そういう資格って結構最近というか、結構昔からあったんですかね。
昔からね、あるみたいです。
でもバナちゃんがそれを取った方がいいなと思ったのは、やっぱり普通のカウンセラーということだけではなくて、
何か必要性を感じていたということ?
それはね、全然違うんですよ。
私が2012年かなに自分のがんがわかって、その治療をしているときに、
元々原稿を書く中で、がんの記事とかも書いてはいたので、
自分はがんっていうことにそれほどすごい驚くことはないのかなと思ってたんですよね。
だけど実際自分がんになってみると、すごいパニックにもなるし、考えないといけないこともたくさんあったし、
もともと書くことで支援的なことをしてたので、
同じような境遇の人を支援したいな、ピアサポートって言うんですけど、
そのためには、がんになった人の話をしっかり聞けないといけないよなっていうことで、
傾聴を学ぼうと思って、傾聴で検索したら出てきたのが産業カウンセラーだったから、
全然産業はついてきた感じ。
傾聴すごい大事にトレーニング、104時間トレーニングするんですけど、
それが出てきたのが産業カウンセラーだったので、
むしろそこの技術を見つけたいから。
そう思って資格を取ったんです。
カウンセラーにも普通にカウンセラーセンターとか、
1個人とか、例えばスクールカウンセラーとか、多種多様の中で、
産業カウンセラーってのはやっぱり傾聴に対して重要視が全然違うかったりするのかな?
他のところは私はあまり知らないんですけども、
産業カウンセラー協会はやっぱり傾聴っていうところの中でも、
カール・ロジャースっていう人が提唱した来壇者中心療法っていう傾聴をベースとして、
104時間実習を行うんです。理論とは別に。
今産業カウンセラーの養成講座の指導者もしてるんですけど、
結構ハードなプログラムなんですけど、そこをすごい大事にしているっていうところと、
聞くだけじゃなくて、根本に人間尊重っていうベースがあって、
その人を唯一かけがえのない一人として見て、
その人を重要共感するっていうところの傾聴ベースにしてるっていうところもあって、
すごく時間をかけて、人間尊重と重要共感自己一致っていう態度をすごく大事にしているところなので、
よく傾聴って言うと、ふんふんって聞いて大むがえしをするみたいなことで、
傾聴っていうものは誰でもできるとか、ある意味簡単なものだというふうに捉えてる人もたくさんいるんだけれども、
私たちがやってるのは積極的傾聴なので、ただふんふんって聞くだけでも、大むがえしでつらかったんですねとかって返すだけでもなく、
ちゃんと問題を把握して見立ててであるとか、
目の前に起こってる問題を解決するというよりも、その背後にあるその人自身の問題課題、
その人の責任において一緒に取り組むと決めた人と共に歩みながら、
その人の自己成長を一緒に見守りながら歩んでいくみたいな感じ。
人としての人間としての成長っていうところをすごく大事にしているところなので、
めちゃめちゃ難しいんですよね。
そうだ、今聞いてるだけでもすごく難しい。
僕は去年カウンセリングをバナちゃんに紹介してもらったカウンセラーの方で、
実際に受けた当事者ではあるし、今聞いてそういうことかっていうのはすごく思ったことがある。
納得できる。
聞くだけじゃなくて、さらにその背景にある問題とか、人間的な成長みたいな部分を、
僕正直なんですけど、本当にカウンセラーの方って何も言わないんですよね。
言わないと言ったら変だけど、特にそんなに何か意見を言うわけじゃないし、ずっと聞いてるだけ。
ほぼほぼ8割ぐらい。
でも最後にちょこちょこってちょっと大事な話をする。
で、その時にあって、なんかそれがさっきバナちゃんの話から感じることだなと思ってて、
すごい、そういうことなんだっていうところですよね。
絶対トレーニングはないとできないことだなって。
態度と頭の中でするその作業みたいなことなので、
聞いてるけど頭の中でめっちゃ忙しくこう、いろいろ考えてて。
骨の本質は何かっていうことを整理して。
大事なこと。
産業カウンセラーの富士高校に私が行く前からそんなこと分かってたわけでは全然ないんだけど、
でもやっぱりそういうことを人を育てようとしてるところなので、
やっぱりすごい慶長っていうところは力を入れてる教会です。
なんか聞いてて、わーなんか学校の先生とかがね、
もしそういう教育を受けてそうしてくれてたらってすごい思ったけど、
全然そんな時間ないだろうなみたいな感じとか。
でも学校カウンセラーの人とかはね、
同じようにそういう視点で関わってくれたり、
なんか助けてって言った時にヘルプしてくれたらすごいいいなと思う。
でも産業カウンセラーっていうのは会社が雇うっていう感じでなるの?
産業とは言っても、実はその働くフィールドは企業だけではもちろんなくて、
受けに来る、受講する方は例えば人事とかに、会社側の方であるとか、
もちろん学校のフィールドの方もいるし、
諸団体の人もいるしで、実はフィールドがすごく広いっていうところがあるんですけど、
私とかはその教会に依頼が来ているところに派遣されるっていう感じですね。
でも確かに仕事とか産業に関わることで悩むことっていうかね、
なかなか人間関係であったり仕事のことにあったりとか、
だいたい仕事が中心になっている人が多いかなと思うので、
結構たくさんの方が求めていることかもしれないなと思うんですけどね。
ニーズっていうか、だいぶ時間かけて受けられる方が多くなったとかってあるんですか?
それはカウンセリングを?
カウンセリングを。
そこは悩ましいところでですね。
ある意味私のバイアスもかかっているんですけど、
なかなか相談をしない日本の人は。
はいはい。
それは本当によくわかるところがあって。
アメリカとかも当たり前にカウンセリングを受けるけれども、
カウンセリングっていう名前がつくと、
すごくハードルが曲がっていて、
企業でいつも同じ時間とかに行ったりするんですけども、
そんなに自主来談される方っていうのは多くないんですね。
でもやっぱり移動があったり、昇進したりとか環境が変わると、
やっぱりそこに適応するまでの間にストレスがたまりやすくなったり、
適応なかなかしにくくて、ちょっとメンタルがしんどくなっていくみたいな人もたりもいるので、
そういう人を行ってきなさいっていうことで来たりするのが、
今言っているところのメインだったりするんですけど、
そうすると、「いや、そんなここで話すようなことはないです。」って言うんですよ。
困ってないです。
例えば上司から行ってこいって言われて来たものの?
すごい悩みを言わなあかんみたいな。
っていうふうに思ってあるから、
いやいやもう全然そんなことはなくてって言って、
今ちょっと気になっていることとか、何でもいいし、
ちょっとストレスに感じていることとか、
嬉しかったことでも何でもいいんですみたいなことで話を聞いてたりするっていう。
ハードルみたいなものっていうのはどうしてもあるっていうのは、
どういうところなのかなとは思うんですけどね。
特に男性はほとんど相談みたいなことは、
相談も何も出すってこともないのかなと僕は思ってるんやけども、
社会の問題というか日本の社会みたいなの、
あんまりそういうのを教養してこなかったこともあるのかなとかね。
弱音を言うなとかね、
そういう態度とか。
女性はね、しゃべることで発散したりするけども、
なんかこう、愚痴みたいになるんですけどみたいな前向きを言ってしゃべる人とかもいて、
愚痴も情けないとか恥ずかしいみたいな、
そんなのもあるから、
愚痴とか全然いいんですよって言ったら、
みんなハーッと笑いながら。
二逸って言われるとまだまだ難しいところですね。
確かに。
女性は本当に自己開示というかね、
昔からやっぱり自分のことをやっぱり友達同士でしゃべってきてるっていう、
なんかそういうちゃんと練習してきてるなっていうのがあったりとかする中で、
僕とかもやっぱり去年、
なんかやっぱり何かに頼って生きていきたいなっていうのがあって、
でもやっぱり自分では分からないことがたくさんあった。
そこはすごい本当に不思議というか面白かったところで、
こんだけ自分って自分のこと分かってへんのかな?ぐらいの。
人に話聞いてもらう。
さっき言った形状。
でもやっぱりプロの方に聞いてもらうっていうのはやっぱり全然違うんかなと思って。
僕は過去におった多分傷みたいなものをずっと抱えてたし、
それも社会人とか自分で自立するようになってからはそれもなかったことにしてた。
もう嫌すぎる思い出の中で、
嫌なことだとしてずっとしまい込んでたんだけど、
でもやっぱりそれがずっと影響していたっていうのが分かった。
そういうところでカウンセリングってすごい力があるんだなって改めて思って。
初めての経験だったんだけどね。
普通に本当に風邪ひいた時に病院行くように、
不調やからカウンセリングっていうのは当たり前になってもいいんじゃないかなと思って。
前からね、バナちゃんがそういうストップ的な感じで気軽に相談できる場があったらいいなっていうのは言ってたよね。
なかなかですよね。
そういうのは増えてきてる感じはあんまない?
でも、コロナ以降、オンラインっていうものが普通になってきて、
今までカウンセリングっていうと手費義務とかがあるので、
個室をどっかキープしてそこに来てもらってっていうものがあって、
それってすごい自分のカウンセリングルームとかを持ってればいいんだけども、
カウンセリングがないと結構場所を探すのが大変で、
声がつすぬけとかそういう場所でよかったり。
喫茶店とかじゃできないし、
私とかカラオケのルーフとかちょっと歌聞こえるけど、個室みたいなのとか、
でもなんかその雰囲気としては、
ここで熱狂してるカウンセリング室みたいな。
オンラインになったことで、
自分と相手がそれぞれ一人になる場所ができれば、
それがやりやすくなったっていうところで、
窓口が増えたことで、
アクセスしやすくなっている人はいると思いますし、
私はやってないんですけど、SNSカウンセリングとかも。
LINEで。
若い人とかはやっぱり一番それが使いやすいから、
話すようにSNSでやっていくっていう。
チャット式に。
そうそうそうそうっていうのもあったり。
なるほどなるほど。
だから手段も増えてきている分、
アクセスしやすくなって、
そこをやってみようかなっていう人は、
多少なりと増えてるかなっていうふうには思う。
なるほど。
なんか最近、セルフケアとかね、セルフラブとか、
Z世代の本当に常識というか、
あったりとかしながら、
ケアするって結局どういうことなんだろうかっていうのはね、
人によって本当に様々やと思うんやけどもね、
何をしたら傷が癒えるのかなんて、
それは簡単に言える問題じゃないんだけども、
バナちゃんの中でちょっと思うこととかってあるかな?
その傷って何?心の傷?
心の傷とかね。
ストレスとかもそうかもしれないし、
なんかそのあたりは本当、まだ全然理解が及ばないというかね。
もちろんカウンセリングを受けることも本当にケアしてるとは思ったことではあるし。
一つは時間っていうのがありますよね。
時間が経つ中で自然と癒されていくっていうのはあるけれど、
あとは何だろう、それを受け入れることかな。
受け入れられない。
無理無理って思ってるといつまで経っても何だろう、
しんどいけども、
それを受け入れる。
予心はその意味を自分なりに考える。
傷ついた出来事の意味。
その傷も、本当に傷ついてる方とか、これを聞くと何言ってんねんと思うかもしれないけれども、
そういう困難とかトラブルとかしんどいことって、
それまでの自分を振り返る機会。
今まで通りやってたらとか、うまくいかなくなってしまったんかなって思うので、
そこを振り返る時なんかなって思うと、
振り返ってその意味だったりっていうのを考えることは一つの、
受け入れることで自分自身を癒すっていう意味では一つあるのかなと思う。
あとは、ピアーというか同じ経験をしている人と話すことで、
自分だけではないっていうのとか、
そういうことによっても受け入れやすくなる。
自分一人ではなかなか受け止めがたいこと。
例えば、私の身近で言えばそのがんになった人とかであれば、
なんで自分がなってしまったんだろうとか。
私もそうだったけど最初はとても受け入れがたいというか。
だけどピアーで話すことで、同じように苦しんでいる人がいるんだとか、
その間、ずっと来てくださっている患者さんが言ってたのが、
私たちスタッフはほぼほぼがんのサバイバーなんですけど、
みんな仕事をしてて、それにがんという経験を受け入れて生きているっていう中で、
ちょっと先の先輩なんですって。
受け入れて、こんな風に変われるんだとか、なれるんだとかっていう、
それを見ると自分の元気をもらえるし、
何かやってみようと思うようになった、みたいなことを言っていただいた方がいて、
例えば私だったら産業カウンセラーになったし、
私の同じスタッフの中で、2回再発して、また今違う難病で入院中の人がいるんですけど、
すごいケセラセラの人で、
会社を辞めて、京都でコミンカを買って、そこで薬膳カフェを始めて、
がん患者さんが伝える場所を作ったりとかしてて、
ごがんになったことで、そういう夢を持って実現をさせて、みたいな生き方とか。
私もその人の生き方はすごいなっていう。
体は病気だけども、全然気持ちとかは病気ではなく、
めっちゃ自分らしくのびのびと生きてる。
これが健康とかっていう本来ある姿なんだろうな、みたいな。
その人も仕方ないから受け入れて、
でも自分にやりたいことは諦めず、どう両立していくのか、みたいな。
そこにとどまらない。傷ついたことにとどまらない。
その人もでもどこかで苦しんだ場面っていうのはやっぱりあったのかな?
あったんでしょうね。私たちには見せてないけれども、
あったと思う。
バナちゃん自身はそのがんっていうものを受け止める時っていうのは、
何かカウンセリングなのか、どういうふうに対処したのかな?
その時はカウンセリングとかも勉強する前だったから、
なんだろう、どう受け止めたか。
なかなか受け止めがたかったね。
例えばその回復する余地が見えたとか、
治療を進めていく上でとか、ちょっとなんか気持ちがいろいろ変化していくとかっていうのがあったのかな?
それはすごくありましたね。
告知されました、みたいな時に、
がんの告知とかってある意味イメージあるじゃないですか。
がんです、みたいな。
ステージ何々ですとか。
思おもしい雰囲気みたいな。
全然じゃなくて、
症状の紙にがん酒とプルプルって書いて、
がんでした、みたいな感じで。
サラッと来た。
サラッと来て、
それまでいろんな検査してて、
言わへんかったけど、アウチやろなって思ってたけど、
でも、みたいな。
サラッと来た、みたいな。
のがすごい、え〜?みたいな。
サラッとして、
それまでは、
その頃もちろんライターで書いてたけど、
そういうものに関する本を読むと、
本当になりそうで、読まなかった。
よくある。
あんまり情報を入れない方がいいとかね。
知識入れない方がいいとか。
病院のマチュエシとかに楽に、
そういう関連の本とか並んでたけど、
見ない見ないとか、
考えない考えない、みたいな。
してたんですけど、
なんか言われて、
支払いするのに、
マチュエシ室に来た時には、
やっぱりなんかすごく、
込み上げるものがあって、
で、
その時に、
看護師さんが、
大丈夫?って言って、背中をさすってくれて、
その時はすごい安心したというか、
ボーンと海に掘り出されたような感じが、
あったんだけど、
なんかお手を差し伸べてくれる人がいるな、
みたいなのはあって、
で、
よし、じゃあ治療するぞ!
みたいな。
やる気に燃えてですね。
で、そっからもう、
本とか、
めっちゃ買って、
読んでたのに。
ウワーって読んで。
で、
その時に、
役立ったのが、
今日その系の本を持ってきたんですけど、
フォリシティック医学協会の
自然治癒力を高める仕方ということで、
この本自体がどうっていうよりは、
フォリシティック医学協会には、
その時入ってたんですよ。
ライターとして。
ライターとして。
で、
ここのフォリシティック医学協会が提唱する
考え方っていうのは、
ある意味私の中に
あったので、
前向きに、
自分の望む治療を決めて、
望むことができたっていうところで、
主体的に、
自分の生き方をベースに
治療を選べたっていうところが、
私としては、
ある意味をやったんだ。
みたいな。
感じ。
なかなかそういかない気もするし、
まず見つけるのもむずいし、
見つけたとしてなんかこう、
反対されるとか、
なんかこう、
このホリスト医学っていうのは、場の医療っていって、
まさにその関係性、人との関係性とか環境も含めた治療というか。
なので、大局が悪く言うわけじゃないけど、
生命学はどっちかとその故障したところを修理するみたいな部分的なものだけど、
ホリスト医学は全体とかっていうことなので、
体全体もそうだし、ボディ、マインド、スピリットもそうだし、
人との関係性、いろんなものの中で癒されていくみたいな感じだから、
時には家族っていうのは心配するがあまりっていうところで、
癒しの障害になったりっていうところもね、もちろんあるから、
本当にケアっていうものは一人で完結しないというか。
確かに本当にそうかもしれないな。
さっきのカール・ロジャースの考え方の、
何だろうな、だから、
カウンセリングとホリスティックということの繋がりが結構、
今聞きながら感じたっていうのかな。
私も今回その本をね、何にしようかなと思って、
最近読んでる本ってカウンセリングの本ばっかりで、
これはちょっと私が勉強するという本だから、
ケアっていう大きい括りの中では違うよなと思って、
どうしようかなと思った時に、
私のケアのルーツというか、考え方っていうのは、
ホリスティック学教会にいた時に、
いろいろ染み込んでるなと思ったので、
この本を持ってきたんですけど、
自然治癒力っていうのはその人に備わっているもので、
それは大事なものかなっていうところ、
自分の中にあるその力を高めるっていうところでは大事で、
心にも治癒力があるっていう心療内科の先生もいるし、
ファムカルチャーとかはその土だったりっていう、
もともとの力だし、
カルロジャスの人の態度もまさに関係性の中で、
スキルとか技術じゃなく、
この2人の関係性の中で、
この2人の態度によって、いかに信頼関係を築いて、
クライアントが自律的に問題に取り組んでいこう、
解決していこうと思えるかっていう部分、
なんとなく今回この本を選ぶのを考えるにあたって、
つながってるかもって思ったんです。
すごく納得するし、
私も自分が学んできたこととか、
わりと教育とか子供に関わることをやってきたけど、
本当に興味あるのは自分が何か学び続けて生きていくっていうこととか、
自立するみたいなところに興味があって、
だけど今の教育の中では先生がボンって言って、
生徒たちがいて教えてもらうみたいな上下の関係っていうのが、
すごく元から違和感があって、
じゃあその人が自分で学びたいことを学んでいくにはどうしたらいいの?
っていうこととかは、
お弟子さんの生徒の中でも、
別にしっかり教えなくても近くにいることで、
なんか自分で習得していく、
だからその場のものと一緒に学んでいくみたいなことをすごくいいなと思って、
体験型の教育とかそういうことにすごい興味があったので、
カール・ロジャースの名前も久しぶりに聞いたなみたいな、
聞いたことあるなっていう感じがしたし、
そういう中では自分のことをよく見つめていくとか、
花火の体系みたいな中で、
ホリスティックともカンセリングとも関わることに多少興味を持ってきたんだな、
だから和名ちゃんとパーマカルチャーで知り合ったのも、
なんか必然だったのかなみたいなこととか、
そのものの本質っていうところを見つめて大事にするっていうところは、
変わらないのかなと思ったり、
ちょっとその洋ちゃんの話聞いてて今ちょっと思ったのは、
その作業カウンセラーの養成講座で、
私たちは指導者っていう呼び方はされるんですけど、
教えない、体験学習なんですね。
なので私たちが需要共感事故一致っていう態度でもって接することで、
カンセリングマインドで受講者に接することで、
それを学び取ってもらうみたいな感じなんですね。
口で言っても態度って分かんないじゃないですか。
なのでっていうところでは、その洋ちゃんの言う、
一緒にいながら学び取る。
だから上でもなく等しい関係性の中で、
ちょっとだけ先輩で、
そこで体験して何が起こってたんやろうなーって言って、
じゃあこの時どんな風に言ってもらったら、
分かってもらったって思うかなーみたいなのをみんなで出し合って、
クライアント役にどれがお好み?とか言って、
じゃあこんな風にこの人が言ってもらったら、
分かってもらったって思うねんなーみたいな、
みんなで学んでいく感じっていうのがあるなーって思ってました。
プリズンサークルみたいじゃないですか。
そうだね。
バナちゃん知ってるかな、プリズンサークルって。
ドキュメンタリー映画であり、
本にもなってるやつやねんけども、
それは前回の山上の本壇のヒラリエさんからお借りした本やねんけども、
島根にある刑務所、比較的軽度というかね、
犯罪というかね、罪がそんなに軽い人たちが入る刑務所があって、
そこで一つのTCっていう回復行政プログラムを日本で唯一行なったっていうところやねんけども、
TCっていうのはテラピューティックコミュニティで回復する共同体。
何をするかっていうと、
サークル上に位相並べてみんな円形になって、
自己開示をしていくんやけれども、
例えばそれが自分がどういう環境で生まれそうだったとか、
その犯罪を犯したときどういう状況だったのかとか、
あと今現在自分の感情みたいなものをさらき出してって、
通常その日本の刑務所って大体沈黙を強いられる場所、
黙って作業する、黙って食事するみたいな、
ただそこは自分の言葉で自分で喋っていくっていうことを、
それを通すと見えてきたものがあって、
大体の人がやっぱり幼少期にあらゆる暴力にさらされてる。
例えばDV、ネグレクト、いじめ、差別、
そういうものがずっと積み重ねていくうちに、
犯罪行為を呼んでいったりとか、
あとその中でもこれ以上つらいことがないようにってことで、
感情を途出す。
だからちょっと感毛っていう言葉があって、
例えば自分が犯罪を犯しても、
自分は犯罪を犯して刑務所に入りました。
刑務所に入って、自分の奥さん、子供、仕事、友人、全てを失った。
自分はなんでこんなつらい身に遭わなきゃいけないんだっていう風に、
被害者に対しての罪の意識が全くなかったりとかっていうようなことがあったり。
でもそういうふうに自己開示をして、
みんなで一気に言い合って話していくと、
それが変化していくんだよね。
どんどんどんどん。
なんか人間を取り戻すような感覚。
人間力をどんどん上げていくような感じがあって、
最終的に出ていった時に再犯しないようなプログラムっていうのがあって、
それがすごい対話することが、
暴力っていうものを打ち砕くっていうかね、
回復することになり得るんだなっていうのが。
ホリスティックの文脈であったりとか、