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千利休と天下人たち 第一話 少年利休
その日は大荒れで、京都では氷が降ったといいます。
天正十九年、千五百九十一年、二月二十八日。
千利休は、珠楽亭敷地内にある官邸にて、徹服して果てました。
漢伯秀吉の激霊に触れ、死を賜ったというのです。
人生七十、力一つ。我がこの宝剣、諸仏共に殺す。
ひっさぐる、我が江戸足の一つたち。今この時ぞ、天に投げ打つ。
これは結毛といって、禅僧が末期に残す寿生の句です。
千利休こと千僧役は、臨済宗大徳寺に起家していたのです。
この時代、名前に僧の字が付く場合、大抵はこの大徳寺から授けられたものでした。
利休と並んで茶の湯の天下三僧賞と称えられる、
芋居僧宮、津田僧牛もまた、大徳寺より僧の字をいただいており、
禅と茶は茶禅一味といって密接な関係があったのです。
ちなみに大徳寺は、織田信長の墓所でもあります。
さて、利休の時世はおおよそこんな意味でしょうか。
人生七十年、今も力はみなぎっている。
私の宝であるこの剣には、祖霊や仏さえも殺してしまう威力がある。
この身につけた人たちを、今こそ天に向けて投げ放とう。
茶の湯の道を武士道にたとえて読んだのでしょうか。
だとしたら、己の磨いてきた茶道をもってして、
天下に訴えたい何かがあったのでしょうか。
なぜ利休が秀吉から死を賜ったのか、その理由は今もはっきりとは分かっていません。
豊臣家内部で利休の政治的な発言力が大きくなり、
性的に落とし入れられたとか、あるいはそれこそ、
大徳寺の山門に設置した利休の木造が無礼であるとか、
いろいろと言われていますが、これまでこれだという決め手がありませんでした。
しかし近年、その謎を埋めるミッシングリンクが少しずつ見つかっているのです。
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そしてその新たなリンクとは、
信長以前の天下人として脚光を浴びつつある、
三吉永吉と利休との関係なのです。
千利休と三吉永吉は、共に1522年に生まれています。
世界に目を向けると、マルコポーロの艦隊が、
世界一周を成し遂げた大航海時代の真っ赤な中です。
この時代、日本もこの世界の潮流の中にあり、
グローバルな視点を持てるかどうかが、天下人たる資格であったと言えるかもしれません。
ともあれ、利休と長吉は共に、
大徳寺の皇僧である大林総統が、
港町堺に開いた南州庵といういおりに参禅していました。
お互いを少年の頃から見知っているとも考えられます。
とはいえ、利休は徒徒屋という小さな魚どん屋の後取り息子で、
長吉はというと、今をときめく堺幕府の実験を握る三吉一族の着なんですから、
身分が違います。
けれども堺という町は当時、武士や商人といった身分の違いを超えた価値観、
オーバーシティーにあふれる自由都市でしたので、
幼い二人が生まれや育ちを超えた友情を育んだ可能性は大いに考えられるのです。
坊さんが!
あ、吉郎、またズルして切り上げたな。ちゃんと数えろよ。
もうええやろ。100も200も平行いてたら臭くて叶わへん。
お父様のへは臭い!
さて吉郎、誰のへが臭いじゃと?
総統様、いや、ではなく千駒です。
違います。吉郎がまたズルをして、100を50で切り上げたのです。
吉郎、千駒、二人とも罰として、もう千の間そこに座っておれ。
総統様、足が痺れてしまいました。千を300にまかりませんか?
さすがはととや千家の跡取りだけあって、吉郎、そなたの利心まことにあっぱれじゃがな。
たまには秋内も休みにして、この大輪総統の言うとおり、禅の味をたっぷりと味おうてみよ。
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禅の味をたっぷりと味おうてみよ。
利を休めると書いて、利休という名の命名者はいくつかの説がありますが、この大輪総統がつけた相性起源説が有力です。
総統様、禅とは備えにうまいもんですか?
さて、まだ二人は味おうたことがなかったか。
座禅が終わると、大輪総統は八歳の吉郎と千熊、すなわち後の利休と三好長吉に薄茶をふるまいました。
けっこうなお手前です。
四国阿波の国が本拠地である三好一族は文化芸術にも造形が深く、幼い千熊にも多少のたしなみがあります。
しかし、吉郎にはまだ早かったようで。
うっ、にっか!
茶禅一味と言うてな。茶と禅とは同じ味、すなわち同じ道だという宣達の教えじゃ。
ほほほほほ、吉郎を見ていると、なぜか我が祖師である一丘総順様を思い浮かべる。
ずいぶんと堅破りなお方だったと聞かされたが、なぜか憎めぬお人柄だったそうじゃ。
あの足利義満様に仕えられたという一丘様ですか?
さよう、私も実際には追うたことはないが、我が大徳寺の宣達じゃ。
では、今日から私は吉郎を利休と呼びましょう。
俺が利休やったら千熊の弟は休んでばっかりやから、実休やな。
日本でお茶が庶民の間にも広まったのは室町時代と言われています。
しかしそれは和尾茶ではなく、会所に集って掛け事に競じる陶茶が主流でした。
戦う茶、陶茶とは茶の銘柄を当てる遊びで、風紀が乱れると幕府が禁じるほど大流行しました。
そんな中、大徳寺などの禅寺を中心に和尾茶の様式が整えられ、
茶禅一味の風雅が徐々に解かれるようになっていきました。
A65年、1532年6月、大事件が起きました。
自由を謳歌する町堺を十万人とも言われる一行一揆が取り囲んだのです。
いわゆる天文の錯乱です。
この頃、一行一揆は時に暴徒と化し、町を破壊し略奪を働きました。
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南無阿弥陀仏と唱えるだけで必ず成仏できると信じる人々が、
集団催眠にでもかかったように死を恐れることなく、破壊行為を繰り返すのです。
堺の町衆たちは恐ろしさのあまりパニックを起こして逃げ惑いました。
戦駒、見えるか?
ああ、何だあれは?
李宮と戦駒は町外れの矢倉に登っていました。
一騎衆との様子を知るためです。
子供の骸骨や戦で殺されたんやろうか。
骸骨を抱いた女を先頭に、ものすごい数の人の群れが太鼓の音に合わせて近づいてくるのでした。
あれは釣り餌だ。
え?
衆との怒りを注い、群衆を操るための道具だ。
この一騎、誰かが裏で操っている。
そういえば、一行一騎は北家衆と対立している。
一行一騎は北家衆と対立している。
そして、堺幕府は北家衆や。
誰かが堺幕府を狙って一騎衆と煽っているのか。
あの怒り狂った人たちが堺の町に流れ込んできたら、とんでもないことになるぞ。
それだけは避けなければ。
兄上!
実宮、どうした?
兄上が!
何?
先駒、右!
次、左!
もっと早く走れ、実宮!
先駒!
こっちが近道や!
先駒と実宮は堺幕府のある北家衆けんぽん寺へと急ぎました。
弟実宮の知らせによると、
間もなく先駒の父、三好本永と一族家臣八十名ほどが辞人するというのです。
これは!
父上!父上!
二人が駆けつけたとき、
先駒の父、三好本永はすでに腹に刀を突き立てていました。
先駒!この恨み、必ず頼んだぞ!
父上!
三好一族は次々と切腹して果てました。
堺幕府要人たちの首と引き換えに、
町の安全を保障するという一向一揆側からの要求を呑んだ結果でした。
堺を戦火から守るため、三好一族は反抗せず、辞人を選んだのです。
これにより、堺工房足利義綱を擁立した堺幕府は崩壊したのです。
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先駒が感覇したように、この十万の一向一揆は操られたものでした。
実は堺幕府側の官礼職であるはずの細川春本が、
主君である堺工房足利義綱を見限り、
さらには力を持ちすぎた部下である三好本永を追い落とすための計り事だったのです。
細川春本は、主君と部下を落とし入れるために、
一向一揆州都の北家州都に対する憎しみを煽ったのです。
それがあの女が抱いていた子供の骸骨でした。
実に卑劣な手口です。
一体誰がこんなことを…許さない…
先駒…
義郎は、先駒にかける言葉が見つかりませんでした。
ただ真っ青に血の毛のひいた、先駒の震えるまつげを見つめることしかできません。
まつげの先に、次々と大粒の涙があふれては落ちてゆきます。
先駒!
相当様!父が…我が一族が…
本永様や皆の御以外を、あしがしかと引き受けた。
そなたは一刻も早く堺から退出するのじゃ!
三好の残党狩りが始まる前に…
港に…三好の本国アーマーであっという間に…
急げ!
すまん!
先駒…きっとまた会おう…
ありがとう!
こうして堺州の起点により、三好先駒は危機一髪、堺を離れたのでした。
本国阿波の国で体制を整え直した先駒は、若干十二歳で厳復し、
再び基内に戻って、戦国武将三好長吉として名乗りを挙げました。
そして八苦の連勝を重ね、1542年太平寺の戦いで、
ついに父本永を落とし入れた敵の一人である日沢長政を打ち果たしました。
ただし、それを成し遂げるため、三好長吉は最大の敵である細川晴本の家来となる道を選んだのでした。
先駒…いや三好長吉様の敵、細川晴本は子供の骸骨を使って味方を落とし得るような卑劣漢や、
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墓地中への仇を討つという大頑丈事のためとはいえ、
長吉様が毎日そんな奴に頭を下げて耐えているかと思うと、切なくて心が張り裂けそうや。
その間に理久はというと、和美茶の師匠である武の女王に支持し、
大徳城里・千壮益という名をもらい、本格的に茶の湯の道を歩み出したのでした。
それに先立ち、理久は頭を低髪した僧侶となり、師匠に求道者としての覚悟を示したと伝わっています。
作・演出 岡田康史
岡田康史 出演
吉郎 伊藤美代
千久間 井上飛貴
千の理久 斉藤雅俊
三吉本永 桂川秀樹
大輪総統 梅崎新一
ナレーションと実況 大河原咲
選曲・交換 松坂
音楽協力 HMIXギャラリー
アマチャ スタジオ協力
スタッフアネックス
プロデューサー 富山正明
制作 株式会社
ピトパ