古代ギリシャの数学の基礎
はい、こんにちは、ヨシオリです。いやー、また日替えてしまいましたね。今日はですね、何を話そうかと思ったんですが、大学で最近数学史を学んでいて、それがすごい面白いので、その話をしようかなと思います。
数学史って歴史の話なんですけども、歴史の話って言っても、何て言うんでしょう。その年表をただ覚えるだけじゃなくて、
三平方の定理は、この時に誰々が発見しました、みたいな話じゃなくて、時代背景とかを含めて、数学の歴史を学んでいるのがすごい今、楽しくて、ちょっと今日はその話をしようかなと思います。
で、メインで話すのは、僕がちょっと面白いなと思ったのは、古代ギリシャの数学の話なんですけども、
古代ギリシャの数学の頃ってまだ、いわゆる無理数と呼ばれてるやつですね。まだ発見されていなかったぐらいの時代で、なんですけども、ゼノンのパラドクスっていうのがまずありまして、
有名なところだと最近、呪術回戦で出てきたアキレスとカメの話とかもそうなんですけども、
飛ぶ矢のパラドクスみたいなのがあったりとか、あと競技場のパラドクスみたいなのがあって、何を言ってるかっていうと、物体とか図形ですね、の移動、
運動に関して、それをどこまでも切れるのか切れないのか、みたいな話のパラドクスがあるんですよ。
例えばで言うと、飛んでる矢のパラドクスで言うと、飛んでる矢っていうのをどんどんどんどん細かく切っていくと、最終的にはその飛んでる矢って止まってることになるんではないか、みたいな。
そうすると、止まってるものをいくら連続しても止まってるだけだよね、ってなるんで、じゃあ運動って実は無限分割できないんじゃないか、みたいな話があり、逆にじゃあ無限分割できないって言うと最小単位があるはずで、みたいな話があって、
そこには最小単位は最小単位で、また競技場のパラドクスっていうのがあって矛盾があって、みたいな話になってくるんですけども、
結果、古代ギリシャ数学では、図形とか座標とかの移動で証明をするっていうのは、今ここが証明されてないからやめようってことになって、移動使うのがやめたんですよね。
で、また一方で、Euclidのおかげで、物の比率みたいなのを計算するっていうことができるようになったんですけれども、
正方形の対角線と一辺の比率を調べようとしたら、いつまでたっても分数で表示現できない数字が出てきてしまって、無限ループに陥ってしまって、
どうも数字だけで計算をするのも数学の証明としては良くないんではないか、みたいな話になり、っていう2つがあるんですよね。
まずは、点とか線とかの移動で証明をするのはやめようっていうのと、数字を使って、スペシフィックな数字を使って計算するのはやめよう、みたいなのがあって、
そうではない、適当な値を使っても分かるように、図形だけで何とか数学の証明をしていこうっていうのがEuclidの言論と呼ばれてるやつですね、が出てきた流れになります、みたいなのを今学んでるんですよ。
古代ギリシャの、それがまた面白いのが、そんな感じで古代ギリシャのEuclidの言論っていうのがすごいいいんですけども、ギリシャの崩壊とともに数学は途絶えていって、みたいな話があったりとか、また別の、イスラム教は実は他の宗教を受け入れやすい宗教だったんで、
古代ギリシャの言論とかを自分たちの言語に翻訳してみることができた、みたいな話があったりとかで、インドでゼロが発見されて、みたいな話があるんだけども、さっき言ってたEuclidの言論の中で使うときは、ゼノンのパラドックスのせいで無限を扱うのをやめたので、逆に言うと古代ギリシャの流れではいつまでも微分析文にはたどり着かなかっただろうって言われてたりみたいなのをいろいろ学んでいます。
その辺が宗教が絡んでたりとか、こういうことがいろいろ絡んでいて、ちょっと三国志っぽいというか、歴史モノってみんなそうだと思うんですけど、背景を知ると面白いなっていうのを勉強していますっていう、すごい雑な話でした。