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こんにちは、合唱指揮者のKota Yanagishimaです。
私のニューステレタは、WERKSTATTのPodcast、音声配信、大変久しぶりにお送りしております。
今回はですね、今日が今、2025年2月17日なんですけれども、ちょうど3日後、2月20日木曜日19時15分開演で、
私とタニー・カオルが主催するプロ合唱団、ボーカルコンサートINITIUMの第9回演奏会が、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われます。
このコンサートのタイトルが、《ひびきとことばのまんなかでII》ということになっているんですけれども、
このタイトルのこととか、プログラムの内容のことについて少しお話ができればと思い、配信を久しぶりにさせていただいております。
ちょうどですね、手元に今回のコンサートのパンフレット、今回コンサートにご来場いただく方に配られるパンフレットですね、
ちょっと印刷が仕上がって手元に届いていますので、ちょっとそれを開きながら皆さんと簡単にお話ができればなと思います。
コンサートの当日は、事前にレクチャーする時間とかを作っておりませんので、それの代わりにしていただいてもいいし、
こんなコンサートが東京で行われているんだなというふうな感じで聞いていただいても構いません。
また、こういう解説というのかな、演者たちの言葉ということには少なくともなると思いますけれども、
こういったものをあえて聞かないで、コンサートそのものをまず自分で体験して、それからより考えたいという方もいらっしゃると思います。
そういう方は、もしこの音声発信を開いてしまったならば、一回止めていただいて、コンサートが終わった後にまたこれを聞いていただいて、
そうやって楽しむというやり方もあるんじゃないかなと思いますので、そこはご自由にどうぞというところです。
というわけで、お話をしていこうと思います。
まず、この響きと言葉の真ん中でというサブタイトルですね。今回2で、つまり1があって、
それは2023年の11月に千葉市美術館サヤドーホールという千葉市美術館の中の施設なんですけれども、
旧川崎銀行のエントランスホールをそのまま美術館の中の施設として残しているものなんですけれども、
非常に響きの良い空間で、ある種、ヨーロッパの小さな教会に匹敵するような、とても豊かな音響空間でして、
ここで何かしたいと思ったのがこのコンサートの始まりで、千葉のサヤドーホールというところでやってみようというのが、
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響きと言葉の真ん中でというタイトルの元にもなっているんですけれども、
いろんなタイトルのことを考えたんですけど、やっぱりそこで音響がこのようにあるということ、
そして客席と舞台が面しているとか、そうではない、かなり自由度のある空間だったので、
そういうところでどんなことができるだろうというふうなことを考えたときに、総合してこの名前になりました。
響きと言葉というのは、合唱をたくさん歌われる方、あるいは聴かれる方にイメージしてみると、
合唱ってやっぱりみんなで集まって一緒に歌を歌う。多声だったり短線率だったり、いろいろあると思うんですけど、
同時に何らかのテキストに基づいた、そこから音楽として歌として広がっていった何かを、
同時にみんなで声で表現をするということがあって、つまり響き、それそのものがどうという観点というか、
あまり響きと言葉のことを分けて考えないというか、みんなで歌うものでしょうと、それを聴くものでしょうと、
やっぱりいいことを言っているなと思うとか、そういう感想があったり多分あると思うんですけど、
このことをあえてちょっと分けて考えてみたいなというのが、素朴な意味での私たちの一つの問題意識でした。
この空間に立ってみると、実際にサヤドーホールというところで本番の前で練習もしましたし、
実は今回、響きと言葉の真ん中で2のときも1回サヤドーホールにあえて行って、その空間を体験してみたりすると、
やっぱり何らかの言葉とか、あるいは曲の一節ですかね、そこを歌詞を伴ってテキストを伴って発語しようというときに返ってくるフィードバックが全然違う。
つまり空間と響きの成り立ち方が全然変わってくる。そうすると、自ら同じ歌い方をすることでもなくなってくるわけですよね。
その響きのある空間でこういうふうに歌う、ではなくて、もともと伝えたいことは何だったんだろうって考えて、
この響きを踏まえながらこういうふうにしてみようとか、いろんな試行錯誤が、例えばすごく技術的なレベルでも起きてくるんですけれども、
それは同時に、常に響きをそのようにもたらす場のこととか、
曲そのものが持っていることと、私たちが当たり前のように歌うという行為を行っていることと、
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そこにちゃんと場が絡んでいるっていうこと、しかもそれが鳴らす対象としてのホール、
いっぱいに鳴らせばいいとかそういうことではなくて、そこの空間がこのようであるゆえにこのようなことが起きる。
つまり私たちはそれにどのように反応するべきなのか、あるいはどのように反応することができ得るんだろうか、みたいなそういうことを考えたくて、
このような場所で歌ってみたいっていう希望はそういうふうに始まったんですけれども、
それと同時に、合唱っていうのは例外がたくさんあるので、今回も例外を行うんですけど、
基本的に言葉ありきのものであって、その言葉にインスパイアされた作曲家だったりする人たちがそれを音像として、
あるいは楽譜上の情報というところまでを作り上げて、それが実際に歌われるということになってくるわけですよね。
それがどうも不可分のようなものに、日常的に合唱のことを考えていると、
だんだん総理になれて、響きと言葉っていうことにあまり違いがないというか、合唱じゃん、歌ってるじゃんとか、自分の気持ちじゃんとか、
そういうふうになっていくんだけれども、その2つのことをもう1回分離して考えたらどうなるんだろうっていうのを、
もちろんたくさんの先人がこのことをあらゆるやり方でやってきていると思うので、
新発見とかそういうわけではないんですけれども、やっぱりこの場で今私たちの手元のあり方において、
その疑問についてもう一度体験する形で向き合ってみたいなと思いました。
それでこんなタイトルになっています。
真ん中でっていうのは、その響きと言葉という2つの要素の間に立つっていうことでもあるし、
あるいはお客さんがその響きや言葉が飛び交っている空間の中にいるっていうことでもあるかもしれません。
もう1つ面白いのは、すごくその響きに特性がある。
例えばサイアドホールもそうでしたし、今度のカテドラル大聖堂もそうですけど、
コンサートホールではないので、ある種コンサートホールのすごく一般的に求められるクオリティというのは、
いろいろな席、あらゆる席が細かい違いはあるにしても、
あらゆる席において一定のその舞台上で起きていることが一定以上のクオリティで、
一律に聞くことができるっていうことだと思うんですけれども、
例えばそれは東京カテドラル内、あるいはサイアドホールの中っていうスケールで考えてみると、
すごく場所によって全然違うことが起きます。
例えば前回のサイアドホールでの響きと言葉の真ん中で、
ONEでは会場の中を練り歩く作品なんかもやったりして、
そうするともうどこに座っていたか、お客様がどこに座っていたかで、
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そこに誰が歩いてくるかも変わってくるから、
一人一人の響きの体験というのが完全に個人的なものになるということになっていくわけですね。
そういう響きっていうことを一つ考えただけでも、
かなりある楽曲とかある楽曲に取り組む人とか、
そういったものの直線的なクオリティーでは絶対に評価できないという面白さがあるのではないかなと思っています。
そんなコンセプトで始めた第一回で、
第二回も実はサイアドホールを予約しようと思っていろいろ頑張っていたんですけれども、
ちょうどホールが、もちろん美術館なので、
本来の仕事のほうに使われてしまうということで、使えなくなっちゃいまして、
これはどうしようってなった時に一年復帰して、実はいろいろすごく苦労もありましたが、
東京カテドラル聖マリア大聖堂というところで演奏させていただけることになりました。
今回演奏するこのプログラム、一曲一曲についてここからは簡単にお話ししていこうと思います。
全部で9曲の作品を演奏します。
時代は様々なんですけれども、ロマン派以降の近代、そして現代につながっていく曲群になっていますが、
時代順とか様式順とかではなく、今回のために決めた、ある種イニツイムらしいという感じなんですけれども、オーダーで演奏いたします。
一曲目に演奏するのがアルボペルトのクライネリタナイ、少年党というふうに訳すことができますね。
いわゆるキリエ・レイソンの典礼文と、いくつかのドイツ語が入っているんですけれども、
これはウィンの中心街にシテファン・ジーンというすごく大きな大聖堂があるんですけど、
そこの隣に、シテファン・ジーンを見守るかのように小さいチャペルがかつてありました。
それがヴィルギリカペレ、日本語だと聖ヴィルギリウス礼拝堂というのがあったんですけれども、上部は18世紀ぐらいになくなってしまって、
今はそこにそれがありましたよという話だけあったんですけれども、地下部分というのがあって、
地下鉄の工事をするときにちょうど見つかって、2015年に再度地下鉄のところからアクセスできるウィンの博物館の一区画として、
礼拝堂が復活しました。これを記念してアルボペルトがそのチャペルの再開のために作曲した作品ということになります。
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なのでちょうどこの、つまりある礼拝のための空間、一つのその空間のために曲が書かれたということですよね。
そこで起きるイベントのために書かれたというよりは、その空間のために書かれた作品ということで、
今回カテドラル連奏するということですごくふさわしいのではないかなと思って選曲しました。
ペルトなんだけれども、いわゆるティンティナブル様式とかではなくて、すごくストイックにカデンツが連続していく。
それが小さな変化を伴いながら、あるいは音響的な軋みを持ちながら、楽譜上ではすごくぶつかっている音があったりするんですけど、
それは空間に投射されたときにまた違う色合いが出てくるという感じです。
ビルギルカペレ、ビルギルスリーハイドルというのはかなり小さいんですけれども、カテドラルはとても大きいので、
その意味合いでもまたまたとない姿を見せることになるのではないかなと思います。
これが1曲目。2曲目がですね、インノミネ、ヨハネス・シェルホルンという作曲者の作品です。
ヨハネス・シェルホルンはフライブルク音楽大学で作曲の先生をやっていたりする方なんですけれども、今は現役の作曲家の方です。
で、そうですね、合唱曲としてはあまり多くなくて、いくつかスコラ・ハイデルベルクというハイデルベルクの現代音楽アンサンブルのために書いた作品なんかがあるんですけど、
今回演奏する作品は、シェルホルンさんのお父さんの合唱団のために息子のシェルホルンさんが書いた作品で、
アカペラの6声が縦にぴったり揃いながら、ボカリーズとハミングの混ぜ合わせ。
楽譜には平行または開口でセンプレピアニシシモって書いてあるんですけど、
つまり、んーってハミングとワーとかウーとか口が開いているハミング、それぞれを全員が混ぜて和音を奏でていくというような感じです。
アマチュアの合唱団でも歌えるような音は難しくないんですけれども、すごくノスタルジックな響きのする素敵な作品です。
とっても自由なというか、ほっとするというか、そんな印象かなと僕は思います。ぜひこれ聴いてみてほしいです。
その次がですね、ウォルフ・ガングリーム、これはカールス・ルウェル、ドイツのフライブルークからちょっと北に行ったカールス・ルウェルというところでの作曲家、
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ウォルフ・ガングリームさんですけれども、悪意識も昨年亡くなりましたね。
彼による、これもですね、歌詞のない曲です。
Mit geschlossenem Mund、閉じた口でというタイトルなんですけれども、その通り、平行、これはさっきのシェルフォーノムさんの曲は開口と平行が両方あっていいよっていうんですけれども、
リームのこっちは平行でないといけませんということで制限されています。
背景としては、アルゼンチンの軍事独裁政権、80年代の軍事独裁政権において、それの体制に反発したために失踪した何万人もの人たち、つまり言論弾圧を受けるというような感じですかね、
という人たちに思い寄せた作品と言われている。つまり、言いたいことがあっても言えないみたいなところが、その閉じた口ということである種表現されているということができるかもしれません。
先ほどのIn nomineとすごく対照的な、同じようなスキームでハミングで歌うというところは似てるんですけれども、開口、平行、母音、自由というのと完全に閉じるというところで、
そうすると、そういうところに着目すると、この2つの曲がどういうふうに違って聞こえるのか、というのもちょっと気になるところです。
その次が、スヴェンダービッド・サンドストレーム作曲のEs ist genug、もう十分ですというタイトルの作品です。
このスヴェンダービッド・サンドストレームというのはスウェーデンの作曲家なんですけれども、
彼はバッハのモテットをそれぞれ、そこを下敷きにして、彼なりの独特な音響アレンジに変えていくという作品があったり、
ヘンリー・パーセルのHear My Prayerという作品なんかを途中から歪ませて、破壊的な音響にどんどん変えていくみたいな、そういう手法が結構彼の中ですごく多様される一つの表現手法なんだと思うんですけれども、
この作品もその例に漏れず、ブクステフーデによるカンタータからEs ist genugとリープスタヘアイエーズというこの2つの作品をマッシュアップした上で、
サンドストレーム流の歪みをふんだんに加えた作品になっています。
実際にブクステフーデのカンタータとサンドストレームを聞き比べると、全く同じモチーフが使われているということがわかるんですけど、
サンドストレームの方はブクステフーデの5倍ぐらい遅いテンポで、ドワーという感じで広がっていくことがあったり、そんなことがあったりします。
彼の特徴としては、西部も非常に多いんですが、ある種和声を作っていくというスキームもありながら、
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同時に音程と音程の間みたいなところも余すことなく、声としてその場にどんどん描写していくということがある。
そうすると、それを多声でやった時にもう歪みになるわけですね。歪みとか滲みとか、きしみとか、すごく痛々しい音になっていくんですけど、
そういう形で力強い厚みを加えて、一番大きいところまで音を持っていくという感じです。
だからすごく和音としてというより、本当にその一つの怪物が目の前に現れるような音になっていくのかな。
そういう部分と、すごく素朴で静かなブックステフードのテーマが聞く人の頭に戻ってくる部分と、そういう対比が面白い曲ですね。
ぜひこれも現場で確かめてみてほしいです。
その次、これが前半最後の曲なんですけれども、ブラームスの
Warm ist das Licht gegeben den Museligen
なぜ苦しむものに光が与えられるのかという作品です。
これは合唱が好きな方にとっては外すことのできないアカペラの名曲ですね。
ロマン派の作品って、これまでブラームスもメンデリスもレイガーも、このVocal Consortiumでは、
オリに触れてチャレンジはしてきましたが、このWarmというこの作品に関しては、今回が初出しというか初めてになります。
ドイチェス・レクイエムをやったんですけど、Warmは初めてです。
私自身はいろいろなところでこの曲を歌ったこともあれば、式をしたこともあれば、
式のレッスンで見ることになることもあれば、いろいろなところで経験をさせてもらっている曲なんですけれども、
今回これをカテドラルで歌うっていうのはちょっと私にとってもすごく感慨深いというか、
振るのは実は私じゃなくて谷さんなんですけれども、すごく楽しみにしています。
言うまでもないですね。
そして後半、ここから後半の4曲についてもお話ししていきます。
後半の頭ですね、マックス・レイガー。
Oh, thought to be bitter with you. Oh, CEO, お前は何と苦いのか。
という作品です。
これはレイガーの晩年の作品ですね。
3つのモテッドがあって、とても複雑で難しいモテッドがある中の3曲目です。
死のV bitter、ビターというのはビターコーヒーのビターと同じで、苦いとかつらいとかそういうことなんですけれども、
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この苦さと後半、後半はそこがあるいは死ぬことによって救われるということですよね。
最後はだから、Oh, CEO, お前は何と心地よいのか。
という話に変わっていくわけですけれども、この2つの対比が描かれます。
これもすごくレイガーらしい。
レイガーらしいっていろいろな側面がありますけど、
レイガーのことを1曲で表すにはどの合唱曲がふさわしいだろうといったら、
もしかしたらこの曲かもしれないなと思ったりしています。
前半はすごくこの死の苦さ、死の辛さを伝えるところは、
ある種マドリガル的にいろいろな音の運び方を結構重要無人に動きながら、
とにかく劇的に言葉を、言葉そのものをすごく聞くものに対して刻みつけるように演奏されていく、
あるいはそのように書かれている作品です。
それに対して後半はある種のコラールの形式をとっています。
なので4声が、全パートが縦にしっかり揃っているところから、
ハーモニーの展開で曲を聴かせていきます。
それはある種の響きによる説得っていう感じでもあるかもしれません。
ある種のこの言葉と響きということは、この曲一曲の中でも単一されている美しい曲です。
レイガーのコラールってすごくゆっくりなんですよ。
それがなぜかというのも、この曲を聴くともしかしたらわかるかもしれません。
その次ですね、その次がケレンサブリックスという若いイギリスの作曲家による
メディア・ビーター、聖のただ中にありてというふうに私は訳しました。
この曲はですね、実はこのメディア・ビーターという9世のテキストですけど、
これをたくさん使って、前回の響きと言葉の真ん中で1では
メディア・ビーターを使った作品をたくさん演奏したんですけれども、
そこからの引き継ぎで今回選ばせていただきました。
もともとこの作品はイギリスのジョン・シェパードという作曲家の
生誕500周年というのを記念して作曲されました。
前回、先ほど申し上げた前回の響きと言葉の真ん中では、
このジョン・シェパードのメディア・ビーターを演奏したんです。
今回のこのブリッグスのメディア・ビーターは、
彼のシェパードのメディア・ビーターがある種モチーフになっているというか、
非常にそれを参考にして書かれているということがよくわかる作品です。
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シェパードの方はですね、すごく繰り返しとかも含めると
30分弱ぐらいの大作なんですけど、
こちらは4分ぐらいなんですけれども、そしてとても現代的なハーモニー、
現代、ポップなものにも通ずるような、ジャズポップに通ずるような
サウンド感ではあるんだけれども、
そのアイディアだったり、響きに対する感覚がまさに
そのシェパードとすごく一致している、
あるいは彼への強いリスペクトを感じる作品です。
サブスクとかだと、ボーチュスエイトが演奏している
すごく素晴らしい演奏がありますので、
よかったら聴いてみてほしいし、
私たちもぜひ演奏で、それを体験していただけると嬉しいです。
その次はアーニュス・デイ、
これはクシュシュトフ・ペンドレスキーのアーニュス・デイです。
これは後々彼のポーランド・レクエムという大きな作品の一部として
後々取り込まれていくんですけれども、
この作品はアカペラの単一の合唱曲として、
もともとは作曲されたものです。
アーニュス・デイのテキストってそんなに長くはないんですけれども、
それが必要に繰り返される中で、
すごく静かなところから始まるんですけれども、
ある種、戦争の記憶というところとリンクしているという
ストーリー理解だと早いのであれなんですけれども、
そういう可烈な音響状態というところに
いつの間にか引き込まれているというか、
とてつもない破壊力を持ったサウンドを持っている作品でもあります。
最後、そのペッカータというテキストで、
この世の罪という言葉のところで一度20世に分かれる
クラスター音が叫びとして表出する部分があります。
そこをクライマックスにしながら、
この祈りが最後まで進んでいくんですけれども、
この作品は結構日本国内でも、
わりとある種モチベーションの高い合唱団によって
歌われることが多いので、好きな方も結構いるようですけれども、
やっぱりこれが今回のカテドラル大聖堂だったりするような
音響のある空間において、それがどのように表出するのかというのは、
もしかするとこの曲のアイディアがどのようなもの、
本来はどのようなものだったのかということを探る上で、
非常にいい体験になるのではないかなというふうに思っています。
これがどのような音がするのか、僕もすごく楽しみにしています。
最後に演奏する演奏歌詞、最後の演目が次なんですが、
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エイヌイファニュラウタバーラによるディエアストエレジー、
第一の悲歌という作品です。何が第一歌というと、
これはテキストがですね、ライナーマリアリルケという詩人がいますけれども、
彼のドゥイノの悲歌という長大な詩の一連の詩があるんですけれども、
その中の第一歌がテキストになっているということです。
すごく切ない女性のデーモルの響きから語りが始まって、
それを切り裂くようにテロールがとてもフォルテのハイトーンで
ブワッと破っていって結構劇的な始まり方をする作品なんですけれども、
実は最初が十二音技法の書き方で書かれていて、
そういうアイデアでかなりいろいろなスキームを練って書かれているんですけれども、
ただ曲としてはある種ロマンチックというか、
そういうふうなものとして受け止められるというところの
独特なラウタバーラ内の魅力がすごくあります。
この曲はとにかくテキストが難しいんです。
エアステレジーで最初のテキストを紹介すると、
私が叫んだとしても果たして天使たちの秩序の中で
誰が私の声を聞いてくれるだろうかというこの問いかけ。
この天使というのがいわゆる聖書における天使の話ではなくて、
従前な美しさ、完璧な美みたいなものの象徴として
リルケがこの天使という言葉を用いると。
それを恐れてしまう人間。
いろいろなことを評価したいあまりにいろいろなことを
頭の中で分けてしまうとか、内と外とか上と下とか、
あるいは何かを名付けるといったことかもしれませんけれども、
そういった人間の葛藤と、あるいは人間が
従前な美として投影している天使という存在と、
その二つを言ったり来たりしながら
頭を悩ませるみたいな作品です。
ラウタバーラはこのリルケのこのドゥイノのヒカというこの詩が
本当に好きだったみたいで、いつでもこの本をポケットに携えていたということだそうです。
この天使という概念にまつわる公共曲なんかも書かれているみたいですね。
だからいつか合唱にしようとどこかできっと思っていたと思うんですけれども、
ヨーロッパカウンターとの移植によって1993年に
これが実際に曲として書かれることになりました。
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まずリルケの詩がすごく難しいので、
それはいわゆる先ほどのアニフスデイみたいな短いテキストではなくて、
非常に長大なテキストで、ラウタバーラが作曲にあたって
かなり多くのセクションをカットしてはいるんですけれども、
それでもこのパンフレットをお手元に持っていただくと、
演奏会に来た方にはわかるんですけれども、
想定も長くて、たぶんこの演奏会全体の3分の1ぐらいの分の長さのテキストなわけです。
だからまずそこを自分たちのものにしていくというのは、
すごく私たちにとってはとても大変な作業でした。
ある意味、語弊を恐れずに言うのならば、
この詩を完全に理解して演奏していくことができるかというと、
わからないなって思っています。
言葉をすごく使った、
ある種、哲学的な話だから難しいで、
それを理解できるかできないかという次元でもあるんですけど、
それだけじゃなくて、
明瞭なわかる言葉をとてもふんだんに使いこなした上で、
すごく言葉では言えないことを言っているというテキストになっていて、
その間のことがすごく関わってくる。
ラウタバーラがその間のことをどのように感じて、
どのように音にしているのかというのが、
逆に際立って感じられるんじゃないかなと思います。
私たちの覚悟を決めて、この言葉やラウタバーラの処方に向き合って、
3日後を迎えるということになると思います。
こんな感じで、究極、だいぶ喋ってしまいましたが、
というプログラムになっております。
本当に喋ろうと思うと無限に喋れるくらい、
いろんな思いがあったりはするんですけれども、
まずは、あと3日後のコンサート、
できるだけ多くの皆さんにその場にいらしていただいて、
まだ喋りたいことがもしあったら、
その後また何か喋ってもいいかなと思いますけれども、
もしかしたら逆にそこで演奏をして、
皆さんと共有して、
それで成仏できるかもしれません。