【しゃべりの相談室】、おかげさまで、ポッドキャスト配信100回目を迎えました。
毎回聞いてくださっている優しいあなた、たまーに聞いてくださっているそこのあなた、今回たまたま聞いてくださっている初見のあなた、皆さん本当に本当にありがとうございます。
ということで、今回は完全なる自分語り化になっちゃいます。
ただ、ここはポッドキャスト、自由な世界です。
自分語りしても何しても、誰にもとがめられないので、節目にリスタートの意味で、この番組への思いを語ります。
私はですね、夢を叶えるお手伝いがしたいんですよ。
急に真面目。
なぜならね、自分は夢を叶えられなかった人間だからなんですよ。
なぜこの思いに至ったのかっていうのを、15歳の高校生から振り返っていきます。
綾坂はですね、15から18歳まで、宝塚歌劇団に入りたくて夢中でした。
そう、宝ジェンズになりたかったんですよね。
もう入りたくて、入りたくて、もう絶対入るんだと。
週7で、クラシックバレーとか、声楽とか、習ってたんですよ。
で、全然苦しくなくって、もう毎日楽しかったんです。
もう入る気満々だったから。
で、もともと踊ることが大好きで、モダンバレーとかクラシックバレーは、5歳の頃から習っていたんですよ。
で、そんな経験があった綾坂がですね、高校1年生、友人のお母様にチケットをいただきまして、
たまたま宝塚を見られる機会が、めぐってきたわけですね。
初めて見たとき、そのきらびやかな舞台に、衝撃を受けまして、
えー、ここ入りたいって、一瞬で思いました。
ただ私ね、歌が苦手で、急いで母親に、私、声楽習いたい、習わせてってお願いして。
で、うちの両親は、まきこは勉強に関しては、大した才能もないし、引い出たものがないっていうのを分かっていたので、
ま、グレるよりは、何か打ち込むものがあった方がいいよね、という教育方針だったので、バレーに、歌に習わせてもらったんですね。
で、当時の綾坂はもう、宝塚絶対入るんだって、根拠のない自信満々な人だったわけなんですけれども、
なんでかっていうと、高校1年生の春休み、初めて宝塚音楽学校試験受けたんですよ。
で、特別専門の受験スクールとか入っていなかったのに、最終まで進めちゃったんですよ。
で、最終って言ったって、当時は一次試験と二次試験しかなくて、もう二次試験が最終なわけです。
すごいでしょ感を出すために、最終って、二次試験のことを言ってるんですけど、
1000人ぐらい受けての、最終二次試験まで残ったのって100人ぐらいなんですよ。
結構すごくないですか、私、自分で言うのもなんですけど。
で、当時のバレーの先生、性学の先生にも、まきちゃんすごいじゃないと、そういう宝塚受験スクール行ってないのに、そこまで進めるってなかなかないわよって、
周りがチヤホヤしだしたんですよ。
そんなんだったので、講義の時は、さらにルンルンで、うかるき満々だったんですよ。
で、もちろんね、試験日、ちゃんと緊張はしますよ。緊張はするけれども、楽しみの方が勝ってたわけです。
で、面接官の先生とかを見る余裕とかもあって、あ、振付家の超スミレ先生だとかね、内心キャーキャーしてたわけですよ。
うわぁ、いつかの先生の振付の場面踊りたいとか、そこまで思ってたわけです。受験生ながらにね。
でも、高校2年生の時もダメで落ちました。
じゃあ、次はラストチャンスだなってなったんですよ。
ようやく両親もですね、もしかしたらこの子、宝塚受かっちゃうかもしれないって思い始めて、
で、いろんなツテをね、探りまして、関西の宝塚音楽学校でも教えているような声学の先生とバレの先生っていうのを探してきてくれたんですよ。
なので、高校3年生、特に秋以降は週末、大阪まで通ってました。
なので、トヨナカとか痛みはちょっとだけ覚えてます。駅前の感じとかね、覚えてますよ。
あー懐かしいなーって、今降り立つとね、思い出がよみがえってきますね。
なんですが、忘れもしない、2000年です。高校3年生ラストチャンス。
残念ながら、桜咲かず落ちました。
もうね、今でも覚えてるんですよ。宝塚の受験発表って、当時アナログでね、発表しますって言って、
名前と受験番号がバーって書いてある紙が、ファッと公表されるんですよ。
その紙がね、表に出た瞬間を、テレビとか撮影に来てて、キャーみたいな様子が昔はね、ニュースとかなってて、春の風物詩でもあったんですけどね。
そう、あそこにいたんですよ、私。私の名前があるだろうなーっていう番号のあたりに、友人の名前は見つけたんですよ。
それが元ユキグミのサハナマコなんですけど、その子の左側に私の名前がなきゃいけなかったんです、受験番号的にね。
なのに、なくて、あれ?ない?なんで?ないわけないと思ってたんですよ。
え、これ書き間違えてないですか?って言いたくなるぐらいで、落ちた時のこと、一ビリも考えてなかったんですよ。
すごい能天気でしょ?そうなんですよ、本当にね、絵に描いたような根拠なき自信満々さで、そこがダメだったんでしょうけど、ダメな理由はね、実は後から見つかるんですけどね。
もう時すでに遅しですよね。
そう、で、宝塚音楽学校は中3から高3までっていうね、4回しかチャンスがなくて、年齢制限があるわけなんですよね。
で、私の夢は、もう一生叶わないってのが決まってしまったんです。
だから当時、生きるのが嫌になっちゃったんですよ。
っていうか、どう生きたらいいか分からないみたいな感じですかね。
なんか、死にたいともまたちょっと違って、無気力っていう言葉がぴったりかな。
何を糧に生きたらいいか分からない状態っていう。
だからあれだけ幸せだった、踊っている時間も、目標を失った瞬間、つまらなくなっちゃって、もちろんバレーとかも全部やめて。
でも、両親との約束で宝塚がもしダメだったら、浪人生活を経て、どこでもいいから、そんな偏差値ね、高いところを受かるわけないからって、
私も親も分かっていたので、どこでもいいから大学行って就職してっていうのが上天だったんです。
だから思う存分、大阪までね、通ったりとか、週7で歌とかバレーとかやらしてくれたんですよね。
そう、ちょうど桜が満開の頃でね、合格発表の頃って、
なんか春って浮き足立つじゃないですか。
なんか、あったかくなってきて、薄紅色の桜が満開でって、でも毎年毎年私思い出すんです。
本名の早坂真希子は、18歳で一度死んでると思っていて、その死ぬって言葉を乱用しない方がいいってのは分かってるんですよ。
でも、あえて使わせてほしいです。
そのぐらい、つらい時期だったんですよね。
老人生活を送ったんですけど、勉強なんてしたくないし、やりたいこともないし、高校の同級生はみんな楽しい女子大生活を送ってるだろうし、
宝塚の受験仲間は、もうほとんどが合格したので、
いいなぁ、今頃みんなタップダンスやったり、日舞やったり、演劇の授業とかあったり、いいなぁって。
とにかく合格した人が羨ましくて羨ましくて、しょうがなかったですね、あの2000年の1年間は。
あの18歳の挫折経験で、そう早坂真希子の第一章終わってんですよね。
もうね、あの時のピュアなキラキラな自分とか、目標に向かってがむしゃらに頑張るってことはできないなぁ。
ものすごいいい経験はできたし、学びがあったなって思うよ。今も思ってる。
だけど、あの頃には戻れないなぁって、理不尽な大人の世界を知っちゃったし、
あと、人間って平等じゃないんだなってことを体験しちゃったんですよ。
大人は知ってるじゃないですか。平等なわけないよね。
頭がいい人、力がある人、技術がある人、運がいい人、いろんな不平等あるよね。
でも子どもってさ、まだまだ分からなかったから、頑張ればうまくいくと思ってたんです。
努力は必ず報われるって言うじゃないですか。あれって成功者の言葉なんだなって悟ったわけです。
もちろん、成功者が努力してないわけじゃない。成功者は必ずや努力してるってのは分かる。
でも、全員が報われるわけがないんだなっていうのを知っちゃったんだよね。
頑張ったのに、夢がかなわなかったっていう経験をしちゃったから、どうでもいいやって思っちゃったんですね、人生。
という挫折経験が、18歳の春でした。
これがですね、早坂の人格形成に影響した大きな出来事の一つ目です。
大学生に一応なって、適当に近所の大学行ったんですよ。
適当にって言うと怒られるけどさ、でも本当にそうなの。本音を話すとね、適当だったんです。
さすがに徒歩圏内に大学がなかったので、とにかく生きる気力がなかったので、なるべく通学時間、短いところっていうので選んだんですよね。
あまりに元気がなさすぎて、ぐれるとか、遊んでやるみたいなエネルギーもなかったわけ。
ただ、ヨヨギの予備校に行って、座って、授業を右から左抜けるように聞いて、ぼーっとして、帰るっていう、アルバイトもせずね、そんな日々。
お恥ずかしいことに、私、小学校から高校までエスカレーター式の学校だったので、受験勉強っていうのを、幼稚園以来やったことがないんですよ。
だから、親も、「まあ、牧子はね、そんな偏差値高いところを受からないだろうね。」っていうのをわかってたんですよ。
なんて言ったって、元教師なので、二人とも。そんな甘くないよっていうのをね、知っていたので、一番近くて、なおかつ、私でも受かるようなところに入ったんですよ。
ただね、大学生になっても目標もなく、無気力な日々でした。
しかしなんですよ。しかし、その適当に入った大学で、運命の出会いがあるわけです。
それが、大学4年生の先輩、西村みずきさんという女性で、私がね、無気力な理由を聞いてくれたんですよ。
で、それをうんうんってね、宝塚落ちて、もう夢は一生叶わないから、もうこの先の人生どうでもいいんですよね。いつ死んだっていいと思ってるんです、私って言ったら。
うーん、そうなんだーって淡々と聞いてくれて、最後一言、牧子さ、この後、用事ある?ないなら、一緒にあるとこに行こうって言ってくださって、連れてってもらったのが、中目黒の東京アナウンスセミナー。
アナウンススクールだったわけです。で、西村みずきさんって、ちょうどアナウンサー就活をされている方でして、ま、後にNHKの契約キャスターに受かって、で、その後もNHKの番組制作とかされるような方なんですけどもね、その西村さんに、アナセミに連れてってもらって、
後に恩師となる創業者の永井上司先生に、初めて会ったのが大学2年生の頃でした。
早坂、この後、結構泣きます。泣きながら語ってる時間帯がありますので、そんな締めっぽいのは嫌だーって思われるかもしれませんが、
ま、祝100回ということで、それに免じてお許しください。2倍速でいいので。2倍速だったらそんなに気にならないかな?わかんないけど。という注釈をちょっとここでつけておきます。この後、いい歳して、ぐずぐず泣きながらしゃべります。
で、永井先生に、宝塚音楽学校からなくて、うんぬんかんぬんっていうね、ぼやきのような、愚痴のような、うじうじした話を先生は優しく聞いてくださったわけですよ。
そしたら、永井先生が、早坂さんは過去に生きていますね。
今を生きましょうよって言われて、
そうだよなーって。 当時も大号泣だったんですけど、
今もそれを思い出すと泣いちゃうわけですよ。 で、もちろんわかってはいましたよ。前を向かなきゃいけない。何度か。
前に進まなきゃっていうのはわかっていたけれど、 でも夢が叶わなかったのにどうやって前を向いたらいいかなってわかんなくって。
この悔しさを何にぶっ捨てたらいいかわかんなくって。 っていう話をしたら、
アナウンサーになって見返したらいいじゃんって。 西村みずきさんとか、
周りにいた、 ちょっと上の1校上2校上の先輩たちが、
何人かいて、 アドバイスくれて。
で、 こんな話もしてくれたんです。
アナウンサーってね、いろんな挫折経験してる人結構いるんだよって、 教えてくれたんですよ。
アナーサーっていう夢を、ぼんやりとですけど、 持った時が、早坂の第二章ですね。
すいません。泣きながらで。 何度か収録したんだけど、
何度とっても、この話すると涙が止まらなくて、 今でも悔しいんですよ私。
もっとああしてたらなぁ、こうしてたらなぁって。
だから、夢や目標がある人は、あざといと言われようが、
受かるための準備や練習をした方がいいと思ってます。
何度撮っても涙が止まらないので、 多分泣いたまんま使うと思いますが、
お許しください。
ああ、涙声ですいませんでした。
で、その後、なんとか仙台放送に内定することができて、 アナーサーには慣れて、
仕事は楽しかったし、満たされたわけですよ。 見返したいっていうね、その思い。
当時、地方局行っても数年仕事して、 で東京に戻ってフリーアナーサーになるっていうのが、
まあ王道パターンだったわけですよ。
じゃあ私も東京出身ということで、東京が恋しいし、 戻ってフリーアナーサーになろうかなぁと思っていた矢先、
起きたのが、東日本大震災なんですよ。
早坂の人格形成に大きく影響した出来事の2つ目です。
震災報道をまさか自分が経験するとは、
っていうね。
ちょうどね、もう仙台放送に退社しますって申請を出してしまった後だったんですよね。
なのであと3ヶ月ぐらいで辞めますっていう頃に、
あの大きな揺れが来てしまったわけですよ。
で、仙台の本社にね、あの揺れた瞬間いたんですけれど、
そう本当に立っていられないぐらいの大きな揺れで、
あーこのビルが倒壊して、
倒れたら、
がれきの下に埋まるのかなぁ、私ぐらいに思ってましたね。
なんですが、
長い揺れが収まった後、そうだ私報道側じゃん!
とね、まあ一応アナウンサー魂がありまして、
局のアナウンサーって必ずロッカーに、そういう災害報道する時用の着替えとか持ってたんですよ。長靴とかね。
なのでそれに慌てて着替えて、
ちょうどね打ち合わせ中で私眉毛も描いてないぐらいのすっぴんだったんですけど、
そんなこと構ってられないので、すっぴんで仙台駅前行ってくれって言われて、はい!つって、
カメラマンさんとアシスタントの子と3人で、仙台駅前の取材をインタビューをしてたんですよね。
で、津波がやってきたのってその後の話なんですけど、
まあちょっとね、震災報道については深掘りしちゃうと、
悲しくてやるせない話ばっかりなので、やめておきますね。
あと今回の取材と話がずれますので。
で、仙台にはいたんですけれど、私被災者とは言えなくって、何でかというと取材をするとね、
家族を失い、家を失い、仕事を失いっていう方が、
何千、何万といらっしゃったわけですよ。
そういった方たちが近くにいらっしゃる中で、
私被災者ですとはとても言えないよねっていうのが、仙台にいた人たちの大体の、
全員とは言わないよ、大体の人たちの感覚でしたね。
ましてや福島の人たちの気持ちを考えたら、なんという理不尽さですよね。
その後10年以上、今もですけど、影響があって、
引っ越しせざるを得なかったり、普通の暮らしができなかったり、いろんなものを失ったりね。
3.11は一言でまとめられないけど、一生懸命どうやったらまとめられるかなって、この台本を考えててね、
出てきた言葉が、自然災害の理不尽さと人間の恐ろしさを体験しちゃったなっていう出来事でしたね。
あの頃から変わったなっていうのが、幸せの沸点がものすごく低くなりました。
私、日常に感謝っていう言葉をあまり多用すると、ちょっとスピリチュアルすぎちゃう。
わかります?言いたいこと。別にバカにしてるわけじゃないよ。スピリチュアルな人たちをバカにしてるわけじゃないけど、
あまりね感謝感謝とか言ってると、早坂さん大丈夫って言われそうですけど、でもね、
そう、平和に普通の暮らしができる幸せっていうのを、ものすごい感じるんですよ。今でも。
もう電気がつくだけで、水が出るだけで、お風呂に入れてトイレが使えて、電車やバスが動いてるってだけで、
あー幸せだなーって思っちゃう。でもそれ言うとさ、変な人って思われるから言えないけど。
で、たまたま私がこんな話をしたお相手がね、神戸の阪神淡路大震災を経験した方だったことがあるんですよ。
もうその瞬間、2人で手と手を取り合って、わかるーって言われたんです。
そう、だからね、大震災を経験した人みんな、大なり小なりこの思いやるんじゃないかな。
震災後1週間後ぐらいに、ようやくお風呂入れた時、泣いたもんね、やっぱりね。
お風呂に入れるって、なんて幸せなんだろうって。
ですし、ご飯がある喜び、スーパーやコンビニが空いている喜び、それはコロナ禍でもね、ちょっとみなさんも感じましたよね、きっと。
平穏な日常がなんとありがたいことかっていう。
あと私、納豆ご飯が大好きで、3.11の後、初めて納豆ご飯食べたのをいつか忘れたんですけど、
その時も嬉しかったなー、あの納豆ご飯はね、今でも忘れられない。
美味しかったなー、幸せだなーって思ったんですよね。
そう、あの頃からね、幸せの沸点がめちゃめちゃ低いんです、私。
っていうのと、3.11を経験してから、生きているうちに悔いなく頑張るって素敵なことだよね、っていうのが色濃くなりましたかね。
で、2011年仙台放送を退社して、フリーランスとしてイベント司会とか、講演会の司会とかやってたんですけど、
でもやっぱり宮城のことは忘れられないしなーと思って、知り合いの方と一緒に被災地支援をちょっとだけやってたんですよ、当時数年間。
で、ちょこちょこ東北に行くと、前向きに生きる東北とか宮城の人たちとか子供たちと触れ合っていると、
次世代に何か恩返してきたらいいなーって考えるようになったんですよね。
あんなにつらい大変な大震災があったのに、笑顔で暮らしている幼稚園とか小学生とかと触れ合うと、
この子たちがいるからきっと大人たちも復興を頑張れるんだろうなと、その一端を担えたらいいなーなんてね、思ったんですよ。
と、ぼんやり考えて、あれから13年、今もオファーが続いているっていうね、仕事の多くが話し方指導関連なんですよ。
特に若い世代とか学生さん対象のね、で、都内の大学ですとか、母校であるアナセミで就職活動の面接対策とかね、
社会人としても通用するような人前で話すスキルを磨こうね、といった内容の授業を担当しているので、これは生かされた命、次世代に何か恩返しを話し方講師としてしていったらいいんじゃないの?って言われているのかもなと、勝手な解釈ですけどね、思っていて、だから頑張れています。
こういった経緯で、学生さんとか若い世代の夢を叶えるお手伝いがしたい。
話し方を磨くことで自信がつくし、自信がつくと希望の触手につけるとか、こうでありたい自分になれるとかね、話し方、伝え方を磨くことって、夢を叶えるに直結するなーって、話し方講師やってて気づいたんですよ。
なので、その夢を叶えるお手伝いができたらいいなーだし、それを続けたいし、ポッドキャストって無料で聞けるじゃないですか。
大人はさ、高いレッスン料とか払って、スピーチトレーナーとかボイストレーナーとか、レッスン受けたり通えたりするけど、若い子たちってそんなさ、5000円とか3000円でも貴重だからさ。
ましてや1万円を超えるレッスン料なんて、なかなか払える人、限られてきちゃうわけですよね。
なので、誰もが平等に聞けるポッドキャストで、ちょっとした話し方のコツを伝授していけたらいいなーっていう思いでやってます。
ということで、私の自分語りの回でしたので、離脱率高いだろうなーと思ってはいるんですけど、しかも暗い話多いからね。
でもね、私という人間を作った大きな出来事の2つがあれなんですよ。
きっと皆さんも明るく元気に、朗らかに振る舞っていても、何かしら挫折経験を過去にしたとか、今真っ只中ですとか、いろんなもの抱えてますよね、みんな。
いろいろある暮らしの中で、もし何か夢をかなえたいという方がいらっしゃったら、そしてそれがしゃべりに関するものだったら、お悩み聞きますので、
どうぞ、Xとかインスタグラム、YouTubeのコメント欄、番組概要欄のお便りフォーム、もしくはリアルな知り合い、お友達は直接、LINEとかメールとか、DMください。
打ち捨てています。お名前とか学校名、職業などは、必ず隠して、ぼやかして、番組内でお答えしますので、ご安心ください。
番組のフォローも、ぜひぜひよろしくお願いします。ここまで聞いてくださっているということは、もうとっくにフォロー済めかもしれないですけど、
フォローし忘れてたという方は、ぜひスポーティファイ、もしくはYouTubeの方、フォローをよろしくお願いいたします。
と言いますことで、今回は100回記念ということで、お許しください。自分がたりの回でした。
次回は101回です。シーズン2とかではなく、もう101、102って続けることにしました。
なぜなら、数が多い方が、私がんばってんじゃんって、数字を見て、自分で自分に拍手を送れるからです。
次回から、特に何かスタイルを変えるとかは、何もないと思ってください。
1個だけ変化があります。100回目を迎えまして、Twitterじゃなかった、Xのヘッダーと、YouTubeのヘッダーを、新しいロゴに変えました。
ポッドキャストのアートワークはそのまんま、ちょっと真面目系にしてるんですけど、あまりにも真面目すぎて、ちょっと敷居が高いって思われるそうなので、
いや、そんなことないんだよっていうので、ポップなロゴにしたいなと思って、白川みのりさんという方にお願いし、書いていただきました。
プロの方の作品なので、かわいいよ。かわいいでしょ。見てね。
TwitterとYouTubeのヘッダーを変えたぐらいでしょうか。変化はね。
もう、しゅくしゅくと、たんたんと、いつも通り101回目を 次回迎えると思います。
と言いますことで、ここまでお聞きいただき ありがとうございました。
それではみなさん、一緒に 前向きに がんばりましょう。
これからも どうぞ どうぞ よろしく お願いいたします。
さあ、ちょこっとだけおまけ雑談コーナー まいりましょう。
第2回ポッドキャストスターアワードについて 続報です。
前回におわせていた 重大発表第2弾は、ナックファイブ様が ご協賛決定ということでした。
そう、7月12日の土曜日の夜、情報解禁ということでしたので、
この番組、金曜日毎週更新ですので、前回言えなかったんですよね。
まだ情報公開日ではなかったので。
そうなんですよ。埼玉のFMラジオ局ナックファイブ、
ポッドキャストスターアワードの主催者である山陰博史が、
もともとラジオパーソナリティだったって話は、この番組では何度も何度もしてますよね。
その後縁なんですよ。ナックファイブでも番組を持っていらっしゃって、ヒーローさんは。
しかも、深夜帯の担当番組だったらしいんですけど、
15年ぐらい前、当時まだ日本ではそこまで広まっていないポッドキャスターさんを、
ラジオ番組に呼んで、ゲストとしてお迎えしてたんですって。
っていう企画を自分で作ってたらしいんですよ。
その頃からヒーローさんは、ポッドキャストの面白さ、魅力にはまってたらしくて。
そういった経緯もよくご存知のナックファイブさんが、ポッドキャストスターアワードの理念とかに賛同してくださって、
たぶん山陰博史さんが頑張ってそういうのを立ち上げているなら、ということでご協賛くださいました。
そのご協賛を、上層部の人がいいよって反抗してくれた理由の一つに、皆さんの盛り上げが大きく影響しているそうです。
ポッドキャストスターアワードのハッシュタグがついたポストを、Xでいいねをしたり、リポストしたり、
あと番組内で応援しますって言ってくださったりとか、一緒に盛り上げてくださって、本当に本当にありがとうございます。
やっぱね、その動きを、ムーブメントをナックファイブの上層部の方たちも見てるそうですよ。
見てたんですって、っていうか現在進行形でご覧になっていると思います。
ということで、すでにエントリー済みの方、あなたの番組、ナックファイブの関係者が聞いております。
ってなると、おおおおってなりません?
あ、ちょっとラジオの人聞いてるんだ。うーんって急にソワソワする方いるかもしれないですね。
ですし、これからエントリーしようかなーって思ってた方。
あ、なにナックファイブの、つまりプロの制作者の人たちが聞いているんだ。
ほー、なるほどねーってね。
さらに戦略を練りたい方もいらっしゃるでしょう。
締め切りは8月31日ですので、まだ時間あります。
でも本当にありがたいことですね。ヒーローさんさすがだなーと思って。
なんか去年の第1回のポッドキャストスターアワード開催のことも、もちろんラジオ局、各局、皆さん知っててくださっていてね。
で、ヒーローさん、まあラジオパーソナリティだから、まあいろんなラジオ局さんとの
捨てがあるわけですよ。知り合いがいっぱいいるわけ。
やっぱりそういう方とお会いすると、スターアワードどうだったみたいな話になるんですって、初回ね、去年の話。
で、今年もやるんですよって話を、いろんなラジオ局行っては対面でちゃんと説明して、
こういう流れですよ、今こうなってますよーっていうね、ムーブメントのことも説明して見ていただいてっていう流れですので、
いやーいいですね。嬉しいですね。本当に今回公式で、公式ですよ。社としてですよ。
会社として、ラジオ局として、ナックファイブがポッドキャストスターアワードに担当し、応援してくれるというわけです。
心強いですね。
ね、あの名古屋のポッドキャストミキサーですとか、夜景劇とか、
今年はなんかいろいろとポッドキャスト関連のイベントがオフラインでもありますから、
皆さんいろんな形で楽しんでいただけたらいいなぁと思いますし、それぞれのイベントさんと共にね、一緒に盛り上げていけたらいいなぁと思うわけですよ。
他がどう思ってるかわかんないですけど、私はポッドキャスト会話、みんな仲良くやったらいいんじゃないの?と思います。
個人だろうが、企業だろうが、有名人だろうが、一般人だろうが、もう垣根を取っ払いたいっていうのが、うちのヤマカイヒーロー代表の夢ですからね。
そう、ヒーローさんの夢をかなえるために、私もできることをやっていきたいです。
うまくしまったんじゃない?これ。夢を叶えたい。タイトルに引っ掛けて、ヒーローさんの夢を叶えたい。
仕入れはポッドキャスターさんたちの夢を叶えたい。
はい、ということで、その先どう締めたらいいかわかんなかったわ。