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皆さん、こんばんは。2024年5月29日、水曜日、ツカサです。
この放送は、ベンチャー企業の管理職、ツカサが日々の仕事や生活の中での学びや気づきをシェアする番組です。
皆さん、こんばんは。ちょっとお時間空きましたが、いかがお過ごしでしたでしょうか。
私はですね、先週末行われましたステージレース三陸130というのに出てきました。
このステージレース三陸130というのは何かというと、岩手県の沿岸、三陸地方なんですけど、
そこの宮古市ですね、そこから被災地の場所をずっと巡って130キロ走るという3日間かけて走るステージレースというものになります。
レースとは言いますけれども、そんな位置以外は順位を決めない、タイムは計測するけれども順位はつけませんというような大会のレースの趣旨があって、目的はですね、
目的は何かというと、このレースを通じて3.11以降ですね、被災地の復興をしていく様や過去と未来、過去と今と未来を伝えていくという、そういう目的があるんですよね。
だからすごくレーシーな、コンペティティブというか競技性のあるものではなくて、すごくオリエンテーリング的な要素も含まれたレースになっております。
去年から始めて今年は2回目で、去年は100キロ2日間、今年は130キロ3日間、将来的には311キロまで伸ばすというようなものだったんですよね。
今日はこのレースの話で、めちゃくちゃ感動してしまった話をしたいなと思うんですけど、このレースは去年も僕が走っているので、そして地元岩手県から出場しているのは僕だけなんですよね。
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沿岸のことも知っているとは思っていたんですけれども、実際今回走っていってですね、いろんな綺麗なところ、あとは美味しいものも食べながら走ったんですよね。
僕の妻が山田町という岩手県内だと三陸地方の真ん中らへんに位置するところに実家がありまして、そこはよく見ているんですよね。
だから岩手県の上の3分の2くらいまではよく分かっている方だと思っているんですけども、今回新たに加わった3日目のコースは下の方を走ったんですよね。
まあちょっといまいちピンとこないかもしれないんですけれども、聞いている方がすればね。
震災の後、復興するにあたって、結構町によっては被災した建物を残すか残さないか議論というのはめちゃくちゃあったんですよ。
今も続いているところもあるんですよね。
自治体によって壊すか壊さないかを残すか残さないかを決めるわけです。
やっぱり家族を亡くした方とかはね、つらいと見てられないという気持ちになっちゃうので、早く新しくしてほしいとか、気持ちの整理がつかないとかね、そういうのはあるから。
いろんな意味でね、亡くしてほしいとか残しておいてほしいと人によっては違うんだけれども、そういうのは自治体と違うということなんです。
その中でね、ステージレースを通じて自治体ごとの震災から復興していく段階の取り組みが残しているものによって、もしくは作り上げたものによって特徴が出るんですよね。
例えばですけど、例えば山田町みたいなところはですね、堤防も作られて、沿岸のすぐ近くは住宅地がなくすと、商業地だけにするみたいなところだったりとかするんだけど、
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そんな中ね、僕は北からずっと走って南に向かいながらですね、他の選手の方々と一緒に走ったんですよね。
今回走っていく中で初めて突入した3日目の南三陸側の方を走るんですけど、その中でゴール直前、陸前高田市っていうところには奇跡の一本松っていうところがあって、
それは何かっていうと、その陸前高田っていうところはですね、松林が沿岸沿いにあって、もう何万本だっけな、3万本か4万本くらいの松の木がバーッとあってですね、
そこから抜けた海っていうような、白い砂浜があってみたいな感じの、そういった特徴的な景色が当時あった、震災前はあったんだけど、そこがね、震災によって松の木が全部流されちゃったんだよね。
全部流された。
唯一1本だけ残った松の木があって、それが奇跡の一本松っていうふうに言われるようになって、モニュメントになるわけなんですね。
最終的にはその木自体が立ち残っていたんだけど、木が死んじゃって、それを切るか切らないかって話になってるんだけど、結局それはモニュメントとして残すように手を施して、今もなお残っているっていう状況なんですね。
その奇跡の一本松が最終的なフィニッシュ地点だったんだけど、3日目の最後のフィニッシュ地点で、そこに向けて僕らはずっと走っていくわけです。
2日間で100キロぐらい走って、最終日は30キロ走るんだけど、山の中走るね。
山陸って海越えたらすぐ山っていうね。リアス式海岸だから、海を見ながら山を走るっていうようなすごく特徴的なコース設定になって、それを走るんだけど、最後の2キロかな、最後の2キロ。
チェックポイントも終わって、チェックポイントがあとラスト2個、フィニッシュまでって時に、堤防のね、堤防の内側を走るわけ。陸地の方を走って、最後沿岸の方へ行くのね。
そういうコース設定だったんだけど、走っててさ、最後の最後にその堤防を越えて、海沿いを走るっていうルートになってたわけ。
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で、海沿いに出るんだけど、出たことなかったんだけどさ、堤防の四字登って、海の方を見たらさ、むちゃくちゃ綺麗なわけ。
で、今日話したいことはその綺麗な景色じゃなくて、実はその綺麗な海が見えた眼下にね、その足元に見える松の林の小さい松の林っていうのかな、が広がってたのね。
それは、全部流されちゃった松林を復活させようとして、2017年から確か植樹してたんだけど、2万本か3万本植えてるんだけどさ、プロジェクト組んでね。
それも去年か一昨年完了したのね、植樹。見たことなかったんだけど、それがさ、2、3年経ってさ、人の背丈ぐらいまで伸びてるわけ。
でもそれ見た瞬間に、もう本当に泣けてきちゃって。
で、松の木が震災前と同じような状態になるには、50年くらいかかるって言われてるのね。植樹して伸びて、前と同じようになるまでって。
そんな話は新聞で読んだりとか、テレビの映像で見てたんだけど、本当ね、実際それ見たときには、もうなんていうか、いやおなしに感動しちゃうっていうね、そんなエネルギーを感じました。
で、震災以降として残してた壊れた建物とか、そういうのをずっと見てきた中で、残すか壊すかみたいな選択肢しか見てないんだよね、堤防の内側では、壁の内側ではね。
でも壁の向こう側で、戻すっていうね、松を植えて戻すっていう作業をした、その執念みたいなものが、人の背丈くらいまで伸びている、その何ていうか、思いというかね、それがビジュアルで飛び込んでくる。
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もうすごいのよ、それが。
でもそれを見た瞬間に、もうちょっとグッときちゃってね。
で、それを手を下りて、実際その松林というかね、自分の背丈くらいなわけですよ、その松の木が。
その間から見える海がめちゃくちゃ綺麗なんだけど、そこの海に向かって歩いて、沿岸線を最後1キロくらいかみしめながら走るというね、そういう体験をしてきました。
今日話したいことって、このレースの話なんだけど、この話を通じて何を僕は言いたいかというとですね、やっぱり僕らが仕事にしても何にしても、残したいものは何なのかっていうことをものすごく今回考えさせていただきました。
死んでも残すっていうその気持ち、その思いは何なんだろうかっていうね。
だって松林は、もはや堤防の外に植えてるからね、防波堤的な役割なんてないわけですよ。
ただ植えるという、戻すという行為に何を思ったのかなっていうのを考えちゃうんですよね。
やっぱりふるさとの自分が生まれてきた景色、そのふるさとの大事な部分がそこには多分あって、
これから生まれてくるお友達がもしこの松原がなかったら、堤防、海プラス堤防みたいな感じが高田松原という場所の名前と全くマッチしないんだけど、
どうしてここ松原っていう名前なのみたいな、それはね昔ねみたいな話になるわけですよね。
そうなんだということにするのか、それとも本当にその名前の由来となっている景色そのものを取り戻すということにね、何を思うのかっていうところなのかなとは思うんですよね。
だから僕らが仕事をしてても大事なことってそういうことなのかなって思ってて、
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僕はたまたま創業期からベアレンビールという会社を営業しながらね、今管理職という立場になっているんだけれども、
それを伝えていかない限り、創業の頃の思いとか歴史みたいなものってもうなくなっていくんですよね。
どんどんなくなっていく。だから話すか記録していかないと知る術がなくなっていくっていうことになるわけですよね。
なんなら何か不足の事態が起きちゃった場合は、創業期のメンバーが突然全員死んじゃって、設備とか残っているものもなくなって、
ブランド名と商品だけが残るみたいなことになればね、どうやってこの商品が生まれたのかとか、そういったものは全くわからなくなっちゃうわけですよね。
これは物を作っている僕らの会社の話なんだけれども、それぞれの会社で組織で作り上げてきた物ってあると思うんですよね。物とか文化もあると思うんだけど、
そういったものを次世代に残していく役割をやっぱり管理職の人たちは担っていると僕は思うんですよね。
だから形として残すものもあれば、文化として残していくものもあるとは思うんだけれども、いずれにせよ最後は思いというものがないと継続できないとは思っています。
思いがあれば逆にいろんなものが失われても何とか繋げられるんじゃないのかなっていうような、今回高田松原の松原を見たときにはそういう強い意思を感じたっていうね、そういう話でございます。
皆さんの職場とか家族とか、いろんなところでプライベートでもオフィシャルでもいろんなところであると思うんですよね。
今回この話を聞いて、もし少しでも心のどこかにそういう引っかかりが残ってくれれば嬉しいなと思うし、なんでこれがここにあるんだろうっていうものとか文化とかそういうのって皆さんもあるとは思うんだけど、
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必ずそれには理由があって、だからこれがここにあるんだみたいな、絶対理由があるんですよね。
そういったものを一つずつ紐解くっていうようなことをしていくと、より一層仕事にしてもプライベートにしても思いを繋げるっていう部分でいえばね、たくさんのヒントがあると思うし、
これから僕らが何を残していくのか、何をつなげていくのかっていうことを考えて行動する何か役に立つんじゃないのかなっていうふうに思っています。
ということで、今日の放送はちょっと厚く長くなってしまいましたけれども、以上となります。
この放送が少しでも皆さんのお役になったら嬉しいです。
それではまた皆さん、さよなら、バイバイ。
ということで、アフタートークでございます。
三陸ステージレースの話から何を思って何を残すのかっていう話をしましたけれども、
いろんなところで災害とか復興とかいろいろあって大変な思いをしている人も今もいると思うし、経験された人もいると思うんだけど、
僕自身は実は予備校の頃に大阪の八王子に住んでいたので、
その年がちょうど受験の時が阪神淡路の震災の年で、結構大変な思いをした友達とかも目の当たりにしているんですよね。
今回の3.11、もう2011年ですから13年前になりますけれども、その経験も実はしていて、
とっても人ごとには思えないというか、今回のノトの震災放送だし、
いろんな大変な思いをしている人に対して人ごととは思えないし、何かしてあげたいとは思うんだけど、
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じゃあ何ができるのかっていうことを本当に考えていたんですよね。
ただ今回の僕のアフタートークで、全然超プライベートな話なんだけど、
今回のレースへの出場っていうのは、何で地元のくせにみたいなことを思う部分も自分の中でちょっとあったりもするんだけど、
地元でそういう被災した経験があるからこそ、ランナーとなった時に走りながらリアルな話をね、景色を見ながら、
一緒に走る人っていうか、コース上で必ず誰かと一緒になる時間ってあるから、
移動もね、結構一緒になっちゃったりするし、
そんな時にね、僕が伝えられること、僕だから伝えられることっていうのはやっぱあるなっていうことをすごく感じたんで、
今後もね、機会があればこういう沿岸を走るレースだったりとかね、被災地のことを伝えること、
っていうのは協力していきたいなというふうには思っております。
はい、ということで、それではみなさんさよなら、バイバイ。