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2022-10-14 40:56

#23 【エル・クラシコの歴史(後編)】マドリー、バルサ誕生秘話 〜スペイン内戦とエル・クラシコ〜

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クラシコ目前企画、「エル・クラシコの歴史」の後編です。クラシコを演じるレアル・マドリーとバルセロナがの設立の経緯について話しました。また、核心となるエル・クラシコの因縁についても。いかにしてこの2クラブが因縁のライバルとなったのか、そのきっかけとなった出来事についても話しています。

00:06
The Retreat Time!!始まりました。
このポッドキャストは、世界のフットボールシーンに関するトピックやニュースについてゆるーく語っていく音声サッカー番組です。
お相手は、マドリディスタのYoshifujiです。
そして、三流ユネサポンのHirakiです。
よろしくお願いします。
本日のテーマはですね、エル・クラシコの歴史後編ということで、
マドリー・バルサ誕生秘話、それからスペイン内戦とエル・クラシコというテーマでお届けしたいと思います。
よろしくお願いします。
さあ、というわけでですね、エル・クラシコの歴史後編ということで、
先週はすいませんでした。全然もうエル・クラシコの話せずに。
まあでも、17分14秒はちょっと注目して見てみたいですね。
はい、これ大事なところなんでね。
このクラシコの歴史の前提になる部分なんで、お話できて良かったと思います。
はい、それで今回ちょっといよいよエル・クラシコの歴史そのものを見ていきたいんですけど、
エル・クラシコっていうのはスペイン語で伝統みたいな意味なんですよ。
要は伝統の一線ですよね。
そうなんですね、伝統だったんだ。
それが発展してというか、拡大解釈で伝統の一線みたいな言い方をされています。
ああ、なるほど。
日本語ですけどね、あくまで。
はい。
当然これ皆さんご存知ですけど、レアルマドリッドとバルセロナの2クラブの対戦のことを言います。
はい。
一応その対戦成績を今ちょっと言っちゃうんですけど、100年以上対戦していて、
2022年10月時点で、22、23シーズンの一発目のクラシコの前の段階で、
レアルマドリッドの100勝ちょうどです。
おお。
100勝。
で、バルセロナ97勝。
おお。
引き分け52勝。
なるほど。
きっこうしてますね。
けっこう競ってますね。
すごいですよ、これは。こんな長い子と戦ってて。
250回くらい戦っているということですね。
で、両チーム、ヨーロッパを牽引するようなチームでありながら、これだけきっこうしているというのはすごいことですね。
今数えたんですけど、ちょうど250戦目かな、次は。
あ、本当だ。次が250試合目ってことか。
すごいな。
うわー、いいの見つけましたね。
長いことやっているというのがこれでわかりますね。
ええ、本当ですね。
はい。
じゃあこのクラブが2つ、どういう経緯でライバルになって今に至るのかという話を歴史とか文化の側面からちょっと見ていきたいと思います。
03:01
はい。お願いします。
両クラブね、設立年だけ先に言っちゃうと、バルセロナがまず古くて1899年。
はい。
19世紀末ですね。
なるほど。
で、レアルマドリードは1902年ということで3年違いで設立しています。
はい。
で、一応ね、この時のスペイン、どういう時代だったかというと、前回のスペインが一大植民地帝国になって大航海時代で。
はい。
で、そこから無敵艦隊に負けて長楽の一島を辿っている。で、継承戦争も終わって、もう全然力がなくなってきたような時ですね。
はい。
が、その19世紀末という時代です。
なるほど。
はい。もうだいぶ遅れを取って新興国バンバン出てきている。で、スペインの植民地はもうガンガン独立しちゃっている。南米とか。
ああ。
っていう時なんですけど。
はい。
その時もうわずかに残された植民地、キューバとかフィリピンとかもうちょっとだけしかなかったんですよ。
フィリピンも残ったんですね。
そうなんですよね。で、特にキューバ。これが世界一の砂糖の生産地として結構な収入源になっていたんですよ。
なるほど。
で、このキューバの砂糖貿易をカタルニアの商人がずっとやっていて。
はい。
で、まあ結構な資金源とかになっていたんですけど、儲けを結構出していたんですけど。
はい。
これをアメリカが欲しがります。
まあ近いですね、キューバだと。
はい。もうこれ、多分アメリカが新興国なんで何でも欲しいみたいな感じだと思うんですけど。
はい。
まあ結構ね、雑なことをしてスペインとの戦争に持ち込んじゃうんですね、アメリカが。
雑だったですね。
そう、なんかちょっと詳しくここで言わないですけど、なかなか豪快な持ち込み方で。
これでね、米西戦争っていう戦争が1898年に行われます。
ああ、なるほど。
坂の上の雲で出ましたね、そういうのこれね。米西戦争。
そうですね、確かに。
ね、秋山さんゆきが言ってましたね。
坂の上の雲で話しちゃうんですか。
はい。米西戦争っていうのをやって、スペイン負けるんですよ。
もう新興国のアメリカ、もう艦隊も新式だし。
なるほど。
秋山さんゆきが作戦やってましたけど、もうあれで負けるわけですよね。
そうですね、はい。
スペイン負けちゃいます。
で、この戦争の結果、キューバも失うし、他の植民地も全部手放すことになっちゃうんですよ。
はい。
もうすっからかんですよ、この時点で。
はい。
で、これ結構スペイン的にもうめちゃめちゃ大打撃なんですけど。
はい。
で、もともと前回ちょっと言ったように、カスティリアンの中央政府はですね、やっぱり貴族中心でやってるんで。
はい。
06:00
農民のこととかあんまり考えてないっていうところもあって。
なるほど。
他の国の産業革命とかやってる他の国に比べたら、どうしてももう機能しないような、そういう構造になってます。
うーん、なるほど。
ただそんな中、ガタルーニャだけはキューバ貿易で儲けたお金で、工場とかいっぱい作って、スペインの中で勝手に産業革命するんですよ。
ほほ、すごいですね。
この証拠のたくましい感じは、今でもスペインで日本人が働くならガタルーニャ、マルセロナって言われてるぐらい、日本人に近いところあるんですけど。
はい。
仕事人みたいなね。
収穫人魂みたいなのがある。
そういうところあるかもしれないですね。
で、やっぱりスペイン全体の衰退を知り目に、ガタルーニャだけ経済的に栄え始めました。
おー、ここちょっと逆転しちゃうんですね。
そうですね。
これ結構ね、正直今まで続いてるところがあって。
そうなんですね。
スペインの人口比に対してGDPの比率が、何て言うんですかね。
例えば、確かちょっと古い数字だったかと思うんですけど、ガタルーニャの人口が全体の14%ぐらいだったかな。
はい。
に対してGDPは全体の20%とかで、比較的豊かなわけですよ。
ちょっと数字合ってるかわかんないですけど。
それぐらい、やっぱり今でもガタルーニャというか、マルセロナとかね、ガタルーニャ州はスペイン経済を牽引する存在なんですけど。
この時から培われた生産性というか、ガタルーニャの働き者が僕を支えてきたということですね。
そういうことですね。
ガタルーニャ商人というのは、商業面の力があったわけですね。
まあ、あれですよね。ラポルタとかもそういうところなんですよね。
いや、あると思いますね。
この夏を乗り切ったというのは、この文化があってこそなのかもしれないですね。
ジェラール・ピケとかも、自分で社長をやってるのもそういう感じでしょうね。
ガタルーニャ・ブルジョアジーと呼ばれる人が、マルセロナのソシオのトップを構成してますよね。
だから、まさに商人の街みたいなところがあるんで。
はいはい。なるほど。
この時に培ったものですね。
中央での出世の道がもうないので、ガタルーニャ人は。
中央での?
貴族になったり、地主になったり、中央向けの出世の道ってないですね。
中央政府。カスティーレ側。
カスティーレ側の方。
だから、もう商売するしかないみたいなところがあったみたいですけど。
そっちの方が資本主義的ですね。
そうですね。
これで工業発展して、人口流入してということで、ちょっと栄えていったんですけど。
そういうスペインの時代に、この2つのクラブが誕生します。
09:03
ついに。
お待たせしました。
サッカーの話しますか?
やりましょう。
米西戦争の翌年ですね。
マルセロナが誕生します。
ついに。
バルサっていう相性ですけど。カタルニア語でマルセロナの相性なんですけど。
バルサの創設者はハンス・ガンパーというスイス人なんですよ。
意外だな。
意外と。
カタルニア語でジョアン・ガンペールっていう名前でめちゃくちゃ知られてるんですけどね。
マルセロナだと。
ガンペールさん。
カタルニアのことすごい好きなんですよ。
ハンス・ガンパー。ジョアン・ガンペールか。
確かにお父さんの会社の都合で一回マルセロナが来た時にめちゃくちゃ気に入って。
会社辞めてもそこで働きだすんですよ。
そんなに気に入ったの?
めちゃくちゃ気に入った。
何が気に入ったかわからないですけど。すごい気に入ったんですよ。
スイスの人でジョアン・ガンペール。
スイスの名門FCチューリッヒっていうクラブがあるんですけど。
そこの設立にもちょっと関わっているような人なんですよ。
なるほど。
サッカー好きなんですよね。
そもそもがってことですね。
そもそもサッカー好きで。
当時のスペインだとまだサッカーそんなにいろんなクラブないと。
バルサが一番古いわけじゃないんで。
先に会ったクラブもちろんあるんですけど。
そこまでまだ全然クラブないよっていう時に。
あれ?カタルニアクラブないねってなって。
じゃあ作ろうかって言ってジョアン・ガンペールが作り出したという話なんですね。
なるほど。そんな結構。
スイスにもあったし作るかみたいな感じで作ったんですね。
いいですね。
意外ですね。
先週もいないんで新聞広告出して募集して。
なんとかカタルニア人とイギリス人のチームを作って。
バルサの在住のイギリス人グループと初めて試合したというところからクラブができたっていう話なんですよね。
なるほど。
面白いですよねこういうの。
そうですね。
サッカー全然知らない人たちのところにサッカーチーム作ろうぜって言って持っていくわけですから。
それでできる。それが今クラブやってるわけですね。
そうですね。イギリス人たくさんいたんでしょうね。
当時のイギリスだからほんとね。
いろんなところに。
人もどんどんヨーロッパに。
イギリスの話もちょっと応用したいけどね。
今日スペインですけど。
ジョアン・ガンペールはバルサロナが毎年8月にプレシーズンマッチでジョアン・ガンペール杯っていうのをやってるんですけど。
ここに名前残ってるぐらい有名な人っていう感じですね。
12:04
知らなかったですね。
ジョアン・ガンペール杯。
バルサロナ誕生はこんな感じなんですけどね。
次、マドリードですね。
レアルマドリードの誕生は1902年ですね。
マドリードフットボールクルーブっていうのがマドリードで立ち上がります。
これ作ったのは大学生ですね。
大学生?
大学生です。
イギリスのオックスフォード大学とかケンブリッジ大学に留学してた大学生がイギリスから持ち帰ってチームを作りました。
そんな感じなんですね。輸入してきたんですね。
イギリスからなんですね結局ね。
なるほど。
この大学生どういう人たちだったかっていうと。
元はスペインの教育者たちが、スペイン当時体制不安定で共和国が出来上がって教育が結構民主化していくっていう流れが始まるぞっていう雰囲気だけあったんですけど。
共和制がすぐ破壊して王政復帰したんですね。
王政に戻っちゃったと。
そうなると改革も全部止まって、これじゃちょっと教育変わんないなと。特権階級のもののまんまじゃないかと。
はい。
ということになって、教師がちょっと危機感を持って自由教育学院っていう教育機関を設立したんですよ。
はい。
そこでは学業だけじゃなくて、スポーツとか文学とか絵画、音楽みたいないろんな活動を自由な雰囲気の下でやっていこうよという方針で、そういう学生たちを集めて勉強をしてたんですね。
そこの学生が海外、英国、イギリスに積極的に留学していって、たまたまマドリドに作家を持って帰ってくれたというのが経緯なんですね。
なるほど。
なんかこれ面白いのが、初代会長がジョアン・パドロスっていう人で、カタルーニャ人なんですね。
そうなんだ。ジョアンってところがそんな感じなんですかね。
そうですね。
ジョアン・ガンペイルもですし。
そうですね。これね、カタルーニャでの名前の読み方が、スペイン語で名前を表記するならフアンなんですよ。
フアン。
フアン。だけど、ジョアンって言ってるところが、カタルーニャのアイデンティティを守りたいという意思の表れだと思いますね。
なるほど。
例えば、ジョルティとかってカタルーニャの名前で、スペインだとホルヘなんですよ。
ホルヘ・アルバーみたいな感じなんですね。
そうですね。そんなのいっぱいありますね。セルジーとかもカタルーニャだし。
だから、そこの名前を見ると、この人カタルーニャなんだなっていうのが結構わかったりしますね。
15:00
それも面白いですね。
面白いですね、ここは。
で、後にリアルマドリードって、フランコ独裁政権とかね、あとで出てきますけど、独裁政権とかウハ勢力が結構悲劇にしたチームってことで思われがちなんですけど、
最初カタルーニャ人が会長になってるし、そもそもは自由主義的な学生によって作られたっていう。
ここちょっと結構、後の世のイメージと違う部分があるんで、これ面白いなと思いますね。
確かに。なんか貴族が作ったのかなって勝手に思ってたんですけど、意外とカタルーニャの人が作ってたんだなっていう。
そうですね。なんでっていう話なんですけど、やっぱね、金持ってるんですよね。
あー、なるほど。
さっきの米政戦争の流れの話じゃないですけど、やっぱカタルーニャの人がすごい経済的に栄えてるというところもあると思いますね。
なるほど。余裕ないとできないですからね、人集めて。
そうですね。娯楽も娯楽ですからね、当時。
はい、っていうところから2つのクラブが誕生しました。
はい。
ちょっとね、そこからどういう道筋を辿ったかっていう話なんですけど、最初に力をつけてきたのはバルセロナの方で、1920年代に最初の黄金期を迎えます。
はい。
結構すごくて、国王杯っていうのがありますよね、今もある大会で5回優勝したり、あとリーガー・エスパニオーラー、今ラリーガーって呼んでますけど、スペインの国内リーグで初代王者に輝きます。
1928年に始まったんですけどね。
はい。
でね、カタルーニャがその時、中央政府から自治権を徐々に取り戻しつつありました。
お、なるほど。
はい。前回のスペイン継承戦争の制裁を受けて、もう何もかも取り上げられてしまったんですけど、経済的に力をつけてますんで、もう中央政府そろそろ認めてくれてもいいんじゃないかと。
まあ、言いやすくなりますよね。
そうですね。で、まあ認めざるを得ないってなったのかどうかわかんないですけど、カタルーニャ自治体連合っていう、まあ政府ではないんだけど、連合までは認めてくれました。
はい。
で、まあこうやって自治権回復への第一歩を歩み出したんですけど、ちょっとね、行き過ぎちゃうんですよ。
はい。
次ね、憲法みたいなのがあって、自治憲章って言うんですけど、そこを制定しようと出すんですね。
はい。
で、自治憲章を持つと、もうほとんど自治政府と同じことができてしまうんで。
はい。
ちょっとマドリードの中央政府が、いやこれはいかんよねと、これやりすぎだよということになって、それでまあ全国的にカタルーニャちょっと勝手じゃないみたいな、カタルーニャバッシングが起こりだします。
18:03
なるほど。
で、カタルーニャそれこそ商業面で優れてる生産力あるので、他の地域と考え方が、その貿易に関する考え方も結構変わってきてて。
はい。
例えばカタルーニャは生産力あるので、自分が作った商品を売りたいっていうふうに考えて、保護貿易を主張するんです。
はい。
はい、保護貿易で自分が作った製品を流通させて、海外の粗悪な商品とか、質が低いやつとか、質はそうか、質の高低はわかんないですけど、とにかく国内で作ったものを消費しようと。
なるほど。
で、それに伴ってスペイン全体を豊かにしようという主張をするんですけど。
はい。
他の地域だと、カタルーニャ人の利益のために、値段の高いものを買わされるのかっていう発想になるんですよ。
うーん。
で、そのせいでカタルーニャが金の王者みたいなイメージが出来上がって、これ結構今でもあるらしいんですよね、このイメージが。
えー。
はい。
なるほど。
そういうバッシングをめちゃくちゃ受けるので、カタルーニャ内部ではバッシングがあればあるほど、自治を求める行為っていうのがどんどんどんどん高まってきて。
はい。
その時、FCバルセロナも自治憲章を支持する声明を発表するわけですね。
他の団体も色々、政党以外の非政治団体も支持する表明をしたんですけど、その時にサッカークラブとしても支持しますという立場を表明しました。
おー、なるほど。
ここにカタルーニャ民族主義を代表する存在としてのFCバルセロナっていうのが生まれます。
なるほどな。
はい、という感じでね、そういう独立の道を進みながら、カタルーニャは資金力がありますので、選手のプロ化とかね、バルセロナがいち早く進めたり、あとはね、スタジアム作ったりね、ラスコルツっていうホームスタジアム作ったり、結構ね、金かけてチーム強化していったんですね。
それでまあ、黄金時代を迎えることになりました。
はい。
スタジアム自体は他のチームをいっぱい作ってて、マドリーもこの辺りでチャマルティンスタジアムっていうのを作って、サッカーの普及に貢献したりしてますね。
国王からレアルの称号をもらったのもこの時期なので、結構レアルってもらうと貴族方面にね、王室のお墨付きですよっていうのをアピールできるんで、ちょっと泥だらけになるスポーツだけど、貴族にもちょっとお墨付きをアピールできるっていうメリットもあるでしょうね、これね。
なるほど。
そんな感じでですね、バルセロナが最初の黄金期を迎えるんですけど。
はい。
ここからスペインの国内の情勢が結構不安定になっていくんですね。
はい。
はい。テロが結構バルセロナとかは横行してて、経済発展した分、工場労働者が増加して、つきものなんですけどね、経済発展つきものですけど、劣悪な労働環境とかね、労働者の給料が低いとか、そういう労働条件が悪いとか、そういう問題が起こって。
21:17
それによって、当時流行ってた社会主義とか無政府主義の政党が結構出てくるわけですよ。
なるほど。
で、アナキストみたいな人たちも出てきて、そういう人たちがテロをしていくんですね。
はい。
テロがバルセロナで横行してて、爆弾都市バルセロナみたいな呼び方をされるようになっていくんですよ。
そうですね。
このテロに対して中央政府が結構無力で抑えることができないんですね。
はい。なるほど。
もうこれどうにもなんないと。
で、カタルーニャの資本家は結構テロリストに襲われることがあるんで、これ何とかしてくれよみたいな思うんですけど、その中央政府は何もできないということで、カタルーニャだけではないんですけど、民主主義にもう頼ってらんないなって考えた一人の軍人がクーデターを結婚します。
はい。
これちょっとさらっといくんですけど、ミゲル・プリモデ・リベラっていう軍人がいて、この人が独裁政権を、クーデター結婚後独裁政権を自立します。
はい。
独裁ですね。
なるほど。
この独裁なんで、いろんな反発を受けて、なんだかんだでもううまくいかないんですね。
はい。
で、退陣することになるんですけど、この独裁の話は結構しだすと長くなるんで割愛しますが、こういう時代がありました。不安定だよっていうことですね。
はい。
で、プリモデ・リベラの独裁政権が終わった後、スペインは共和制に移ります。
はい。
一応国王がまだいるんですけど、ちょっともうリベラの独裁を許した国王なんてちょっと今、ちょっと迎えられませんねと。国民としては。
はい。
支持できませんという風になったんで、共和制の支持派が選挙で勝って第二共和制っていう時代に突入します。
はい。
不安定ですね結構ね。
うん。
で、一応ね共和国になったんで、そのレアル・マドリーとかね、ちょっとレアルっていうのがあんまりもう王室意味ないなってなるんですよ。
えー、あ、そうか。なるほど。
そう。だからね名前が変わって、マドリードFCって名前になってますね。
そんな時代があったんですね。
うん。で、あの国王派、コパデルレイっていう名前ですけど、国王派もスペイン派、コパデスパーニャっていう風に名前変わったりとかね。
あー。
もう王室色をどんどんなくなっていくわけですよ。
はいはい。
で、えーと、まあ共和制でやっていくんですけど、これもねまたうまくいかないんですね。
うーん。
うーん。やっぱね、その共和制は逆に貴族とか無視しすぎたと。
はい。
旧来の大資本家とか地主をないがしろにして特権持ってる人は無視して平等に振り切るみたいな、そういうやり方をやったんで。
24:05
はい。
結構そっち方面の反発があったんですね、まず。
なるほど。
はい。で、プラス世界恐慌があったんで、それはそれで農民とか労働者も反乱を起こしたりとかね。
もう全方面からこう、お前ら何してんだと、いうことになるわけですよ。
はい。
で、そっから共和国政府が辞任したりとか、で、また右派勢力が政権獲得したりとか。
はい。
いうのがまあいろいろこう行ったり来たりして、で、共和政側はね、右派政権に対して対抗して、もうちょっといろんな何主義、私とちょっとあなた主義違いますねとか言ってらんないから、
左派だけでちょっと協力しようよって言って、人民戦線っていうのを作って、で、まあ人民戦線で勝ったりするんですけど。
おお。
まあこうやってちょっと、いろんな揺り戻しがあって、その不安定な政権が続きました。
はい。
で、こうした中で社会の騒然とした社会、で、不満が住民の中にうっせきしてくると。
はい。
というところから、だんだんこう、おい、今の政府どうなってんだという声が上がってきますよ。
まあそうなりますよね。
うん。
で、そこに立ち上がろうといったのがフランシスコ・フランコですね。
はい。
はい。軍隊の将軍ですけども。
フランシスコ・フランコがクーデターを決行して、ここから内戦が始まります。
おお。
スペイン内戦ですね。
スペイン内戦。
はい。で、内戦最終的にフランコが勝って、独裁政権を開始するというのは、前回の、以前のね、歴史のところでもちょっとだけお話ししたんですけど。
はい。
ファシズム勢力の協力を得てですね、ゲルニカの空爆とかね、その時ありましたけど。
はい。
反乱軍はもう戦局を有利に進めていきます。
はい。
対する共和国側って言うんですけどね、あの共和制の方は、ソ連だけ一応社会主義なんで協力はしてくれたんですけど。
イギリスとかフランスとかの方は、ちょっと社会主義の国を支援するのをどうかなみたいな、自由主義の国なので、ちょっとここには干渉しないよという方針を取ります。
はい。
そうなると、また慶忠戦争の時と同じなんですけど、効率無限ですよね。
ああ、確かに。
今回はクーデターなんで、最初は共和国側が一番領土って言ったらあれか、領土的には一番広かったんですけど、どんどん反乱軍に支配されていって、いろんなところが陥落して、最後1939年1月にバルセロナが陥落。
で、その後マドリードも陥落して、フランコ軍が全部支配するというような形になりました。
はい。
これね、結構両方の軍がそれぞれの陣営で結構残虐なことをしてて、この内戦は結構痛々しい歴史っていう風に言われてますね。
27:09
これちょっと調べるとね、心苦しくなるようなことをいっぱいしてます、両方。
で、この間サッカーなんかできるわけなくて、できるわけないんだけど、なんかやってたんですよ。
えー。
えーと、まあマドリードはさすがにちょっと前線なのでできなかったんですけども、マドリードはだから休止してました。
ああ。
レアルマドリード。
仕方ないですね。
そうですね。
で、バルセロナは前線から離れてるんで、その地中海リーグみたいなの作って、えーと、そこで優勝してますね。
ははは。
やってました。
また地中海ですね、次はね。
あ、戻ってきましたね、地中海に。
戻ってきました。
はい。
で、まあ両方ね、一応その共和国陣営のサッカークラブとして一応活動はしてて、まあマドリードは休止してたんですけどね。
はい。
はい。
まあだからマドリードも結構ね、その最初からフランコ側なわけなくて当然。
うーん。
えーと、まあマドリディスタの間には、そのクラブのなんか貴族みたいな伝統主義者と共和国政府に忠実な左派勢力というのが一応共存はしてたんですよ。
おー。
で、えーと、まあ貴族とか資本家とか死主とか、そういう裕福な伝統主義者はフランコの反乱軍にちょっと親近感を感じる人もまあいたみたいなんですけど。
はい。
まあサッカー普及したことで新しく形成された労働者階級っていうのはまあ共和国派を支持してたわけですね。
はい。
はい、まあそういう風にちょっとね、あのー共存してたよっていうところがあります。
はい。
ではご存知のように内戦が終わりまして。
はい。
で、そこからフランコは独裁を開始して。
うんうん。
で、えーと目標として強い一つのスペインっていうのを掲げます。
はい。
そうなってくると、まあカタルーニャとかバスクみたいな民族主義、民族文化っていうのを徹底的に弾圧していくことになりますね。
うん、なるほど。
はい、まあこれちょっとあれですけど、もう前回ちょっとやったんですけど、まあ自治憲章が廃止されて、まあ憲法ですよね。
はい。
カタルーニャ語とかカタルーニャの旗、もうこれ全部禁止になります。
ああ、またこのタイミングで。
うん。で、今回のはね、まあ結構その、もう国民の間でも、なんかあいつカタルーニャ語喋ってますみたいな、密告みたいなの。
ああ。
結構あったみたいで。
うん。
相互監視されてるわけですね。
そうですね。はい。で、えーとFCバルセロナもこれ潰されるんじゃねえかというのあったんですけど、その不安もあったんですけど、
えーフランコがどうやら、そのスポーツを統一スペインのための民族融和の場みたいに使おうとしてたんですよ。
えー、ああ、なるほど。
うん。で、異民族のクラブなんですけど、バルサが。
はい。
だけど、まあなんかガス抜き的にスポーツクラブあってもいいんじゃないかっていう感覚やと思うんですけどね。
30:03
ああ、なるほど。
なんか暴れるならここで暴れてねえみたいな、まあその感じがもしかしたらあったかもしれないですね。
なので弾圧してるけど、なんかクラブの中でちょっとカタルニャ語出てきても、なんかあんまりそこまで言わなかった。
まあなんか代々的にやったら逮捕したりしてたと思うんですけど。
うーん。まあここサッカーの場では許されてたと思うんですね。
まあなんか暗黙のね、多少はですけど、まあ完全なんかすごい大問題に発展したら、結構その罰金とか課されてたりしましたけど。
はい。
まあなんか多分ちょっとぐらいなら見逃されてたんだと思うんですよ。スタジアム内とかやったら。
はい。
でもね、バルサがそのままだと残しておけないってことで、カタルニャ語とか旗、カタルニャの旗を使用禁止にするにあたって、いろいろバルセロナ側にもちょっと変えてもらいました。
うーん。
まず、エンブレム。
はい。
エンブレムね、一応カタルニャの国旗があるんですけど。
はい。
カタルニャの国旗って黄色地に赤い四本線なんですよ、縦に。
ほう。
まあ縦か横か分からないか。
縦か。
で、それをもうカタルニャの国旗禁止なんで、変えてくださいってことで、あの二本線に変えました。
えー。
まあ四本線ってのが結構大事なんですけどね。
はい。
カタルニャの旗の成り立ち的にあるんですよ、その伝説が。
ほう。
王様が黄金の縦に四本地を引いてこれを国旗にしろみたいな言ったみたいな、そういう伝説あるんで。
はい。
数変えるのが結構なアイデンティティの創出ではあるけど、まあその変更をまず強いますね。
ほう。
で、えーと次、名前、クラブ名。
えー、フットボールクルーブバルセロナっていう、まあちょっと英語っぽい語順。
これちょっと外国カプレなんで、スペイン語にしてくださいってことで、クルーブでフットボールバルセロナに変わります。
ほう。
なのでFCバルセロナが、まあCFバルセロナに変わるんですよ。
あー、なるほど。
FCじゃなくなるのか。
そういうことです。
はいはい。
なんでね、エンブレムの変遷を見ていただくと、その時だけ名前の順番が変わってるっていうのがわかると思います。
おー、なるほど。
うん、結構ね、まあなんか何年かで戻ったりはしてるんですけどね、カタロニア国旗が復活したりしてるんですけど。
はい。
まあこのタイミングではこういう厳しいダウンスがありました。
うん。
はい、で一応ね、マドリードの方も共和国側にいたチームではあるんで、どうなるかなという話なんですけど。
はい。
もうマドリードは内戦中何もできてない、休止してたんで。
うん。
まあいいだろうということで制裁は免れてまして。
はい。
ただ内戦後にじゃあチーム再開しましょうってなっても、選手も少ないわ、で金もないわ、マドリードボロボロだわ。
でスタジアムも荒れてるわっていう状態で、もうちょっと成績を残そうとか言えるような状態じゃなかったわけですよ、ボロボロで。
33:04
でなんか執行部がポケットマネー出したり、あ今年バルセロナがやってましたけど、執行部のポケットマネー出したり、銀行から金借りたりして何とか食いつないでる状態で。
おー。
こっから黄金時代に迎えるとかちょっと夢だなというような、そんな状態でした。
なるほど。
はい。で、えーと、まあそっからね、おのおのこうどうにかこうにか頑張っていくわけですよ。
えーマドリーの方は、まああのサンティアゴ・ベルナベウっていう会長が就任して、まあ拉腕を振るってね、あのもうめちゃくちゃ力つけていくんですけど。
はい。
えーバルセロナの方はカンプヌを作ったりね、でまた黄金期訪れて、まあマドリーといろいろそのステファノ争奪戦とかやるんですけど、
まあちょっと待って、その前にね、あのクラシコ、一発目にじゃあこっからクラシコ始まったんだなっていうきっかけの試合があるんで、ちょっとそれのお話をしますね。
はい。
えーと当時の国王杯はもう名前変わってフランコ政権下では総統杯っていう名前になってました。
フランコ総統ですね。コパデル・ヘネラリッシモっていう名前になっちゃってるんですけど。
はい。
それが1943年の総統杯春決勝。
はい。
でファーストレグがバルセロナのホーム、ダスコルツで行われて、これでバルサがね3-0で勝ったんですよ。
おー。
はい。
でこの時ね、マドリーノ選手が結構ラフプレー連発して、スタジアム結構ブーイングを浴びせてたんですよ。
はい。
まあそれあまりに過ぎるっていうことで、でフランコ政権下でマドリーノ選手にブーイングすること自体は結構その段階で、まあ勇気いる行為で、
新聞でも結構ね、まあ新聞も中央政府寄りですから、スペインを代表するクラブの選手にブーイング浴びせるとは何てことだみたいな、そういう批判が飛んでたんですね。
はい。
でまあここでちょっとメディアを巻き込んだバルサバッシングみたいなのが始まるわけです。
あー。
はい。でセカンドレグですね。
はい。
でここでちょっと運命の一戦なんですけど、
はい。
マドリーが11対1で勝ちます。
おお、だいぶ差つきましたね。
ね、野球でもちょっとあの打ったなーっていうぐらいのスコアですけど、
はい。
結構こんなのあり得ないぐらいのスコアですね、これは。
まあサッカーでは見えないですね。
うん。でこの試合結構ね、その中央政府の偉い人からの圧力が審判に下ってたんじゃないかということを噂されてまして、
えー、なるほど。
疑惑の笛とかね、レッドカールとかゴール取り消しが何個もあったりとか、
まあそういう記録が残ってますね。
でまあ圧力っていうのは噂なんですけどあくまで、まあそういう風な噂が今でも支えられてまして、
はい。
当時のね、バルセロナの選手がもうちょっとこんな試合やってられないわということで、
ハーフタイムにもうピッチ行きませんって言ったんですよ。
36:02
はい。
後半。我らピッチ行きませんと。
はい。
そしたらマドリードの警察署長が来てマドリードの、ピッチ行かないなら貴方達は刑務所行きですと。
ピッチか刑務所か選びなさいみたいな。
えー。
みたいな感じで脅したわけですよね。
はいはい。
もう行政ぐるみで懲らしめようっていうことですよね、これ要は。
なるほど。
まあそういう感じでね、ちょっとこの試合をきっかけに、
そのマドリードは体制側のクラブで、
で、それに反抗的なバルセロナみたいな、カタロニア民族主義の代表バルセロナみたいな構図がここで出来上がったという風に言われています。
なるほど。
で、しかもこの試合の後、そのまあそういう問題があって、
じゃあどういう処置が取られたかっていうと、スペインサッカー連盟が両方のクラブに罰金を課したわけです。
お、そうなんですね。
そうなんですよ。
マドリーだけならわかるし、ファーストレグでめちゃくちゃブーイングしたって言うんで、
バルセロナにはまず単独で罰金は下ってるんですよ、その前に実はね。
なのにセカンドレグでなんかやられたバルサももう一回罰金みたいな。
なるほど。
これ納得いかないよみたいな。
なんかそういう懲らしめ方もされて、
まあちょっとここでね、ライバル関係が始まったんじゃないかという風に言われてますね。
有名な11対1のスコア。
なるほど。
まあね、こっからこのライバル関係がんがん積み上がっていくんですけど、
このライバル関係自体はいろんな事件あります。
ステファの争奪事件とかね、ガラス瓶のファイナルとかグルセタ事件とかめちゃくちゃあるんですけど、
その個々はね、今はやりません。
とりあえず始まりまで今日お話ししました。
でね、マドリーはサンティアゴベルナベルっていう会長が脱腕振って、
こっからもう大成功を収めるクラブに、こっから成長していきます。
フランコ内戦終わった後ね。
バルサはバルサで名選手を獲得して、
マドリーの中央政府からの嫌がらせをいっぱい受けるんですけど、
それでもなんとかめいげずに頑張っていきます。
で、フランコ総統が1975年に死ぬことによって独裁政権終わって、
スペインは民主化の道をたどりますが、
そこからね、マドリーが大成側のクラブである必要がなくなったので、
バルセロナはバルセロナで、弾圧から逃れることができるようになったので、
やっと健全なライバル関係っていうのがそこから育むことができるようになったというような感じなんですね。
なので、このエルクラシコの伝統の一戦のライバル関係の発端には、
まず内戦後の弾圧とか、独立の問題とかいうのがあって、
中央政府とカタロニアのバチバチ感っていうのがサッカーの方に波及していったということなんですね。
39:08
ということで、ちょっと最後駆け足ではございましたが、歴史をお話ししました。
健全な関係を築いているとは言っても、2019年、3年前ですかね、独立問題が沸き上がって、
クラシコが延期されるみたいな事態もありましたし、
禁断の遺跡とかね、豚の頭事件とかルイス・フィーゴのもありますし、
まだまだ完全には拭い去れるわけはないんですけど、
クラシコを見る上でこういう歴史を知っておくと、また別の視点があっていいんじゃないかなというふうに思います。
そうですね。この辺は知らなかったので、確かにこういう背景があるんだなと。
なんか結構バルセロナが、カタロニアが結構いじめられてて、
なんかこう、当チャンネルでも結構バルサーを、なんかこう、なんていうんだろう、
バルサーもここおかしいよねみたいなやつを過去にやりましたけども、
ちょっとこれで優しくしてあげなきゃいけないんだなっていうのは、ちょっとなんか同情してますね、今は。
そうですね。なんか我々日本人なんで、やっぱ気軽にこう、ライバル関係に立ち入っちゃいますけど、
やっぱこういう暗い歴史を知っておくと、また関わり方も変わってくるなと。
バルセロナにもうちょい優しくしてあげようかなっていうのも、それこそありますし。
まあなんか事情が分かりますね、その辺は。
ということで、エル・クラシコの歴史でした。
なんかあの、すっ飛ばしたようなやつは今後やっていきたいんで、
今後のクラシコのタイミングなりでやっていきたいと思います。お楽しみに。
はい。
それじゃあ今回はこの辺で終わります。また次回お会いしましょう。さよなら。
さよなら。
40:56

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