00:05
社長に聞くinWizBiz
本日の社長に聞くinWizBizは、サイジニア株式会社代表取締役社長 山崎則之様でいらっしゃいます。まずは経歴の方をご紹介させていただきます。
1995年、デジタルテクノロジー株式会社に入社。その後、株式会社アスキーに入社。ソニーコミュニケーションネットワーク株式会社に入社。その後、株式会社オンラインその後のライブドアでいらっしゃいますね。
そちらに入社し、その後取締役、代表取締役になられていらっしゃいます。その後、データ株式会社を創業され、代表取締役に御就任になさっていらっしゃいます。
その後、サイジニア株式会社取締役社長代表取締役社長に御就任になさっていらっしゃいます。
サイジニア株式会社とは、東証グロース市場上場の上場企業の社長様でいらっしゃいます。山崎社長様、本日はよろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いします。
まず最初のご質問でした。ご出身はどちらでいらっしゃいますでしょうか?
僕は長野県ですね。長野県の作市というところです。
なるほど。作長生の作ですね。
そうですね。妹が作長生です。
そうですね。長距離走とかが早い。
そうですね。
小学校時代はどんな少年でいらっしゃいましたでしょうか?
小学校時代は若干成績が良かったぐらいで、あんまり飛び抜けて何がどうという感じでもなかったですかね。
田舎のほうで今と違って競争が激しいような時代でも地域でもないので、少し成績が良かったぐらいで普通の子供という感じです。
じゃあ、わりと目立つほうでもなく、ガキ大層でもなく。
そうですね。どっちかというと大人しいほうだったと思います。
なるほど。ありがとうございます。
中学時代はどんなことをして過ごしたかと思いますか。
中学も基本的には4つの小学校から自動的に進学するタイプの中学校だったので、小学校の延長みたいなイメージですね。
1学年での人数が増えただけという感じです。
どんなことをして過ごしたかというと中学時代はどうでしたか。
中学もあんまり普通に勉強は楽しかったので、英語の先生と馬があって県の英語のスピーチ大会に出たりとかそういうことはしてましたけど、それ以外はあんまり部活もやってなかったですし、小学校と同じで大人しい子供という感じです。
なるほど。ありがとうございます。高校も佐久とか長野?
高校は野沢北という新学校で、当時東京の大学に進学する高校というと基本的にその高校しかなかったので、今は佐久町生もそういうふうになってきてますけど、当時は野沢北に行く以外に東京の大学に進学するパスはほぼなかったので、普通に受験をして合格して進学した。
03:04
なので、小中は地域でということで同学年の生徒が決まっていて、高校はその中で受験をして合格した人が集まっているという形ですね。
なるほど。じゃあ成績もよろしかったじゃないですか。
そうですね。僕は個人的に不思議なのは、どこにいても割と同じぐらいの偏差値というか、上からちょっとぐらいの部分になぜかいるっていうのが、これは自分でもわからないんですけど、そういうタイプですね。
中学でも学年で1位にはなれず10番ぐらい、で、高校行ったらそういう受験を受けた人が集まってくるんで、普通は相対的に下がっていくと思うんですけど、高校でも学年で10番ぐらいみたいな、そんな感じでした。
じゃあ頭はでも良い側という感じがしますね。
どうなんでしょうね。自分ではちょっとわかんないですね。勉強するのは好きだったっていうのはそうですけども。
なるほど。高校時代はどんなことをしていましたか?
高校はそういう感じで、ある意味進学を目指すっていう人たちが集まってきている感じだったので、長中に比べるとやっぱり勉強とかに関する話題の方が多かったのと、
そうですね。小中よりは高校の方が若干友達関係とかに少し積極的だったかなって。趣味とかもみんな持ち始める頃なので、この趣味でつながっている友達とか、また違う趣味でつながっている友達みたいな、いわゆる今で言うソーシャルネットワークみたいなのが小中よりはあったかなという感じですね。
なるほど。ありがとうございます。大学はその後どちらにお勧めでしたか?
大学は現金時に合格したのが、進学した青山学院と学習院だったんですけれども、高校の担当の先生にどっちに行くといいと思いますかって聞いたら、青山学院の方がいいんじゃないっていう感じだったので、じゃあそうしようかと。そこまで深く検討せずに青山学院に進学したっていう感じです。
青山学院とか、やっぱり頭もよろしいんですが、青山学院大学時代の思い出とか、やったこととか、過ごしたこととか。
でもね、勉強ですよ。勉強ばっかりしてましたね。僕は基本的には立系に進学したので、電気電子工学科ってところに進学したんで、その専門の授業に関しては多分一個も欠席せずに出席していて、
基本的には受験受けた単位は全部合格していて、かつ評価も高くて、確か4年生の時に専門分野だけで成績を順番並べると1位だったんですよね。
ただ、一般教養っていう専門じゃないところは、ちょっと正直モチベーションが湧かなくて、ただどうしても16単位取らなきゃいけないということで、それは個人的には気乗りせずに受けていたんですけれども、専門分野はそれがやりたくていったんで、
基本的に一番最前列で授業を受けてて、勉強して、テスト受けて、いい成績取ってみたいな感じでしたね。
06:08
じゃあ優等生みたいな感じでいらっしゃいますか。
でも好きでやってたんで、やりたいことをやってたっていう感じですよね。
なるほど。ありがとうございます。その後、新卒でこのデジタルテクノロジーさんで。
そうですね。僕が入った研究室は、これはたまたま知っててやったわけじゃなくて、たまたまなんですけど、この教授の授業は面白いなということで選んだ教授の研究室が、話者認識っていう誰がしゃべっているのかを分析するっていう、今のAIの走りみたいなことをやってたんですけど、
非常に計算機の能力が膨大に必要な研究室だったので、電気電子工学科の研究室の中でも、ずば抜けてコンピューターがいっぱいある研究室で、一人一台UNIXワークステーションが与えられているってところで、そこから興味が、もともとそういう風利変換とかそういうのをやりたくていったんですけど、
どちらかというと興味がUNIXとかインターネットのほうに移っていって、当時は経営期は94年だったので、まだインターネットって日本にほぼ来ていなくて、でも大学は、当時は大学のほうが先に来てたんですよね。だから、Eメールしたりとか、そういう環境が数少ない揃っている環境で、しかも一人一台ずつUNIXを与えられてたんで、そっちの興味が結構強くなって、就職活動のときに、僕の1年上までは全部推薦で就職できたんですけど、
僕がいわゆる氷河期世代1期生で、僕の世代から全員推薦というわけにはいかなくなったっていう話で、たださっき言ったように、成績が1位だったんで、僕から推薦は選べるっていう状況だったんですけど、ちょっと見た感じで、行きたいなと思う会社がなかったので、自分で就職活動しようかなと思って、何社か回って行くたびに、御社はインターネットっていうのはどう取り組まれる予定ですかって聞いてたんですけど、ほとんどの会社が、
インターネット、あれは遊びのものだからとか、どうなるかもわからないし、もしかしたら将来やるかもしれないけど、今はあんまりそういうビジネスの対象じゃないですねみたいな、今から聞いたら何言ってんのみたいな感じの会社さんばっかりだったんですけど、この会社だけがインターネットにすごい力を入れていて、確か東大とか数少ない、新卒取ってなかったんで、就職先にはならなかったんですけど、
IIGAとか東大に、たくさん機器を下ろしている、インターネット数少なく手がけている会社がここしかなかったんですよね。行って、第一志望で行ったら、真っ先にそこが内定出たんで、じゃあってことでそこにパッと行って、就職活動だからすごく短く終わったんですけど、大学の研究も割と早めに終わってたんで、
もう10月ぐらいからちょっと前倒しで、今で言うインターンみたいな感じで、アルバイトで先にそこに行って、仕事を覚えながらやってたみたいな感じでしたね。
山添社長様、最初から先見の目が現れる、そんな感じじゃないですか。
09:02
でもやって面白かったですからね。先見の目とまでは言わないですけど、こんな面白い可能性も高いものをなんでみんな遊びだからやらないとか言うんだろうっていうのはありましたけどね。
なるほど。今のインターネット時代からすると先駆者中の先駆者っていう感じでした。
タイミング的にはたまたまそうですね。ただ先見の目があったっていうよりは、たまたま教授が好きで入った研究室がUnixが豊富にあったっていう、ラッキー的な面もあるのは事実かなと思います。
なるほど。ありがとうございます。デジタルテクノロジー社での思い出なんてございますでしょうか。
僕、エンジニアとして採用されたんですよ。確か同期が7人総合職がいて、事務職が2名だったと思うんですけど、その7人の中でエンジニアが僕入れて4名、営業が3名で、エンジニアの中でも僕が一番Unixとか当時入社の時点では詳しかったと思うんですけど、
それが入社前懇親会みたいなお食事の席で、2時間ぐらい右に社長が座って左に会長が座って、君は営業のほうがいいと思うよってことをずっと2時間説得されて、いやいやです、僕は技術がやりたいんでエンジニアでって断ってたんですけど、2時間ぐらいの最後の最後のほうで、でもそういうふうに言われてるうちが花だと思うよみたいなこと言われたんで、分かりました、じゃあ営業やりますって言って営業になったら、
その社長に先見の目があったのか、1年目からトップセールスみたいな感じで、当然インターネットなんで技術に詳しい営業からみんな買ってくれるっていうのはあったから、それは確かに会社の判断は正しかった。ただ自分としては技術がやりたくて入って、技術力もあると思ってたのに営業に配属されたので、どうしても同期で入ったエンジニアたちのほうが技術力的に先を行くっていう状況が日に日に濃くなってきて、
アルバイト時代に2年しかいなかったんですけど、転職したっていう感じですね。
なるほど、ありがとうございます。アスキーを選ばれた理由は何かございますか?
アスキーもお客さんだったんですけど、ここに大変優秀な技術者の方がいらして、その人に憧れてこういう技術者になりたいなと思って、面接応募して採用してもらったんですけど、
それが入ってから3ヶ月ぐらいその人が独立するんだってやめてしまって、その人を目当てで入ったんですけど、あれっていう感じで、しかも配属されたのが当時アスキーって3つプロバイダーやってたんですけど、
一つがASCII AIXっていう、わりとそのアスキーの中で花形のいいプロバイダーで、僕はアスキーインターネットフリーでできたばっかりのハイパーネットっていう板倉さんっていう人がやっていた会社と組んである無料プロバイダー、
多分日本初の無料プロバイダーができたばっかりで人がいないってことで配属されて、あとはアスキーネットっていうパソコン通信の3つがあったんですけど、
僕が憧れて入ったエンジニアの人はもともとアスキーネットのパソコン通信のほうのメインのエンジニアで、かつインターネットフリーへの面倒を見てるって人だったんですけど、いなくなってしまって、
12:04
しかもハイパーネットって会社が僕が入社して1年ぐらいで倒産してしまって、そもそもその事業自体が続けられなくなったんで、アスキーには11ヶ月ぐらいしかいられなかったっていう感じですね。
なるほど。アスキーの何か思い出とかございますか?
もう大変でしたよ、エンジニアいなくて、エンジニア僕ぐらいしかいなくて、それを仕切ってくれたパソコン通信側の優秀なエンジニアの人がいなくなってしまって、もう自分でやるしかないみたいな感じで、
エンジニアとしてはまだひよこの駆け出しも駆け出しなんで、結構使ってる機器がトラブルが起こりまくる機器で、
週に2回か3回夜中に起こされてトラブルですって言って現地に行って対応してみたいなのをずっとやってて、
一応上司は形状いたんで、上司に僕がまだまだ1年生のエンジニアなんだから上司の方でたまにやってくださいって言ったら、いや僕は分かんないから任せるみたいな感じで非常にいい加減な上司で、
もうだからね、必死に走ってたって感じでしたね。
なるほど、ありがとうございます。
その後、ソニーコミュニケーションネットワーク株式会社に応通になってらっしゃるんですか?
今からハイパネットが倒産して事業自体がなくなるのでも転職するしかないっていう感じで、
IIJとソネットに転職活動したんですけど、IIJは最終面接で当時の会長の人と喧嘩したんで不採用になって、
ソネットはその時、それまではソニーからの出向の人だけで占められてて、プロパワーも採用しようって、僕プロパワー1期生だったんですよね。
そこで運良く同期だから7、8人いたんですけど採用されて、
でも後から採用担当の女性のリーダーの人に、君は絶対落ちると思ってたんだけどみたいに言われたんですけど、
幸い採用してもらえて、そこでエンジニアとして2社目の活動を始めたっていう感じですね。
なるほど、こちらでの思い出なんてございますでしょうか?
ここもですね、そこは僕が配属されたのがサーバーチームっていういわゆるサーバーユニックスとか、
それやりたかったんで、それはもう歓迎なんですけど、見てるチームがあったんですけど、
そこにも非常に優秀なエンジニアの人がいたんですよね、東高大出身で、
もうユニックスのことにすごい詳しいっていう。
ただその人が、僕が入社したら会社に来なくなっちゃって、
なんかもう回ると思うからって言って、毎日毎日会社に来ないみたいな感じで、
当時はそんなんでもよかったんだみたいな感じだったんですけど、
だからまた、アスキーの時よりは1年間鍛えられてたと、
あとその人は来ないだけで相談すれば答えてくれたんで、自分でやらないってだけで、
だからアスキー時代よりは必死さはまだあれでしたけど、
ただソネットがすごい急成長してる時期だったので、
忙しさで言ったらアスキーの時よりソネットのほうが忙しかったなって感じでしたけど、
自分のエンジニアとしての成長は感じつつ楽しく頑張ってたっていう感じですかね。
なるほど、ありがとうございます。
その後、株式会社オンザエッジにご入社なさってるんですが、
こちらの経緯はどんな感じでいらっしゃいますか。
15:01
これはですね、僕がソネットで、確か僕が入社した時は100万人ぐらいで、会員が。
辞めた時が4、500万人ぐらいだったと思うんですけど、
最初100万人前というのは割と小ぶりなシステムが組まれてたのが、
もうこれじゃ耐えられないってことで、片っ端から作り直していったんですね。
一応2年ぐらいかかって全部作り直して、もうこれで一安心だってなったら、
ちょっと僕的には、個人向けデータセンタービジネスがやりたいですねっていう相談を会社にしたけど、
会社のジェネラルマネージャーの回答としては、今は個人向けしかやる予定はないってことで、
別にそれが不満とかではないんですが、
当時はリングサーバーネットワークっていう日本にプロバイダーもそんなになかった頃なので、
各ISPのプロバイダーのキーエンジニアが集う飲み会みたいなのがあって、
それに僕も参加してたんですけど、そこで飲み会の場で、
ちょっとそんな感じでデータセンターに今興味があるんですよみたいな話をしたら、
オンザエッジから当時のCTOの人が来ていて、
やったらうち上場してデータセンター始めたばっかりなんで、
ぜひ来てみたいな話をされて、ソネットのGMに相談したら別に反対もしなかったので、
それもいいと思うって感じだったので、じゃあ行きますってことで転職したっていう感じですね。
なるほど。その後、代表取締役になっていらっしゃるんですが、
オンザエッジライブダウンの思い出なんてございますでしょうか。
これも大変でしたよ。ちょっとあんまり人のこと悪く言うのはあれですけど、
僕にぜひ来てって言ってくれた前任のCTOの人が、プログラムとかはすごい優秀な人だったんですけど、
サーバーとかネットワークはそこまで商用向けの知識、経験がある人じゃなかったんで、
わりと家庭用のネットワークを拡大した感じで始めてたんですけど、
サービスとしては始まってて、ネットワークとしてはソネットのほうが全然上というか、
大規模向けのしっかりしたものを作ってたんで、これだと全然持たないよと思って、
また作り変えなきゃと思ったんですけど、稼働しちゃってるんで、ちょっとお客さんもいたんで、
止めないようにいろいろなものを作り変えて、本当その徹夜徹夜の連続で、
最初の3ヶ月ぐらいはほぼ家に帰ってなかったですけれども、
ネットワークもこれじゃ落ちたら終わりだし、IPアドレスもこれだったらお客さん増えたときに対応できないし、
みたいな感じで、もう本当片っ端からまた作り直していったって感じでしたね。
そんなことやってたら、なぜか1年半後ぐらいに取締役に占任されて、
そのとき全取締役がほぼ入れ替わったんですけど、堀江さんと宮内さんが全部入れ替わったんですけど、
そのときエンジニアからの取締役、営業からの取締役、ディレクターからの取締役、
その部門ごとの占任者が選ばれて取締役メンバーが決まったみたいな感じで、
僕はエンジニア出身の取締役っていう感じで、結構完全分業体制みたいな感じだったんで。
なるほど。堀江さんとそこでいわゆる堀山さんであって、その辺でやりとりで思い出なんてございましたか?
18:00
そうですね。僕のが1個上で、都市が1個しか違わないっていうのもあって、
世代が同じっていうのもあったんですけど、やっぱりすごい頭が良くて、
やっぱり意見が違える。だいたい8割ぐらい意見一致するんですけど、
たまに意見がぶつかることもあって、喧嘩になると。堀江さんってすごい記憶力がいいんですよね。
だから記憶力で負けて、ロジックでは勝ってる気がするんだけど、
記憶力で持ち出されるエビデンスの量で負けるっていうパターンが結構多くて、
やっぱり優秀だね、この人はみたいな。あとは結構仕事へのモチベーションが高くて、みたいな感じでしたかね。
なるほど。ありがとうございます。ライブドアで代表取締役になられたんですが、
いわゆるライブドア事件の頃だったんですか?
僕もライブドアでデータセンターの作り直しも2年ぐらいでまた一段落して、
これはもう任せても大丈夫だって状態になって、さあ次何やろうってときに、
これは堀江さんが日本の電話システムは利権の塊で良くないみたいな話をしていて、
じゃあ僕がちょっと調べてみますと、IP電話に調べ始めたら、これは面白いなと思って、
結構のめり込んでいったんですけど、そしたら日本の当時のIP電話、ボイスオーバーIPって言われるところは、
結構大手が過剰していて、技術とかが全く表に出てこない。高い技術は持ってたんですけど、
NTTさんとか大きい電機さんとかNECさんとか持ってたんですけど、表には出してこないので、
あんま触れる情報がなくて、世界でどこにあるとしたらそれもシリコンバレーにしかなかったので、
もうちょっとこれは会社を辞めて、シリコンバレーで起業しようと思って言ったら、
ちょっとエンジニア担当の役員がいなくなるのは困るので、
非常勤でいいからそこだけ残っていてほしいってことで分かりましたって残って、
アメリカに渡ってボイスオーバーIPの会社を起業しつつ、非常勤で取締役にはリモートで出てたんですけど、
そしたら急に野球の球団買うとか、日本放送買うとか、僕が日本にいるときはすごい地味な会社で、
オフィスも渋谷にあったし、テクノロジーの会社って感じだったんですけど、
アメリカに行った途端に、行くと僕が同時に確か六本木ヒルズに移転したんですよね。
僕がアメリカに行ったときと会社が六本木ヒルズに行ったときが全く同じで、
行ったら急に日本で有名な会社になっちゃって、アメリカの友達にこれお前の会社だろうみたいなこと言われて、
向こうにベイスポっていう日本人向けの新聞があるんですけど、
そこが毎週毎週週1の新聞なんですけど、毎週毎週ライブなどの記事で盛り上がってて、
これ君の会社だよねみたいな感じで、いや俺も全然実感がないんだけどみたいな、
僕は取締役としてはエンジニア目線でそのシステムはちょっと良くないと思うとか、
その発注はあんまり高すぎると思うとかそういうことを言ってるだけだったんですけど、
なんかちょっと不思議な感じで見てましたね。
なるほど。代表取締役にならざるを得ない感じでいらっしゃいましたですか?
そうですね。ライブドア事件があった時も僕はアメリカで、
じいさんがあるんで朝だったんですけど寝てたら会社からの連絡じゃなくて、
友達から日本の友達から電話がかかってきて、なんか会社が大変なことになってるよみたいな感じで、
21:03
テレビも見れないんでネットニュース見たらネットニューストップに出てて、
それからしてでも会社から何の情報も来ないので連絡も来ないんで、
しょうがないからってどんな感じだなって普通の一般の人と同じ情報量で見てたら、
だんだん大事になってきて、これはちょっと1回帰らなければと思って日本に帰国したら、
もし堀井さんが逮捕された場合には次の代表取締役は熊谷さん、
もし熊谷さんが万が一逮捕されたら次の代表取締役は僕っていうところまで決議されて、
そしたら堀井さんが逮捕されて熊谷さんが逮捕されたんで、
事前に決めてあった順序で僕が代表取締役になったっていう形ですよね。
その後はアメリカのほうの会社はどうなったんですか。
だから1週間おきに行ったり来たりしてたんですよね、日本とアメリカを。
ただもうこうなった以上はしょうがないんで畳もうと思って、
だから向こうに帰って畳む作業をしつつ、また日本に戻ってきてみたいなのをやってたって感じですね。
ちょっとすごい大変なお話をお聞きして。
人生だから大変なことばっかりでした。
山崎社長様だからこそできたっていうこと。
そんなことはないと思うんですよ。僕よりもっと大変な経験をした人っていうのはうじゃうじゃいると思いますけど。
いや素晴らしいですけども。
本日も社長に聞くinWizBizをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもWizBizが運営するウェブサイト、経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社系に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に聞くinWizBizはここまで。
また来週。