議論の重要性とその限界
人生ついでにゆるっと覚醒してみちゃう?
こんにちは、こんばんは。 霊性開花の専門家、リアルスピリチュアリスト、橋本ゆみです。
この番組は、ビジネスや人生を変えていきたい方に向けて、エンタメでもファンタジーでもない、リアルなスピリチュアルで人生を切り開いた、ゆるっと覚醒マインドをお届けします。
今回のテーマは、議論、理論、正論は何を産むのか。
なんかですね、いろいろとリールや動画を勉強というか、やろうと思って、いろいろね、本当に、一つをね、見ようかなと思って。
まあ、ここのところずっとそんな話してますけど。
その中でふと見ててね、思ったのが、議論、何か一つのテーマに対していろんな人がね、お話をする議論の題材多いなと思って。
まあ、一人でお話ししているよりも、何らか商売をされている方はコラボしたりね、そういうことをして、リストを広げるっていう、まあそういう考え方がありまして。
まあまあ、一人で喋るより誰かと喋っている方が引き出しも増えるし、聞いている方も楽しいし、いいなあと思ったりすることがあります。
有名なテレビとかに出るような方とかね、テレビではお話できない話なんかを何人かでけんけんガクガク話しているのを見てて、
なんかいつもね、ハテナがいっぱい出るんですよね。
たくさん見てるわけじゃないんですが、なんかたまたまやっぱり興味がある問題、なんか米問題とかね、米が好きなもんでね。
例えば、最近のSDGsとか、多様性なんちゃらかんちゃらとか、いろんな社会的テーマがある中で、答えはないんですよ、簡単に言うと。
簡単にというかはっきり言って答えはないんですよ。
そして何人がその話題を議論しようと答えは出ないんですよ。
だけどそのプロセス、考え方のプロセスっていうのはやはり参考になるなあと感じたり、あと知らない情報を得られたりして、
まあまあ、たまに見てると面白いなあって思うんですけどね。
なんかでもね、毎回そのハテナが出るんです。
ハテナが何かなって思った時に、やっぱり答えがないことを話して、答えが定まらないことを話しているんだけど、
ある種、そのゴールを目指して議論しているのかなあ。
ただ自分の考えを発表しているだけなのかなあ。
結構見てるとね、怒ってる人に怒ってるというか、早口で何かに怒ってて、
自分の主張をある種正論だとおそらく思って喋っているという態度か。
声っていうのはその人の性質、性格、いろいろ感情、いろんなものが表現されるのをセキュララに周波数で出てくるわけですね。
周波数というか観測すらできるように出てるんですね。
声を聞いていると、やっぱりずっと聞いてらんないんですよ、私自身がね。
それが嫌だとかは個人的な好き嫌いの話で、話の内容に関しては先ほど言ったように結論決まらないんです、議論って。
会社とかの会議とかになると、目的、そのためにどうするかという議論、話し合いになるので、これはある種ゴールを決めていくための会なんですよね。
そういうのは建設的というか目指すところがはっきりわかっているから、回答を出そうってみんなでします。
だけど、例えばジェンダーの問題とかになってくると、これは本当に答えがないんですよね。ない話ですね。
多様性の話を聞いてた時に、多様性っていうのが結局いろんな考え、いろんな人、いろんな基準あってもいいよねっていうことと捉えてて、
いいよねっていうかね、いろんな状態あるよねっていうのが多様性。
多様性を受け入れていきましょうといった段階では、そういういろんなことがあるよねを受け入れるっていう話かなと個人的には考えているんですけどね。
ちょうど多様性の話をしてた時に、多様性を重んじるべきだみたいな話をした人と、そのべきって使った時点で既に多様性に偏りがあって、多様性ではないっていう話がけんけんがくがくあって、それも面白いなと思って聞いてたのです。
でも聞いてる時に、ハテナ2つ目の話なんですが、1個目のハテナは、やっぱり自分の中のこれでよしっていうかっこたる何かがある場合は、議論っていうよりは主張になってくるので、なんか違和感がある。
声に制限がかかる声って聞いててね、やっぱり聞きづらいんですよね。ジャッジが強い人、制限がかかっている人。これはね、本当にね、声の質の特徴でここってあるんですけど。
声、話しても伝わらないだけでね。何個か並べて聞いてもらって、ここだよって言ったら伝わるぐらいの、本当にね、繊細なところで。やっぱそれが、その制限がかかっている中での議論っていうのは、全然お互いの制限が外れない。議論することによってお互いの枠組みが外れて、
あ、そういう考え方もあるのか。私はでもこう考えて、こっちがいいなぁと。なんかそういう話し合いみたいなのだったら、Aさんの考え方、Bさんの考え方、Cさんの考え方あるなぁという中で、じゃあ自分はどう考えるかっていう風になりやすい、なりやすいというか、なれるんじゃないかなと思うんですけど。
個人的にはそうやって考えるんだけど、でもAさんが、もうこうであるべきだっていう主張が強いと、なんかね、やっぱね、固い、声が固いし、あと議論の話で、論点をずらして話してたりするのが、あれ?ってなっちゃうんですね。それが2つ目のハテナで。
感情と論理の関係
例えばAさんがこれが大事ですって話した時に、Bさんがそれを採用するんだったら、こういうデメリットも考えられますよねっていう風に話した時に、そのBさんの考えをAさんは受け取らずに、受け入れずにある種被せてくる。
その姿は否定しているか、Bさんが言った論点から違う返事をしている、自分の主張をしている、そういう図が見えてくるわけですね。
一回そうだなと思ったら、そうだなでいいじゃんって思っちゃうところもあって、でもね、Aさんはね、そうですねって言うんだけど、受け入れてないのと、あの話、ロジックって言った論点が結局、Bさんが言ってた論点じゃないところで丸めこもうというかね、主張が始まるから、
するとBさんは、いやその話じゃなくってみたいな、このパターン結構見るなと思って。
でもなんかね、みんな怒ってるのかなと思って、怒ってるっていうか、それが人気の動画でよく見られているようなので、みんななんかその、なんだろう、ニュース、バラエティじゃないの、報道番組か、お茶の間番組で結局、
なんだろう、何か事件があって、それに対してコメンテーターの人がそれぞれの考えをお話しして、その考え方の幅が広がって、アナウンサーというか、ファシリテーターの人がまとめて終わるってあると思うんですよね。
なのでそういうのは何度も言うけど、自分の考え方の幅が広がって、聞いたり見るのは、まあまあやっぱ好きですよね。なんか人と話すのも好き、なんかこういうふうに思うんだよねーとか、これが好きなのは男性に多いんだと思うんだけどね。
友達に本当に、なんだろう、お互い普通に議論みたいになった時に、なんだろう、ゆみちゃんは正しいことを言うから嫌だって言われて、え、えぇーって、正しいとは思ってないけど、私はこうこうこういう理由でこう考えるんだよねって話をしてるだけで、
なんかあなたの考え間違ってるとか言い伝えも持ってないんだけどな。
まあまあそういう感情じゃない、感情が入ってくるとやっぱりね、話がまた変わってくるわけですけど、
何かの話題の時に、女性の友達からそれで、なんかね、去っていかれるっていうことが昔ありましたね。
何回か言われて、正論、自分は別に思っちゃいないけど相手がそう思ったらそれは傷つくから、そこも考えて言うといいんだなっていうのはね、学びましたよね、若い時。
今でももしかしたらあるのかもしれないけど、どうしてもね、受け取り側がパオハラセクハラとちょっと同じで、受け取った人がどう思うかが正しいんですよ、その人の世界のルールはその人が決めてるから。
Aさんが私だとして、Bさんが友達だとしたら、Aさんは別に感情も何もなく、こういうふうに考えるという話しかしてなくても、Bさんはそこが感情的にぐさりときたらですね、Aさんは私のことをわかってくれない。
なんなら正論で論破してきやがったぐらいな感じでですね、怒りの冗長が始まると。それをAさんがそこまで考えて、何て言おうかなっていうのは限度があるわけですね、限度がある。
あまりにもBさんのそういうところまでパターン考えていくと、Aさんは何も言えなくなるし、また自分、AさんはAさんでそういう自分の発言をセーブしすぎていくと、結局自分の考えや持ち味っていうのをセーブして相手に合わせるっていうフェーズに入ってくるので、どっちにしても関係は良くないんですよね。
一番いいのはやっぱりみんな制限が外れて、自分は自分、相手は相手。違ったら違ったで面白いねってなればいいし、ただ目的があって意見が違った場合はやっぱり折り合いをつけるっていうね。
ごくごく、ごくごく当たり前の話をしてしまっているかもしれませんが、ほんとね、それを見ててハテナがポポポポって出て。
なんかね、白熱して話してると相手の質問の意図がわからないとか、無意識的に自分と違う意見が出た時に自分が否定されていると感じて、防衛本能でね、話をずらして主張を、一見おっしゃる通りですねとか言ったとしても、
そこから話を、結果ずらして主張をただしているってなると、その話じゃないんだけどっていうのが始まると。
なんかね、面白いなと思って。面白いなっていうか、なんかアメリカ人とか中国人とか、文化的に誤らない自分の主張をするっていう文化、大陸文化はそういうところがね、根強くて。
日本はやっぱり空気を読む文化、暗黙地を察知する文化っていうのがあるのでね、その辺のずれはあるんでしょうね。
謝るべきは謝ればいいし、認めるべきは認めりゃいいし、認められなきゃそれは私にわかるようにもうちょっと言ってくれって話をすればいいし。
平行線なら平行線ですねでいいんだと思うんですけどね。
なんかね、正論はやっぱり何も生まれない気がするし、議論も何も生まれない気がするし、議論は何か生まれそうなんだけど、
目的、着地点、目指すことが同意、お互いにそこに向かいましょうねっていう同意がない議論、ただ思想を語り合うっていうのは、思考の幅を広げるは生まれるかもしれないけど、
まあそんぐらいなのかな、あとはね、そういうのが好きな人は友情が芽生えるとかかな、文豪とか、お互いの作品を評価し合ってみたりとか、まあそれは議論じゃなくて評価なんですけどね、
自己決定と選択の重要性
その中でね、今の時代の話とかを語り出すとまあこの辺は議論になってきたりしますよね。
まあ面白いな、面白いなというか興味深いというか、
なんでこんなに怒った感じで議論しているのをいっぱい、メディアとかでもこれまでも見てきたし、YouTubeとかそういう動画でアップされていて、それが人気であるってことは、みんなの中に怒りがたくさんあるっていうことだなと思ってるんですね。
怒りのね、解放、感情と事実を分けて感情をしっかりね取り扱っていく、こういうのすごく、こっからの世界大事ですね。もう来年以降本当にね、ビュービュービューガンガンいきますからね。
いろんなことに覆っていくこと、僕がずっとにかく本当に土台からやり直すというか、植木植え替えみたいな、畑とかよくわかんないけど一回あの燃やすみたいなやつに出るかもしれない。
セコイヤの木みたいな感じかもしれない。雷がパリパリパリーって落ちて、山火事起こして、周り全部燃やして自分だけ生き残るっていう、生存戦略。
でもね、ほんと笑っちゃってたけど、起きるよ。個人レベルでも起きるよ。そういう人を9月よく見てますね。
何よりもね、正解はないけど、あえて言いましょう。正解、唯一の正解は自分の内側にしかないんですね。どんな自己啓発でも、それを軸にけんけんがくがく表現されている。
本当に答えは自分で決めるしかないです。ただ自分が決めた答えで歩むことが、この世の中まじで生きにくい選択っていうのはあります。誰にも認められない。
何ならおかしい。ただ本当に道徳的というか倫理的に人を傷つけたりっていうのは、それはね、やっぱりよろしくないよね。何でよろしくないかって、結果は自分に返ってくるからですよ。
行為がダメなんじゃなくて、例えばね、誰かを攻撃したりって言ったら、その攻撃したエネルギーっていうのが回り回って自分に返ってくるからですね。これはもう自然の法則なので回避はできないわけです。
で、今世じゃなかったら来世までつながる。でもこのね、今世来世のループも今回の大きなデトックスで解消でき、今年2025年ね、本当に解消するタイミングなのでね、本当に声を高らかにマジでやったらいいですよ。
なんか怖いからやりたくないって思うかもしれないけど、やったとて死にはしないんですよ。でもやったら絶対生きやすくなるんですよ。究極の選択かもしれないね。
本当にここで、なんだろう、あの、排水の陣で崖から飛び降りたら死ぬかもしれないけど助かる可能性もあるが留まったら絶対死ぬみたいな。
だからまあそういう状態にちょっと近い、近いというか、例えるならね、それぐらい排水の陣清水の舞台という方もいるでしょう。でも行動したもん勝ちです。
光の道と闇の道っていう言い方をしますが、いや光の道を選択しないという選択行動も私はいいと思います。
つまり闇の道に向かう、何もしなければ闇の道に流されていきます。それはね、なんだろう、どの人も自分の人生は自分で決められるもので、他人がとやかく言えることではないんですね。
ただ私は光の道に行きたいんですっていう人にはこっちだよーって、こっちおいでよーって言うだけ。
自分の力である程度来たけど、あと一方、ファイトを一発のCMはもう塩和の人しか知らないかもしれないけど、自分である程度ね、登って手を伸ばした先に引っ張り上げてくれる人がいて、助かるっていうね。
その引っ張り上げる役はやってるわけです。でも手を伸ばさない限り、手は届かないし引っ張り上げることもできない。その行動、選択をしない限り、それは私に限らず、誰も手を伸ばしてくれない。
人によってはただ助けてと言うだけかもしれない。それも手を伸ばすの意味です。声を上げる。声を上げるだけで、やっぱりね、自分でちょっと力を使わないとやっぱり、なんだろうな、レスキューじゃん。
レスキューの場合はね、単管っていうかなんか引き上げてくれるけど、ヘルプの段階は自分もやっぱり力をかけない限り、光の道に行くってできないんですよ。レスキューで光の道に連れて行くってことは絶対にないんです。
レスキューはもうそのとにかく精子関係するみたいな、緊急処置みたいな感じなので、そこはね、そこまで行っちゃうとやっぱりね、辛いですよね。辛いですよね。
例えば病気、怪我、病気が良いか、普段からメンテナンスしてたら、ちょっとおかしくなった時に、助けてとか、病院に行くとか、そういう行動をすると、お医者さんとかね、周りの人がサポートしてくれて、ちょっといい感じに引き上げてくれる。
だけど、病院怖いんだよな、嫌なんだよな、って言って病院行かないで、普段の体のサインを無視していると、ある日突然倒れて電話もかけられない、そういう状態がレスキューですよね。
そうなった時にはもう自分の意識がないから、例えば、手術ができるできないの、瀬戸際になったりとか、あるいは同意なしにもう緊急で事故とかで手術しなきゃみたいな、寄りもないみたいな、ちょっとそこがどうなるのか私は分からないんですけど、
でもそうなった時には自分の意思に関係なく施された時に、手足がもうないとかね、例えばですけどね、緊急事例とか、そういう風に究極の話ね、
普段からやっぱり自分でどの道を行くかっていう選択認識を向けることと、とっととやっぱりやったらいいってことなんです、言いたいことは、ちょっとずつでも学びたいと思ったら学び始めりゃいいんですよ。
お金が貯まってからとか、時間ができてからとか、もう絶対それできないループじゃない、できない道に誘われます。できることからやりゃいいんですよ。
そしてそれがごちゃごちゃして整理がつかなくて、みんな迷うので、それはね、専門家に相談したり、一番手っ取り早いのは友達だけど、俯瞰してアドバイスできる友達って早々にないっていうかいい友達っていうかね、プロで何かやってる人とかだったらいいかもしれないけど、
友達って結構ね、変なアドバイスしてきたり、迷わせたりするから、本当に信頼できる人に話すっていうのが大事ですね。
ちょっと話広がりましたが、今回のテーマは議論・理論・正論。何を生むのかっていうと、今日の話で私が思ったのは、ほとんど何も生まないなと。行動した方が確実に生まれるし、確実に光の道へ進むことができる。
自己成長の選択
ほんの少しの勇気でいいんですよね。ほんの少しの勇気でできることから始める。それをしていくと、私自身もお金・時間、どっちかがない時っていうのを体験してます。
時間がなくてお金だけあっても、体壊してお金使うしね。時間だけあってお金なかったら、心がどうしようって不安になるしね。もうそのね、大元の癖を書き換えると、どっちの状態に入っても自分でいられるようになります。
そういうふうになりたい人はね、ぜひ講座とか、何かしらのワークショップとか、会いに来ていただけるとヒントが、ふうに落ちやすいヒントが得られるかなと思います。
スタイフを聞いたり、ポッドキャストを聞くっていうのは、刺激になったり考え方を広げる手助けにはなると思いますが、無意識の深いところからコミットして現実を変えていくっていうのは、
そういう機会がおすすめです。それはね、言葉だけじゃなくて、なぜなら無意識でそこが引き、無意識から本来の勇気、パワー、自信が引き出す、風穴を開ける場ができてるから。
その場をZoomでも会場でも作ってるからこそ会いに来てねってことです。別にね、アイドルでもないし芸能人でもないし、そういうつもりで言ってるわけではなくて、やっぱりね、場に入ったほうが早いからなんですよ。
本当にどんだけね、温泉行きたいって言って温泉の元を自分の家で入れたとて、もうね、現地の温泉行ったほうががぜん、がぜん体に感じるっていうかね、がぜんいいじゃないですか。そこのただ違いなだけ。
というわけでね、また今回長くなりましたが、今日の話があなたの人生の扉を開くヒントになりましたら嬉しいです。
ポッドキャストのラジオ番組、魂に目覚める魔法の知恵袋も合わせて聞いてみてください。
この間ね、週末インスタライブを思いつきでやりまして、タロットカードの紹介とか、あとね、その場で占っちゃっていいですかだっけ?忘れちゃった。なんかそういうの番組じゃないけど、勝手に占う。
質問いただいて占ったりっていうね、あのインスタの中でインスタライブのやつがありますので、よかったら見てみてください。
10月タロットカードワークショップもやるし、11月はリトリート。こちらはほんとね、参加してもらうと嬉しいです。
というわけでまた皆さんお会いいたしましょう。ではでは。