1. 飛鳥山の窓から -TOKYO NORTH MOVEMENT-
  2. #12-1 1969年に時代の先駆者?..
2024-11-07 16:06

#12-1 1969年に時代の先駆者?!のお祖父様が創設した会社の事業承継について|ゲスト: 宮部修平さん

【今月のゲスト】NEGRONIブランドディレクター 宮部修平さん

【今回のトークテーマ】

・1969年に創業の会社、創設者のお祖父様は時代の先駆者?!

・事業承継までどのような流れで今に至るのか?



東京商工会議所北支部会⻑である越野充博が

王子飛鳥山の邸宅の談話室で、北区内外の多彩な起業家、経営者の方々をお招きます。

情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。

グラスを傾けながら、北区の未来を語り合います。


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00:06
TOKYO NORTH MOVEMENT-飛鳥山の窓から
東京都北区飛鳥山。暖炉のある小篠光洋さんの部屋には、未来を思う様々な人たちが遊びに来ます。情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
TOKYO NORTH MOVEMENT-飛鳥山の窓から。パーソナリティーを務めます小篠光洋です。
今、私がいる場所は、王子飛鳥山にある邸宅の談話室。
こちらに、北区内外の多彩な企業家、経営者をお招きして、グラスを傾けながらじっくり楽しくお話しする。そんな雰囲気でお送りしたいと思います。
今月のゲストは、ドライビングシューズブランド、NEGRONIのブランドディレクター、宮部周平さんをお迎えしております。よろしくお願いいたします。
宮部・NEGRONIの宮部周平です。よろしくお願いいたします。
宮部さんは、荒川区の代表するものづくり、そしてブランディングをしっかり立てた企業のブランドディレクターということなんですけれども。
今日は、今月4回にわたってじっくりとお話を伺っていきたいと思いますので、ぜひよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まず、NEGRONIというブランドについて、ちょっと事業内容を改めて、宮部さんのほうからお伺いできますでしょうか。
NEGRONIというブランドは、設立は2000年になるので、今年で約2024年ですので、もうすぐ25周年というところを迎えるんですけれども。
ドライビングシューズという、ちょっと聞き慣れない方も結構いらっしゃると思うんですけれども、いわゆる自動車の運転ができる靴をメインで製造しているブランド。
あとはレザーグッズですとか、いろんなライフスタイルグッズも自社で製造して販売しているようなブランドになります。
ドライビングシューズというと、もう本当に皆さん自動車の運転だけしかできないんでしょというふうな方が結構いらっしゃるんですけれども、それはそうではなくて、あくまで自動車のある生活を楽しむための靴というところで、
まさしく普段の生活の中で使うこともできますし、運転にもしっかりと使うことができるというふうな両立させるような商品を考えて、いつも販売しております。
なるほど。ダジオルなのでちょっとご覧をいただけないんですけれども、ぜひ今日聞いていただいている方はNEGRONIさんのウェブサイトなんかもね、チェックしていただくと、本当にかっこいい、一言で言えばかっこいい靴が並んでいるみたいなね。
03:03
嬉しいですね。ありがとうございます。
あともいろいろこの点についてもお話を伺いたいと思いますけれども、本当に宮本さんと僕はまだ2回ぐらいしかお会いしていないと思うんですけれども、
上区信用金庫さんのおかげでね、北区だけじゃなくて、荒川区の皆さんともいろいろ交流がある中で、宮本さんを拝見したときにね、僕は北区の人間としてね、荒川区よりはかっこいい靴だよなって思っててね。
出ましたね。
もう半分もちろん冗談なんだけれども、宮本さん一目を見たときにかっこよくてさ。
伺ったらね、こういうブランディングの商品をしっかりと発信されている、販売されているということを伺ったと思うんですから、今日はね、特にお願いをして来ていただいたんですけれども。
ありがとうございます。光栄です。
はい。さてですね、まず今週は宮本さんがネグローニの事業を始められるまでのお話を伺っていこうと思うんですけれども。
そもそも母体となっている会社、まるみつ製菓さん。製菓というのは靴を作る会社なんですけれども、こちらはおじいさまの創業というふうに伺いました。
そうですね。1969年に、これも私も実はあまり分からなかったんですけれども、役所に行って1969年というのが書いてあった。
あ、1969年にこの会社できたんだというふうに分かったところから、もうだいたい50年ぐらい、今そうですね、ぐらいの会社なんだなというふうに当時認識をして、そこで自分の会社の歴史を知るという。
もともと父親とか祖父からすごく設立年代がここで、みたいな形をしっかりと教わってきたわけではなかったので、後から本当に知って、結構歴史が深いんだなというふうに知ることになりましたね。
なるほどね。これ台本にね、第二次大戦終戦からおよそ20年が経過し、靴の産業が徐々に芽吹き始めていた東京でって書いてあってね。
これね、書いてる人がすごい若い人なんだよね。これ1969年までじゃあ俺たち裸足で歩いてたのかみたいなね。
そうなんですよね。
そんなことはないんで。
でも考えてみると、例えばもう小学校の時に履いてるのはもう決まりきったズック靴だし、それをもう破けるまで、それからちょっとサイズが合わなくなってもね、もう履いてるとか。
それからね、そもそもね、うちのお袋なんかね、子供なんかにはね、どうせサイズ大きくなるんだからって言ってね、最初にブカブカみたいな靴を履かされてね。
それは今うちでもやりますよ。
靴下何枚も履かされてみたいな感じだったんだけど。だから、とにかくバリエーションがなかったことは間違いない。
そうですね。
06:00
どうなんですか、その1969年から70年代にかけての、その辺のものづくりのお話なんか聞いてるお話ございます?
えっとですね、もともと私の祖父と祖母は茨城の人間で、日立政策所、当時に日政と呼ばれてましたけれども、日立政策所の人間だったんですね。
戦前から戦中にかけて、祖父は戦争にはいかずに、当時日立政策所もやっぱり戦争に関わっていたので、そういったところでいわゆる経理をやったりとか、わりと数字を管理するような人間だったっていうふうなことは聞いていて、
戦後、状況をして、何か一財を作るんだっていうふうな意思で、出てきたときは結構いろんな商売に手を出して、おそらく会長ご存知だと思うんですけど、なかなかいろんな商売がわーっと成功していきやすい時代。
そうですね。1969年というとね、本当に東京オリンピック64年が終わって、一回すごく鍋底景気って景気が悪くなって、再び万博を目指してものすごく良くなっている時期。
その時には、実はもう祖父は一度、一回お金を手に入れているというか、一回問屋行みたいなものをやって、そこでわーっとお金を稼いじゃって、一回楽園居みたいな形で、一回遊んでいた時期があったらしいんですよ。
これがまた面白い話で聞かされてたんですけど、当時父親がまだ幼稚園生だった時に、幼稚園の先生が、「父さん何やってるの?」って言った時に、「お父さんお家で遊んでるよ。」
どういうこと? いやお父さんも普通にお家でいつも遊んでる。なんでそんなことができるの?って言った時に、もう昔仕事やってて、それでもう終わっちゃったみたい。そんな教育をしてるんだこの家はってなって。
それで先生が、「どういうことですか?息子さん、そんなことをおっしゃってますけれども、どういうことを教育されてるんですか?」ってなって、いろいろと商売をやって、もうほとんどある程度。
財を成したからみたいな。
もう一生食べていけるんで、それはいけませんみたいな感じで、子供に夢を聞いても夢がないんですこの子はみたいなことを言われたみたいで。
それで、うちの親父も当時本当に小さい頃、本当にピュアに育ってる。それがいいかどうかわからないんですけれども。
なんかそんなことを言ったかなんかで、じゃあまた何か新しい商売やろうってなった時に、当時まだ南千住ってやはり靴の産業ってやっぱり浅草がやはり歴史的にもメインになっている。
革産業だったりとか靴の製造産業ってあって。
で、うちがあったところって南千住の5丁目。あらかく南千住の5丁目なんですけれども。
そこら辺っていうのもまたちょっと浅草の江戸通りっていう風な通りの、いわゆる終わりの部分というか。
一番終着のT字路のところに天皇様って呼ばれるスサノオ神社っていうところがあるんですけれども。
09:00
そこまでは結構革屋さんですとか靴どん屋とかたくさんあったんで、商売的にはじめやすかったっていうところで。
ネットワークがそこにあって、その中に入ればビジネスができるっていうことですね。
もうまさしくそうですね。
で、祖父が何を考えたかというと、もう今でこそちょっと当たり前になっているんですけれども、会社買収しちゃったんですよ。
お、なんか楽品居というM&Aというすごいなんか先行ってますね。
いや私もうちの祖父がなんでそんな、なんかおじいちゃんになってからしか私は知らないのであれなんですけれども。
当時結構ダイナミックなことをやる方だったみたいで。
当時もう会社どうしようかなって思われているメーカーさんの社員さんとか機械とか全部買収して。
で、今そうですね、前の御庁面のところに工場を設立して、それがいわゆる丸密成果って呼ばれる。
はい。
なるほど。
そこで本当に順調に会社の発展をされて。
そして息子さん2代目ですね。
そうですね。
年齢は大体僕と同じぐらいの生まれ持ち、僕より3つ4つ上ぐらいかなっていう感じですよね。
そうですね、それぐらいかもしれないですね。
で、その2代目とも共同しながら順調に伸ばされてきたと。
で、1998年におじいさまが亡くなられた後に、ここでご子息というか2代目の宮部さんからすれば当然お父様ですよね。
そうですね。
お父様の代になって、いよいよドライビングシューズのブランド化に着手をする。
はい。
これはどういうきっかけだったんですかね。
これも私も聞いた話なので、すごく詳しいことはわからないんですけれども。
やっぱり祖父が亡くなったことがすごく大きなショックだったみたいで。
で、やはりしばらくその仕事というか、今までそこまではどちらかというと新資物のOEMがメインでうちの場をやっていたんですけれども。
やはり注文生産、何かしら結構大きな数の注文を問屋さんからいただいて、その数を作っていくというふうな、いわゆる一般的なお仕事をやらさせていただいていたんですけれども。
当時結構その確か問屋さんがですね、一回そこがちょっとダメになっちゃうというか。
一旦そのメインの取引先がちょっとこのままだとまずいというふうな状態で。
そこと祖父が亡くなったタイミングがバッティングしちゃったらしいんですよ。
その時に結構父親も大きなショックを受けて。
元々が世代的に多分同じぐらいだったらなんとなくご存じだと思うんですけど、やはりもうサーキットの狼だとか。
まさしくその自動車が好きなのが当たり前の世代というか。
そうですね。レースなんかも子供の頃から見てきて。
一番面白い時代ですよね。
なのでまさしくそのスーパーカーだったり、自分の好きだった趣味っていうものの方に、要は逃げたい部分も多分あったと思うんですね。
なので自分の大好きなものづくりっていうふうなところを夢見て。
最初はもちろんそれをメインで食べるなんてとんでもなく違う話で。
12:00
OM、例えば新しい取引先を探しながら少しずつ自分の好きなものづくりっていうものを目指していきたい。
なんとかそこをコンテンツ化してみたいっていう。
まさしくそのいわゆる今でいうところのファクトリーブランドと言いますか。
一つの会社が何か別のコンテンツを作ってそれをいつか何かメインコンテンツにしたいなみたいなところがまさしく1998年か2000年ぐらいという。
ちょうど本当その時期ってね。やっぱり世の中で中小企業がみんなお忍びでどの業界を問わず、このままじゃダメだっていう感じになってたですね。
やっぱりその時にその多くは大企業の下請けさんであったり、OEM生産、自分のブランドが出ない。
その時にやっぱり少しずつ自分のブランドを持たなきゃダメなんだ。
自分が主体となって物を売っていかなきゃダメなんだっていう話がね、ちょうど出たタイミングですよ。
まさに私の経営している建設会社の方でもやっぱりすごく今までの得意先が、いわゆる中小企業に発注が少なくなってしまったりとか、
それから観光庁の仕事が少なくなってしまったりとか、そういう状況がいろいろあって、何か自分たちで作らなきゃいけないってね、
この時期本当暗中模索してたのを思い出しますね。
お父様も本当に同じ目線で事業を考えられていたんでしょうね。
そうかもしれないですね。
そしてブランド化に着々とやっている佐中でしょうね。
2014年に59歳の若さでお父様が亡くなられてしまったということで。
そうですね。
これは本当に残念だったと思うんですが、宮部さんはその時会社にいらっしゃったんですか?
私が入ったのが確か2009年から2010年のちょうど狭間の頃だったんですけれども、
その時少しずつブランドも徐々に形になり始めるかなというところで、
まだウェブサイトもないような時代ですね。
その時に百貨店とかでいろいろと商品を卸してたんですけれども、
父親が百貨店の担当者か何かと一回大喧嘩をしましてですね。
結構気が短い、いわゆる下町の親父だったんですけれども、大喧嘩をしてしまって、
一旦ちょっとその店を出なきゃいけないってなったタイミングで。
私は当時実はもともとグラフィックデザインを勉強していて、
雑誌制作とかそういったことをやりたかった人間だったんですけれども、
当時父親が帰ってきたらもう命停状態なわけですよ。
もう酔っ払ってかなりイライラしていて、私を見るなり文句を言うわけですね。
もうプラプラ遊んでるんじゃねえだとか、本当に私に対して、
ただもう自分が思いつくストレスを息子にぶつけるわけですよ、当時。
15:06
いやでもね、それはやっぱりお父様もいろんな悩みを抱えながら、
でももしかしたらここはチャンスって思われたのかもしれないですね。
この話で、ぜひ次週もう少し時間をとってお伺いしたいと思います。
では本週はここまでということで、
次週もよろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
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