はじめに
今回はお好み焼の話をしよう。
お好み焼と聞いて、多くの人が一度は目にしたことがあるであろう言説がある。
千利休が安土桃山時代に作った「麩の焼き」が、江戸時代に文字焼きとなり、そこからお好み焼が生まれた。
とりわけ大阪あたりでは、半ば定説のように語られている話である。
千利休が堺の人なので、支持されやすいのは理解はできる。
しかし、資料を集め、時代背景を整理し、事実を積み上げていくと、どうしてもこの話には強い違和感が残る。
今回はその「なぜ納得できないのか」を、順を追って整理してみたい。
話がやや長くなるので、2回に分けることになるだろう。
今回はその前編である。
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小麦という作物の出自
まず前提として、小麦という作物について触れておく必要がある。
小麦の原種が見つかっているのは、メソポタミア文明圏である。
小麦は農耕文明の成立を支えた、極めて重要な作物の一つだ。
一方、日本は伝統的に米食の社会である。
米の原産地は、中国雲南地方、ミャンマー北部、あるいはタイ北部あたりとされている。
湿潤で水の多い環境に適した作物であり、日本の気候条件とは非常に相性が良い。
実は、日本に米と麦が伝来した時期自体は、ほぼ同じで、弥生時代とされている。
それでも、その後の日本で圧倒的に主流になったのは米だった。
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なぜ日本は「米の国」になったのか
理由は単純である。
同じ1ヘクタールの土地で栽培した場合、米はおよそ5トン、小麦は約3.5トンしか収穫できない。
日本は山が多く、平野部が少ない。
水は豊富だが、耕作に適した土地は限られている。
その条件下で、より収量が多く、水を活かせる米作りが選ばれたのは自然な流れだ。
さらに重要なのは、水田は連作障害を起こさないという点である。
同じ土地で延々と米を作り続けても、問題が起きにくい。
これは他の作物では非常に珍しい特性だ。
小麦には連作障害があり、土地を休ませながら作る必要がある。
広い土地がない日本では、明らかに不利な作物だった。
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粉にする、という途方もない手間
もう一つ、決定的な違いがある。
米は脱穀すれば、玄米のまま粒として食べられる。
一方、小麦は粒のままでは美味しくもなく、消化も悪い。
食べるためには「製粉」という工程が必要になる。
これは現代人が想像する以上に大変な作業である。
昔はすべて人力で、石ですり潰し、何度もふるいにかけ、粒度を揃えなければならなかった。
ヨーロッパで水車が発達したのは、まさにこの製粉のためである。
それほどまでに、小麦を食べ物にするにはエネルギーが要る。
つまり、日本において小麦粉は、基本的に贅沢品だったのである。
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千利休と「麩の焼き」
千利休が活躍したのは安土桃山時代、16世紀後半である。
彼が茶菓子として供したとされる「麩の焼き」は、何度もふるいにかけた白い小麦粉を使った、極めて贅沢な菓子だった。
当時、砂糖はほぼ使えないため、味付けは味噌が中心だったと考えられている。
それでも、小麦粉そのもののおいしさは十分に人を喜ばせただろう。
ここで重要なのは、「麩の焼き」は徹頭徹尾、茶の湯の世界の菓子だという点である。
客を思い、時間をかけ、心を尽くす。
その文脈の中で成立した食べ物である。
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300年の空白
問題はここからだ。
文字焼きが史料に登場するのは、江戸時代後期、化政文化の頃である。
つまり、千利休の時代から約300年が経っている。
この300年間「麩の焼き」がどこで、誰に、どのように食べられ続けていたのか。
それを示す連続した記録は、ほぼ存在しない。
京阪の超上流階級の茶菓子が、江戸の町民、しかも子どもが食べるストリートフードになる。
その社会的落差はあまりにも大きい。
ここを説明せずに、「似ているから繋がっている」と言ってしまうのは、あまりにも雑である。
それなら小麦煎餅でも同じではないか、という話になってしまう。
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麩の焼きは、ちゃんと残っている
さらに言えば、麩の焼きは「消えた」わけではない。
尾道の老舗和菓子屋「中屋」には、「ふなやき」という菓子が今も残っている。
小麦粉を薄く焼き、餡を包んだ、明らかに茶菓子の系譜にある存在だ。
滋賀、九州の柳川や久留米周辺など、似た菓子は各地に点在している。
使われる場面も、文脈も、連続している。
だからこちらには納得感がある。
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なぜ、ふの焼きは文字焼きにならないのか
まとめると、問題は三つある。
一つは、300年に及ぶ時代のミッシングリンク。
さらに二つは、社会階層と地域の断絶である。
これを説明しない限り「麩の焼きが文字焼きになった」という説明にはならない。
文字焼きからお好み焼へ、という流れは解明されている。
しかし、その前段を雑に繋げてしまうのは、歴史の扱いとして誠実ではない。
もう一つ、非常に重要な視点がある。
それについては、次回あらためて話したい。
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今回はお好み焼の話をしよう。
お好み焼と聞いて、多くの人が一度は目にしたことがあるであろう言説がある。
千利休が安土桃山時代に作った「麩の焼き」が、江戸時代に文字焼きとなり、そこからお好み焼が生まれた。
とりわけ大阪あたりでは、半ば定説のように語られている話である。
千利休が堺の人なので、支持されやすいのは理解はできる。
しかし、資料を集め、時代背景を整理し、事実を積み上げていくと、どうしてもこの話には強い違和感が残る。
今回はその「なぜ納得できないのか」を、順を追って整理してみたい。
話がやや長くなるので、2回に分けることになるだろう。
今回はその前編である。
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小麦という作物の出自
まず前提として、小麦という作物について触れておく必要がある。
小麦の原種が見つかっているのは、メソポタミア文明圏である。
小麦は農耕文明の成立を支えた、極めて重要な作物の一つだ。
一方、日本は伝統的に米食の社会である。
米の原産地は、中国雲南地方、ミャンマー北部、あるいはタイ北部あたりとされている。
湿潤で水の多い環境に適した作物であり、日本の気候条件とは非常に相性が良い。
実は、日本に米と麦が伝来した時期自体は、ほぼ同じで、弥生時代とされている。
それでも、その後の日本で圧倒的に主流になったのは米だった。
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なぜ日本は「米の国」になったのか
理由は単純である。
同じ1ヘクタールの土地で栽培した場合、米はおよそ5トン、小麦は約3.5トンしか収穫できない。
日本は山が多く、平野部が少ない。
水は豊富だが、耕作に適した土地は限られている。
その条件下で、より収量が多く、水を活かせる米作りが選ばれたのは自然な流れだ。
さらに重要なのは、水田は連作障害を起こさないという点である。
同じ土地で延々と米を作り続けても、問題が起きにくい。
これは他の作物では非常に珍しい特性だ。
小麦には連作障害があり、土地を休ませながら作る必要がある。
広い土地がない日本では、明らかに不利な作物だった。
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粉にする、という途方もない手間
もう一つ、決定的な違いがある。
米は脱穀すれば、玄米のまま粒として食べられる。
一方、小麦は粒のままでは美味しくもなく、消化も悪い。
食べるためには「製粉」という工程が必要になる。
これは現代人が想像する以上に大変な作業である。
昔はすべて人力で、石ですり潰し、何度もふるいにかけ、粒度を揃えなければならなかった。
ヨーロッパで水車が発達したのは、まさにこの製粉のためである。
それほどまでに、小麦を食べ物にするにはエネルギーが要る。
つまり、日本において小麦粉は、基本的に贅沢品だったのである。
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千利休と「麩の焼き」
千利休が活躍したのは安土桃山時代、16世紀後半である。
彼が茶菓子として供したとされる「麩の焼き」は、何度もふるいにかけた白い小麦粉を使った、極めて贅沢な菓子だった。
当時、砂糖はほぼ使えないため、味付けは味噌が中心だったと考えられている。
それでも、小麦粉そのもののおいしさは十分に人を喜ばせただろう。
ここで重要なのは、「麩の焼き」は徹頭徹尾、茶の湯の世界の菓子だという点である。
客を思い、時間をかけ、心を尽くす。
その文脈の中で成立した食べ物である。
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300年の空白
問題はここからだ。
文字焼きが史料に登場するのは、江戸時代後期、化政文化の頃である。
つまり、千利休の時代から約300年が経っている。
この300年間「麩の焼き」がどこで、誰に、どのように食べられ続けていたのか。
それを示す連続した記録は、ほぼ存在しない。
京阪の超上流階級の茶菓子が、江戸の町民、しかも子どもが食べるストリートフードになる。
その社会的落差はあまりにも大きい。
ここを説明せずに、「似ているから繋がっている」と言ってしまうのは、あまりにも雑である。
それなら小麦煎餅でも同じではないか、という話になってしまう。
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麩の焼きは、ちゃんと残っている
さらに言えば、麩の焼きは「消えた」わけではない。
尾道の老舗和菓子屋「中屋」には、「ふなやき」という菓子が今も残っている。
小麦粉を薄く焼き、餡を包んだ、明らかに茶菓子の系譜にある存在だ。
滋賀、九州の柳川や久留米周辺など、似た菓子は各地に点在している。
使われる場面も、文脈も、連続している。
だからこちらには納得感がある。
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なぜ、ふの焼きは文字焼きにならないのか
まとめると、問題は三つある。
一つは、300年に及ぶ時代のミッシングリンク。
さらに二つは、社会階層と地域の断絶である。
これを説明しない限り「麩の焼きが文字焼きになった」という説明にはならない。
文字焼きからお好み焼へ、という流れは解明されている。
しかし、その前段を雑に繋げてしまうのは、歴史の扱いとして誠実ではない。
もう一つ、非常に重要な視点がある。
それについては、次回あらためて話したい。
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