今日は、前も少し予告していた、「すべての人類はハゲである」という証明の話をしようと思って準備してたんですよ、このとらじおね。
それでですね、他のポッドキャスト、YouTubeもあるのかな、空気デザインさんのやってるのがあって、AIを相手にその危機役パートナーというのかな、相方にして2人をしゃべりをするっていうのをやってあ
って、
これ面白そうやなと思って、何かできるのかなと思ってやってみてたんですよ。そのテーマは、「すべての人類はハゲである」っていうテーマにして、AI、ChatGPT Liveって言ってたかな、ChatGPT
Voiceって言ってたかな、それを相手にしゃべってみると掛け合いポッドキャストというか、質問してもらいながらやろうっていうのをやって、
試し撮りでね、ちょっと違うテーマ、何のテーマやったかな、ポッドキャストを1年はやってないけど1年近くやってみてどうでしたかみたいなことを質問してもらいながら、5分から10分しゃべってみる。
これは結構面白くてですね、なかなかこれはいけるかもしれへんなと思ったので、「すべての人類はハゲであることの証明」のポッドキャストを撮り始めたら、これが全然面白くなくて、何が面白くないのか全然わからない
ぐらい面白くなくてですね、
なんでこんなに面白くならへんねやろうっていう気持ちのままスタートしてる今日のトラジオです。
気を取り直しながら、改めて数学的証明の話をしようと思うんですけどね。
数学的な証明はすごいシンプルで、まず髪の毛が0本の人がいるとするじゃないですか。
この人はハゲですよね。髪の毛をプラス1本して1本になったときって、この人まだハゲですよね。
さらにプラス1本して2本になったとして、この人もやっぱりハゲですよね。
というふうに、nイコール0のときにハゲで、nプラス1のときにまだハゲであるということは、数学的機能法により全ての2の髪の毛の本数の人はハゲであると。
なので人類全てハゲであるっていう証明っていう話です。
これは大学の理学部で、数学とか物理やりたい子たちと昔一緒に勉強してたんですけど、
そのときにも自主ゼミとかでランダウリフシッツとか教科書を読みながら、読んだ後の雑談とかでこの話をしてて、
今でもにはりくんが、「ほんまや、全員ハゲや!」って叫んだのを思い出しますけど、
というくだらない証明で、この話をChatGPTかクロードコードとこんなテーマで話をしようと思ったら、
ああ、なんか有名な証明ですよねとか言われて、実際にいろんな人に話をしてみたことはあるものの、
ああ、それ有名な証明ですよねっていう反応は今のところ聞いたことがなくて、
この反応は人それぞれっていうとこが面白いんですけど、
ああ、それ聞いたことあるよっていう人にはあまり出くわしたことはなくて、
ただAIさんは何でもして入りますね。
ああ、それ有名なやつっすねみたいな感じで軽く受け流されて、
それはそれでムカつくなみたいなふうに思うっていうね。
まあそんなふうになんかできるだけしょうもない話をしようと思って、
今日のテーマ設定をしてたんですけど、何ですかね。
AIと話すとこれがいかんのかな。
しょうもない話をするっていう感じの設定あったから、
AIとのやりとりはうまくいかなかったのかな。
その前にやったポッドキャストは1年はやってないけれども、
初めて見てどうでしたかみたいな話は、これ真面目な話やったからかな。
割といい質問してくれたりして深まって、
全然それを記録にとってなくて、
ポッドキャストとして流せないのは残念なんですけれども、
それもまたどこかで総括的なというか、
振り返り的なことも喋りたいなとは思ってるんですけど、
今日もまたAIさんに質問を考えてもらっているので聞いてみますね。
確かに1本増えてもまだハゲは正しく聞こえますよね。
それでも結論がおかしいならどこが間違っていると考えますか。
という質問なんですけど、もちろんこれは証明としてはおかしくて、
当然のことながらハゲ、どこからハゲか、
1000本からハゲなのか、1万本からハゲなのか、
ハゲというものの定義ができていなくて、
というところに問題がある証明なわけですけれども、
まともにマジレスするとそうなんですけどね。
今回これ取り上げようと思ったのが先か、
取り上げようと思っていたら聞こえてきたのが先だったのか、
どちらかわからないんですけど、
ちょっとコテンラジオのですね、
死と、老いと死と生涯かな、の歴史という回を聞いていて、
ちょうど今聞いて、
コテンラジオさんの番組ってすごく常識をいろいろ覆すような話がいっぱいあって面白いんですけど、
この間の、ちょっと前の教育の歴史という話をしたときに、
そもそも子どもという概念は、
すごく最近になってから登場した概念で、
昔々のことを言うと、子どもというのはそもそも存在しなかった、
子どもというカテゴリーがですね、存在してはいなくて、
教育というものの必然性によって、
事後的に生まれてきたんだという話が、
ちょっと前のやつでありました。
さらに今回、老い、年を取る方の老いですね。
老いと死と生涯の歴史になって、
いずれもですね、もともとそういうものがあったわけではなくて、
事後的にそういう概念が作られてきたんだという話になっていて、
例えば、死です。
亡くなるとか死んでいくのは死ですね。
死についてはいつも名前がわからなくなる福島先生かな。
生命と無生命の間という本があって、
それでも死ですというところは、
すごくどこから死でどこから死じゃないという線引きは、
そんなに簡単じゃないというか、
基本的には境目が定義できないんだという話を書かれていて、
生命と無生命の間だったと思うんですけどね。
ちょっと何冊か本があって、
混乱しているかもしれないですけれども、
そういう話があったので、
死についてはある程度そうだなと思っていたんですけれども、
今回、老い、年を取る、老人という概念についても、
それはコテンラジオさんの結論をすごく端的に言うと、
年金支払ったりするという必要性があって、
社会的な必要性があって、
それはどこかで何らかの線引きをしないといけないので、
年齢で線引きをすることにして、
その結果として我々は年齢によって、
年寄り、老人というものがあるというふうに認識するに至ったのであって、
本来的なことを言うと別に老人というものが、
特に年齢によって60以上は老人だとか70以上は老人だとか、
そもそも持っている老人というものがあるわけじゃないんだという話ですね。
そのことを歴史をたどって丁寧に説明をしてくれていて、
めちゃめちゃ面白かったというのがありましてですね。
今、ハゲの話の中で何で子供とか老人、老いとか死の話をしているかというと、
これって定義が厳密にできないという話として共通するというふうに思ったんですよね。
この全ての人類はハゲであるという証明はジョークだし、
ふざけた数学ジョーク、数学的ジョークみたいなジャンルに入ると思うんですけれども、
本質的な問題定義としては、ある概念を定義したときに、
例えばハゲでも死でも子供でもいいと思うんですけれども、
ある概念を定義したときにどこからハゲであるとか、
どこから老人であるということをきちんと定義するということは、
実はめちゃめちゃ難しいんだということで共通しているなと思って、
昔からこの証明は嫌いではなかったというか、
ジョークとしてたびたび笑い話として使っていたんですけれども、
この定義ができないということ自体への面白さという、
厳密な定義が難しいということについての面白さというのを、
なんとなく感じていたんやなということを思ったということですね。
もう一つ古典ラジオの話を聞きながら思ったんですけど、
例えばハゲを例にしましょうか。
ハゲを例にしたときに、確かに、
例えば1500本からハゲとか、何本からハゲとか、
密度でこれぐらいの密度になればハゲとか、
今言っているのは本数で定義するのはたぶん難しいですよねと。
本数で定義するのが難しければ、
次は密度で定義するみたいなことを考えると思うんですけれども、
本数で定義するのは難しいのは、
その人の頭の大きさとかに依存するので、
本数で定義するのは難しいですよねと。
頭の大きさとかいうことを考慮するとすれば、
密度ということになると思うんですけど、
密度で定義するのもたぶんそんなに簡単ではないと。
前だけ頭頂部だけハゲでいて、
後ろはふたふたの場合はハゲかみたいな議論もあるので、
その偏りで定義するのはいろいろ考えていくことになると思うんですけど、
いずれにせよ、
どこからハゲということを定義するのはたぶんめちゃめちゃ難しい、
今細かく議論はしてないですけど、
直感的に考えてもすごく難しい。
ただ、明らかにハゲている、
境界は難しいと思うんですけど、
明らかにハゲているというところはある程度言えると思うんですよね。
例えば、10人に聞いて、
10人中10人ハゲっていう人とかね、
10人に聞いて10人中8人はハゲっていうだろうとかね、
かなり明らかにハゲっていうのは言えると思いますし、
明らかにこれはハゲじゃないっていうのも言えると思うんですよね。
だから何が言いたいかというと、
ハゲとハゲじゃないっていうことについて、
境界を定義するっていうのは難しいかもしれないけれども、
かなり明らかにハゲである状態とか、
かなり明らかにハゲではないっていうことは言えると思うんですよね。
例えば死です、
お亡くなりになる方の死に関しても、
古典ラジオで話されていたような例とかを
全く使わずに、
死の境界がいまいであるっていう前提を話をせずに、
ここで話をしてしまうので、
ちょっとついていきにくいところはあると思うんですけれども、
死んでから、例えば身近というか、
現代的な例でいくと、どの時点で死んだとするか、
例えば脳死というのは死にあたるのかとかですね、
そういうエッジケースというか、
死んでいく過程のどこをもって死とするかっていうのは難しいっていう話なんですけれども、
確かに死んでいる状態と、
生きている状態と死んでいる状態があって、
どの時点から死であると、
線を引いてこの時点までは生きている、この時点から死んでいるよというふうに、
区分けするのは確かに難しいかもしれないんだけれども、
生きている状態というのは、
明らかに生きている状態ですよね。
今の僕の状態を見て生きているか死んでいるかわからないという人は、
これは千人に聞いても万人に聞いてもいなくて、
ヘリクツでお前はもう死んでいるという人がいるかもしれないんだけれども、
今の僕が生きているということは確実であると。
一方で今僕は死んでいませんけど、
誰々さんが死んでいるという状態というのはほぼ明らかであると。
例えばトーマス・エジソンがまだ生きているみたいなことを
言う人はいないと思うんですよね。
生きているか死んでいるかわからないと言い続けているのは空海さんでしたっけ?
高野さんでまだ生きているとされている空海さん。
あの方ぐらいになると生死は
人によって意見が分かれるということがあるかもしれないですけれども、
それ以外のほとんどのケースにおいて、明らかに死んでますねという状態はあると。
なので問題は、
Aという状態とAでない状態という
ことがないということではなくて、
古典ラジオさんの論の立て方だと境界がわからないので、
死というものはわからないんであるみたいな話に
着地しつつあったと思うんですけれども、
それは多分ちょっと違っていて、
Aであるという状態とAではない状態の境界は難しいかもしれないんだけれども、
境界を厳密に定義することは難しいかもしれないんだけれども、
Aという状態は多分ほぼ明らかだし、
Aではないという状態はほぼ明らかであると。
この辺りめちゃくちゃ細かい話をしている気がしますが、
そこは区別して考えたほうがいいと思うんですよね。
境界がわからないという話と、AおよびAではない状態というのがわからないということは、
分けて考えたほうがいいんじゃないかなと思っていて、
もちろん死というものが定義できないんだから、
死というものはわからないよねっていう意見もわかるんですけど、
定義できないからといって、それがわからないということにはならないよねっていう、
すいません、またこれまためっちゃ細かい話をしています。
話しながらめっちゃ細かい話をして、
すみませんと何度も謝っていましたね。
それでも細かさにこだわらずにいられないのは、
理学部で厳密さを叩き込まれたからでしょうか。
なかなかいい質問ですね。
一方、東洋的な思考様式はと言えるほど、
今日まとめて話せないのであれなんですけれども、
そうじゃない思考様式とか、
世界の捉え方というのってあるよね。
あるし、そういうものによって世界認識をしたときに、
どういうふうに捉え直せるんだろうかということが、
自分の中のすごい根本的な問題意識というか、
テーマになっているんだなということなんですよね。
この分野についてちゃんと調べているわけじゃないんですけど、
シンボリズムとか象徴主義みたいなことっていうのが、
そういう区別をして分けて考えるということじゃなくて、
大きく5つのものに分けられることにして、
それの相互作用で考えようみたいな思考様式というのがあって、
それの一個一個を全然極めているわけじゃないし、
理解を深められているわけじゃないんですけど、
そういう思考様式をマスターすることによって、
そういう思考様式がいいと言っているわけじゃなくて、
西洋的な分けて物事を考えるっていうことは万能じゃないので、
保管する形で別の物事の捉え方を持っていた方が、
色々困った時に役立つんじゃないかということですね。
今日はそれが違う物事の捉え方がどういうものかっていうことを、
つまびらかに話をしたり、あれしたりすることはできないんですけど、
また勉強したりしながら喋っていきたいと思うんですけれども、
たとえば五代とか五行とか、中国とかインドでいう木化土耕水とかですね、
地水化風空とかですね、五代とか五行とか言われるのは、
そういうシンボリズムの代表的な例だと思いますね。
我々曜日の中にも月化水木金という形で五代があったりするというのは、
なかなかまだまだ面白いなと思うんですけれども、
それから興味を持っているのはタロットですね。
タロットも、あれ21個だっけ、ダイアルカナでいくと21個だったと思うんですけど、
数は忘れちゃいましたけれども、
世界というのは20いくつの要素に対応させられると、
その20いくつの要素にの相互作用というか、
それの推移とか相互作用とかことによって世の中は理解できると。
ただその五代でも五行でもそうなんですけど、
なんかこの要素は非である、
非であることの定義はみたいなこと、
多分そんなに厳密にやらないと思うんですよね、多分。
なんかなんとなくふわっと対応させておいて、
これとこれの相互関係とか、
これとこれがこういうふうな時にはこう変化してみたいな、
相互作用の中でふわっと変わっていく、
でもおおむねこうみたいな、
厳密にビシッと分けるわけじゃないし、
無限に分けていくわけじゃなくて、
ざっくり世の中全部五つでできてますよねみたいな感じでやっていくというあたりが、
そういう四行法だと理解していて、
そういう四行法で、
しかもそれを体系的に組み立てていっているというところが、
面白いところなんじゃないかなと思っていて、
そういう物の見方っていうことによって、
いろいろ行き詰まりがあったとした時に、
なんか大改札とか、
別の角度から物事を見られて楽になるっていうことがあるんじゃないかなと、
そんなふうに思っているということですね。
何か別の方向の思考方法というのが今見出されつつあるのかなというのが今までの答えかな。
そもそもAIが考えているとは思わないんだけど、
1ミリも考えていないのに考えているように見えてしまうというところが面白いなと思っていて、
それはもうこれだけいろんなアウトプットができるようになっていくと、
それを考えていないということはなかなか難しいんじゃないかな。
我々のようには考えていない、人間のようには考えていないが、
別の在り方で何らか知性的なものがある、
知性とは何なのかということ自体を再検証しないといけなくて、
拡張された意味での知性というものにはいくつかの種類があって、いくつかのアプローチがあって、
東洋的なアプローチもあれば、西洋的なアプローチもあれば、
今作りつつあるAI的なアプローチ、それがどういう名前をつけられるかわからないですけど、
西洋的なアプローチというのもどういう名前がつけられるかわからないですけど、
もうちょっと知性という概念が拡張されて、それのアプローチはいくつかあって、
そのうちの一つがAIと、人間が考えるのとは違う意味での知性だというふうなことになっていくんじゃないかなという気はしています。
ということで、今日の話はここまでとしたいと思います。
全ての人類はハゲであるという数学的な証明、数学的機能法を使った証明という、
数学的ジョークを入り口にしながらですね、AIさんにもいくつか質問をしてもらいながら、
最終的には多分知性というものは何なのかということは、
多分これからこの概念というか知性とは何かということはもうちょっと拡張されて、
それについてのアプローチというのはいくつかあるよねと。
多分おそらく西洋的な分けて考えるというアプローチと、
東洋的なと言っていいのかわからないですけど、シンボリズム的な、
ざっくりいくつかに分けて考えるというシンボリズム的な考え方と、
それとはまた別のAIが今やっているようなアプローチ、
他にもいくつかあるかもしれないですけど、
そういうものとして理解されるようになっていくんじゃないかなという話でした。
トトラジオは引き続きリスンスタイルスラッシュPスラッシュトラジオで配信しています。
まだエピソード番号をつけられるようになったので、
このエピソードはこのURLに出て言えるようにしていきたいと思うんですけど、
まだそのあたりやっている途中なので、
リスンのほうから見ていただければと思います。
見ていただければというのは、
関連するリンクなどの書能とも書いていますので、
そちらも見ていただければと思います。
今日はちょっと考え考えしゃべったので長くなってますけれども、
最後まで聞いていただいてありがとうございました。
またお会いしましょう。
ありがとうございました。