね。
五に臓器の臓ですね。
まあそれゆえに神君安寧なるがゆえに天地の神と同婚なりっていう言葉があり、
天地の神と同婚なるがゆえに万物の霊と同体なり、
っていう形で最後続いていくんですけど、
結局それをシンプルに一言要約したら、
まあ神そのものだぜっていう話ですね。
現代語訳風に言ったら。
まあ、あのなんていうのかな、
その途中のねやつ、途中のやつというか、
そのお告げの野球枠の中には、
何だっけな、
ちょっと何だっけ、何だっけとか言って、
目にもろもろの浮上を見て心にもろもろの浮上を見ずとかね、
これが目と耳、鼻、口っていう風に連なっていくわけなんですけど、
それがね清らかであるっていうね、
まあ般若心経でも言ってる全ては空であるっていうところに話が行くので、
なんか仏教と神道が入り混じったノリトみたいな、
ノリトみたいなっていうかノリトなんですけど、
ノリトなんですけどとか言って、
まあ面白いなと、面白いというかね、
内なる神聖さと信仰
私自身はその特定の宗教は信仰していませんが、
信じているものっていうのがやっぱりね、
アミニズムなんですね。
やっぱりね、
なんていうのかな、
アミニズムに行き着いたのは中学の時ですね。
もうこれはっきりしてるんですよね。
なんかの本を、
仏教とか宗教の本を読んでて、
その当時ね、人類の4%が自然進行である。
確かね、そんな4%とかだったら、
4%っていう数字だけがね、すごい強烈に覚えてるんですよね。
4%もいるんだと思って、
なんか嬉しくなったんですね。
神とは何かっていうのをね、
なんか考えてた中二病の時期がありましてね、
人それぞれだから信じるものは、
信仰というか信じる力って本当に、
本当に本当に、
人間が人間たらしめる大切な感情、感覚と、
私個人はね、感じていて、
なので宗教っていうのはやっぱね、
無くならない、
語弊があるんですけど、
ちょっと今回のテーマで言えば無くならない、
語弊があるって言ったのは、
宗教の形態が変わるのでね、
コロナ前に宗教が無くなる、
宗教が終わるって言ったのか、
無くなるって言ってないな、
終わるって言ったんだ、
まあそんなことを覚えてる人はいないと思うんで、
ここで回収しなくてもいい情報を回収してしまおうとして、
今ちょっと混乱させました、
すいません、話を戻しますと、
宗教というか信じる力は本当に大切だと、
私個人はそこは本当に揺るがなく信じているんですね、
その対象が何か特定の神であったり、
自然であったりっていうのは、
個人それぞれの文化、環境、思想、
もうそれでいいと思うんですよ、
今まではそれで戦争をしたり、
これが正しい、正しくないっていうのがなぜかね、
みんな好きなんだよね、
そういう話がきっとね、
それでね、
ある種、一神教にしてしまった方がコントロールしやすいとかね、
そういう事情も歴史背景にはあるわけなんですが、
その辺はもうね、
そこが好きな人はそこをね、
ニヤニヤしながら話したり調べたりすればいいと思うんだけど、
人生に役に立つのかな、
立ってる人はいいんですよ、
私自身はね、
なんていうのかな、そこを気にして、
例えばふんがふんがして、
そのふんがふんがした怒りのエネルギーを建設的に使えるなら、
ふんがふんがすればいいと思うんだけど、
どうぞどうぞ怒って、
人類の進化に貢献してくださいみたいな感じだったらね、
どうぞどうぞって感じなんですけど、
やっぱり今までのこの歴史とか、
昨今のそういう人たちの話を見聞きしたりしてる中で、
建設的なものを生んでる事例っていうのが、
私はちょっと見つけられてないんですよね。
あるのかもしれないよね、世の中にはね。
やっぱり一人の人間が得られる情報の量って限られてくるわけなので、
どうしても偏りも出るからね。
だから、私が知らない何かはあると思います。
ただ、個人的な感想にしかならないんだけど、
ふんがふんがして生み出せるものって、
継続可能なものじゃないなっていう印象なんですよ。
継続可能ではないな。
一瞬のパワーにはなる。
短期的なパワーにはめちゃくちゃ役に立つけど、
だから例えば、怒って何かっていうと、
戦争が分かりやすいけど、
戦争もなんだろう、やっぱりね、
疲弊していくじゃないですか。
続いてはいるけどね。
続けていいものでもないしね。
悲しみとかね、傷ばっかりになっていってしまうからね。
あんまり建設的に継続しても、
あんまりよろしくないじゃないですか。
継続してほしくないじゃないですか。
話ちょっとまたね、広がっちゃったけど、
なので、やっぱり自分の内側とか、
内側の内なる声、それが自分の神である神聖さを感じる。
これもいいと思うしね。
どうしても自分というものよりも、
外側にあった方が守ってくれるとかね、
お願い聞いてくれるとか、救ってくれるとかね。
なんかそういうのが、
その人にとって生きやすい選択、
信じる選択ならば、それもやっぱりいいよねっていう。
いいよねっていうか、それでいいんじゃないかなっていう。
何の話だって、神様のね、
終わすところっていうところで、
外なのか内なのかっていうのがまずあるなと。
私はね、全部あるなと思ってて。
天も地も、自然そのものはもう外側であり、
でも自分は自然の一部でもあって、
自分の内側は自然でもあって宇宙でもある。
だから内と外は同じなんですけど、
ある種の境目っていう輪郭が自分、
自分たらしめてる輪郭である。
そういう捉え方を個人的にはしています。
なのでね、自分がどこに意識を向けるかっていうことなんだけど、
神様をやっぱり遠くの存在にしないっていうのは大事かななんて思ったんですね。
仏教もそうだけど、
神道もそうだけど、
やっぱり自分の在り方、生き方を何らかサポートしてくれることが伝わっているというか。
神社に行くと、それこそなんか清らかな気分、清らかになったり、
なんか背筋がピンと伸びるような、なんかそういう感覚に慣れたり、
人によっては自分に変えるとか、
何か包まれて守られている感じがするとか、
自分をリセットするとか、
いろいろありますよね、その場のエネルギーとかね。
そういう付き合い方もあるし、
仏様とかになってくると、
仏様がね、
菩薩とか如来とか、
世界がある、マンダラの世界があるわけですけど、
マンダラは非常に象徴的というか、
マトリックスでこの世界を宇宙化、
あれは宇宙化を表現して、
真理を図で表現しているのがマンダラでね、
音で表現しているのがトラになるわけなんですけど、
やっぱりあれはあれで、
私も何とも言語化しにくいけど、
すごくしっくりするというか、
私の中ではかなり仏様って身近な存在で、
菩薩がやっぱりね、悟りの手前みたいな設定がいいなと思って、
まだその境地に行ってないから、
ちゃらちゃら装飾がついてるっていうね、
そういう人間臭いところが結構好きなんですよね。
千樹観音なんてね、手がいっぱいあって、
いろんな人を救ってくれるとかね、
そういう発想とか、
非常にね、個人的に好きなんですよ。
何の話か、自分にとっての神様っていうのをね、
ちょっと改めて感じてもらえるといいんじゃないかなっていう、
見たり聞いたり、嗅いだり、味わったり、意識したり、
身体そのものっていうのを清らかにしていくと、
感受性も高まり、やっぱりありのままを見ていくっていうのが一番大変なんですよね。
うちではそれをね、クリアリングするとか、浄化っていう表現の人もいるよね。
結局、エゴを手放すとかもそうですね。
悟りとかだと煩悩を手放すっていうね、そういうことになっていくんですけど、
明石性と心の状態
明らかになる、明石性。
その話、何日か前にしたんだけどね。
やっぱりね、その明石性っていう状態が心の鏡みたいなものになってきて、
鏡が曇っているとね、やっぱり色眼鏡と一緒で、
曇った状態で世界を見てしまうので、
やっぱりね、捉え方が残念になったりしますよね。
この間読んだ本で面白かったのが、
右脳が活性化しているときはネガティブで、
左脳が活性化しているときはポジティブだと。
前東洋の右領域と左領域の反応化なんかを見る、
検査じゃない?研究だったか忘れちゃったけど、
左脳が活性化しているとポジティブに捉えられるっていう話を読んで、
ああ、なるほどなって思ったわけですよ。
確かに右脳派で感覚派でブイブイ言わせてたデザイナー時代は、
結構ネガティブだったかもしれないと思って、
鬱になったしね。
脳の使い方だけじゃなくて、
鬱っていうのは身体機能の栄養バランスと睡眠に関係してますんでね、
一概に言えません。
やっぱりでもね、体が疲れてると、
結局ね、体が疲れるっていうことは、
ストレスがかかってるってことだから、
ストレスがかかってるってことは、
脳の判断力も含め、
全てが低下していくので、
考えられなくもなるし判断力もなくなっていきます。
認知も歪みまくります。
なのでね、一番手っ取り早いのはストレスをいかになくすか、
適度なストレスはいい刺激で大事。
自分、やっぱりいろんな自己啓発や宗教家の人の話の中で、
なんかね、うちなる神とつながるとか、
神の神の仲間とつながるとか、
自分の中でその中で、
自分の中で何かと言うと、
自分の中で何かと言うと、
自分の中で何かと言うと、
自分の中で何かと言うと、
神の神とつながれば、
そこだけのワードをピックアップすると、
ちょっと怪しい感じとかね、
なんかんんってなるかもしれないけど、
自分にとっての神とは何かって言うのが、
わりと定まってくると、
怪しいとかで片付けずに、
なんか自分の内側で信じているものを大切にしながら このね人生をじゃあどうやって捉えて
自分が健やかに生きるためにっていう意味でこの世界をどうポジティブに つまり肯定的に捉えていくかっていう
よくね昔の人とかだとなんか嫌なことがあったらそれは修行だって思うか その嫌なことは何か勉強させてもらっているってとるか
あるいは神が何かを伝えようとしてくれているっていうふうに捉えましょうみたいな そういう表現あるんですよね
これは全部同じことを言っていて 起きている出来事を肯定的に捉えようやっていう話でしかないんですよ
それがメタファーとして神があなたに与えている試練であるとか 魂の成長のための出来事であるとか
なんかまあ 何だろうね
美味しく料理されているみたいなことなんですよね まあでも美味しいと感じる人とうわなんかうさんくさって感じる人といるだけであって
すごくそれらの言葉のもう一度言うと シンプルにしたら出来事を否定的ではなく
肯定的に捉えましょうと これをわかりやすく言うとネガティブに捉えずポジティブに捉えようなんだけど
ポジティブっていうのがなんかね ちょっと歪んで
キャッチしたいと歪んで捉え 単語を捉えているケースが割とあるんでねこういう言い方をしました
だから肯定的否定的は良い悪いないということなんですね 良い悪いないということです
ストレスの対処法
やっぱり私くしもですね嫌なことっていうのはありますよ 生きていれば
やっぱり嫌なことはまず感情がね 感情レベルで反応するか
本能レベルで生理的な部分 サバイバルな部分で反応するか
によって対処法が変わってくるわけなんですけど
生理的みたいなところからの反応だとこれはもうねどうしようもできない
全てを肯定的に捉えていったらどうしようもできないって 嫌なものは嫌だ終わりみたいになるわけですよ
それぐらいねシンプルになっていくわけです ここで感情でこじらせるとあの人のこういう言い方がああいう態度が
こう本当はこうしてほしいみたいななんかね うにゃうにゃが入ってくるわけ
入ってくるわけです でも本当にねまず出来事を自分が起きていることそして出来事として遭遇したことっていうのを
まずねありのままに見ようとする努力をしますとですね まずは結論が
早く出やすくなるしどうしたって人間なんでそんな割り切れません
嫌な気分はそれはねあります 感情レベルで
とはいえとはいえムカつくなとかさ人間だからあるんですよ その時はでも
生理的な部分はもうしょうがない感情的な部分は対処方法がある なのでそこは感情の取り扱いをしていく
っていうことをするとね本当楽になるの早くなりますね手離れが早くなる 煩悩がね早く離れていきますね
のでおすすめです 何をおすすめってまずは肯定的に捉え
そして 意識的なのか感情レベルなのか
まあ理屈で解決できることか感情で解決すべきことか 生理反応であればこれは解決もなんもないっていうそれが答えだみたいに
なるレベルが3段階ぐらいあるんでそこをね 振り分けて一つずつ一つずつ対処していけば
自ずと解消されてきます自分の中のわだかまりってやつは こういうのをね結局講座でコツコツ
理屈よりもねやっぱり生理的な反応とか感情の扱いが早く自動的に 解消されるように体との取り組みっていうのをやってくるんですよね
だからね早いし確実なんですよ ペースはゆっくりというかその人のペースで最善の速さっていうのが身につきます
頭でどんなにね勉強したり話聞いたり やっても
神とのつながり
やっぱねー ちょっとした本当にちょっとしたコツだったり
あと自分一人で行ける先って限度があるんで周りの引き立てに合う 周り人間も見えないスピリットもそれらが引き上げてくれる
お玉を救うように救ってくれる 溺れて上まで這い上がるのは自分だけどそこに浮き輪をポイと投げるのは外側の力な
わけですね だから神様もね内側の神と外側の神がいていいんじゃないかなっていうのはこういう
のにもつながっています まあ
ここ最近はもうねあの多分締め切りが来るまでずっと言い続けると思いますが11月 のね
宣言会報枠職リトリートはそんなところをね たったにたったたった3日でやってきます
たった3日でめちゃくちゃ 深いところ1年持つぐらいまあ
持たない人半年でも半年は確実に いい感じで持ちますね
これは本当に私がねもう10 18年目に
18年は20年近くやってきてね 見てきたし自分が体験してきたことなのでこれははっきりと言えます
なのでねこういうのに興味がある人はね 11月の制限解放ワークショップリトリートぜひご参加ください
というわけで今日はちょっとスピリチュアルな話ということで 若干
なんだろう難しい言葉も出てきたかもしれませんが今日の話があなたの人生の 扉を開くヒントになりましたら嬉しいです
ポッドキャストのラジオ番組魂に目覚める魔法の知恵袋もぜひ合わせて聞いてみて ください
ぜひね ご感想とかご質問などあれば概要欄の
ご質問顎乾燥ご質問フォームにぜひお寄せいただけますと嬉しいです というわけで皆さんまたお会いいたしましょう
ではでは