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2018-08-29 21:03

第86回 有吉徳洋氏(株式会社ソーケン代表取締役社長)【前編】

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今回は、オフィス空間をプロデュースする、株式会社ソーケン 有吉社長にお越しいただきました。

北海道出身、旅行会社就職後に、昭和42年にお父様にあたる、有吉徳礼氏が設立した株式会社ソーケンの2代目社長として就任されました。幾多の試練の時期もありましたが、ピンチをチャンスととらえ、新たな飛躍へのバネに変えて成長されたストーリーは、2代目社長に限らず、多くの社長様にご参考にしていただけるかと存じます。「日本一にふさわしい企業になる」と事業に邁進される有吉社長のインタビュー、ぜひお聞きください!



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社長に聞く＀in WizBiz
本日の社長に聞く＀in WizBizは、株式会社ソーケン代表取締役社長の有吉紀弘様でいらっしゃいます。
まずは、経歴の方をご紹介させていただきます。
ソーケングループの代表でいらっしゃいます。1968年、北海道生まれ、旅行会社就職後、
お父様のやっているソーケン様にお戻りになり、2004年にはソーケングループ代表取締役社長に就任され、活躍をしていらっしゃる社長様でいらっしゃいます。
内装等を手掛けられていらっしゃいまして、有名なところですと某美術館とか某博物館とか、
世界遺産のお寺になるんでしょうか、神社になるんでしょうかとか、名前を言うともうほぼ皆さん知っているようなIT企業の数々ですとか、
そういうところの内装等、施工等をやっていらっしゃる会社様の社長様でいらっしゃいます。
有吉社長、今日はよろしくお願いいたします。
まずは最初のご質問なんですが、北海道出身なんですか、私と有吉さんが北海道出身って、これ経歴もらって初めて知ったんですが。
北海道のぼり別、温泉街の出身でございます。
お住みにもなっていたんですか、のぼり別は。
そうですね、3年間ほど。
でも記憶はそんなに。
全然ないです、出世地みたいな感じになっていますね。
その後、東京のほうに移行されて、小さい頃はほぼ江戸っ子みたいな。
そうですね、東京ですね。
東京はどちらのほうに住んでいたんですか。
最初に来たのが葛飾区の青棟ですね。
駅で行くと京成のお花じゃやの近くに住んでいたという状況ですね。
わりと江戸っ子というか下町という感じでいらっしゃいましたね。
小中も葛飾区のほうでいらっしゃったんですか。
その後、小学校の高学年から千葉県の市川市のほうに。
その他もずっと市川。
なるほど。
ほぼ東京という。
関東近辺に東京と千葉の。
小学校、中学校時代はどんなお子さんでいらっしゃったんですか。
そうですね。
私の小学校、中学校は何でもやりたがりじゃないんですけども、
例えば、生徒会の副会長をやったりとか、
あとは水泳部のキャプテンをやったりとか、
いろんな活発にいろいろと率先して、
あと、風紀委員の委員長とか、
そんなようなことを率先してやるような小中学校時代を思い出しますね。
じゃあ、わりと先生からも信頼され、生徒の皆さん方からも信頼される。
任されるタイプでしたからね。
素晴らしいですね。
高校も千葉県か東京のほうでいらっしゃいますか。
高校時代はどんなことをやられていらっしゃったんですか。
高校時代はどんなことをやられていらっしゃったんですか。
たまたまですね、最初は鉄道系の高校があるんですけども、
そこに運転手の運輸課というのがあって、
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運転手がいたいと思っていたけど、
父親が絶対ダメだと、お前長男だからって、
その時から次とは言わなかったんですけど、
そんなことニュアンスで、せっかく勉強していたので、
記念受験だけさせてほしいということで受けた。
記憶があったんですけど、
地元の県立高校に行けというのがありましたので、
その時、会社自体も大変だったでしょうね。
だから、公立行けってすごく言われていたので、
今考えるとそうかと思ったんですけど、
ということで、地元の公立高校を受けて受験したというのが。
なるほどですね。
ちょうど趣味のところというか、お好きなことで鉄道というのが出てくるんですか。
当時から鉄道はお好きだった。
そうですね、その時は運転手になるというだけなので、
ずっと中学はその学校の運輸課の受けを受かるという学位があったので、
そればっかり。
なるほど。
四国境の検定みたいなのがあったので、
ひたすらそれを勉強していたという記憶があります。
高校時代の県立の高校で、
何か部活とかそういうのをされていましたか。
そうですね。何をやろうかなと思っていたので、
たまたま1年生の担任が検討部の顧問だったので、
背が大きかったので、
何かやっていたのかというと、鉄道のほうばかりだったんですよ。
あまり鉄道のほうばかりだったんですよと言われていたので、
じゃあちょっと見学に来いということをそのままなしくずしですね。
剣道ですか。
剣道です。
随分水泳、鉄道、剣道と変わっていらっしゃるような感じがするんですが、
3年間剣道の厳しい高校でいらっしゃったんですか。
そうですね。国資館大学の初心の先生だったので、
本当に厳しく、また卒業して4、5年目くらい経ったので、
厚い先生で、ひどい目にあった記憶しか僕には得ないですね。
まさに高校の体育会系の学部みたいな感じですね。
まだピークのときですね。
その後、大学に御進学だと思ったんですが、大学はどちらでいらっしゃったんですか。
顧問の先生の御縁からそのまま剣道関係のほうに進ませていただいて。
大学でも剣道ですか。
そうですね。剣道ばっかりやっていた。
じゃあ本当に体育会員って感じでしたね。
そうですね。
その後、旅行会社に御就職というふうにお聞きされるんですけども、
何か旅行会社を当時選ばれた理由というのはあったんでしょうか。
結局ですね、鉄道関係だったので旅が好きでしたので、
結構いろいろと当時青春十八切符ってありましたので、
それで全国行っていたので、旅行会社だったらいいだろうということで、
金鶴さんを御就職させていただいたという形ですね。
なるほど。お父さんはその時は反対はされなかったんですか。
修行させてほしいという言い方をしていたので、
最初は違うところも取引先のほうにいろいろと話をつけていたらしいんですけど、
それぐらいそれはいいといろんな言葉を説明して、
同業か覚えてもさという話だから。
何かお父様の思いを今私が感じてもしょうがないんですけども、
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建設業か建築業かそれと大手のゼネコンかみたいな。
そうですね、やっと今で言うと国内の重機メーカー、大田。
そちらの社長さんと仲良かったみたいだったので、
すごいって話をつけていたみたいだったんですけど、
行かないですって。
なるほど。旅行会社は何年ぐらいお勤めになったんですか。
そこで3年ほど。
3年ぐらい。
1年目ぐらいから母親がちょんなんで、
お父さんはっきり言わないけど、
すいであげてっていうのはずっと言われていたのはあったので、
しょうがないなって。
これ以上言っても、楽しいし仕事は楽しくてしょうがなかったので、
休みは出張でテンツアーコンダクターの仕事がメインでしたから、
ほとんど休みなかったですけど楽しかったので、
ここまでやめられなくなるなというのがあったので。
その辞めるきっかけというかお戻りになるきっかけというのは、
お母さんに何度も言われたというお話がございましたけど、
ここぞというのがあったんですか。
当時から学生時代から今の家内とずっと付き合っていて、
そろそろ結婚をその日にしようかなと思って挨拶に行ったんですね。
そしたら田舎の方なんで、
お父さんもちょうなの方で家業を継いでいる方だったので、
家業を継がない人間は俺は信用しないと。
だから顔で直せって言って、えーという話になって。
一番のポイントはそこだったんですけどね。
その場で回答しろと言われて、諦めるのが家業を継がしていただきます。
すぐ辞めろと返してもらったというのもありました。
お父さんもお母さんも大変喜ばれたんじゃないですか。
そうですね。
銀のお父さんの一言には喜んではいましたけどね。
当初戻られた後はどんなお仕事をやったんですか。
当時そういう面では指導が厳しい父だったんで、
一からということで。
あと営業の方をやってほしいっていうので、新規事業ですね。
新規開拓ですね。
父がやった企業だけじゃなくて、一本聴取だったんでそこだけで。
そこで9割くらいの企業取引だったんで、
何かあったらまだ何か起きたらまずいだろうということで、
どこか新規開拓をしてくれということで、新規の方をひたすら。
なるほど。
当時の事業は今の事業とはそんなに変わらない。
一緒ですね。オフィス内装を中心としたインテリア空間の仕事をしていました。
お継ぎになるタイミングというのは何年ぐらいになったんですか。
そうですね。その業界にいて、私が35歳の時に、
経営者で体調悪かったなとは見受けられていたんですけど、
なかなか病院に行かず、これいい加減に行ったほうがいいよということで
検査入院をした時に、嫁3ヶ月ということを言われたり、
その後入院に99日後に亡くなったんで、そこから突然バトンタッチ。
まさに生前の霹靂みたいな。
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そうですね。
総研さんに入って10年経った。
8年か9年ぐらいでお継ぎになる。
もうちょっと後かなと思っていたんですけど。
事業証券の時に苦労とかはされなかったんですか。
バトンって後は父に、あんた亡くなるから引き継ぎしろと言えないじゃないですか。
先生は引き継ぎしろと言われたんですけど、
いや言えないでしょ、亡くなるっていうことで、
結局何も言わないまま99日後に亡くなった日に、
各先生方、顧問の弁護士の先生とか、税理士の先生とか、
そういう風になっている方々に、
僕役員は出なかったんで、営業課長だったんで、
とりあえずそのぐらいしか知らなかったんで、
連絡をしたら弁護士の先生が、先に言わなきゃいけないことがあるんだよねって言って、
とりあえず今日、まだ亡くなって数時間しか経ってないけど、
とりあえずすぐ会ってほしいということで、
会って説明するという時に、実はねって話をなったところで、
父は、他の兄弟、お姉さん、あなたにお姉さんがいるよっていうことで、
本当ですかっていう方からですね、
いろいろと家族の指示とか相続問題で、
約3回期までは相当な話し合いが何回も大騒ぎになってしまったっていうことがありますね。
なるほど。ご兄弟、知らないご兄弟がいらっしゃったって。
え、姉さんいるのって2人もってことで。
2人もいらっしゃった。
2人いらっしゃいましたね。
業績の方は当時はよろしかったんですか。
やっぱりまぶらき過ぎたあたりでしたから、
緩やかな下降戦のような状況のところでしたですね。
なるほど。会社の方のお次になるもん、
社長さんはそれぐらいのしっかりしたお父様でいらっしゃると、
急に早吉さんが社長というと、部下の方たちとか反発とかそういうのはなかったんですか。
そうですね。ただ2代目の状況の中で、あといないでしょう。
あと相当ですね、その1年くらい前に、
創業者の先代の父と、あと兄弟が、また親相同がありまして、
全員いなくなっちゃったんですね。
で、あと、もちろん息子しかいないだろうというようなタイミングでもあったのは確かですね。
だから親戚一同、兄弟みんないなくなっちゃったんで。
別会社を作って。
それがさっき言った緩やかな下降戦になってたっていうのはあったんですけどね。
お聞きしていると、あれは社長楽しそうにお話されていらっしゃいますが、
すごい大変だったんじゃないかというと。
そうですね。実質は、親戚たちで、おじさんたちでやってましたから、
それは客を取られるだろうしっていうのはありましたね。
それで今言った1本、唯一の父の繋がっている取引先しか残っていないというのもありましたね。
じゃあ、常席内ちょっと大変。
ただ、親戚の方は残っていらっしゃらなかったんで、すっと受け継がれた。
そこだけは、もう息子しかいない。金融機関、民間区さんもそうですけど、
息子さんでしょっていうような状態でしたね。
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万東さんも現場だけが得意だったんで、
あまり正直、経営者向きじゃないよねっていうことは周知も分かっていたんで、
もう継ぐしかないでしょっていうような、押し出されるような形ですね。
お継ぎになった後、その後、超有名IT企業たちや美術館、博物館など、
まあまあ有名な世界遺産とかにどんどん入っていらっしゃって施工されていらっしゃるんですが、
その辺が会社として改革がうまくいったとか、そういうことはあられたのかな?
そうですね。その後亡くなったのが2004年の8月でしたので、
その後ですね、やっぱり亡くなってみんなでこのままだとまずいよねと、
必死に仕事の先になっていこうというところの中で、
おかげさまでV字回復中にですね、2008年のリーマンショック。
僕ね、やっぱりあれが契機で急に戻ったから、勝手に僕もですね、
俺は天才だと、勝手な勘違いなんですね。
もう5年、6年、2005年、6年、7年、急になったじゃないですか。
なんだ俺やれるじゃんって30代後半ですよね。
勘違いやろうになってたんですよね。
そうしたところでの2008年のリーマンショックで、
急激にこんなに世の中仕事がなくなるのかっていうのが2009年。
特に金袋の業界は2009年の1月ぐらいから年明けてからひどい状況になって、
その時にもう一回鼻を折られて、
これ初めて潰れるんじゃないのっていう感じなのが2009年の出だしですね。
その時にもう一回みんなと勢いでやってしまったので、
もう一回先ほど言ったように、自分たちが仕事がないんだったら、
得意技をもう一回、強みですよね、を探そうっていうところで、
磁石工場持ってるよねとかそういう人の子で、
自分たちが仕事がないんだったら、得意技をもう一回探そうっていうところで、
磁石工場持ってるよねとかそういう人の子で、
さっき言ったマニアックな仕事を受けていく。
今ではオフィス空間だけやってたんですけども、
もうちょっと思考考え方変えようよっていうところで、
美術館の仕事をたまたまいろんなことでとりあえず営業活動しようじゃないかと、
いろんなところにした時に、そういえばうちはデザイナーの方とは直接取引、
その信用不安もあるじゃないですか。
お金入金とかどうやってもらうのかなっていうことがあったんで、
安定なところから仕事をもらっていたので、
それはリスクもあるけどやってみようということで、
結構有名な国立競技場でやっている設計の先生とか、
ああいうのをやみくもりにアタックをしてやっていく中で、
美術館の仕事をですね、
今の赤坂ミッドタウンに入っている飲料系の美術館なんですけども、
そこの仕事の話を参り込んできたんで、
やったことないけど受けてみようということで、
受けた時はですね、本当にけちょんけちょんに図面から、
もののことを基本的に考えたから、
もう何回も赤ペンでチェックされて、
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あれはいい思いで、でも必死に食らいついたおかげで、
じゃあ次に表参道のところにある有名な美術館、
東武系の美術館が作るっていうことだったんで、
じゃあそこもやってみろって話だったんで、
ぜひ挑戦させてくださいっていうところですね。
それのおかげでですね、いろんなところから美術館の仕事が、
関東近辺から少し離れた国宝とか重要文化財を扱うような、
神社、仏閣なところのそういうですね、宝物展ですね。
それとですね、いろんな一般公開しているもの以外にですね、
公開していないものの重要文化財ってたくさんあるんですね。
そこの倉庫っていう、収蔵庫ですね。
そこをやらないかっていうところで、
平津館にある初モデルランキングにベスト3に入っているところから
依頼が来たときにも、そういう収蔵庫をですね、
簡単に言うと木を燻製にする技術をそこでいろいろと指導していただいて、
そういうことであれこれやっているうちにですね、
だんだん知名度が上がってくると、そういう先生方はですね、
IT系の企業の方のデザイン依頼が来るようになってきたって、
そのご縁の紹介から、今で有名な方々がいますね、
ITのトップですね、世界に羽ばたくような方々から
ちょっとお話をいただいたという形ですね。
それのオフィス公開をやってくれないっていうところで。
今のお話をまとめると、一番最初に業績が上がったと下がったと、
急カウントで。
入れ替え食で下がったと、何か大変これは変えなきゃいけないって
まずは思われたっていうのが社長様のお話で。
そうですね。
それで強みを明確にして、その強みを使って、
まずデザイナーに営業したってことですね。
そのデザイナーたちの方々が美術館とかをやってらっしゃって、
やってみるかということで、一発目ロボンギの美術館。
そうですね。運が良くて、その仕事をいただいた先生が、
美術館で最初に日本人で初めての世界の美術館で賞を取ったんですね。
今ね、スカイツリーとか持っているHKの鉄道会社の
美術館なんですけども。
そのおかげでどこが成功したのかっていうのが結構知らわたったので、
本当に運が良かったかなっていうね。
そこに営業にしに行ったこともですね。
でもそれはやっぱりあるいは社長の営業力だと思います。素晴らしいですね。
急激に仕事がなかったんで、社員も工場もやるしかないねっていう。
これが忙しいときにあっても、そんな面倒くさい仕事をやれないってなってましたけど、
何よりかはいいですよねと。
ということで、うまく焚きつけられたのもありますね。
なるほど。大変勉強になります。ありがとうございます。
3分コンサルティング。
ウィズビズが社長の悩みを解決。
本日の3分コンサルティングは、Y社長様。
ファイナンシャルプランナーで従業員3名だそうです。
18:00
ファイナンシャルプランナーで従業員3名は素晴らしいですね。
本日は私は都内でファイナンシャルプランナーをしているYと申します。
先日会食で知人の経営者が自費で本の出版を行うことを伺いました。
自社のブランドイメージを高めて売上アップを目指すと扱っております。
将来出版できたらいいと考えていた私でしたが、
私も出版したいという考えに頼りました。
しかし、実施出版をしたところで本当に本が売れていくのか、
イメージがという、それが会社のためになるのか、改めて考えております。
そこでご相談なのですが、この気持ちが熱いうちに、
実施でも出版を行うべきなのか、それとも出版社にアップロードしたり、
接触を囲みて、従業出版を目指した方がいいのか、
アドバイスをいただきたい所存です。よろしくお願いいたします。
結論から申しますと、商業出版以外は私どもはお勧めはしません。
セミナーとかで実施出版のセミナーも一部やっておりますが、
勉強があったら見てほしいということでやらせていただいておりまして、
私どもは商業出版をすべきだと。
商業出版と実施出版の違いは何かと言いますと、
商業出版は出版社の会社さんが営業に本屋さんに行って並べてくれというのをやります。
実施出版は自分たちで本屋さんに行き、本を並べてくれというふうに言わなきゃいけない。
こういうことになります。その差は大半大きいですね。
商業出版になるということは、印刷代がかかりますので出版社はリスクがあります。
そうするとリスクを取るためには、絶対に近いぐらい売れる本じゃなきゃいけません。
絶対に売れるというのは1万冊は必ず売れる本ということになります。
そうすると1万冊以上売れる本になると、それなりのベストセラーに近づくということになりますので、
それなりに企画をちゃんと通さないといけないということなので、ここが一番大変なところかもしれません。
しかしながら、それが通るということは売れる確率も上がるということになります。
売れれば売れるほどファイアンシャープランナーとしての名が通ってきますので、
自分たちのビジネスにも戻ってくる可能性が高い、こういうことになってきますので、
できれば商業出版をお願いしたいなと思います。
私どものお客さんでも商業出版をし、年賞5億が十数億になり、
十数億が30億になりと、本を出すために年賞が売買になるようなお客さんもいらっしゃいます。
ぜひともそういうお客様のように商業出版をし、成功していっていただければなと思っております。
本日の3分コンサルティングはここまで。また来週。
最後までお聞きいただきまして誠にありがとうございました。
本日のポッドキャストはここまでになります。また来週。お楽しみに。
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