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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、松井忠三様でいらっしゃいます。
まずは、ご経歴をご紹介いたします。
1949年5月生まれ、静岡県ご出身で、大学卒業後、声優に募られ、
その後、1991年、良品計画に出向、取締役、常務取締役、専務取締役を担われ、
2001年に良品計画代表層の社長にご就任されている、有名な松井社長様でいらっしゃいます。
松井社長様が社長にご就任してから、かの有名な無実料品が急速に拡大し、成長し、成功していらっしゃるということでいらっしゃいます。
今現在は、良品計画名誉顧問でいらっしゃるということになります。
先日のセミナーを松井さんにお願いしまして、大変好評のうちに終わらせていただいております。
本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
それでは最初のご質問ですが、ご出身は静岡ですか。
そうですね。
静岡のどちらであったんでしょうか。
静岡は、昔は二代山町といいまして、今回世界遺産になりました、半社路というこれがある施設でして、現在は伊豆の国市といっておりまして、
ちょうど私は二代山町の出身です。
なるほど。小学校、中学校時代の幼少期というのはどんなお子様でいらっしゃったんですか。
私は農家の18代目なんで、そのころはどうもやっぱり田植えとかイネテカリとかそんなものを手伝った記憶がありまして、
いつも嫌だなと思いながら、そうは言っても借り出されるものですから、そんなことを手伝ってましたね。
中学からバレボールを始めたものですから、そこからほとんどバレー一筋という感じになるざるを得なくなりました。
そうでらっしゃいますね。じゃあ18代目ってすごい歴史のある農家でいらっしゃったんですね。
そうですね。長いですね。
昔でいう菜主さんとかそんな感じでいらっしゃったんですか。
いやそういうことではないんですが、自作農ということでずっと続いてますから、ちょうど私の息子が19代目で孫が生まれてますから、この孫が20代目と。
ただ農家はやることはきっとないと思いますね。
なるほど。高校時代はどんな時代をお過ごしになられたんですか。
高校時代もほとんどバレーボール一筋でした。
ちょうど我々の1世代上の頃には全国大会7連覇をやった学校だったんですね。
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ですから非常に練習は厳しかったと思います。
その中で過ごしてきましたもんですから、どちらかと言いますと教師になってチームを引いて国体インターネットに出たいなと。
こんなことで実は悔しの道を進んだんですが、ですからほとんど記憶に残っているのはもうバレーボールの活動ぐらいしかないですね。
そうですか。バレーの選手としてはポジションはアタッカーか何かですか。
そうですね。身長は177センチでそんなに大きくはないんですが、実はジャンプ力は結構あって、
走りたかった時は県大会に出たりしてましたから。
ですからパスケットボールのリングなんかはほとんど軽くダンクでバレーボールをシュートするぐらいのことはできましたね。
それはすごいですね。
その後、今の筑波大学の、それも体育学部なんで、運動が得意というかバレーボールが本当にお上手だったんで、そのまま筑波大学って書いてあったんですか。
そうですね。私が行ったときは東京教育大学というふうに行っていました。
教科は正直言うと何でもよかったんですけど、教師になって自分も国体に、教員チームですかね、すぐ出れますからね。
出てチームを引いてやはり国体には出たいなと。
こんなことがきっかけで実は進んだわけです。
そういわれていますか。じゃあ大学時代もバレーブールに属して、体育会計というやつでいらっしゃいました。
そうですね。
社会人のほうのバレーボールに住もうとは思われなかったんですか。
私は大学の1年生のときに2年生か、デモに参加して逮捕された経験があるんですね。
そうなんですか。
それで教師の道も自動的に駄目になって、一般社会人の道に入るということで、それで正義に入社をしているんですね。
ですからバレーボールで一生懸命食べていく程の、どうでしょうか、選手でもありませんでしたからね。
教師でやるぐらいのことしか考えてはいなかったですね。
そうですか。いわゆる安保闘争とか。
そうですね。ちょうど70年の。
70年代ですね。
善況と運動の盛んなころですね。
そうですか、そうですか。
ちょっと存じない面が現れたのでびっくりしましたが。
そうですか。
声優を選ばれた理由は何かあられたんですか。
そうですね。当時は流通革命というのが非常に盛んになっていましたね。
代役の中口さんが流通革命ということで先頭を走っていたんですね。
そんなこともあって大量採用してくれていたものですから、ちょうど私は頼力もあるんで、
たまたま受けた声優は、墨さんオーナーですね。
この方がそういう活動歴もあったということで、
たまたま面接をしていただいた人事課長も京都大学の全学年のリーダーでしたからね。
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そんなこともあって大らかに取っていただいた。
それで声優に進んだということですね。
なるほど、そういわれちゃいますか。
その後、順調にご出世されちゃいまして、出世のコツとかそういうのあられるんですか。
そんなことはなくて、私は声優に18年いましてね。
劉備に移って24年なんですけど、声優時代は私は結構人事部で長く過ごすんですけど、
70人ぐらいいたんでしょうかね、人事部にね。
ほとんど主流派にはいませんでしたね。
そうなんですね。
そういう意味では学術運動をやったりするんで、やっぱり半経緯みたいなのが結構あったんですね。
ですから、声優で課長になったのは41歳ですから、かなり遅かったですね。
で、劉備に出向するのもどちらかというと左遷人事ですね。
使いにくいということで。
それが多分きっかけだと思いますね。
いや、全く想像つかないですね。
そうですか。
今の松井様のセミナー聞いても、本を読んでも素晴らしいというか、大変勉強になるので。
左遷されたんですか。
そうですね。使いにくい社員だったと思いますよ。
ということは、どうしても主流派のいる人たちってやっぱり上を向いて仕事をするんですね。
ですから人事部にいても商品部だとか販売部の専務とか常務の要求にそのまま屈しちゃって人を動かすようなね。
こういうことをしてたんで、それは僕は決して良くないと思っていたんで。
そういう意味ではSE時代はどちらかというとほとんど主流派にはいなかったと。そういうことだと思います。
そうですか。ちょっとびっくりするお話ですが。
良品計画ご出向されるとき、今左遷というお話がございましたが、お気持ち的には嫌だなとかそういうのはあられたんですか。
そうですね。さすがに18年入っていましたね。
私は正確的にあんまり転職をするという価値観はなく生きてきました。
結果的に製油と良品でほぼさらに今人生を終わっているわけですから。
そういう意味では社名ではありますが、寂しいというのがまず最初に聞きました。
ただそのときに人間模様は非常によく見えましたね。
これで片道切符ですから、ほぼこれで全て終わりだろう。
そうするとどうでしょうかね。
手のひらを返すような対応する人と、そうではない人と2つに分かれるんですね。
これはものすごく勉強になりましたね。
どういうタイプが手のひら返すと言いますか、そういう感じになられるんですかね。
そうですね。どうでしょうかね。
比較的自分にとって得になるかどうかと、こういう付き合いをしている人は多分そうなりますね。
ただやっぱり本質的に付き合っていくっていう人はそういうことはないですね。
なるほど。どうでしょうか。
でも良品計画払うというか、まさにトントン拍子ということが正しいのかわかりましたか。
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当時声優1兆円を超える売上げで、無印は行ったとき245億円ですね。40分の1で。
通常ですと声優の課長ですから、世に行けば最低でも部長っていうくらいになるんですね。
でもやっぱり同じ課長なんですよ。そういう人事だったんですね。
でも小さな会社でしたから、やっぱり実績を上げなきゃいけないっていうのが一番ですね。
それはわりかしできたと思うんですね。
だから1年で実は部長にしてくれたんです。
その翌年に実は取締役にしてくれたんですね。
だから良品に行ってからはものすごいスピード出場しましたね。
ご経歴見ていると1,2年でどんどん上がっていく感じで出られちゃって、すごいんで。
それはやっぱり実績を出された。
そうですね。どうしようかね。
あんまり募金をうかがいをしてステップアップしていく人たちが非常に多かった声優は会社だったんでね。
僕はそれと正反対だったんで。やっぱりここで腐っててもしょうがないんで。
やっぱりちゃんと実績を残すっていうことが自分の生き方そのものでしたんで。
そこは結構頑張ったというふうに思うんですね。
一番最初の課長様で洋品計画側に入った時は立場的には何の役割を?
総務人事部長ですね。
なるほど。採用をうまくやられたとかそういう感じでしたか?
そうですね。いわゆる転職って業務がありましたね。
人事制度を作って自前の社員を採用して労働組合を作ると。
こんなことがミッションでいくわけですね。
転職そのものは1年で終わったんです。
ただ転職って業務は結構なかなか大変でした。
声優と洋品計画の労働組合の人たちの面接が1人1人全部あるんですね。
行くか行かないか。
結論から申し上げると関西から来た人はほぼ全員声優に戻った。
したがって翌年の採用人員は50名採用しましたからね。
実に4分の1が新入社員でやらなきゃいけない。
こういう会社になったんですね。
なるほど。
言いとこ通りにすると移行原資は膨らんでしまうので、
あのときに1億円くらいかかったんですよ。
言いとこ通りにすると。
それとも経営にならないんで。
実際は50万円ですから、移行原資なしで実は転職っていう業務をやったんですね。
その代わりちょっと初級5年くらいの間でこれを吸収するみたいなことになるんですけど。
多分そんなことが一番大きなきっかけだったと思いますね。
部長になられてからも人事関係で。
そうですね。部長も人事、総務人事でそのままやりました。
その後、常務、専務となられたんですか。
常務、専務になると言うと範囲が広がって。
そうですね。常務になる前に総務人事の取締役から営業本部長って仕事。
これは一番範囲が広くて、社員も8割くらいは。
ここにいましたんで、そこをやって、その後常務は物流の部長です。
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専務は今で言うネット販売とかね。
インターネットに入っていく。
そこの会社を作りましたからね。
そこの社長をやったりというのがその専務時代ですね。
じゃあ、ある意味部長になれた以降、
いろんな分野を経験されるみたいな感じでしょうか。
そうですね。
それまではほとんど人事一筋で来たんですけど、
そこから先はいろんな分野を、結構山のようにやりましたね。
なるほど。部長になられたのが、おいくつのときっていらっしゃいますか。
部長のときがですね、43です。
なるほど。じゃあ44以降ぐらいが、いろんな分野をやり始めたんですね。
はい。
44が取締役になった年で、
ようやく取締役になったと思ったら、
営業本部長の移動でしたからね。
厳しいな、これでそろそろ終わりかなというぐらい激しく動いた。
それ以降はですね。
でもその営業本部長としても成果を出されたんで、
常務部長の専務となっているわけですね。
そうですね。営業本部長の頃は、私の実力というよりは、
見方上がりでしたからね。
毎年3割ぐらいの増収増益を続けていましたから、
私も予算を落とすということは全くなくやってきたんですけどね。
いや、素晴らしいですね。なるほど。
その後、良品計画の代表との社長に2002年に入っていらっしゃるわけですが、
社長を後退されるというのは何かきっかけがあるんですか。
良品計画は2000年にですね、
初めて現役という経験をするんですね。
ですからその時に、2000年のですね、
2月の末の株価って17,350円、ものすごいパーでもある。
その時にやっぱり現役になりましたからね。
株価は1か6分の1になって、1750円まで落ちるんですね。
まあ、そんなこともあったんですけどね。
その時期にですね、
株価は1か6分の1になって、1750円まで落ちるんですね。
その時期もあって、私の前の2代目の社長が急遽辞めてしまったんですね。
それで急遽社長になるというのがですね、きっかけですからね。
社長になるつもりも全くありませんし、
なんか晴天の平気的みたいに突然社長という事例が降りてきたんですからね。
正直言うとちょっと一番重い荷物が来たというのは当時の率直な感想ですね。
社長はちょっとご抵抗というか、嫌だって断るとかそんなことは?
それは断れませんでしたね。
もう言われた以上、やっぱり受けざるを得ないんで。
まあ、それはしょうがないんで、すぐ受けるという返事をしましたけど。
それから1週間後が記者会見でしたからね。
記者会見でちょっと気の利いたことは全く言えなかったですね。
なるほど。
その後社長に就任されて、改革を断固して、今のいわゆる無事実労省の基礎、
位置づえを築かれていらっしゃるんですが、いろんな苦労があられるんじゃないかと思いますが、
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どんな苦労があられたのかなというのを聞きたいなと。
そうですね、いろんなことがあって、あの時は生存グループが亡くなる前だもんですから、
その原資がファミリーマートの株と流品計画の株だったんですね。
したがって高株制作というのを取らざるを得なかった。
したがって成長性を上げなきゃいけませんから、国内外は通常の年の10倍ぐらいの出展をする。
これがだから見事に失敗をしていくわけですね。
したがって赤字のお店と海外もものすごい赤字を叩き出しましたからね。
こいつをとにかくリストラをしなきゃいけない。
フランスだけはしょうがないので地位の整理もやらざるを得ない。
こんなことに追い込まれるんですね。
在庫が山のようにありましたから、当時で38億の原価、
100億の在庫を燃やすという処分をするとかですね。
あるいは品質が非常に厳しかったですから、
結構品質でものすごいクレームが来る。
したがって品質を直さなきゃいけない。
そんなことを出血をどんどん止めるというのが当時1年でやった内容ですね。
いっぱい過ぎてすごい大変な1年でいらっしゃったんじゃないかなと思った。
社長を就任された1年目の案というのはほとんど家に帰れないとかそんな感じだったんですか。
そうですね。半年間休みなしでやろうと思ったので半年間本当に休みなしでやりましたね。
逆にそれぐらいやらないともう改革できないというか。
そうですね。やってもうまくいくかどうかわからないですね。
だからやっぱり1年ぐらいは本当に先に明かりが見えない日々が続くわけですね。
やっていることが復活に結びつくかどうかもわからない。
結論から言うとリストラで会社が立ち直ることもないということに後は気づくんですけど、
当時は1年ぐらいほとんどリストラばっかりですね。
2年目ぐらいになると少し先のことを見ていかないと対応がリストラでは立て直せないということにだんだん気づいてきますから。
そんな手を2年目以降は少しずつ打っていく。こんなことでしたね。
3分コンサルティング。ウィズビズが社長の悩みを解決。
本日の3分コンサルティングはM社様です。
賞金1,000万円、年賞2億円、従業員数8名のメーカーさんでいらっしゃいます。
弊社は昭和後35年から創業しており、ビニール関連の商品を製作しております。
最近ではスマホ関連のスマホ周辺のアクセサリーを企業様がご要望いただき作成することが増えています。
取り先は昔からの付き合いのあるお客さんがメインでした。
近年、徐々にお客さんが少なくなってきているという状況です。
新規取引開拓の中でウェブサイトを立ち上げましたが、問い合わせはほとんどありません。
家族系で人手も少なく、平等で手一杯な状態ですので、専念の端緒とつけることはできない状況です。
このような方法の中でウェブ集客を増やす方法はありますでしょうかということで。
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前もこのようなお話をご相談いただいたような気がするんですが、
私どもウィズビズというのもサイトで運営をしてまして、
検索キーワードで1位に上っているものが8つぐらいありますでしょうか。
うちですとビジネスマッチングというキーワードで大体1位か2位になりまして、
2位の時に1位になっているのは東京三菱UFJ銀行さんということで、
実は東京三菱USJ銀行さんとビジネスマッチングというキーワードでは争っているという関係でございます。
どうやってその順位を上げていくかというような話でございますが、
実はやっぱりこの時代はコンテンツマーケティングの時代だというふうに言われています。
コンテンツというのはどういうことかといいますと、いろんな記事ですね。
御社だったらビニール関連の記事をあれやこれや、もしくはスマホ関連のアクセサリーの記事をあれやこれやというふうに出すことで読ませてきたり、
逆に言えば文字が通話が多くなっていったりすることでだんだん順位が上がってくると、
こういうことをしていくべきだというのが今ウェブ関連のコンサルタントの皆さん方はよくお話しされます。
私どものところにもよく営業マン、SO対策の営業マンたちが込まれると、私どももいろんなコンテンツを挙げています。
徴礼ネタ、徴礼ネタというものも挙げていますし、ニュービジネスな話なんかも挙げておりますが、
そういうお話をSO対策の営業マンたちにすると、
ウィズウィズさんほどしっかりやっている会社さんは珍しいというようなお話をいただくようになっています。
そういう意味でコンテンツをどんどん挙げることが必要なのではないかなと。
コンサルタントの先生たちからすると、例えば200記事ぐらい挙げて6ヶ月後が順位が上がり始めるとか、
そんな話もよくいただきます。
そういう意味で毎日毎日コツコツとコンテンツを一つない、二つない、
三つないに挙げていくということも重要なのではないかと思います。
そういう関連での資料やセミナーも私もよくやっておりますので、
ぜひご参考にしていただければと思います。
本日の3分コンサルティングはここまで。
最後までお聞きいただきまして誠にありがとうございました。
本日のポッドキャストはここまでになります。
働いてお楽しみに。