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2026-02-27 34:16

2026/01/05 山と森と旅と #40(長沢洋)

サマリー

長沢洋さんは、新年を迎えるにあたり、子供時代の正月や、かつて大阪で過ごした都会の正月について語ります。現代の子供たちがおもちゃに満たされている一方で、自身が子供の頃はクリスマスや正月が最大のイベントであったと振り返ります。また、大晦日から元旦にかけてのテレビ番組や、家族で過ごした正月の風習についても触れ、現代では失われてしまった「正月らしさ」について考察します。さらに、大阪の街並みの変貌や言葉の変化にも言及し、開発の激しさやスクラップ&ビルドの文化について語ります。後半では、山歩きを再開するきっかけとなった人々との出会いや、故・横山康子さんの遺稿をウェブサイトに再構成・転載した経緯、そしてその作品が動画化されたことについても紹介します。最後に、JR線の利用における運賃計算の妙や、ローランド・ハナの演奏する「スケイティング・イン・セントラルパーク」を聴きながら、番組を締めくくります。

新年の思い出と都会の正月
FM八ヶ岳 レイ・イン・ライフ 山と森と旅と お話しするのは、長沢洋)です。 奥都市大泉町で山宿を営んでおります。
新年明けましておめでとうございます。 皆様、良い正月をお迎えでしょうか。
もう、古きも近いといった年齢になりますと、どうしても語ることが、過去をかえりみるという開古録の開古、または、
いにしえをなつかしむ開古といった稽古になってしまいます。
だから、正月を迎えるたびに思い出すことは、もう毎度同じの子供時代の古い記憶です。
というのも、僕らの時代の子供にとっては、クリスマスから正月にかけて、
つまり、冬休みというのは一年の中でも最大のイベントなので、何しろ嬉しくて仕方ないわけです。
もっとも、昨今では一年中なんやかんやと楽しみがあるので、子供にとっても別に冬休みが特別ではないかもしれません。
クリスマスや正月なんて、僕なんか欲しいものがありすぎて、鼻血が出そうなくらいでしたよ。
それが、自分の娘が子供の頃、クリスマスに何か欲しいものがあるかと聞いたら、
別に、なんて気のない返事が返ってきて、ガクッとしたことがありました。
おもちゃのようなものに関しては、満たされている世の中なのかもしれませんね。
というわけで、正月となると話すことがどうしても毎度同じようになってしまいますが、
今回は正月に絡めて都会論といっては大げさですが、
僕が小学生までを過ごした大阪の話をしてみようと思います。
皆さんは正月には自宅にいることにしている人もあれば、旅行をするのが恒例になっているという人もあるでしょうね。
僕の場合は正月は一家揃って自宅で過ごすものだという家に育ったものですから、
社会人になるまで実家以外にいたことは一度もありませんでした。
高校を出て山梨県に住むようになってからも、正月には必ず実家に帰省していました。
そういうものだと思っていたんですね。
大晦日は夜の7時にレコード大賞の番組が始まると、
その時にはもうテレビの前に家族全員が揃っていましたね。
レコード大賞なんて今でもあるんでしょうかね。
その年のレコード大賞にノミュートされているような歌手なら、
紅白高専にも当然出ていて、しかも両方とも生放送ですから、
レコード大賞が終わったらNHKホールに退居して移動しなければならないわけです。
時間はおそらくせいぜい10分ぐらいしかないかと思いますよ。
パトカーに先導してもらって、歌手たちが移動するなんて光景までニュースで映し出されていたように思います。
近いホールをセッティングするなんて準備もあったんでしょうね。
ともあれ、9時からは紅白と紅白専です。
実家を出て以来ほぼ見たいので、高校生までの記憶しかありませんが、
その頃は出ている歌詞はすべて知っていて、好き嫌いは別にして、曲も全部聞いた覚えがありました。
それが今も紅白は見ないにしろ、テレビニュースで出場歌詞が発表されますから、
どれどれっと眺めると、そのほとんどが知らない人で、曲なんてさらに分かりません。
これは僕が年を取って興味を失ったからだけではなくて、時代の長いだろうなと思っています。
茶の間で家族揃ってテレビの前に座るなんてことがなくなったんでしょうし、
媒体が恐ろしく多くなって個人の好みも細分化されたのでしょう。
僕の年齢ならまだしも、今の若い人たちが歳を取ったとき、みんなで歌える歌なんかあるんでしょうかね。
紅白歌合戦が終わると、いく年くる年なんて番組になって、
これは公共放送や民放に関わらず同じものを放送していたように覚えているんですが、記憶違いでしょうか。
大抵は京都の寺や神社からの中継になります。
こちら京都治音院です、なんて具合です。
さっきまでの歌合戦のお祭り騒ぎとは打って変わって、おごすかな雰囲気です。
その時間には近くの神社、仏閣に初詣に出かける人も多かったんでしょうが、
我が家にはそういう風習はなかったですね。
小学校の頃まではこの時間にはもうだいたいまぶたが重くなっていて、
なんとか除夜の鐘を聞くまでは起きていようと頑張って、しかしその前に寝入ってしまうのが常でした。
元旦、目が覚めると枕元には新しい下着が置いてありました。
薄間を隔てた隣の部屋のテレビから流れている音楽は春の海ばかりです。
そしてどのチャンネルにもお笑い番組、これは今も変わらないかもしれませんが、
朝からテレビを見ることはなくなりましたけどね。
社会人になってからはずっと正月には仕事をしていて、観光業ですから仕方ないとは言いながら、
どうも未だに正月に仕事をするのには抵抗がありますね。
そこでついに去年の年末年始からは一切お客さんを取らないようにしました。
これで半世紀ぶりになんとなく正月気分が戻ってきました。
僕が生まれたのは大阪の阿部野区というところで、その中でも天王寺という繁華街に近い賑やかなところでした。
路面電車も走る阿部野須寺という大通りから一つ西側に入った通りにある長屋の一角でした。
ちなみに大都会では珍しくこの路面電車は今でも残っています。
繁華街に近いだけに都会の正月ならではのしんとした涼しづけさは今でも記憶にあります。
マイカーを持つ人なんて滅多になくて、車は何かしらの営業者でしたから、仕事休みで大通りの車も極端に少なくなったのでしょう。
その頃はまだ待機汚染の対策が不十分だったから正月は空もえらく青かったように思います。
普段は常に車の音などの喧騒がどことなく漂っていたんでしょうね。
今に比べて昔の車は音もうるさければクラクションだって平気でガンガン鳴らしていましたからね。
交通戦争なんて言われた昭和40年前後のことでおそらく街が最もうるさかった頃ではないでしょうか。
よく言えば活気に見せていた、悪く言えば野蛮だったのでしょうかね。
たまにアジアの新航空の都会の様子を映像で見たりすると、まるでかつての日本のようにも感じられます。
海外の人が東京にやってきて大都会にもかからず静かだという感想を持つことが多いらしいのですが、
確かに僕らが子供の頃からするとどこも静かで清潔になったように思います。
ちょっと行き過ぎな気もしますけどね。
人間もえらく清潔になってしまって、ともすれば因禁無礼に感じられることがあるくらいです。
音っていうのは上に昇ってくるんですかね。
結構高い山でも下界の音が聞こえることはよくあるし、
マンションなんかでも高い階が低い階より外の音がうるさいことがあるように思います。
幸福の北にある片山あたりから幸福盆地を見下ろしていると、
重い響きのザワザワした音が下界から聞こえてきます。
つまり平地からすると上空の方に音が漂っているのではないかと思うんです。
この世間が鎮と静まった雰囲気は都会素質でなければわからないかもしれませんね。
今は普段から鎮としているところに住んでおりますから、正月だからといって変わりはありません。
都会では今でも正月ならではの鎮とした雰囲気があるのかどうかはわかりませんが、きっと以前ほどではないようには思います。
もともと僕の記憶はテレビがすでにあった時代に始まっていますから、
テレビもラジオもないような時代にはさらに正月は静かで穏やかなものだったんじゃないかなと想像します。
昔は三日日に営業している店なんて一軒もありませんでしたから、静かなのはそのせいもあったんでしょう。
だからこそクレーには買い出しをして、おせち料理を用意することが必要だったんでしょうね。
クレーに母と祖母が協力しておせち料理を作っていたのを覚えています。
おせちを買うなんて発想はなかったというか、力合いのおせちなんか買いたくてもなかったか、あっても恐ろしく贅沢なものだったんでしょう。
この正月に営業している店なんかなかったというのは、僕が大学生だった1980年前後でもあまり変わらなくて、
育成しないで大学のある街に留まった学生が油断していて年末に買い出しをしなかったせいで、食べ物がなくなって大変困ったという話を聞きました。
正月に営業している店なんてなかったというそんな不便も正月らしさのうちで、
それをそうでなくしたのはコンビニエンスストアが全国どこへでもあるようになってからだったんじゃないでしょうか。
商売は協商なので、どこかが影響すればこちらも営業するを得なくなる。
コンビニがもたらした文字通りの便利は正月らしさなど吹き飛ばしてしまったように思います。
日本語には情緒なんていうなかなかいい言葉がありますが、この言葉は便利とはどうやら相性が悪いのではないでしょうか。
音楽紹介:スケイティング・イン・セントラルパーク
さてここで一曲かけましょう。
今回は冬らしい題名の曲ということで、僕の大好きなピアニストジョン・ルイスが作曲したスケーティン・イン・セントラルパークです。
僕の好きなワルツショーの曲です。
この番組でも一度流したことがありましたが、いい曲は何度聞いてもいいですからね。
ジョン・ルイスは今でもなくボーナー・ジャズ・カルテッドのリーダーというか音楽監督なので、もちろんMJQでの演奏がオリジナルなんですが、
今回はたまたま僕の好きな3人のピアニストがこの曲を取り上げているので、それを集めてきました。
今やこの曲もスタンダードの一つと言ってもいいでしょう。
ジャズの醍醐味の一つには演奏家がスタンダードをどう料理するかというところにありますから、今回はそれを聞き比べていただきたいと思います。
まずは山中千尋のピアノトリオ。これはドラムの代わりにギターを加えたトリオでの演奏です。
ニューヨークのセントラルパークでスケートをというと映画ある愛の歌のワンシーンが思い出されるわけですが、
もっともこの映画が流行った1971年当時、僕はまだ中学生ですから、
愛とは決して後悔しないこととなって偉大な世間に浸透していた宣伝文句を聞いてドギマギしておったわけです。
そのロマンチックな映画とこの曲は関係ありません。
とは言っても、この曲も1959年の犬獣の報酬という犯罪映画の音楽をジョン・ルイスが担当した時に書かれた映画音楽ではあるんですね。
僕はこの映画を見ていないので、どんなシーンでこの曲が流れていたのかわかりませんが、いつか機会があったら見てみたいと思うのだと思っています。
ジャズでピアノトリオといえばピアノ、ベース、ドラムの構成が常識的ですが、
これはモダン・ジャズ以降のことで、それ以前はドラムの代わりにギターがリズムを刻んでいたことが多かったんですね。
僕はドラム入りのピアノトリオが大好きですが、時としてドラムがうるさく感じられることもあるんです。
ピアノトリオのドラムではスティックの代わりにブラシが使われることがよくありますが、
リズムギターに似た役割と音量を抑える意味があるのでしょう。
山中千尋さんの演奏ではドラムの代わりにギターを入れたことで、とても軽いタッチのスイング感が生まれていたと思いました。
失われた正月の風物詩と大阪の街並み
さて、正月にはほとんどの家の玄関先には日の丸が掲げられていました。
これも昨今ではなくなってしまった風習の一つですね。
実家を出て以来僕も掲げたことはないですね。だいたいコッキーが家にありません。
かつてはどの家の玄関にもコッキーを掲げるのがための金具がありました。
旗を出すのは我が家では子供の役目で、出してきなさいと言われて覚えがあります。
街中に日の丸が旗舞えているのが正月の光景として記憶にあります。他の祝祭日も同様でした。
こんな光景がいつ頃からなくなったのでしょうかね。
世間の各家族が祝い始めた頃か、すみませんね。
つまり家に年寄りがいなくなったということだし、いたとしても威厳が薄れていったということでしょう。
それと僕が高校生になる頃までは社会思想の流れから日の丸に風当たりが強い時期があったように思います。
そんなことも影響しているのかもしれません。
正月に見かけなくなったものといえば、80年代頃までは車の前に締め飾りをつけているのを普通に見ましたが、
これも全くといいほど見なくなりましたね。
初日と書かれた紙をつけて走るトラックも見ました。
年賀状ももう若い人には出す人も少ないでしょう。
その上去年は郵便料金が値上げになって、この風習もこれにて風前の灯火となりそうな気がします。
大阪の思い出を話しましょう。
僕の生まれた家は五軒長屋の隅っこでした。
つい先頃まで日本一の高さのビルだった阿部のハルカスまで10分もかからないところです。
小学2年生まで住んでいました。
僕の家が引っ越した10年後に一帯の再開発が始まって、
40年にも渡った工事で再開発の区域内には僕の記憶に残っているものは建物も道路もとにかく例外なく全て姿を消しました。
この巨大な再開発事業は全国的にも有名だったらしいですね。
3000人もの知見者があったので調整に手間取って官僚に40年もかかってしまったということです。
僕の家もそのまま住んでいたら知見者だったはずで、
弱いようになればタワーマンみたいなところに住んでいたかもしれません。
自分の家のあったところは再開発で30棟を建てたというビルの下になっています。
阿部のハルカスは近鉄百貨店の阿部の店を建て替えたもので、
この近鉄百貨店が自分がそこに住んでいた頃からあった建物だったのですが、
それが全く姿を変えて、この界隈では天王寺駅だけが僕の記憶にあるほとんど唯一の建物になってしまいました。
しかしこれも近い将来には建て替えられると聞きました。
さて大阪だと梅田とか南波がいわゆるカタカナでよく書かれる北と南という大繁華街なんですが、天王寺がそれに次ぐのではないかと思います。
ちなみに震災橋など道頓堀という繁華街は大きな区分では南に属するんです。
天王寺という繁華街はJRの天王寺駅や近鉄の大阪阿部の橋駅周辺を言う繁華街です。
大阪には東京の山手線にあたる環状線があって、大雑把に言えばその一番北側大阪駅で一番南にあるのが天王寺駅なんです。
天王寺駅は天王寺区の南の橋にあり、一方阿部の遥かさは天王寺駅から道引き出すへたてた南側にあって、その一階にあるのが近鉄南大阪線の始発大阪阿部の橋駅で、そこは阿部の区の北の橋になるんですね。
要するに天王寺区の南の橋と阿部の区の北の橋一帯が天王寺という名前の繁華街と考えてもらえばいいと思います。
しかし天王寺という名称はいささかややこしいんです。
というのも、さっき言った阿部の遥かさの一階、近鉄南大阪線の始発駅は阿部の橋という名前なんですが、阿部の橋という橋は天王寺駅前の湖泉橋の名前なんです。
天王寺駅は堀割に敷かれた線路にまたがった駅で、駅前の湖泉橋が阿部の橋なんですね。
つまり阿部の橋という橋はギリギリ天王寺区内にあるんです。
近鉄の駅も最初は天王寺駅だったのが、国鉄の駅と区別するために阿部の橋に変わったというんですが、別に近鉄天王寺駅でよかったのだと思いますけどね。
まあ大阪ではJR大阪駅だって隣接する多くの施設の駅は梅田駅というんですから、天王寺だけがややこしいわけではないんですけどね。
全国的には福岡市の博多駅とか神戸の三宮駅なんてのも、市で最も中心となる駅がその市の名前でないということで、そこに住んでいない人にとってはややこしい例でしょうね。
ついでに言うと大阪環状線の路線距離は山手線の半分なんですね。
ものすごく面積的には関西経済圏というのは首都圏に比べると大体が半分くらいの規模と言っていいんじゃないでしょうかね。
大阪駅から京都、神戸、奈良なんて東京駅からするとすべて八王子くらいまでの距離に入ってしまうんです。
逆に言えば首都圏というのがいかに大きい範囲かということですね。
さらに余談ながら、その安倍の橋から下を通る電車を眺めるのが楽しみだったというのが、僕の記憶の中でも一番古いものの一つです。
安倍の橋を渡った先に天王寺公園があって、中に動物園があるのでそこにもよく行ったものです。
公園内には茶臼山という小さな山があるんですが、小学校2年の時、友達と二人でその山で探検ごっこみたいなことをしていたんでしょうね。
もう記憶は曖昧ですが、何かの標誌に岩が落ちてきて、僕の左手の人差し指の先を潰してしまったんです。
指先から血を垂らしながら近くの交番に行ったら、パトカーで病院に連れて行ってくれました。
幸いにも骨は無事だったんですが、しばらくは包帯が取れませんでした。今でも指先に傷跡が残っています。
この怪我のせいで、みんなで川遊びに出かけることになっていたのが、あるスバになってしまったのが悔しい記憶として残っています。
いわば僕の最初の三角相談かもしれません。
都市の変化と日本語の変容
さてしかしですよ。さっき言った大変貌を解けたのは天皇寺や安倍の界隈だけではないですね。
おそらく日本中がそうなんでしょうが、その中でも都市圏が極端に変わったということでしょう。
変わってしまったということでついでに言うと、大阪の言葉も今、例えばテレビなんかで聞く大阪弁は、僕が喋っていた大阪弁とはずいぶん違うなということがよくあります。
言葉は時代で変化していくものですが、言葉が短くなっていくこと、また語彙が貧困になっていくことは日本語全般には共通だとは思いますけどね。
たまたまあるサイトを見て笑ってしまったんですが、
ワンダフルとかデリシャスとかビューティフルとかデンジャラスとか、つまり素晴らしいおいしい美しい危険なといった英語の形容詞が10個くらい並んでいてこれを日本語に訳せというのですが、
答えは全部やばいなんですね。
これ外国人が本気にしたら日本語の習得がずいぶん遅れてしまうんじゃないかなと思いました。
こんなことではマジやばいと僕は思いましたね。
山を切り開くような開発もされることながら、先ほど僕の前で言ったアベノの再活のようなスクラップ&ビルドがこれだけ激しい国は他にはないんじゃないでしょうか。
このスクラップ&ビルドの激しさを説明するとき、僕は1980年代前半に購入した東京首都圏の地図を持ち出すことがあるんです。
もちろん地図の中身を見れば現在との差は凄まじいものなんでしょうが、端的なのはその表紙写真なんですよ。
まだ建ったばかりの赤坂プリンスホテルの新館が表紙の写真になっているんですね。
その時代を象徴している建築物といった意味合いがあって表紙の写真になったんでしょう。
40階建ての高層ホテルを覚えている人もまだ多いと思います。
ニューヨークのエンパイアステートビルが建てられてからもう100年も経ちているのに、
かたやたった30年で40階もある鉄筋コンクリートの高層ビルが解体されて建て替えられているんですよね。
いかに経済の浪利とはいえこんなにもったいないことがあるのかと、
地区50年の木造のように住んでいる僕は思ってしまうわけです。
でもこんな新陳代謝が人間というものの正体かもしれませんね。
唐突ながら、これは前にも言ったことがありますが、
僕らが山歩きをするのは変わらないものへの憧れみたいな理由もあるんじゃないかとは思うんです。
小学校3年生の時、安部野から大阪市の南にある浴び木野市というところに引っ越したんですけど、
当時そこは大阪の繁華街から引っ越してきた身にとってはとんでもない田舎でしたね。
原野か田んぼを切り開いてできた新興住宅地、しかもまだそれほど建っていない住宅地でした。
今はグーグルマップでどこの様子でも画像でつぶさに見られますから、
この浴び木野市で住んだ家はどこにあったんだろうかと画像を見ながら記憶をたどってみたんですが、全く分かりませんでした。
1年上の兄と僕は近鉄の江賀野商という駅まで片道20分くらいの道を毎日数学で往復していたんですが、
記憶にある田んぼの中の田舎道、遊んだ原っぱ、ザリ貝に釣りをした池、すべて見渡す限りの住宅地に変わっていたんです。
当時大阪の小学校は越境入学や通学が許されていたことで、僕の通っていた小学校は公立とはいえイラク人気のある学校だったことから、
大阪の各地から電車で通学してくる生徒も多かったんです。
何せ全校生徒が3年にもいたんですからね。
僕が入学したとき1年生のクラスは11組もありました。
3年でクラス替えをしたら周りは知らないこともばかりでまるで転校したかのようでした。
それで兄と僕も近鉄南大阪線で通うことになったわけです。
その後親の仕事の関係で短い間に大阪駅の西の福島区、大阪城の東にあたる城東区と家が変わりました。
そのたびに安倍野の小学校に電車で通ったんです。
要するに近鉄、国鉄、地下鉄、阪神電車、京阪電車といろんな鉄道に乗って通学したんですね。
当時の環状線なんてすごいらしいだったのを覚えています。
小学生のことですから定期券を首からぶら下げて電車の通学なんて楽しくないはずがなくて、
学校が遠くて嫌だなと思ったことは一度もありませんでしたね。
毎日遠足みたいなもので今でも近鉄南大阪線の駅の名前は全部言えるし、他の路線もかなりの駅名には馴染みがあります。
行けないことだけど改札を出ずに上り下りの電車を乗り換えられる駅なんていくらでもありますから、
結構遠くの駅までただ乗りして寄り道して帰ったこともありました。
でも5年生になるときに越境通学が禁止され、電車通学は終わり、地元の城東区の小学校に通うことになりました。
音楽紹介と山歩きのきっかけ
さて今日の2曲目と言っても同じ曲ではありますが、
これも僕の大好きなフランス人のピアニスト、セルジュ・デラートのトリオンによる演奏で、スケーティング・イン・セントラルパークです。
彼のピアノはいつ聴いても実に冴えているなあというのが僕の感想なんですが、
フランス人という先入観のせいか、セントラルパークというよりはシャンゼル通りのカフェで流れている音楽といった、
我ながらステレオタイプの感じがするんですよね。
少なくともオダンジャズ前世時代のアメリカになかったタイプの演奏ではないかと思います。
大阪の小学校を卒業して長屋の中学に入学したので、大阪の次には長屋の話をして、それに東京を絡めようと思っていたのですが、
最後に山絡みの話をしようと思います。
僕が学生時代以来遠ざかっていた山歩きを再開したきっかけになった、
車窓の山旅、中央線から見える山という本を書かれた山村雅美さんのことは、この番組の初期の頃、散々話してきました。
その山村さんの紹介で知り合うことができたのが横山敦夫さんで、
この方については以前ゲストでお呼びしたロッジ山旅ギャラリー出展画家の一人、北島由一さんがそのときの番組内で話してくれました。
そのときの北島さんの話で、高校生の頃、横山さんの書いた登山読本にとても影響を受けたというのは、僕も同様なんです。
僕が通っていた高校の図書館にもその本があって、一人で山歩きをしていた僕は随分と参考にしていました。
だから山村さんに紹介されたとはいっても、とっくに僕にとっては知っていた人だったわけです。
長屋の高校生だった僕が、読んでいた本の書者とその後婚姻になろうとは、縁というのは不思議なものです。
しかも山歩きを再開してからは、横山さんが書かれた本を読んでは、そこに出てくる山にせっせと帰りましたからね。
横山さんは山岳気候作家とでも表現しましょうか、山に限らず恐ろしく白色な方なんです。
僕が経営しているロッジ山田部のごく最初からのダントツの御常連でもあって、いずれそんな話もしたいなと思っているんですが、
横山康子さんの遺稿とウェブサイト再構成
ここでは横山夫人、江康子さんの話なんです。残念ながら数年前にお亡くなりになりました。
2019年に亡くなった三好牧子さんという方がいて、彼女は日本山岳会図書院委員長を務めていたときに、山の世界にも人脈が広かったんですね。
それで彼女の経営運営していた三好牧子山の文庫というサイトには、山に関わる著名な人たちが文章を寄せていました。
横山康子さんが書いた江藤文からなる積草と散歳という連載もその一つで、2006年くらいからおよそ10年近くにわたって連綿と寄稿されました。
その文章というは三好さんが本にしたいと言っていたほどの質と量だったんです。
しかし三好さんが亡くなったことでサイトが閉鎖され、他の人たちの文章ともども読めなくなってしまいました。
僕は世界中のサイトを保存しているアーカイブサイトに不完全ながら三好さんのサイトの一部が残っているのを知っていました。
ですがそうした場所に過労して残っているだけでは見られることもなくほとんど意味がありません。
しかも古いフォーマットのせいでレイアウトは崩れ読めたものでもありません。
これではもったいないことだなぁとずっと感じていました。
それで三好さんが亡くなってちょうど一年が過ぎた頃、遅ればしながら以前から考えていた作業をすることにしたんです。
つまりその例のアーカイブサイトから三好さんの連載を発掘し、僕の宿のサイトに再構成して転載することです。
本当は三好さんがご存命中にすべき作業でした。
三好さんのサイトでは画文集だったのが残念ながらアーカイブにはたった一つの絵しか残っていませんでした。
原画の行方も不明でしたが文章だけでも救い出そうとしたんです。
文章だけではありますがそのページが完成し公開して間もなく
横山さんのお宅で靖子さんの原画が発見されたという朗報が入ったんです。
そもそも画文集なのですから文章だけではやはり我を転生かくなというのが本音だったのでこれは嬉しい知らせでした。
これで三好さんのサイトにあった靖子さんのコーナーを完全に再現できることになりました。
さらに北島陽一さんがこれらの原画と文章の朗読で動画を作ってYouTubeに上げてくれることになりました。
朗読には内田有美さんという願ってもない適任者も得てますます約束が残したものが光を増すことになったんです。
ちなみに内田有美さんは著名な三角ライター内田陽一さんのご夫人で性学科なんですね。
願ってもない適任者というのはそういう理由です。
さてそのYouTube版全90回が2年近くをかけて完結したのが去年の夏のことでした。
そこでその完結お祝いをしようと小木久保の横山さんのお宅に内田夫妻北島夫妻そして僕が集まって
博覧狂気の横山さんのお話を配置をし午後の一時を過ごしたのはつい一月前のことです。
ラジオでは積草と山菜の膨大な内容を紹介するのは不可能ですから
ロッジや又部サイトや北島さんのサイトでぜひ皆さんに楽しんでいただければと思っています。
それはそれとしてこのお祝いに僕もJR線を使って上京したんですがその工程のことについてお話したいんです。
鉄道利用の運賃計算と旅の思い出
25年も大泉町に住んでいて神戸線に乗ったのはおそらく10回もありません。
車を持つ地元の方ならほとんどがそうでしょう。
上京するときは格安な高速バスをほとんど利用しますから中央線にもあまり乗りません。
今回はその滅多に乗らない神戸線と中央線を乗り継いで上京することになりました。
海豪泉駅は無人なので乗車の際に生理券を取りますよね。
それで大きく小部駅でいつも降りる西口改札に行って生産しようとしたのですが窓口はなく、生産機はあるものの紙の生理券では生産できません。
そこで一旦ホームに戻って延々と歩いて駅の中でも一番大きい改札に行きました。
ところがそこにも窓口がないのです。
これはどうしたらいいのと並んでいますと改札口の横の窓が開いていて何やら相談している人がいました。
その窓は中が見えないようになっていて呼ぶ輪で中の駅員が出てくる仕組みらしいのです。
たまたま開いていたので窓口だと分かりましたが初めてだと分かるはずもありません。
やれやれそれでやっと外に出られたわけです。
そして今度は帰りかけです。
再び大木窪駅で海大泉までの切符を買おうと思ったらパッと見渡した路線図にそんな遠い駅までは載っていません。
仕方なく足形の窓口まで行って呼び人を押し出てきた駅員に尋ねると路線図の範囲にある駅までの切符を買って置いたときに生産してくださいと言うんです。
なんでそんな面倒なことをしなければならないの。
それに降りる駅は無人なんですよと言うと
それなら右の方にある紫色の券売機を使ってくれと言います。
ならば早くそう言えばいいじゃないですか。
要するに説明が面倒なんでしょう。
改めて券売機のアラーバートリをつぶさに見たのですが遠距離切符の買い方の案内なんかなかったように思います。
路線図に一言書いてあればいいだけの話なのに不親切です。
しかも券売機は複雑買い機で無数のボタンの理解なんてすぐにはできません。
今時スイカみたいので出入りする人がほとんどでいちいち切符を買うような人は礼遇されているんでしょうね。
それで家に帰ってから考えました。
大泉から整理券で乗って東京の高台の駅を歩き回って面倒な生産をするよりも
小さな小淵沢駅で一旦降りて切符を買い直した方がよほど手間がありません。
小淵沢駅を知っていいという人なら一旦改札を出るぐらいどってこないことはわかるでしょう。
でもそうなると運賃が上がるに違いありませんよね。
そこで小木窪駅までならどのぐらい高くなるんだろうと調べてみたところ
驚いたことに何度計算しても小淵沢駅で一旦下車した方が運賃が200円も安いんです。
往復で400円というのはデカいですよ。
そんなことってあるんだろうかと調べたらあるんですね。
多くの人は投資で買う方が安いはずと思い込んでいるので
分割した方が安くなるという話は鉄道に少し詳しい人か
たまたま調べた人くらいしか知らないのが実情だと後で分かったんです。
というわけで八ヶ畑南北へ神戸線利用で来られる人も多いわけだし
そうでなくてもJR線でどっかに行くときには
綿密に運賃を計算した方が得なことがありますよとの話でした。
小淵沢駅は数日間が使えますがあらかじめ計算してみてください。
行く先によっては小淵沢まで現金で払った方が安くなる例がたくさんあるはずですよ。
さて今日は最後はローランド・ハナのピアノトリオによる
音楽紹介:ローランド・ハナ
スケーティン・イン・セントラルパークです。
今回かけた3人の演奏の中では僕をこれを最もよく聴きます。
というのもローランド・ハナは学生時代以来からもう50年ものお付き合いになるんですが
前の二人とはかなりブランクがあった後にまたジャズをよく聴くようになってからのお付き合いでして
まだ10年くらいなんですね。
そしてさっきのセル・ジュ・デラートがパリの雰囲気といたのとおなじみで
こちらはいかにもニューヨークといった感じがするんです。
これも潜入感のなす技でしょうかね。
ローランド・ハナは日本と縁が深く、70年代に来日した時には
ベーシストのジョージ・ムラスとのデュオで素晴らしいレコードを残しています。
彼はベーシストとデュオを好むのでしょうか。
晩年の十数年は日本人ベーシストの中山英二と組んでのコンサートを起こし
CDも録しました。
彼のラストコンサートになってしまったのも2002年
日本での中山英二とのコンサートツアーの一つでした。
すでに体調を崩していた彼はこのコンサートツアーの途中に
スターステージに立てなくなり
その一月後にアメリカにいなくなってしまったんです。
僕はこの最後のコンサートを録音した文字通りのラストコンサートという
題名のCDを持っているんですが
これはステージに立てなくなる前々日の録音です。
そんな時までこれほどの演奏ができるものだろうかという感動しましたね。
今日は彼のステーキツケーティングインセントラルパークを聴きながら
お別れとしましょう。
皆様どうかお元気でまた来月お会いしましょう。
FM八塚楽器 Day in Life
山と森と旅と
お話は長澤博史でした。
34:16

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