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社長に聞くin WizBiz
本日の社長に聞くin WizBizは、株式会社SERIOホールディングス代表取締役社長 若濵久氏様でいらっしゃいます。
当初、マザーズの上場企業様でいらっしゃいます。
まずは、経営機能をご紹介させていただきます。
松田電機株式会社、現パナソニック株式会社ご入社。
その後、株式会社アクチスご入社。
その後、株式会社ジオン代表取締役の就任。
その後、株式会社クリスタリエーションズ代表取締役の就任。
その後、株式会社SERIOを設立。
そして、2016年に株式会社SERIOホールディングスを設立し、
2018年にはマザーズに上場している上場企業の社長様でいらっしゃいます。
若濵社長様、本日はよろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。
まず最初のご質問ですが、ご出身はどちらでいらっしゃいますか?
島根県の松江市の出身です。
なるほど。松江の小学校時代はどんなご少年でいらっしゃいましたでしょうか?
はい。小学校、サッカーをやっていましてね。
当時はですね、学校のサッカー部が非常に活発に活動していまして、
サッカーだけではないんですけれども、
私はサッカー部、小学校3年生からサッカーをやっていまして、
6年生までやっていましてですね、
とにかく朝、学校行ってもサッカー、昼休みもサッカー、
放課後もサッカー、夏休みもサッカーということで、
ずっとサッカーに明け暮れていたような、そんな小学生だったと思います。
じゃあ私の息子たちと一緒ですね。
そうですか。
相当上手だったんじゃないですか。
非常にですね、強いチームでして、
まあ、所詮島根県ではあるんですけれども、島根県の中では優秀なチームで、
とても当時の監督がですね、非常にいい指導をしていただいていたんじゃないかなと思っています。
非常に厳しくてですね、当時は非常に怖かったんですけれども、
それでもみんなチーム一丸となってですね、
小学校6年生の時に、残念ながら全国大会の県予選で最終戦が2位でしてね、
全国大会に行けなかったというのはですね、今でも思い出す悔しい思いですね。
惜しい感じですね、2位だとですね。
中学校時代も島根県で。
そうです。
中学校時代はどんな職業をやっていましたか。
中学校も引き続きサッカーをやっていましてですね、
小学校の時も実はサッカー部のキャプテンを務めさせてもらっていまして、
中学校もまたサッカー部のキャプテンを務めていまして、
中学校も市内では本当に強いチームで、
小学校時のメンバーがそのまま勝っているような形でしたから、
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非常に強いチームのキャプテンをさせてもらっていました。
ずっとサッカーをやっていましたですね。
キャプテンをやるということは本当に一番お上手でられていたということですね。
いや、それがですね、態度がでかかったのか体がでかかったのかわからないんですけど、
必ずしも技術的に上手かったわけでもなくて、
そういった中でキャプテンをしていたというところで、
上手い選手はいっぱいいたんですけれども、
それをまとめるのはなかなか小学生、中学生ながら非常に悩んでいたような記憶がございますね。
でもやっぱりキャプテンをやられるから、上々企業の社長様というところもあるんじゃないですか。
どうかわからないんですけれども、
そういう多少リーダー気質というのが小さい時からあったのかなという気はいたしますね。
ありがとうございます。
高校も島根も、高校時代もまたサッカーですか?
高校はですね、実はサッカーは辞めてしまいましてね、
いろんな思いもあったんですけれども、ちょっと違うことにやってみたいなと。
今振り返ると、サッカーやっておけばよかったなという思いはあるんですけれども、
当時はちょっと違うこともチャレンジしたいなというような思いもあって、
実はボクシングをやっていましてね、ボクシングは非常に好きでして、
見るのも好きでやってみようかなみたいな形でやって、
なかなかやるのは大変なスポーツでしてね、減量もしなきゃいけないと。
これがね、テレビで見ている以上になかなかやるのは大変なスポーツだったんですけれども、
高校生というのはそういうことをやっていました。
もともと運動神経が良いと思いますので、ボクシングもお上手だったんじゃないですか?
いえいえ、島根県は非常にボクシング人口が少ない県でしたので、
それこそ本当にやっている人数が少なかったというだけな話なんですけれども、
そして誇れるような戦力があるわけではないんですけれども、
その影響が今でもテレビで見たりとか、会場に足を運んでボクシングを観戦したりとか、
見る側は変わるとずっと大好きだなと思っています。
ボクシングをやろうと思ったきっかけというのはあったんですか?
実はですね、ちょっと話すと長くならないようにしなきゃいけないんですけれども、
高校生の時の最初に1年生で、私は香浜という名前で50音順で出席番号みたいなのがありましてね、
私の前の席の同級生が、どれくらいだったかな、
1週間くらいで学校に来なくなってしまいましたね。
なんとか違う学校から来たわけなんですけれども、
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初めて高校に入学して会ったわけなんですけれども、
たまたま席が前後ろということもあって、
なんとか学校に出てこられないかなということで、
全部家に呼びに行ったりとかしていまして、
その彼がたまたま中学校の時にボクシングをやっていたというところで、
家にボクシンググローブがありましたね。
そんなボクシングを見るのが好きだったものですから、
そうか、僕らでもやれるのかというのに気がついて、
実際にアマチュアのジムが松井市にありましてね、
それを急激に身近にボクシングを競技としてやるということが非常に身近に感じられて、
彼を学校へちょっと不登校だったので、迎えに行きながらですね、
自分はどんどんボクシングに興味が高まってしまって、
それでボクシングをやろうかなというような感じになりましたね。
うちにお友達をあれに行くということは、
わりと正義感も強いという感じでしょうか。
どうなんでしょうかね。
せっかく知り合って席が前後ろという縁もあって、
ちょっとした正義感があったのかもしれないですけれども、
出会ってなんとかならないかなという気持ちだったでしょうかね。
おそらくお優しいご性格であったと思います。
その後、大学は行かれたんですか。
大学は行かずにですね、東京で少し働いてまして、
最初は専門学校に少し行ったんですけれども、
すぐ辞めちゃって、そのままずっと東京で仕事を2,3年やってましてですね、
そしたら島根の実家にいる母親が体調を壊したということで、
また20歳ぐらいでしたでしょうかね、島根に戻ることになりまして、
そこで島根で仕事を探していましたが、
当時は松下電機の生産法人が島根県にありまして、
デバイスを作っている工場でしたけれども、
そこで就職をすることになったというところでございます。
松下電機時代の思い出とか何かございますでしょうか。
ちょうどですね、私が在籍をしているときにですね、
幸之助さんがお亡くなりになられた、そんな時代でございまして、
随分古い話になるんですけれども、
ただ残念ながら廃岸をさせていただく機会というのはですね、
なかったわけなんですけれども、
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葬儀、云々、そんなことがですね、いろんな回がありましてですね、
非常に当時は神様と言われる松下幸之助さんのことなどですね、
まだまだ興味もなく知りもせずですね、いたわけなんですけれども、
非常にそこで会社全体がですね、グループ企業全体が幸之助さんに
対しての思いというのを、中にいる若い若造としてですね、
非常に肌で感じることができましてですね、すごい方だったんだなと。
そこで幸之助さんの本を読む機会になったりとかですね、
そんなことがですね、印象深いかなというふうに思います。
ただ本当に生産工程での勤務をしておりましてですね、
3年ぐらいでしたでしょうかね、勤めていたんですけれども、
営業がやりたいなという、そんな隣の芝生が青く見えるんじゃないんですけれども、
なんか自分がもっと違うことをやりたいなという気持ちになりまして、
実は松下電機当時のですね、いろんなルール、制度というのがあって、
営業自体は大阪の事業部が、松下電機産業本体がですね、営業を担当して、
生産自体は全国にある生産法人というのが担当すると。
人事交流というのが、そういう制度がありましてね、
年間各生産法人と事業本部の人事異動というのがあって、
それを毎年手を挙げてですね、営業に異動できないのかなというような話もあって、
事業に異動できないのかなというような、そんなことをトライをしていたんですけれども、
なかなか願いが叶わなくて、それで若気の痛みで飛び出して辞めてしまったという、そんなところでございます。
なるほど。その後株式会社アクティスさんというところにご入社されているようなんですけれども、
アクティスさんというのはどういう会社さんであったんですか?
これは人材派遣の会社でございましてね、
生産部門においての工場のラインワーカーなどのですね、
当時は人材派遣とは言わなかったんですけれども、業務請負業というように言っていたんですけれども、
人材派遣、今という人材派遣の会社でございます。
それはやっぱり営業をやりたいんです、そちらの会社に。
そうですね。営業をやりたいというのも第一があって、
じゃあ何の営業をやりたいのかというのは、当時24歳だったんですけれども、
あまり深く考えていなく、ただただ営業はやりたいなと。
その中でいろんな新聞広告とかですね、ハローワクター極級人を見て探した先でございまして、
結果的には地下電気時代にですね、
自分が経験をした生産部門、生産ライン、生産工程というところの知識が
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生かせるような結果としてですね、仕事には就いたわけなんですけれども、
当時はあまり深く、とにかく営業をやりたいと。
人材派遣という言葉は全然メジャーじゃなかった時代でございますので、
両親からするとですね、どこかのコンパニオンの派遣会社の営業みたいなんですね。
そんなことを父親は高いするまでずっと思っていたような気がします。
先生、アキティさんの時の思い出とかございましたでしょうか。
はい、24歳で入社を、福岡本社の会社だったんですけれども、
その島根営業所で、多少乱暴な人事の会社で、入社半年後にですね、
24歳の私が営業所長になりましてですね、営業も始めたばっかりで、
当然管理職もやったことないし、部下もったことないしということで、
それで、とは言ってもそんな事例がポンと来ると。
ただ、それが非常に楽しくてですね、
今思えば結構乱暴な人事でむちゃくちゃやなという気もしないではないんですけれども、
当時は何かチャンスやなと、自分もすごいなみたいなそんな気持ちになってやってましてですね、
それでもう開けても暮れても営業もあって、売上を伸ばして契約を取ってくると、
そんなことに明け暮れてましたですね。
ありがとうございます。
その後、株式会社ジオンさんで代表取締役を就任されたんですが、これは独立にならないんですか?
いや、これは実はずっとこのセリオを立ち上げるまでのアクティスからは、
全て同じグループ会社でございまして、母体がございましてですね、
それの事業会社が、大きく言うと神澤県を中心としてやっていましたグループ会社で、
グループ会社でございまして、株式会社クリスタルというのが本体でございましてですね、
私が在籍していた時のピークでグループ会社が250社ぐらいあったわけなんですけれども、
その中を多少転々としていたというところでございます。
アクティスご入社から6年ぐらいで、小会社の社長にご就任ってそんな感じですか?
そうですね。それも多少乱暴な人事でもあるんですけれども、
私の手を挙げたというのもあるんですけれどもね、
そうですね、グループ会社の社長をさせていただいたというところでございます。
おそらく30歳ぐらいで社長って感じですよね。
そうですね。30歳でしたでしょうかね。
大変お若くて小会社の社長というと、やっぱり営業成績も良くてという感じでいらっしゃいますでしょうか。
そうですね。成績の方はそれなりに業績を上げていたというふうに思っておりますし、
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それだけ楽しくですね、営業もやってましてですね、そのチャンスがあるというところですね。
当時の事業会社のアクティスの事業会社の社長とか上司とかに非常に影響も受けましてですね、
お若くして役職が上がっていくと、それに伴って給料も上がるといいなと、
よっしゃもっと稼いでやるぞみたいなですね、そんな視野の狭い夢を追いながらやっていましてですね、
結果としてそういう代表にもさせていただいたりということで、
それは非常に楽しい、非常に良い経験をさせていただいたと思っています。
ありがとうございます。その後株式会社クリスタルリレーションズ代表取組員を募集にで、
こちらも子会社という感じですね。
そうです。
こちらの事業内容は一緒ですか。
いや、それはですね、グループ全体の管理をやっていくような会社です。
多少割とぐるぐる回っていたものですから、代表的にそこの会社も記載させていただいているという感じなんですけどね。
その後株式会社制度を設立して、これが独立ということになりますね。
そうです。
辞めるときに引き止めとかはなかったんですか。
そうですね、結構自分が決めたらポンとやっちゃう方なので、よし辞めようと決めてですね。
辞める背景もいろいろとあったんですけどね。
なかなか個性的なグループ会社でございまして、カリスマのオーナーがいまして、非常に規模も、私が退職時は売上6,000億円くらいまであった会社でございまして、
事業規模も大きかったんですけれども、いろんな戦いがあって辞める決断をしましてですね。
引き止めというか、もう引き止めがあったというかどうなんでしょうね。
僕が辞めるって言ったら辞めるで、それで進んだり行っちゃったみたいな感じでしょうか。
辞めて創業しようと思った何かきっかけとかございましたでしょうか。
創業しようと思って辞めたわけじゃなくてですね、辞めるが先だったんです。
辞めてどうしようかなと思って37歳だったんですけどね、どうしようかなと。
30代から事業会社の代表をさせていただいて、自分がオーナーではないにしてもですね、
経営のいったものを担わせていただいたというような思いで仕事をやらせてもらっていて。
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結構独立したらなんていう話もあったんですけれども、あまり独立欲があったわけではなくて、
やっぱり自分が席を置いている会社でそこをさらに伸ばしていきたいなという気持ちがどっちかと強くて、
独立志向がそんなに強い方ではなかったんですが、辞めてしまったものですから、
何かしなきゃ当然いけないので就職してもいいかなという気持ちもあったんですけれども、
退職時は前職の時にはグループ全体の中においてもそれなりにいいポジションをいただいて仕事をさせてもらっていたものですから、
なかなか一から履歴書を書いて就職をするというような気持ちもなれず、
その時に思ったのは出会いがあって誰と働きたいのかなと思った時に、ちょっとそれが出てこなかったんです。
どこで働きたいというのか、誰と働きたいということかなと思っていまして、
出てこなかったのでしょうがないから自分でやろうかなという、そんな感じでしたでしょうか。
3分コンサルティング。水水が社長の悩みを解決。
本日の3分コンサルティングは、ケイ様。年賞3億5000万円だそうです。
ケイさんはエンジニアに特化したIT系人材コンサルティング事業を行うケイと申します。
今回ご相談したいのは、営業職の俗人化についてです。
営業部門においては完全実力主義にしているため、給与の幅が月月24万から70万円に広がっています。
売れない営業マンを売れるようにするには、売れる営業マンのやり方を真似させるのが一番の地位だと思っていますが、
知識やノウハウの共有を支持しても、自分は情報を提供するばかりで、
積極的な利益はなくて仕事の備え、しかも相手を優位に立たせてしまうという恐れからか、
基本的なこと以外に情報を隠しておきたがる傾向になります。
よく分かりますね、この話。そのため長時間かけて築き上げてきた、
営業活動のノウハウが社内に残らず、教育にも時間がかかる上、
売れる人、売れない人の大きな差が開いてしまいます。
顧客満足度最大化が当社のビジョンです。
満足度の向上に向けて様々な施策を実施することはもちろん、
全員が高い営業力を習得することも顧客満足度の向上、
ヒットや会社の成長にも欠かせません。
情報共有を効果的、かつ継続的に行うにはどのような仕組みが必要でしょうか。
これは大変よく分かりますね。もうおっしゃる通り、給料が70万円の人に、
どうやって24万円の人を近づけさせるかが、
社長様の一番やるべきことですね。
特にIT系の人材紹介からそういう事業ですと、
営業が一番重要ですので、
そうなっていくと、それが必要だということになると思います。
私もそうすると思います。
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もし私が経営様の立場だとすると、
まずその70万円をやっている方が、
どんなことをやって営業成績を上げているのか、
同行訪問してでも見出します。
ある意味その70万円の営業マンの方をA君とすると、
優秀なA君のある意味、営業成績が良い理由を分解していく、
分析していく、それが経営様の一番の仕事。
だから徹底的にインタビューしてみたり、
同行訪問してみたりしていくわけですね。
私たちはセールステップという考え方を持ちますが、
処方面談して、その次セミナーに来てもらって、
セミナーとホロ面談をして、その後オーナー面談をして、
最後契約入金するみたいな階段を作るんですね。
処方からセミナーに行かせる確率がどれぐらいのパーセンテージで確立できますかと。
セミナーからホロ面談、ホロ面談からオーナー面談、
どれぐらいいけるの、みたいな感じですね。
全部パーセンテージを出していって、
一番パーセンテージの良いやつに合わせて真似させていく。
そういうことによって全体が底上げして業績が上がっていく、
みたいなことをやらせるように私はコンサルタントとしてもしまして、
営業チームを持っていたときはやってたんですけども、
そういう意味で、経営様自身がA君の分析を徹底的にし、
ステップごとにステップ1、第1ステップから第2ステップ、
どうやって、どれぐらいの確率上がっていて、
どれぐらい上がるとちょうどいいのか、
何をやると必ず上がるのか、みたいなことを見出していくんですね。
ステップごと。
5階段あったら4つの上がっている理由を見ると、
7階段あったら6の理由を探っていく。
それぞれ探っていく。
それを一個一個真似させる。
その24万円から70万円の間のA君以外のB君、C君、D君に真似させていく。
絶対にやらせる。
会議中でも見出そうとしません。
私は会議中よく見出そうとしていました。
A君は何やっているの?
何でそこまで行けたの?
すごいねって褒めながら言うと、
結構A君は自慢話のように喋らせると、
そうすると勉強になりますね。
人は自慢したいものですので、喋らせるのが一番なんですけど、
そんなことをする。
そうすると、
24万円の際にもう70万円まではいかないかもしれないけども、
30万円、40万円と距離が上がってくると、こういうことになるんじゃないでしょうか。
ですので、K様の一番やらなきゃいけないのはコンサルタントです。
コンサルタント、そしてA君をとにかく分解していく。
コンサルティングしていく。
分析していく。
そして分解して分析したものを他の営業者たちに共有していく。
そしてその共有したものを徹底的にやらせる。
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ここからはマネジメントですね。
だからコンサルティングとマネジメントっていうのは、
私はニアリーゴールだなって、
よく昔から言ってますけども、
まずK様がマネジメントでありコンサルティングを仕掛けて、
そしてそれを他の社員たちにも徹底させていくと、
こういうことなんだと思います。
ぜひですね、同行訪問なんて面白いと思いますね。
同行訪問するから社長様の名刺じゃなくて、
平社員の名刺持って横でじーっと聞いててみてください。
そうすると分かることがあると思います。
実はそんなこともやってみてはいかがでしょうか。
本日の3分コンサルティングはここまで。
また来週。
本日も社長に聞くinWizBizをお聞きくださり誠にありがとうございました。
この番組は2017年1月から毎週配信を続けております。
これまでにたくさんの成功社長、成功経営者のインタビューをお届けしてまいりました。
この内容はすべてテキスト化いたしまして、
私どもWizBizが運営するウェブサイト、
経営ノートでも閲覧いただけるようにしております。
音声だけでなく文字で読み返すことで新たな発見や気づきがあり、
皆様の会社経営に役立つヒントがきっと見つかるのではないかと思いまして、
サイトの方にもさせていただいています。
ぜひネット検索で経営ノートスペース社長インタビューと入力いただき、
経営ノートのサイトをご覧になっていただければというふうに思っております。
本日の社長に行くインウィズではここまで。また来週。