はじめに──雪と選挙の一日
外はかなりの雪で、この天候は選挙の投票率にも影響を与えそうだなと思っている。
昼に投票へ行ったときはそこまでではなかったが、その後一気に降り始めた。
1月2日の大雪を思い出すような光景で、今日はもう外に出ない方がよさそうだ。
株式市場を見ると、日経平均先物は大きく上がっている。マーケットは自民党勝利を織り込み始めているのだろう。
そうなれば株高・円安、インフレは進む。
一方で、金利は上げたくても上げられない、そんな怖さも同時に感じる。
資産を持つ人はさらに増やし、持たない人はより厳しくなる。
その構図が見えつつある中で、なお自民党に票が集まる。
この因果について思うところはあるが、選挙とはそういうものでもあり、結果は静かに見届けたい。
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今日の本題──丼と雑炊の話
さて、ここからが本題だ。
今日は「丼」について話したい。
正確には、丼と雑炊の境目についてだ。
これは以前にも触れたテーマで、僕の中ではかなり重要な問題である。
最近、丼と雑炊の境界が曖昧になってきていると感じている。
もちろん定義は人それぞれでいい。
しかし、僕には僕なりの明確な基準がある。
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僕の定義──匙が必要になったら、それは雑炊だ
僕が「これはもう丼ではなく雑炊だ」と判断する基準がある。
箸では食べにくく、匙が必要になった時点で、それは雑炊だろう。
丼であるために、どの程度のツユが許されるのか。
僕の理想は、丼ツユが丼の底に達していないことだ。
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内田百閒の嘆き──丼ツユが底に達した瞬間
この感覚は、実は昔の教養人にも共有されていた。
岡山出身の作家・内田百閒は、食と酒を愛した人物だが、エッセイの中でこんな話を書いている。
丼を食べたところ、つゆが丼の底まで達していた。
それを見て、「なんて下品なものを食べてしまったんだ」と後悔した、という内容だ。
当時の知識人、あるいは教養人たちは、ご飯を過度に汚すことを良しとしなかった。
丼である以上、多少は汚れる。
しかし、それでもなお、ご飯は「ご飯としておいしく食べられる状態」であるべきだ、という美意識があったのだと思う。
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ツユだくの功罪──まずいご飯を救う技術
一方で、つゆが多いことには合理性もある。
いわゆる「汁かけご飯」状態にすると、正直なところ、ご飯がおいしくなくても食べられる。
風味のない、パサパサしたご飯をそのまま味わうのはつらい。
だからこそ、つゆをかけ、ふやかし、雑炊的にすることで、ごまかしが効く。
これはこれで一つの知恵であり、価値だと思う。
牛丼の「ツユだく」も、おそらくはそうしたユーザーイノベーションなのだろう。
安価で、良い米が使えない。
そのご飯を少しでもおいしく食べるための工夫として生まれた、と考えれば納得できる。
だが──。
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良い米で、なぜジャブジャブにするのか
問題は、ご飯が本当においしい店で、つゆをかけすぎてしまうことだ。
せっかく良い米を使っているのに、ジャブジャブにつゆをかけてしまえば、ご飯はぶよぶよになり、台無しになる。
これは違うだろう、と僕は思う。
先日紹介した大手町の「江戸そば孫吉」のミニかつ丼は、その点で非常に優秀だ。
ミニサイズでありながら、つゆが多すぎず、肉・衣・ご飯のバランスが見事に取れている。
今は国産の良い肉を使い、厚みもあり、何よりご飯がふやけていない。
丼として、きちんと成立している。
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玉子丼が難しい理由
さらに難しいのが、玉子丼である。
正直、あまり食べない。
理由は簡単で、多くの場合「玉子雑炊」になってしまっているからだ。
中途半端に丼ツユが多く、ご飯が半分ふやけた状態。
これが一番おいしくない。
どうせなら、いっそ完全に雑炊として仕上げた方が、料理としては成立する。
中途半端が一番よくない。これは料理全般に言えることだと思う。
「なか卯」の親子丼は、モスフードサービス時代はかなり良かった。
ゼンショー資本に変わってから、少し変わった印象はあるが、今でも店と作り手次第では悪くない。
ただし、玉子のとじ具合は本当に技術で、店ごとの差が激しい。
「ちから」の玉子うどんも同じだ。腕のいい人が作ると、驚くほどおいしい。
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天丼という希望──すぎ原の天丼
その点、天丼は比較的おいしい店が多い。
中でも、天満町の「すぎ原」の天丼は別格だ。
沸かした丼ツユに一瞬くぐらせて乗せる、昔ながらの江戸前の作り方。
これは他ではなかなか食べられない。
天丼だけのために行く価値がある店だと思っている。
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結論──箸で食べられるから、丼なのだ
本当においしい丼は、残念ながら少なくなってきている。
その多くが、雑炊化している。
繰り返すが、箸で食べられなくなったら、それは雑炊だ。
これはあくまで僕基準であり、異論があって構わない。
ただ一つ、強く言いたいのはこれだ。
ご飯そのものをおいしく食べられない料理は、丼とは呼べないのではないか。
ご飯を損なってしまった時点で、その料理は丼としての本質を失っている。
僕はそう考えている。
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外はかなりの雪で、この天候は選挙の投票率にも影響を与えそうだなと思っている。
昼に投票へ行ったときはそこまでではなかったが、その後一気に降り始めた。
1月2日の大雪を思い出すような光景で、今日はもう外に出ない方がよさそうだ。
株式市場を見ると、日経平均先物は大きく上がっている。マーケットは自民党勝利を織り込み始めているのだろう。
そうなれば株高・円安、インフレは進む。
一方で、金利は上げたくても上げられない、そんな怖さも同時に感じる。
資産を持つ人はさらに増やし、持たない人はより厳しくなる。
その構図が見えつつある中で、なお自民党に票が集まる。
この因果について思うところはあるが、選挙とはそういうものでもあり、結果は静かに見届けたい。
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今日の本題──丼と雑炊の話
さて、ここからが本題だ。
今日は「丼」について話したい。
正確には、丼と雑炊の境目についてだ。
これは以前にも触れたテーマで、僕の中ではかなり重要な問題である。
最近、丼と雑炊の境界が曖昧になってきていると感じている。
もちろん定義は人それぞれでいい。
しかし、僕には僕なりの明確な基準がある。
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僕の定義──匙が必要になったら、それは雑炊だ
僕が「これはもう丼ではなく雑炊だ」と判断する基準がある。
箸では食べにくく、匙が必要になった時点で、それは雑炊だろう。
丼であるために、どの程度のツユが許されるのか。
僕の理想は、丼ツユが丼の底に達していないことだ。
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内田百閒の嘆き──丼ツユが底に達した瞬間
この感覚は、実は昔の教養人にも共有されていた。
岡山出身の作家・内田百閒は、食と酒を愛した人物だが、エッセイの中でこんな話を書いている。
丼を食べたところ、つゆが丼の底まで達していた。
それを見て、「なんて下品なものを食べてしまったんだ」と後悔した、という内容だ。
当時の知識人、あるいは教養人たちは、ご飯を過度に汚すことを良しとしなかった。
丼である以上、多少は汚れる。
しかし、それでもなお、ご飯は「ご飯としておいしく食べられる状態」であるべきだ、という美意識があったのだと思う。
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ツユだくの功罪──まずいご飯を救う技術
一方で、つゆが多いことには合理性もある。
いわゆる「汁かけご飯」状態にすると、正直なところ、ご飯がおいしくなくても食べられる。
風味のない、パサパサしたご飯をそのまま味わうのはつらい。
だからこそ、つゆをかけ、ふやかし、雑炊的にすることで、ごまかしが効く。
これはこれで一つの知恵であり、価値だと思う。
牛丼の「ツユだく」も、おそらくはそうしたユーザーイノベーションなのだろう。
安価で、良い米が使えない。
そのご飯を少しでもおいしく食べるための工夫として生まれた、と考えれば納得できる。
だが──。
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良い米で、なぜジャブジャブにするのか
問題は、ご飯が本当においしい店で、つゆをかけすぎてしまうことだ。
せっかく良い米を使っているのに、ジャブジャブにつゆをかけてしまえば、ご飯はぶよぶよになり、台無しになる。
これは違うだろう、と僕は思う。
先日紹介した大手町の「江戸そば孫吉」のミニかつ丼は、その点で非常に優秀だ。
ミニサイズでありながら、つゆが多すぎず、肉・衣・ご飯のバランスが見事に取れている。
今は国産の良い肉を使い、厚みもあり、何よりご飯がふやけていない。
丼として、きちんと成立している。
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玉子丼が難しい理由
さらに難しいのが、玉子丼である。
正直、あまり食べない。
理由は簡単で、多くの場合「玉子雑炊」になってしまっているからだ。
中途半端に丼ツユが多く、ご飯が半分ふやけた状態。
これが一番おいしくない。
どうせなら、いっそ完全に雑炊として仕上げた方が、料理としては成立する。
中途半端が一番よくない。これは料理全般に言えることだと思う。
「なか卯」の親子丼は、モスフードサービス時代はかなり良かった。
ゼンショー資本に変わってから、少し変わった印象はあるが、今でも店と作り手次第では悪くない。
ただし、玉子のとじ具合は本当に技術で、店ごとの差が激しい。
「ちから」の玉子うどんも同じだ。腕のいい人が作ると、驚くほどおいしい。
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天丼という希望──すぎ原の天丼
その点、天丼は比較的おいしい店が多い。
中でも、天満町の「すぎ原」の天丼は別格だ。
沸かした丼ツユに一瞬くぐらせて乗せる、昔ながらの江戸前の作り方。
これは他ではなかなか食べられない。
天丼だけのために行く価値がある店だと思っている。
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結論──箸で食べられるから、丼なのだ
本当においしい丼は、残念ながら少なくなってきている。
その多くが、雑炊化している。
繰り返すが、箸で食べられなくなったら、それは雑炊だ。
これはあくまで僕基準であり、異論があって構わない。
ただ一つ、強く言いたいのはこれだ。
ご飯そのものをおいしく食べられない料理は、丼とは呼べないのではないか。
ご飯を損なってしまった時点で、その料理は丼としての本質を失っている。
僕はそう考えている。
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11:09
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