【今月のゲスト】
株式会社STRUQTURE代表取締役 金子智彦さん、株式会社ゴンウェブイノベーションズ代表取締役 権成俊さん
【今回のトークテーマ】
・「経営をやりたいなら数字に強くなれ。」経理のお仕事を続けられた理由。
・「3年経ったら辞めます。」ソフトバンクへの入社面接にて宣言した背景とは?
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サマリー
このエピソードでは、金子智彦さんと権成俊さんがそれぞれの事業背景や経験について語っています。特に、彼らは事業承継や経営コンサルタントの視点から話題を展開しています。また、彼らの著書『未来をつくる事業生計』への反響やその重要性についても触れています。また、金子さんと権さんはソフトバンクでの経験についても述べており、特にキャリアの中で独立への道をどのように意識したかが焦点となっています。彼らはソフトバンクの戦略から得た重要な教訓や経験を共有しています。
ゲストの紹介と本の背景
飛鳥山の窓から、TOKYO NORTH MOVEMENT。
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。
情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT飛鳥山の窓から、パーソナリティーを務める小篠光洋です。
今、私がいる場所は、大地飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに、北区内外の多彩な企業家、経営者を招きして、グラスを傾けながらじっくり楽しくお話しする。そんな雰囲気でお送りしたいと思います。
今月のゲストは、お二人をお迎えしております。
株式会社ストラクチャー代表取締役の金子智彦さん。そして、株式会社ゴンウェブイノベーションズ代表取締役、ゴン成利さんでいらっしゃいます。どうぞよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
さてですね、今日お二人をお迎えしたのは、私の今手元にあるんですけれども、未来をつくる事業生計という、今ですね、私たちのような中小企業には、喫緊の課題の事業生計について、
僕はこれ一読して、画期的な本だというふうに思いましたけれども、これをお二人が共同で表されたということでございまして、大変興味深いということでおいでをいただいたということでございます。改めましてよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
それでは金子さんから、まずご自身の事業内容を含め、簡単に自己紹介をお願いできますでしょうか。
はい、株式会社ストラクチャーの金子でございます。私は親から子へ会社を引き継ぐ際のサポートをしております。親子の関係の質とコミュニケーションの量が事業生計の鍵となりますので、親子対話ワークショップという、親子が会社の未来についてわだかまりなく話せる場を提供しております。
素晴らしい大事なご事業だと思いますね。それではゴンさんお願いいたします。
改めまして株式会社ゴンレブイノベーションズのゴンと申します。私がやっているのは、平たく言いますと経営コンサルダントなんですが、今、何でもネットで探したり買ったりする時代ですので、今のネット環境に合わせて古いビジネスモデルを新しいものに変えていくと。
それをお伝えするネット中心戦略と呼んでいるんですけど、そういった考え方に基づいた経営コンサルダントをやっております。
なるほど。これからいろいろお話を伺ってきますが、お二人の視点というのは非常に両方ともすごく大事な視点で、そういう意味では素晴らしいコンビだなと思います。
ありがとうございます。
それではですね、この本も昨年11月に発売されたということで、既にいろんな反響があるんじゃないかなと思うんですが、大沢さんいかがですか。
そうですね。私もともと事業証券の専門家という立場ではないんですが、ネットのビジネスモデルを作る専門家として、ネット業界の人とかにいろいろ読んでいただいているんですけど、
やっぱり事業証券って今2025年問題ということですごく話題になっているので、そういった分野でネットというのがこうやって機能するんだなということを、その専門家の中ではすごくご意見をいただいています。
キャリアと経営の視点
そうか。要するにどうやっていくのかという部分の中での反響というのは意外にあるということですね。
そうですね。
金子さんいかがですか。
意外にいろんな新聞とかメディアで取り上げていただきまして、読者プレゼントなんかにも選んでいただきまして、思った以上に反響があって驚いているというのが。
いや、そういう素晴らしい本ですか。
ということでございまして、この本が表せるバックグラウンドとして、これからお二人のキャリアといいますか、学生時代の話も含めて伺っていきたいと思いますが、金子さんは三重県の四日市市ということで、四日市コンビナートなんで、僕らも社会科で名をられましたけれども、どんな場所でした。
そうですね。確かにおっしゃるとおりコンビナートがあって、海岸沿いに行くといっぱい煙突が立ってというような環境で育ちましたけれども。
確かに子供の頃というか、逆に大学に入って東京に出てきて、三重県の四日市ですると、みんな前足で有名なとか、後悔のと言って、ちょっとあんまり言わないほうがいいのかなと思って、名古屋のほうから来ました。
そういう時もありました。
でも愛着のある。
もちろんです。今思うのは、今環境がすごく注目されていて、四日市というのは後悔を克服した町ですので、もっとそこを強みとしてサミットをやるとか、どんなことに取り組んできたということを世界に発信したらいいんじゃないかなと思ったりしますね。
なるほど。
金子さんは横浜育ちで生まれましたけど。
そうですね。横浜で生まれから大学院卒業するまでずっと横浜で。
横浜は浜っ子というか、海岸のほうですか。
それが横浜でも端っこの山のほうです。あんまり皆さんのイメージする横浜とは違うんですけど。
でもね、さっきの四日市の話じゃないけど、横浜って言っちゃえば勝ちみたいな。
そうですか。それからゴンさんは柔道をずっと打ち込んでおられて。
そうなんですよ。小学校の頃に警察道場に通い始めて、そこは中高と大学でも外の道場でちょっとやって、10年ぐらいやりましたかね。
本当ですか。スポーツ、今でもすごくスリムで。
はいはい。
素晴らしいですね。金子さんはご実家がご商売をされていたというふうにも伺いましたが。
はい、そうです。
どんなご商売を。
両親がですね、祖父の代から始めたもやしの製造業というのをやっていまして。
はいはいはい。
じゃあ今、雇用承収されているということはお次にはならなかったんですか。
兄が継ぐ予定だったんですが、結局兄は継がずに父は第三者で売却をして。
そうです。
じゃあそういう意味では親子の事業承継ではないけれども、今の言葉で言えばM&A的な形のことを横からご覧には習えていたんですかね。
で、その買った方もですね、残念ながら3年ぐらいで廃業してしまって。
まさにその家業が、子供の頃から慣れ親しんだ生活の一部であった家業が消滅するという瞬間をですね、体験しまして。
とてもその喪失感というのを感じたというのがあって、今家族の事業承継のご支援をしているという企画につながっているんですね。
金子さんはお継ぎにならないというご選択をされた中で、どういったキャリアに入っていかれたんですか。
私、必ずしも継がないという選択をしたわけじゃなかったんですが、多分両親が東京でサラリーマンやってるんだったら、わざわざそんなに帰ってこなくて継がなくていいよということで話をしてこなかったんだと思うんですが、
私はずっと外資系企業で経理財務の仕事をやってきました。
外資系企業ではどういうふうな思いでお仕事をされておられたんですか。
私はわりと経営者に対して経営判断に必要なデータを提供するという役割だと思ってましたので、
ただ数字を打ち込んで仕分けを切って資産表を作ってみたいなことよりは、分析に力を入れて一生懸命役立つ情報を提供してきたという感じです。
それの原点になる話としては、アメリカに留学されたというふうにも聞きましたけど。
アメリカに留学してビジネススクールでMBAを取って、日本に帰ってきていろんなところで働いていたんですけれども、
先輩からアドバイスを受けて、もしあなたが小さくても会社のトップになって経営をやりたいと思っているんだったら、数字に強くないとダメだと言われまして、
だから経理をやれと言われまして、素直にアドバイスを受けて経理の道に入ったという感じですね。
私の父もですね、仕事に就いてからもそうですけれども、子供の頃というのかな、学生時代からよく言われたのは、数字は嘘をつかないということをすごくよく言っていましたね。
数字に嘘をつかせるやつは時々いるけれども、数字そのものは嘘をつかないんだから、ちゃんと素直に見なきゃダメだと。
変な小細工をしないで、それを見ていくというのがすごく経営の根幹に関わる部分の一つだよということはですね、ずいぶん叩き込まれている気がしますね。
大事ですね。
なるほどね。そうですか。
ゴンさんは1997年にソフトバンクに入社されたんですか。
ソフトバンクでのキャリア
そうなんです。でもソフトバンクといっても、皆さんソフトバンクというと携帯電話のキャリアとか野球の球団でご存知かと思いますが、
もともとはソフトウェアの商社でソフトバンクという名前で始まった会社なんですね。
そのソフトウェアの商社部門におりまして、そのときにちょうどまだ若かったので、新しく始まったネット通販の事業というのがあって、そこの担当にしていただいて、いろいろとネットの経験を積むことができたんです。
なるほど。まだまだ1990年代、就職イコール就社という時代だったんですけど、ゴンさんは入社するときから、私は3年で辞めまくって専任して入られたって聞きましたけど。
はい。人事の方にはね、お前そんなコストかけて取ってるのに、そんなこと言うなよって言われましたけど、やっぱりもともと独立したくて、そのために早くキャリアを集める会社ということでソフトバンクを選んだんですね。
3年やって、そのときにちょうどネット通販の担当にしてもらったので、もう1年いようということで、結局通算4年いたんですが。
なるほど。じゃあそこで得たキャリア、その後もすぐ独立をされて、もちろん当然のことながら活かされながらということですけど、一番やってて、ここでソフトバンクで学んだことが生きたということがあれば教えてください。
ネットの本当にいろんなマーケティングのノウハウもあるんですが、それよりも今本当に生きてるなと思うのは、やっぱり孫さんがやっているいろんな戦略を間近で見たということですね。
なるほどね。
このタイミング、世の中がこのタイミングでもうすでにここに着手していたとかですね。
後になってみたら、それをやったことの意味が全然つながってきて、これはすごい打ち手を振ってたんだなというのが分かったり、やっぱりその経営という仕事がしっかりあるんだということをそこを見て学びましたね。
なるほどね。この1997年ってまだ僕自身も父親が亡くなって事業を処刑してガチャガチャやっているときで、孫正義さんという僕よりもちょっとだけ年齢が上ぐらいの若い経営者が大胆なことをやっているというのは分かっていましたけどね。
それをいわば砂かぶりで見ていたというのは、その時のやっぱり当然会社もそういう空気というのがあるだろうから、そこに身を置いていたというのは素晴らしいですね。羨ましいですね。
当時はコンプライアンスもまだ甘い時代でしたから、かなり厳しい中で働きましたけど、おかげさまで4年でいろいろ経験ができたというのがあります。
そうですね。なるほど。金子さんはそうやって外資系の中でキャリアを積んでいく、経理という仕事、数字を大事にするということに注力しながらということですが、その後何社か移られていく、そういうキャリアを積まれているようですが、その時にはもう独立を意識されていたんですか?
独立への意識
いや、私は独立を意識、最初は独立したいと思って、数字に強くなれって言われて経理の道に入ったわけですけれど、経理をやりだすと経理の仕事をやるために、経理の階段を上がるために学ばなきゃいけないことも山ほどあって、そっちをやっていたら逆に独立することを忘れてしまって、どうやったら経理部門のトップになれるのかとか。
そういったことを考えながら、自分のキャリアをイメージしていたら、自分が独立するということは昔は思っていたのに忘れてしまいました。
それで管理本部長という仕事まで残り詰められた。
はい、管理本部長まで残り詰められた。
それがどうして独立ということになりましたか?
それが管理本部長になって、当時社長が不在だったので、半分社長みたいなことをやっていたんですけれど、商品がなかなか売れないわけですよ。
そうすると本社は何を言ってくるかというと、人を切れみたいなことを言ってきて、泣く泣くリストラの計画を作ってそれを実行していて。
最後に、私が自分でリストラ大将になって。
その時に、当時40歳半ばでしたから、転職してどこかへ行くというのもあったんですけれど、人生100年時代だと。
会社を渡り歩いて60、65歳まで働いたとしてもタクが知れていて、80歳くらいまで働かないと今後厳しいだろうと。
だったら今はもう独立しようということで、独立を選んだという感じですね。
なるほど。厳しい撤退のお仕事をされた上での独立ということだったわけですね。
さて、今週はお二人の学生時代に遡ってのお話もいただきました。
次回は、いよいよ金融家としての一面も覗いていこうと思います。
ではまた来週もよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
15:52
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