1. FM八ヶ岳 湧き水のほとり
  2. 2026/01/13 湧き水のほとり #9..
2026-02-27 14:30

2026/01/13 湧き水のほとり #98 「新年の挨拶」

00:04
湧き水のほとり 山川雅雄作 新年の挨拶
夫が受話器を置いたとき、彼女は腕時計を見た。
ちょうど三十分間ね。
今年も、元旦の昼近い光がガラス戸越しに部屋に流れている。
夫はしばらくは口を聞かなかった。
恒例の、新年のご挨拶ね。
うん、あいつさ。
今年は、どんな話だったの?
子供が学校に上がるってさ。
だけど、それが一体、俺とどんな関係があるって言うんだ?
毎年、ハンデを押したように、元旦の朝、この電話だ。
勝手に自分のことばかり、ペラペラ喋りまくりやがる。
迷惑だよ。
あら、結構楽しそうな顔してたわ。
冗談じゃない。
こうしつっこいと、うんざりして、だんだん怖くなってきちゃう。
たぶん相手は、まともな精神の持ち主じゃないよ。
たった一回、一緒に映画を見て、お茶を飲んだ。
それだけのことで、こんなに。
夫と話しながら、彼女はふと、去年の元日の朝も、
まったくこれと同じ会話を交わしたのを思い出した。
いや、去年だけではない。
たしか一昨年も、その前の年も、
年に一度、決まって元日のお昼近く、
夫に電話をかけてくるその女が誰かは、
もうとうに彼女は知ってしまっていた。
それは、夫がまだ大学を出たてのころ、
ただ一回だけお見合いをさせられたという、
その相手の女性だった。
その女がまるで習慣のように、
毎年の元旦、声だけで夫を尋ねてくるのだ。
彼女はその女の顔を覚えている。
まだ婚約したてのころ、
夫と二人で銀座を歩いていたとき、
すれ違いさま大行な声をあげて、
03:02
夫にあいさつをしたのが彼女だった。
色の白い、やせてはいるが猫のように身のしなやかな感じの、
頬に大きなほくろがある女だった。
しばらくの間、ぽかんとして、
「ああ。」
と夫がまぬぬけた声を出したときは、
女はすでに雑踏の中にかくれていた。
夫はそして彼女にその女のことを説明した。
別に嫉妬はなかった。
美しくないとは言えない女だったが、
彼女には、でもその女は決して
夫の好きなタイプの女ではないという確信があった。
翌年、夫と結婚して、今年でもう四年になる。
夫の話だとその三年前、
つまり二人が見合いをした翌々年の正月から、
こうした電話がかかりはじめたのだという。
だとしたら、かかさずにもう七年。
それは一つの執念じみたものと思えないでもない。
「だってあなたとは話す用事も、話すべき理由もない。」
だって電話を切っちゃっても、
必ずお正月のうちにまたかかってくる。
仕方ないからこのごろじゃあきらめて、
三十分間だけはあいづちをうってやることにしているんだ。
それでその一年間の約落しのつもりでね。
夫はそう説明する。
でもはじめのころ、
彼女はその電話に夫が渋い顔のまま、
三十分間もじわきを握っているのを見て、
怒ったり泣いたりした。
「どうしてそんなに親切にしてやる必要があるの?
あなた何とかかんとか言って、
年に一度のあの電話を楽しんでいるのと違うの?
本当にあの人が好きなんだわ。
ヨハムシ、
そんなに誰からも彼からも好かれたいの?
私信じないわ。
そんなの常識じゃ考えられない。
あの人とあなたとの間にはきっと何かあったんだわ。」
夫は顔をまっ赤にして怒った。
翌年、彼女は待ちかまえていて、
06:03
元旦のその電話のじわきを取り、叫んだ。
「やめてください。
お願いです。
うちじゃ迷惑しているんです。」
だがじわきを置くとすぐにまたベルが鳴った。
夫がじわきを取り、
「もしもし。」
と言ってそれを彼女に渡した。
電話線の彼方で女は笑っていた。
「ごめんなさい、奥様を怒らしちゃって。
でもそういえばまるであなたと私と何かがあったみたいですものね。
誤解なさるの無理はないわ。
たった一回お茶を飲んだだけだなんて。
信用してくださんないの当たり前ね。」
女はまた笑った。
彼女は呆然としてじわきを夫の手に戻した。
その電話もきっかり三十分間続いた。
「まったく変な女さ。」
と夫は言った。
「あれから、誓って一度も会っていない。
それなのに自分はこの一年、こんな気持ちで送った。
こんなことがあった。
春には犬のペスが死んだのよ。
だなんて。
俺とはまるで無関係なことばかりを一人でしゃべり散らしているんだ。
もちろんそんな名の犬がいたことも知らないこの俺にだよ。
そして最後に、じゃあ今年もしっかりね、なんて言う。
ただそれだけなんだからな。
わけがわからないよ。」
もともと夫はげちぎすぎるほど正直な男で、
そういう自分に対するプライドがひどく強い性質だった。
彼女は信じた。
夫は悪い夫ではなく、
家庭は平凡だったがますます幸福で、
そのころはもう最初の子も生まれていた。
いや、俺本当は彼女まだ独身じゃないかって思うな。
いや、きっとそうだ。
どうして?
夫は年始回りのための服を着、
玄関に降り立ちながら言った。
だってつまり彼女は孤独なんだ。
09:00
相手が欲しいんだよ。
そういう欲求不満のあらわれがあの電話なんだ。
結婚さえすりゃきっと俺も親子ごめんになる。
俺は一刻も早く彼女が結婚してくれることを望むよ。
何かを言おうとして、
思い返したように彼女は口をつぐんだ。
「行ってらっしゃい。」
とだけ言った。
夫が出かけた後、
彼女はしばらくはぼんやりと玄関に座っていた。
やはり言わないでよかった。
言う必要はないのだと思った。
前の年のクラス会の帰りに、
彼女はあの女を見ていた。
女は夫らしい男といっしょで、
両親にそっくりの女の子の手をひいて町を歩いていた。
「ママ。」と呼んで、
飾り窓の中のものをねだっている女の子は、
そろそろ小学校に上がるくらいの年頃に思えた。
彼女はびっくりして無意識のうちに後をつけて。
そして、
「来週はお祝いをしなくちゃいかんねえ。」
「そうねえ。もう私たちの結婚生活も七年目ね。」
という夫婦の声を聞いた。
頬の大きなほくろが目立つその女は、
ひとまわり豊かに肉がついて、
にこやかな母と妻の貫禄を備えていた。
「あなたのパパって。」
「バカね。」
彼女は三つになる子供の相手をしてやりながら、
そっと口の中で言った。
「誰だって。愛人や夫や子供がいたところで、
孤独は孤独なのよ。
それ以外の人を相手に、
何かを夢中で話しかけたいような心がちゃんとあるの。」
ばったら。
それを知らないのね。
12:02
そして彼女は腕時計を眺め、
ある仕事を始めるべき時刻なのを知った。
このことを知ったら、
夫はたぶん、私の夫への復讐、
対抗心、
嫉妬、
つまり、
彼への私の愛が、
させたことだと考えるだろう。
とんでもない。
でも、それがあの人の、
人の良さなのかもしれない。
元旦の昼の光が、
今は透明に部屋を満たしている。
彼女は受話器をとり、
高校のころ、
映画館の中で初めて彼女の手を握った、
同級の男の家のダイヤルを回し始めた。
無難な、
いわば現在の自分には無関係な、
心の中に棲む、
遠い相手への、
年に一度だけの、
勝手な年賀状のようなおしゃべり、
それは、
三年ほど前の願実に試み、
今は、
やみつきになってしまった、
毎年の習慣、
やはり三十分間の、
もはや書くことのできぬ、
彼女の新年の行事だった、
山川雅夫作、
新年の挨拶、
でした。
お聴きいただき、ありがとうございました。
お送りしましたのは、
開運商店でした。
この後も、
FM八ヶ岳でお楽しみください。
本日もいい塩梅に過ごせますように。
また、
お会いしましょう。
14:30

コメント

スクロール