【しゃべりの相談室】、おかげさまで、ポッドキャスト配信100回目を迎えました。
毎回聞いてくださっている優しいあなた、たまーに聞いてくださっているそこのあなた、今回たまたま聞いてくださっている初見のあなた、皆さん本当に本当にありがとうございます。
ということで、今回は完全なる自分語り化になっちゃいます。
ただ、ここはポッドキャスト、自由な世界です。
自分語りしても何しても、誰にもとがめられないので、節目にリスタートの意味で、この番組への思いを語ります。
私はですね、夢を叶えるお手伝いがしたいんですよ。
急に真面目。
なぜならね、自分は夢を叶えられなかった人間だからなんですよ。
なぜこの思いに至ったのかっていうのを、15歳の高校生から振り返っていきます。
綾坂はですね、15から18歳まで、宝塚歌劇団に入りたくて夢中でした。
そう、宝ジェンズになりたかったんですよね。
もう入りたくて、入りたくて、もう絶対入るんだと。
週7でクラシックバレーとか、声楽とか、習ってたんですよ。
で、全然苦しくなくって、もう毎日楽しかったんです。
もう入る気満々だったから。
で、もともと踊ることが大好きで、モダンバレーとかクラシックバレーは、5歳の頃から習っていたんですよ。
で、そんな経験があった早坂がですね、高校1年生、友人のお母様にチケットをいただきまして、
たまたま宝塚を見られる機会がめぐってきたわけですね。
初めて見たとき、そのきらびやかな舞台に衝撃を受けまして、
え、ここ入りたいって、一瞬で思いました。
ただ私ね、歌が苦手で、急いで母親に、私、声楽習いたい、習わせてってお願いして。
で、うちの両親は、まきこは勉強に関しては、大した才能もないし、引い出たものがないっていうのをわかっていたので、
ま、グレるよりは、何か打ち込むものがあったほうがいいよね、という教育方針だったので、バレーに、歌に習わせてもらったんですね。
で、当時の早坂は、もう宝塚、絶対入るんだって、根拠のない自信満々な人だったわけなんですけれども、
何でかっていうと、高校1年生の春休み、初めて宝塚音楽学校試験受けたんですよ。
で、特別専門の受験スクールとか入っていなかったのに、最終まで進めちゃったんですよ。
で、最終って言ったって、当時は一次試験と二次試験しかなくて、もう二次試験が最終なわけです。
すごいでしょ感を出すために、最終って、二次試験のことを言ってるんですけど、
1000人ぐらい受けての、最終二次試験まで残ったのって、100人ぐらいなんですよ。
結構すごくないですか私、自分で言うのもなんですけど。
で、当時のバレーの先生、性学の先生にも、まきちゃんすごいじゃないと、そういう宝塚受験スクール行ってないのに、
そこまで進めるってなかなかないわよって、もまわりがちやほやしだしたんですよ。
そんなんだったので、講義の時は、さらにルンルンで、うかるき満々だったんですよ。
で、もちろんね、試験日、ちゃんと緊張はしますよ。緊張はするけれども、楽しみの方が勝ってたわけです。
で、面接官の先生とかを見る余裕とかもあって、あ、振付家のショー・スミレ先生だ!とかね、内心キャーキャーしてたわけですよ。
うわー、いつかの先生の振付の場面踊りたいとか、そこまで思ってたわけです。受験生ながらにね。
でも、高校2年生の時もダメで落ちました。じゃあ次はラストチャンスだなってなったんですよ。
ようやく両親もですね、もしかしたらこの子、宝塚受かっちゃうかもしれないって思い始めて、
で、いろんなツテをね、あの探りまして、関西の宝塚音楽学校でも教えているような、
和製楽の先生とバレの先生っていうのを探してきてくれたんですよ。
なので、高校3年生、特に秋以降は週末、大阪まで通ってました。
なので、豊中とか板見はちょっとだけ覚えてます。駅前の感じとかね、覚えてますよ。
あー懐かしいなーって、今降り立つとね、思い出がよみがえってきますね。
なんですが、忘れもしない、2000年です。高校3年生ラストチャンス。
残念ながら、桜咲かず落ちました。
もうね、今でも覚えてるんですよ。宝塚のね、受験発表って、当時アナログでね、発表しますって言って、
こう名前と受験番号がバーって書いてある紙が、ファッと公表されるんですよ。
その紙がね、表に出た瞬間を、テレビとか撮影に来てて、キャーみたいな様子が、昔はね、ニュースとかなってて、春の風物詩でもあったんですけどね。
そう、あそこにいたんですよ、私。私の名前があるだろうなーっていう、番号のあたりに、友人の名前は見つけたんですよ。
それが、元雪組の佐原真子なんですけど、その子の左側に、私の名前がなきゃいけなかったんです。
受験番号的にね。なのに、なくて、あれ?ない?なんで?ないわけないと思ってたんですよ。
これ、書き間違えてないですか?って言いたくなるぐらいで、落ちた時のこと、一ビリも考えてなかったんですよ。
すごい能天気でしょ?そうなんですよ。本当にね、絵に描いたような根拠なき自信満々さで、そこがダメだったんでしょうけど、ダメな理由はね、実は後から見つかるんですけどね。
もう時すでに遅しですよね。そう、で、宝塚音楽学校は、中3から高3までっていうね、4回しかチャンスがなくて、年齢制限があるわけなんですよね。
で、私の夢は、もう一生叶わないってのが決まってしまったんです。
だから当時、生きるのが嫌になっちゃったんですよ。
っていうか、どう生きたらいいか分からないみたいな感じですかね。なんか、死にたいともまたちょっと違って、無気力っていう言葉がぴったりかな。
何を糧に生きたらいいか分からない状態っていう。
だからあれだけ幸せだった、踊っている時間も、目標を失った瞬間、つまらなくなっちゃって、もちろんバレーとかも全部やめて。
でも、両親との約束で、宝塚がもしダメだったら、
浪人生活を経て、どこでもいいから、そんな偏差値高いところを受かるわけないからって、私も親も分かっていたので、どこでもいいから大学行って就職してっていうのが上点だったんです。
だから思う存分、大阪までね、通ったりとか、週7で歌とかバレーとか、やらせてくれたんですよね。
そう、ちょうど桜が満開の頃でね、広角発表の頃って、なんか春って浮き足立つじゃないですか。
なんか、あったかくなってきて、薄紅色の桜が満開でって、でも毎年毎年、私思い出すんです。
本名の早坂真希子は、18歳で一度死んでると思っていて、
その、死ぬって言葉を乱用しない方がいいってのは分かってるんですよ。でも、あえて使わせてほしいです。
そのぐらい、つらい時期だったんですよね。
浪人生活を送ったんですけど、勉強なんてしたくないし、やりたいこともないし、高校の同級生はみんな楽しい女子大生活を送ってるだろうし、
宝塚の受験仲間は、もうほとんどが合格したので、いいなぁ、今頃みんなタップダンスやったり、日舞やったり、演劇の授業とかあったり、いいなぁって。
とにかく、合格した人が羨ましくて羨ましくて、しょうがなかったですね、あの2000年の1年間は。
あの18歳の挫折経験で、そう、早坂真希子の第一章終わってんですよね。
もうね、あの時のピュアなキラキラな自分とか、目標に向かってがむしゃらに頑張るってことはできないなぁ。
ものすごい良い経験はできたし、学びがあったなって思うよ。今も思ってる。
だけど、あの頃には戻れないなぁって、理不尽な大人の世界を知っちゃったし、あと、人間って平等じゃないんだなってことを体験しちゃったんですよ。
大人は知ってるじゃないですか。平等なわけないよね。
頭がいい人、力がある人、技術がある人、運がいい人、いろんな不平等あるよね。
でも、子供ってさ、まだまだ分からなかったから、頑張ればうまくいくと思ってたんです。
努力は必ず報われるって言うじゃないですか。あれって、成功者の言葉なんだなって、悟ったわけです。
もちろん、成功者が努力してないわけじゃない。成功者は必ずや、努力してるってのは分かる。
でも、全員が報われるわけがないんだなっていうのを、知っちゃったんだよね。
頑張ったのに、夢がかなわなかったっていう経験をしちゃったから、どうでもいいやって思っちゃったんですね、人生。
という挫折経験が、18歳の春でした。
これがですね、早坂の人格形成に影響した大きな出来事の一つ目です。
大学生に一応なって、適当に近所の大学に行ったんですよ。
適当にって言うと怒られるけどさ、でも本当にそうなの。本音を話すとね、適当だったんです。
さすがに徒歩圏内に大学がなかったので、とにかく生きる気力がなかったので、なるべく通学時間、短いところっていうので選んだんですよね。
あまりに元気がなさすぎて、ぐれるとか、遊んでやるみたいなエネルギーもなかったわけ。
ただ、ただよよりの予備校に行って、座って、授業を右から左抜けるように聞いて、ぼーっとして、で帰るっていう。
で、アルバイトもせずね、そんな日々。
で、お恥ずかしいことに私、小学校から高校までエスカレーター式の学校だったので、受験勉強っていうのを幼稚園以来やったことがないんですよ。
だから親も、まあ牧子はね、そんな偏差値高いところを受からないだろうねっていうのを分かってたんですよ。
なんて言ったって元教師なので、二人とも。そんな甘くないよっていうのをね、知っていたので。
で、一番近くて、なおかつ私でも受かるようなところに入ったんですよ。
ただね、大学生になっても目標もなく、無気力な日々でした。しかしなんですよ。
しかし、その適当に入った大学って言ったら、本当に怒られるんですけど、その適当に入った大学で運命の出会いがあるわけです。
それが、私が1年生だったんですけど、大学4年生の先輩西村みずきさんという女性で、私がね、無気力な理由を聞いてくれたんですよ。
で、それをうんうんってね、宝塚落ちて、もう夢は一生叶わないから、もうこの先の人生どうでもいいんですよね。いつ死んだっていいと思ってるんです、私って言ったら。
そうなんだーって淡々と聞いてくれて、最後一言、まきこさ、この後用事ある?ないなら一緒にあるとこに行こうって言ってくださって、連れて行ってもらったのが、中目黒の東京アナウンスセミナー、アナウンススクールだったわけです。
西村みずきさんって、ちょうどアナウンサー就活をされている方でして、後にNHKの契約キャスターに受かって、その後NHKの番組制作とかされるような方なんですけどもね、その西村さんにアナウンススクールに連れて行ってもらって、
後に恩師となる創業者の永井上司先生に初めて会ったのが、大学2年生の頃でした。
早坂、この後、結構泣きます。泣きながら語ってる時間帯がありますので、そんな締めっぽいの嫌だって思われるかもしれませんが、祝100回ということで、それに免じてお許しください。
2倍速でいいので、2倍速だったらそんなに気にならないかな。わかんないけど。という注釈をちょっとここでつけておきます。この後、いい歳して、ぐずぐず泣きながらしゃべります。
で、永井先生に宝塚音楽学校からなくて、うんぬんかんぬんっていうね、ぼやきのような、愚痴のような、うじうじした話を先生は優しく聞いてくださったわけですよ。
そしたら、永井先生が、早坂さんは過去に生きていますね。
今を生きましょうよって言われて、
そうだよなって。 当時も大号泣だったんですけど、
今もそれを思い出すと泣いちゃうわけですよ。 で、もちろんわかってはいましたよ。前を向かなきゃいけない、何度か。
前に進まなきゃっていうのはわかっていたけれど、でも夢が叶わなかったのに、どうやって前を向いたらいいかなってわかんなくって。
この悔しさを何にぶつけたらいいかわかんなくって。 っていう話をしたら、
アナウンサーになって見返したらいいじゃんって。 西村みずきさんとか、
周りにいた、 ちょっと上の1校上2校上の先輩たちが、
何人かいて、アドバイスくれて。
で、 こんな話もしてくれたんです。
アナウンサーってね、いろんな挫折経験してる人結構いるんだよって、教えてくれたんですよ。
例えば、甲子園目指してた高校球児、野球やってた人でも、県大会で惜しくも準優勝でした。
そうすると、どんなに惜しくても、どんなにいい選手でも、やっぱり甲子園行ってないっていうのは、運勢の差で負けたら終わりじゃないですか。
その瞬間で、特に高校3年生は、 甲子園という目は一生かなわないわけじゃないですか。
ああ、同じ経験してる人いるんだって、嬉しくて。 その時に、
そっか、挫折してる人っていっぱいいるんだなって、 知ったんです。
多分西村みずきさんは、 そのことを、
私に知って欲しかったんだろうなと思って。 先輩の優しさもだし、
周りの人たちがね、 すごくこう、
悔しかった過去を抱えながらも、今度はアナウンサーという夢で、 別の目標を達成させようという、
キラキラした感じが、なんか救われたんですよね。
あ、そっか。 夢が叶わなかったら人生終わりじゃないんだ。
私は人生終わりだと思ってたんです。 だって夢叶わなかったんだもん。
生きてる価値ありますか? なくないですか?って思ってたわけ。
親にもそれを言って、親は黙ってました。 何を言ってもこの子は、
頑固なその思い、消えないだろうなって、 考えてたんでしょうね。
なので私は今その、アナゼミで教える側として、 講師側になっているわけですけど、
恩返しでもあるんです。 多分私はアナゼミに出会ってなかったら、本当に、
いつ死んでもいいやって思ってたはず。
だから命救われたその場所を、 途絶えさせたくないなぁと思って。
そこの門を叩いてくれた生徒さんたちには、 夢を叶えてほしいなぁって、
思って、 頑張っています。
アナーサーっていう夢を、ぼんやりとですけど、 持った時が、早坂の第二章ですね。
すいません。泣きながらで、 何度か収録したんだけど、
何度とっても、 この話すると涙が止まらなくて、
今でも悔しいんですよ私。 もっとああしてたらなぁ、こうしてたらなぁって。
だから、夢や目標がある人は、 あざといと言われようが、
受かるための準備や練習をした方がいいと、 思っています。
何度とっても涙が止まらないので、 多分泣いたまんま使うと思いますが、
お許しください。 ああ、涙声ですいませんでした。
で、その後、なんとか仙台放送に内定することができて、 アナーサーには慣れて、仕事は楽しかったし、
まあ満たされたわけですよ。 見返したいっていうね、その思い。
当時、地方局行っても数年仕事して、 で東京に戻ってフリーアナーサーになるっていうのが、
まあ王道パターンだったわけですよ。 じゃあ私も東京出身ということで、東京が恋しいし、
戻ってフリーアナーサーになろうかなぁと思っていた矢先、
起きたのが、東日本大震災なんですよ。
早坂の人格形成に大きく影響した出来事の2つ目です。
震災報道をまさか自分が経験するとは、
っていうね。ちょうどね、もう仙台放送に退社しますって申請を出してしまった後だったんですよね。
なので、あと3ヶ月ぐらいで辞めますっていう頃に、 あの大きな揺れが来てしまったわけですよ。
で、仙台の本社にね、あの揺れた瞬間いたんですけれど、
そう、本当に立っていられないぐらいの大きな揺れで、
ああ、このビルが倒壊して、
倒れたら、がれきの下に埋まるのかな、私ぐらいに思ってましたね。
なんですが、長い揺れが収まった後、「そうだ、私報道側じゃん!」とね、
まあ一応アナウンサー魂がありまして、局のアナウンサーって必ずロッカーに、そういう災害報道する時用の着替えとか持ってたんですよ。長靴とかね。
なのでそれに慌てて着替えて、ちょうどね、打ち合わせ中で私眉毛も描いてないぐらいのすっぴんだったんですけど、
もうそんなこと構ってられないので、すっぴんで仙台駅前へ行ってくれって言われて、はい!つって、
カメラマンさんとアシスタントの子と3人で、仙台駅前の取材をインタビューをしてたんですよね。
で、津波がやってきたのってその後の話なんですけど、
まあちょっとね、震災報道については深掘りしちゃうと悲しくてやるせない話ばっかりなので、やめておきますね。
あと今回の取材と話がずれますので。
で、仙台にはいたんですけれど、私被災者とは言えなくて、何でかというと取材をするとね、
家族を失い、家を失い、仕事を失いっていう方が何千何万といらっしゃったわけですよ。
そういった方たちが近くにいらっしゃる中で、私被災者ですとはとても言えないよねっていうのが、
仙台にいた人たちのだいたいの、全員とは言わないよ、だいたいの人たちの感覚でしたね。
ましてや福島の人たちの気持ちを考えたら、なんという理不尽さですよね。
その後10年以上、まあ今もですけど、影響があって、引っ越しせざるを得なかったり、
普通の暮らしができなかったり、いろんなものを失ったりね。
で、3.11は、まあ一言でまとめられないけど、一生懸命どうやったらまとめられるかなって、この台本考えててね。
出てきた言葉が、自然災害の理不尽さと人間の恐ろしさを体験しちゃったなっていう出来事でしたね。
あの頃から変わったなっていうのが、幸せの沸点がものすごく低くなりました。
私、日常に感謝っていう言葉をあまり多用すると、ちょっとスピリチュアルすぎちゃう。
わかります?言いたいこと。
別に馬鹿にしてるわけじゃないよ。スピリチュアルな人たちを馬鹿にしてるわけじゃないけど、
あまりね感謝感謝とか言ってると、早坂さん大丈夫って言われそうですけど、でもね、
平和に普通の暮らしができる幸せっていうのを、ものすごい感じるんですよ。今でも。
もう電気がつくだけで、水が出るだけで、お風呂に入れてトイレが使えて、電車やバスが動いてるってだけで、
ああ幸せだなって思っちゃう。
でもそれ言うとさ、変な人って思われるから言えないけど。
で、たまたま私がこんな話をしたお相手がね、神戸の阪神淡路大震災を経験した方だったことがあるんですよ。
もうその瞬間2人で手と手を取り合って、わかるって言われたんです。
そう、だからね、大震災を経験した人みんな大なり小なりこの思いあるんじゃないかな。
震災後1週間後ぐらいにようやくお風呂入れた時、泣いたもんね、やっぱりね。
お風呂に入れるってなんて幸せなんだろうって。
ですし、ご飯がある喜び、スーパーやコンビニが空いている喜び、それはコロナ禍でもね、ちょっとみなさんも感じましたよね、きっと。
平穏な日常がなんとありがたいことかっていう。
あと私、納豆ご飯が大好きで、3.11の後初めて納豆ご飯食べたのをいつか忘れたんですけど、その時も嬉しかったなぁ、あの納豆ご飯はね、今でも忘れられない。
美味しかったなぁ、幸せだなぁって思ったんですよね。
そう、あの頃からね、幸せの不定味がめちゃめちゃ低いんです、私。
っていうのと、3.11を経験してから、生きているうちに悔いなく頑張るって素敵なことだよね、っていうのが色濃くなりましたかね。
で、2011年仙台放送を退社して、フリーランスとしてイベント司会とか講演会の司会とかやってたんですけど、でもやっぱり宮城のことは忘れられないしなぁと思って、知り合いの方と一緒に被災地支援をちょっとだけやってたんですよ、当時数年間。
で、ちょこちょこ東北に行くと、前向きに生きる東北とか宮城の人たちとか子供たちと触れ合っていると、次世代に何か恩返してきたらいいなぁって考えるようになったんですよね。
あんなにつらい大変な大震災があったのに、笑顔で暮らしている幼稚園とか小学生とかと触れ合うと、この子たちがいるからきっと大人たちも復興を頑張れるんだろうなと、その一端を担えたらいいなぁなんてね、思ったんですよ。
とぼんやり考えて、あれから13年、今もオファーが続いているっていうね、仕事の多くが話し方指導関連なんですよ。特に若い世代とか学生さん対象のね。
都内の大学ですとか、母校であるアナセミで就職活動の面接対策とかね、社会人としても通用するような人前で話すスキルを磨こうねといった内容の授業を担当しているので、これは生かされた命、次世代に何か恩返しを話し方講師としてしていったらいいんじゃないのって言われているのかもなと、勝手な解釈ですけどね。
思っていて、だから頑張れています。
こういった経緯で学生さんとか若い世代の夢を叶えるお手伝いがしたい。
話し方を磨くことで自信がつくし、自信がつくと希望の触手につけるとか、こうでありたい自分になれるとかね。
話し方や伝え方を磨くことは、夢を叶えるに 直結するなと 話し方講師をやっていて 気づいたのです。
その夢を叶えるお手伝いができたらいいなと、それは続けたいし、ポッドキャストは 無料で聞けるじゃないですか。
大人は 高いレッスン料とか払って スピーチトレーナーとか ボイストレーナーとか レッスン受けたり 通ったりするけど、
若い子たちって 5,000円とか 3,000円でも 貴重だから。
ましてや 1万円を超える レッスン料なんて、なかなか払える人を 借りられて きちゃうわけですよね。
なので 誰もが 平等に聞ける ポッドキャストで、ちょっとした話し方のコツを 伝授していけたらいいな という思いで やっています。
ということで 私の自分語りの回でしたので、離脱率高いだろうなぁと思ってはいるんですけど、しかも 暗い話多いからね。
でもね 私という人間を作った 大きな出来事の2つが あれなんですよ。
きっと 皆さんも 明るく元気に ほがらかに 振る舞っていても 何かしら 挫折経験を 過去にしたとか 今 真っ只中ですとか いろいろなものを かかえていますよね。
いろいろある 暮らしの中で もし 何か夢をかなえたいという方が いらっしゃったら そして それが しゃべりに関するものだったら お悩み聞きますので、
どうぞ xとかインスタグラム YouTubeのコメント欄 番組概要欄の お便りフォーム もしくは リアルな 知り合い お友達は 直接 LINEとかメールとか DMください。
受け捨てています。
お名前とか 学校名 職業などは 必ず 隠して ぼやかして 番組内で お答えしますので ご安心ください。
番組のフォローも ぜひよろしくお願いします。
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今回は 100回記念ということで お許しください 自分がたりの回でした。
次回は 101回です。
シーズン2とかではなく 101、102って 続けることにしました。
なぜなら 数が多い方が 私 頑張ってんじゃんって 通知を見て 自分に拍手を送れるからです。
次回から 特に 何かスタイルを変えるとかは 何もないと思ってください。
1個だけ 変化があります。
100回目を 迎えまして。
Twitter じゃなかった Xのヘッダーと YouTubeのヘッダーを 新しいロゴに変えました。
Podcastのアートワークは そのまんま ちょっと 真面目系にしてるんですけど
あまりにも真面目すぎて ちょっと 色が高いって 思われるそうなので
いや そんなことないんだよ っていうので ポップなロゴにしたいなと思って
白川みのりさんに お願いし 書いていただきました プロの方の 作品なので かわいいよ かわいいでしょ 見てね。
TwitterとYouTubeのヘッダーを 変えたぐらいでしょうかね 変化は。
いつも通り 101回目を 次回 迎えると 思います。
ここまで お聞きいただき ありがとうございました。
それでは みなさん 一緒に 前向きに がんばりましょう。
これからも どうぞ どうぞ よろしくお願いいたします。
さあ ちょこっとだけ おまけ 雑談コーナー まいりましょう。
第2回 ポッドキャストスターアワードについて 続報です。
前回におわせていた 重大発表 第2弾は、
ナックファイブ様が ご協賛決定 ということでした。
そう 7月12日の土曜日の夜 情報解禁 ということでしたので
この番組 金曜日毎週更新ですので 前回 言えなかったんですよね。
まだ 情報公開日ではなかったので。
そうなんですよ 埼玉の FMラジオ局 ナックファイブ
ポッドキャストスターアワードの 主催者である 山陰 卑弘氏が
もともと ラジオパーソナリティ だったって話は
この番組では 何度も何度も してますよね。
その後縁なんですよ。
ナックファイブでも 番組を持っていらっしゃって 卑弘さんは。
しかも 深夜帯の担当番組だったらしいんですけど
15年ぐらい前 当時 まだ日本では そこまで広まっていない
ポッドキャスターさんを ラジオ番組に呼んで
ゲストとして お迎えしてたんですって
っていう企画を 自分で作ってたらしいんですよ。
その頃から 卑弘さんは ポッドキャストの面白さ
魅力にはまってたらしくて
そういった経緯も よくご存知の ナックファイブさんが
ポッドキャストスターアワードの 理念とかに賛同してくださって
たぶん 山陰卑弘さんが 頑張って そういうのを 立ち会えてるなら
っていうことで ご協賛くださいました。
そのご協賛を 上層部の人が いいよって 反抗してくれた理由の一つに
皆さんの盛り上げが 大きく影響しているそうです。
ポッドキャストスターアワードの ハッシュタグがついたポストを
Xでいいねをしたり リポストしたり
番組内で応援しますって 言ってくださったりとか
一緒に盛り上げてくださって 本当に本当にありがとうございます。
やっぱね その動きを ムーブメントを ナックファイブの上層部の方たちも
見てるそうですよ。 見てたんですって
っていうか 現在進行形で ご覧になってると思います。
ということで 既にエントリー済みの方
あなたの番組 ナックファイブの関係者が 聞いております。
ってなると おおおおおおってなりません?
ちょっとラジオの人聞いてるんだ うーんって急にソワソワする方
いるかもしれないですね。
ですし これからエントリーしようかなーって 思ってた方
あ何 ナックファイブの つまりプロの制作者の人たちが
聞いているんだ ほーなるほどねーってね
さらに戦略を練りたい方も いらっしゃるでしょう。
締め切りは8月31日ですので まだ時間あります。
でも本当にありがたいことですね いやヒーローさんさすがだなー