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僕もTSUTAYA TOKYOを作るときに、あの六本木美術の欅坂の一番下のコースアートにあるじゃないですか、そこはやっぱり工事中からずーっと見てましたね。
で、当時その時の僕が所属してたJ.I.っていう石川二郎さんっていう編集者の会社にいたときに僕やったんですけど、彼と二人で迎えに、当時はカフェがあったんですけど、そこのカウンターで2,3時間とかかける週2回とか、
ほんと見てて、お前どんな車が止まるかチェックしろとか、意外に高級車止まりますねとか、どういう人がどういうふうに滞留していてとか、やっぱりたたずんでずーっと見るとか、あとはやっぱりどの仕事を僕やるにもそうなんですけど、インタビューものすごいするんですよ。
で、そこを使うであろう人から、さっきの農卒中のリハビリ病院だったら、やっぱりその患者さんにインタビューって言うと向こうも気をつけちゃうから、ちょっと茶でも飲みながら話しましょうよって言って、でもスーツケースにいっぱい50冊くらい本持ってて、今度本入れるんですけど、こんなんどうすかねーとか言いながら話を聞く。
そうするとだんだんおせっかいがなんとなく親切になる境界みたいなのってある。やっぱり自分の好きな本を届けたいから最初はおせっかいなんですけれど、それが少しずつ境界を跨いでくるっていうんですかね、やっぱりその瞬間ってあるなっていうのをすごく思っていて、自分の進めたいものとそこにあるべきもの、もしくは相手が欲しいものの距離を縮めていくのが自分の作業だって思ってるんですけど、
そういう時にその佇んでみるとか話を聞くとか、そうやって一番重要視しているし、自分一人で本なんか選べないとかお店なんか作れないっていうのは、実はすごく思ってるところですね。だからとても作品なんていうのは一度も自分のやってるお店を持ったこともなければ、話聞いた人に作らせてもらってるってすごく思いますし、でも確かに確かなことを教えてくれるんですよ。
たとえば農村中の病院とかでも、最初はすごい1日にリハビリってそんな何時間もできないから午前午後と空白が多い。こんな時間あるんだったら今まで読んだことのない一大序詞誌とかをせっかくだからちょっとブルーストとか死ぬまでに読んどきましょうよとか、長い小説とかを最初ガンガンおすすめしていて、最初はいいですね、いいですねって皆さん言うんだけれど、
実はそれ本当は全然読む持久力なんて病気になっちゃうとない。だけどやっぱりそれがインタビューになっちゃうとみんな、ただでさ今までできたことができなくなっていてストレスを抱えている人が見ず知らずの男の人がひょっこりきてきてできませんっていうのはその人には言いたくないから教えてくれないんだけれど、でもちゃんと何度か会って話してるうちに、いや実はこういうの読まれへんねんみたいなことを教えてくれるわけですよ。
実はこっちの行からこっちの行を移るのがすごい大変とかね、そういうのを重ねてるうちにはやっぱ長い文章読めないんだったら行間読ますために詩とか俳句とか短歌がいいなとか、テキスト読むのもつらいんだったら開くことに意味がある、ポップアップとかその飛び出し絵本とかフリップブックみたいなパラパラとかがいいなとか、じゃあ写真に頼ろうって言って大阪に関係のあるその万博のね、当時の写真集とか半身タイガースの本とか持ってくると喜んでくれる患者さんが多かったんだけど、
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やっぱりそうやって何かこう対話をしないことには物なんか選べないし、何か場所も作れないしみたいなのはすごくこう感じている。
本との出会い方、付き合い方っていうところで、普段富井さんどんな感じで。
まずね、やっぱ写真はまずよね。
写真。
美術館の図録で言えば、その写真で何だかその学員さんとか展覧会を作った人の愛情がわかる。
紙質とかの関係とか。
それ例えば言語化できないと言いますか、あえて言語化するとどういうところに感じるんですかね。
例えば大きさとかね、無理にでかく見せる必要はなかったりする場合もあると思うんですけど、普通に言えばでっかく見せるべきですよ。
で、大きければ大きいほどいいってことで、例えば両面開きとかね、両方にまたがっているとか。
で、それがうまくいってない場合も多いような気がするんですよね。
で、何かこうね、適度な構図とか切り大きさというのがあるんですよね。
別に、雰囲気とか空気の方が実物は見れないから、また別の体験がしたいわけですよ、展覧会の図録っていうのは。
僕は展覧会の図録は美術館の付属品ではなくて、別個の美術体験だと考えているので、まあ画集も全部そうなんですけど。
作品ですよね。
そうです。だからひどい話、美術館で見てがっかりしたんだけど、展覧会で図録を見ていい展覧会だっていうこともある。
あり得ますよね。
あり得ます。そのまた逆もしっかりですけど。
羽賀さんは、これぜひお聞きしたいと思うんですけど、お仕事とプライベートで、多分きっと境界線ないんだろうなって僕は勝手に推測してるんですけど、本との出会い方とか付き合い方っていうのは、そもそも仕事とプライベートで別れてますか。
別れてないですね。
別れてないですか。
はい。
どんな感じで、例えばイメージとしては本を絶対買うなら書店でインスピレーションを感じたものを手に取ってるっていうイメージがあるんですか。
そんなこともAmazonとか結構使いますよ、うちも。
その辺ってもう柔軟にやってるものなのか。
僕は、でもやっぱり基本はその展覧会の図録にしろ何にしろ本をわざわざ紙で買うのは、僕は本棚っていうのが外部記憶の保存装置みたいなのになってくと思ってるんですよ。
外部記憶の保存装置。
つまり僕は本をいっぱい読むのが好き、いっぱい読むのが好きというか本読むのが好きなんでたくさん読むんですけど、読んだ場所からどんどん忘れていくわけですよね。
やっぱり忘れる能力、能力を伸ばそうと思ってるわけじゃなくて忘れちゃうんですよ、残念ながら。
だけれども平気で忘れられるのは、自分が両手を伸ばしてすぐ手の届くそこにあるから忘れられるっていうのがすごく僕の場合はあります。
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だから自分は読んだ本とかをなるべく売らないとか捨てたりとかもほとんどしませんし、なるべく貸さないようにもしていて、貸すと忘れちゃうから返ってこないので。
でもそういうのを読んだ順から並べてるんですよ。別に何か綺麗にこの辺アートブックですとか、この辺なんとかです、自然科学ですとかやってるわけじゃなくて、読んだ順に並べていくと。
でもほとんど忘れているのだが、本棚だと日常の目の届く場所にあるので、パッと見ると背拍子見るだけでそういえばみたいなことを思い出したり、手に取ってパラパラ中見るともっと中のことを思い出したりとか、
僕は本を読むときすごく中に書き込むので、恥ずかしいこととかも多々書いてあるんですけれど、そういうのを読むと、そういえばこの時こういうの考えていたな。
だから僕ネタに困ると本棚の前に立てば大抵のことは思いつくと思ってるんですけど、そういう意味で外部記憶、思わぬ時にふっと目に飛び込んでくる、やってくるみたいな。
だから少なくともまずやっぱり紙の本でそれを保存しよう、買っておこうって思うのは、忘れるっていうのはわかってるんだけど、忘れたくないみたいなので買うっていうところはすごく外部記憶の保存装置みたいなふうに考えて買うところは大きいですね。
それは同感ですね。画集とかはね、思い出したいっていう。興味はなくても買う場合もあるんですよ、その作家に。たぶんいずれ思い出したら必要になるだろうって予感は働くわけ、その作家に対して。そしたら思い出したいから買っとくとか。
感情とかそういうようなものってなかなか測ったり数値化したりとか具体的に残しておけないものなんだけど、でもやっぱり僕も何冊かすごく好きな画集とかがあって、あの1枚を見るとハッってなる。
たとえば僕の場合はジョセフ・コスースっていうアーティストがとても好きなんだけれど、彼の作品の椅子の実体と同じサイズの写真と辞書上のそれが並んでるみたいな、それを一番最初に見たのは僕は大学の一般教養と言われて、授業でだったんだけど。
一つの椅子と三つの椅子ってやつですね。
でもね、あれを見た時に何かはよくわからないんですけど、なんかちょっと世の中の死んだ晩暑がわかったみたいな気になっちゃったんですよ。
まるで死がなおやの木の先にいて大人になって読んで、うおーってちょっと叫びたくなるような瞬間とちょっと似た感情と言いますか、何か大した、ただ三つのものと写真と辞書上のそれが置いてあるだけなんだけど、何か自分の中できっと結びつくシナプスが多かったのかね。
で、それを何とかその感情を覚えていたいんだけど、まあ忘れますよね、大学生ですから、普通にじゃあ今日飲みに行くかとかなんかそんなのでも忘れてしまっていて、だけどその画集をある時に偶然見つけてパッと見た時に、
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これこれ俺がなんかよくわからなかったけどわかったっていう気分になっちゃったあれだよっていう、それが実は自分の中にこうちゃんと手に取れるところとして、いつも傍らにあって身体的に近い場所に残ってるっていうのはことというか、
何てんだろうな、やっぱり僕本棚って自分の来歴みたいなものだと思っているので、そういう意味で嬉しいし、もっと言うならそれがやっぱりその身体に近い場所にあるっていうんですかね、パソコンのその自分がどんだけ頑張ってもこの中に入ってるデータってこうグリッと力づくじゃ取り出せないじゃないですか、電気ないと動かないものだけど、
物に関して言えば、やっぱり何とか力づくで必死に探せば出てくる感覚みたいなのもあるというか、やっぱりその身体への近しさみたいなところも含めて本棚ってすごく僕はいいなって思うし、逆にその、だから本棚って多分これからもっと電子書籍から多分進んでっちゃうんですよ、やっぱり紙の本が商品である以上は、
紙のコスト、印刷のコスト、物流のコストが全部かからないあっちの方向には流れていかざるを得ないんだけど、だとしたらなおさら紙の本でそれをわざわざ本棚に保存しておこうということはどういうことかというと、多分自分の体を拡張する行為みたいなことになっていくんじゃないのかなっていう気はしてますね。