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2025-11-25 52:24

#57-1 【ゲスト回】「ケア」ってなんだろう?産業カウンセラーばなちゃんと考える、心の痛みとの向き合い方 part1

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ヨウの長年の友人ばなちゃんをゲストに、「ケア」をテーマにインタビューしました。Part1では、ばなちゃんが産業カウンセラーになったきっかけ、どんな仕事なのか、そして、ケアとはどういうものか、じっくり聞いてます。

お話しを聞いて、カウンセンリングを受けてみたい、という方に、以下おすすめしてもらいました。



○日本産業カウンセラー協会関西支部

https://kansai.counselor.or.jp/counseling/personal/


○まもろうよこころ(厚生労働省)

https://www.mhlw.go.jp/mamorouyokokoro/?gad_source=1&gad_campaignid=20104395529&gbraid=0AAAAAC6K3Ss5XGVqtZJdf9fgAObAPEelc


○こころもメンテしよう(厚生労働省)

https://www.mhlw.go.jp/kokoro/youth/consultation/index.html


カウンセリングの希望があればどうぞご相談ください!

サマリー

今回のエピソードでは、ゲストのばなちゃんが心のケアやカウンセリングについて深く掘り下げます。ばなちゃんは産業カウンセラーとして、がん患者への支援や職場でのメンタルヘルスに関する経験を共有し、傾聴の重要性を強調しています。エピソードでは、産業カウンセラーと共に心の痛みと向き合う方法について議論します。特に、依存と自立のバランス、カウンセリングの重要性、そしてケアの多様な形について考察されています。ばなちゃんは「ケア」というテーマに取り組み、心の痛みとの向き合い方について深く考えます。ホリスティック医学と自己実現の関係、治療における親子の影響についても触れています。さらに、ばなちゃんは心の痛みとの向き合い方について語り、カウンセリングの重要性や効果に焦点を当てます。安全な場所での自己開示が心理的な回復にどのように寄与するかを探っています。

ゲストの紹介とテーマ設定
今回ね、ゲストですから、ゲスト回。
ばなちゃんをお呼びしましてありがとうございます。
ようこそ。ありがとうございます。
今回お呼びしたのがですね、前回僕たちは山の上の本棚の平井玲さんと、ジェンダーの問題とかフェミニズムの話をしたんですね。
で、その時に言ってたのが、自分の痛みとか弱さ、そういうものをまず認めることからフェミニズムが始まるんじゃないかっていうことをちょっと話してたんだけども、
じゃあ実際自分たちが受けた痛みとか、そのまあ辛い経験とかっていうのを、じゃあどうやってケアしていったらいいんだろうか。
そういうことをちょっと聞きたいなと思って、ばなちゃんをお呼びしようと。
実際カウンセリングのお仕事をされている中で、ケアと対話についてちょっと今回をゆっくり伺いたいなと。
早速というか、とりあえず今どういうお仕事をされているか、そのあたりから伺っていいでしょうか。
元々健康関係のライターを20数年やってて、それは今もやってるんですけども、
それに加えてカウンセリングをやってます。
主に企業さんの中で社員さんとかのカウンセリングをしている、その二本柱の仕事をしています。
あとNPOでがん患者さんの就労支援っていうのもやってます。
そこでも個別にお話し聞いたりすることもあるので、カウンセリングとかはそこでも使ったり。
就労支援の中でもっていう感じですね。
いつぐらいからカウンセリングの仕事は?
カウンセリングの仕事自体は、本当に最初電話相談から始めたんですけど、
それが2016年です。
思っているよりも最近というか、もっとずっとやってるイメージがあった?
そう、資格を取ったのが2016年なんですよ。産業カウンセラーの。
産業カウンセラーっていう資格があるの?
その資格を取ってカウンセリングのお仕事をしだしたっていう感じですかね。
その産業カウンセラーっていうのは具体的にどういう資格?
対面でのカウンセラーなんですけども、産業ってつくので、産業界におけるカウンセリングっていうことなので、
対面のカウンセリングだけではなく、職場とか組織への働きかけをやっていくっていうのが産業カウンセラーの特徴というか。
やっぱり組織に働いていると、自分の心の持ちようだけではどうにもならないこと。
仕事の量だったり、職場と人間関係だったり、そうするとやっぱり組織に働きかけたり、経営に働きかけたりして、
そこは改善してもらう必要があったりする。
そういう組織の働きかけっていうのを行うのが産業をつくカウンセラーの一つの特徴かなっていうふうに思っています。
人々の心の声に耳を傾ける
そういう資格って結構最近というか、結構昔からあったんですかね。
昔からね、あるみたいです。
でもバナちゃんがそれを取った方がいいなと思ったのは、やっぱり普通のカウンセラーということだけではなくて、
何か必要性を感じていたということ?
それはね、全然違うんですよ。
私が2012年かなに自分のがんがわかって、その治療をしているときに、
元々原稿を書く中で、がんの記事とかも書いてはいたので、
自分はがんっていうことにそれほどすごい驚くことはないのかなと思ってたんですよね。
だけど実際自分がんになってみると、すごいパニックにもなるし、考えないといけないこともたくさんあったし、
もともと書くことで支援的なことをしてたので、
同じような境遇の人を支援したいな、ピアサポートって言うんですけど、
そのためには、がんになった人の話をしっかり聞けないといけないよなっていうことで、
傾聴を学ぼうと思って、傾聴で検索したら出てきたのが産業カウンセラーだったから、
全然産業はついてきた感じ。
傾聴すごい大事にトレーニング、104時間トレーニングするんですけど、
それが出てきたのが産業カウンセラーだったので、
むしろそこの技術を見つけたいから。
そう思って資格を取ったんです。
カウンセラーにも普通にカウンセラーセンターとか、
1個人とか、例えばスクールカウンセラーとか、多種多様の中で、
産業カウンセラーってのはやっぱり傾聴に対して重要視が全然違うかったりするのかな?
他のところは私はあまり知らないんですけども、
産業カウンセラー協会はやっぱり傾聴っていうところの中でも、
カール・ロジャースっていう人が提唱した来壇者中心療法っていう傾聴をベースとして、
104時間実習を行うんです。理論とは別に。
今産業カウンセラーの養成講座の指導者もしてるんですけど、
結構ハードなプログラムなんですけど、そこをすごい大事にしているっていうところと、
聞くだけじゃなくて、根本に人間尊重っていうベースがあって、
その人を唯一かけがえのない一人として見て、
その人を重要共感するっていうところの傾聴ベースにしてるっていうところもあって、
すごく時間をかけて、人間尊重と重要共感自己一致っていう態度をすごく大事にしているところなので、
よく傾聴って言うと、ふんふんって聞いて大むがえしをするみたいなことで、
傾聴っていうものは誰でもできるとか、ある意味簡単なものだというふうに捉えてる人もたくさんいるんだけれども、
私たちがやってるのは積極的傾聴なので、ただふんふんって聞くだけでも、大むがえしでつらかったんですねとかって返すだけでもなく、
ちゃんと問題を把握して見立ててであるとか、
目の前に起こってる問題を解決するというよりも、その背後にあるその人自身の問題課題、
その人の責任において一緒に取り組むと決めた人と共に歩みながら、
その人の自己成長を一緒に見守りながら歩んでいくみたいな感じ。
人としての人間としての成長っていうところをすごく大事にしているところなので、
めちゃめちゃ難しいんですよね。
そうだ、今聞いてるだけでもすごく難しい。
僕は去年カウンセリングをバナちゃんに紹介してもらったカウンセラーの方で、
実際に受けた当事者ではあるし、今聞いてそういうことかっていうのはすごく思ったことがある。
納得できる。
聞くだけじゃなくて、さらにその背景にある問題とか、人間的な成長みたいな部分を、
僕正直なんですけど、本当にカウンセラーの方って何も言わないんですよね。
言わないと言ったら変だけど、特にそんなに何か意見を言うわけじゃないし、ずっと聞いてるだけ。
ほぼほぼ8割ぐらい。
でも最後にちょこちょこってちょっと大事な話をする。
で、その時にあって、なんかそれがさっきバナちゃんの話から感じることだなと思ってて、
すごい、そういうことなんだっていうところですよね。
絶対トレーニングはないとできないことだなって。
態度と頭の中でするその作業みたいなことなので、
聞いてるけど頭の中でめっちゃ忙しくこう、いろいろ考えてて。
骨の本質は何かっていうことを整理して。
大事なこと。
産業カウンセラーの富士高校に私が行く前からそんなこと分かってたわけでは全然ないんだけど、
でもやっぱりそういうことを人を育てようとしてるところなので、
やっぱりすごい慶長っていうところは力を入れてる教会です。
なんか聞いてて、わーなんか学校の先生とかがね、
もしそういう教育を受けてそうしてくれてたらってすごい思ったけど、
全然そんな時間ないだろうなみたいな感じとか。
でも学校カウンセラーの人とかはね、
同じようにそういう視点で関わってくれたり、
なんか助けてって言った時にヘルプしてくれたらすごいいいなと思う。
でも産業カウンセラーっていうのは会社が雇うっていう感じでなるの?
産業とは言っても、実はその働くフィールドは企業だけではもちろんなくて、
受けに来る、受講する方は例えば人事とかに、会社側の方であるとか、
もちろん学校のフィールドの方もいるし、
諸団体の人もいるしで、実はフィールドがすごく広いっていうところがあるんですけど、
私とかはその教会に依頼が来ているところに派遣されるっていう感じですね。
でも確かに仕事とか産業に関わることで悩むことっていうかね、
なかなか人間関係であったり仕事のことにあったりとか、
だいたい仕事が中心になっている人が多いかなと思うので、
結構たくさんの方が求めていることかもしれないなと思うんですけどね。
ニーズっていうか、だいぶ時間かけて受けられる方が多くなったとかってあるんですか?
それはカウンセリングを?
カウンセリングを。
そこは悩ましいところでですね。
ある意味私のバイアスもかかっているんですけど、
なかなか相談をしない日本の人は。
はいはい。
それは本当によくわかるところがあって。
アメリカとかも当たり前にカウンセリングを受けるけれども、
カウンセリングっていう名前がつくと、
すごくハードルが曲がっていて、
企業でいつも同じ時間とかに行ったりするんですけども、
そんなに自主来談される方っていうのは多くないんですね。
でもやっぱり移動があったり、昇進したりとか環境が変わると、
やっぱりそこに適応するまでの間にストレスがたまりやすくなったり、
適応なかなかしにくくて、ちょっとメンタルがしんどくなっていくみたいな人もたりもいるので、
そういう人を行ってきなさいっていうことで来たりするのが、
今言っているところのメインだったりするんですけど、
そうすると、「いや、そんなここで話すようなことはないです。」って言うんですよ。
困ってないです。
例えば上司から行ってこいって言われて来たものの?
すごい悩みを言わなあかんみたいな。
っていうふうに思ってあるから、
いやいやもう全然そんなことはなくてって言って、
今ちょっと気になっていることとか、何でもいいし、
ちょっとストレスに感じていることとか、
嬉しかったことでも何でもいいんですみたいなことで話を聞いてたりするっていう。
ハードルみたいなものっていうのはどうしてもあるっていうのは、
どういうところなのかなとは思うんですけどね。
特に男性はほとんど相談みたいなことは、
相談も何も出すってこともないのかなと僕は思ってるんやけども、
社会の問題というか日本の社会みたいなの、
あんまりそういうのを教養してこなかったこともあるのかなとかね。
弱音を言うなとかね、
そういう態度とか。
女性はね、しゃべることで発散したりするけども、
なんかこう、愚痴みたいになるんですけどみたいな前向きを言ってしゃべる人とかもいて、
愚痴も情けないとか恥ずかしいみたいな、
そんなのもあるから、
愚痴とか全然いいんですよって言ったら、
みんなハーッと笑いながら。
二逸って言われるとまだまだ難しいところですね。
確かに。
女性は本当に自己開示というかね、
昔からやっぱり自分のことをやっぱり友達同士でしゃべってきてるっていう、
なんかそういうちゃんと練習してきてるなっていうのがあったりとかする中で、
僕とかもやっぱり去年、
なんかやっぱり何かに頼って生きていきたいなっていうのがあって、
心の依存と自立
今までやったら多分カウンセリングとかも受けなかったことやねんけども、
でもそういう生き方もちょっとどうかなと思って、
ちゃんと依存していかんと自立ではないかなとか思ったり。
結局自分で抱えて吐き出すところがない。
そうなると何かに多分影響がいっぱいいろんなところでできそうな気がする。
誰かに当たるとか、
暴力的な言葉を発してまうとか、
なんか仕事がうまくいかないとか、
それはちょっとそういう生き方はしたくないと思って、
カウンセラーをバナちゃんに紹介していただいたっていうのがあるんですけど。
そう思えたきっかけというかさ、
何かあったの?
依存して生きていきたいなって思う?
やっぱり前の仕事の関係かなと思ってて、
誰かに頼りながら仕事をしてたけども、
でも心から頼ってたかってそうじゃなかったりとか、
どっかで自分一人でやってる感っていうのがすごいあったりとか、
抱え込みすぎてるとか。
抱え込みすぎてるって分かりながらやってるみたいなのもあったり。
それはもうやめよう。
引っ越してきて新しい暮らしを始めてる中で、
それは良くないと思って。
最初はちょっと抵抗みたいなのもあったんだけれども、
カウンセリングの経験
でもやっぱり自分では分からないことがたくさんあった。
そこはすごい本当に不思議というか面白かったところで、
こんだけ自分って自分のこと分かってへんのかな?ぐらいの。
人に話聞いてもらう。
さっき言った形状。
でもやっぱりプロの方に聞いてもらうっていうのはやっぱり全然違うんかなと思って。
僕は過去におった多分傷みたいなものをずっと抱えてたし、
それも社会人とか自分で自立するようになってからはそれもなかったことにしてた。
もう嫌すぎる思い出の中で、
嫌なことだとしてずっとしまい込んでたんだけど、
でもやっぱりそれがずっと影響していたっていうのが分かった。
そういうところでカウンセリングってすごい力があるんだなって改めて思って。
初めての経験だったんだけどね。
普通に本当に風邪ひいた時に病院行くように、
不調やからカウンセリングっていうのは当たり前になってもいいんじゃないかなと思って。
前からね、バナちゃんがそういうストップ的な感じで気軽に相談できる場があったらいいなっていうのは言ってたよね。
なかなかですよね。
そういうのは増えてきてる感じはあんまない?
でも、コロナ以降、オンラインっていうものが普通になってきて、
今までカウンセリングっていうと手費義務とかがあるので、
個室をどっかキープしてそこに来てもらってっていうものがあって、
それってすごい自分のカウンセリングルームとかを持ってればいいんだけども、
カウンセリングがないと結構場所を探すのが大変で、
声がつすぬけとかそういう場所でよかったり。
喫茶店とかじゃできないし、
私とかカラオケのルーフとかちょっと歌聞こえるけど、個室みたいなのとか、
でもなんかその雰囲気としては、
ここで熱狂してるカウンセリング室みたいな。
オンラインになったことで、
自分と相手がそれぞれ一人になる場所ができれば、
それがやりやすくなったっていうところで、
窓口が増えたことで、
アクセスしやすくなっている人はいると思いますし、
私はやってないんですけど、SNSカウンセリングとかも。
LINEで。
若い人とかはやっぱり一番それが使いやすいから、
話すようにSNSでやっていくっていう。
チャット式に。
そうそうそうそうっていうのもあったり。
なるほどなるほど。
だから手段も増えてきている分、
アクセスしやすくなって、
そこをやってみようかなっていう人は、
多少なりと増えてるかなっていうふうには思う。
なるほど。
なんか最近、セルフケアとかね、セルフラブとか、
Z世代の本当に常識というか、
あったりとかしながら、
ケアするって結局どういうことなんだろうかっていうのはね、
人によって本当に様々やと思うんやけどもね、
何をしたら傷が癒えるのかなんて、
それは簡単に言える問題じゃないんだけども、
バナちゃんの中でちょっと思うこととかってあるかな?
その傷って何?心の傷?
心の傷とかね。
ストレスとかもそうかもしれないし、
なんかそのあたりは本当、まだ全然理解が及ばないというかね。
もちろんカウンセリングを受けることも本当にケアしてるとは思ったことではあるし。
一つは時間っていうのがありますよね。
時間が経つ中で自然と癒されていくっていうのはあるけれど、
あとは何だろう、それを受け入れることかな。
受け入れられない。
無理無理って思ってるといつまで経っても何だろう、
しんどいけども、
それを受け入れる。
予心はその意味を自分なりに考える。
傷ついた出来事の意味。
その傷も、本当に傷ついてる方とか、これを聞くと何言ってんねんと思うかもしれないけれども、
そういう困難とかトラブルとかしんどいことって、
それまでの自分を振り返る機会。
今まで通りやってたらとか、うまくいかなくなってしまったんかなって思うので、
そこを振り返る時なんかなって思うと、
振り返ってその意味だったりっていうのを考えることは一つの、
受け入れることで自分自身を癒すっていう意味では一つあるのかなと思う。
ケアの多様性
あとは、ピアーというか同じ経験をしている人と話すことで、
自分だけではないっていうのとか、
そういうことによっても受け入れやすくなる。
自分一人ではなかなか受け止めがたいこと。
例えば、私の身近で言えばそのがんになった人とかであれば、
なんで自分がなってしまったんだろうとか。
私もそうだったけど最初はとても受け入れがたいというか。
だけどピアーで話すことで、同じように苦しんでいる人がいるんだとか、
その間、ずっと来てくださっている患者さんが言ってたのが、
私たちスタッフはほぼほぼがんのサバイバーなんですけど、
みんな仕事をしてて、それにがんという経験を受け入れて生きているっていう中で、
ちょっと先の先輩なんですって。
受け入れて、こんな風に変われるんだとか、なれるんだとかっていう、
それを見ると自分の元気をもらえるし、
何かやってみようと思うようになった、みたいなことを言っていただいた方がいて、
例えば私だったら産業カウンセラーになったし、
私の同じスタッフの中で、2回再発して、また今違う難病で入院中の人がいるんですけど、
すごいケセラセラの人で、
会社を辞めて、京都でコミンカを買って、そこで薬膳カフェを始めて、
がん患者さんが伝える場所を作ったりとかしてて、
ごがんになったことで、そういう夢を持って実現をさせて、みたいな生き方とか。
私もその人の生き方はすごいなっていう。
体は病気だけども、全然気持ちとかは病気ではなく、
めっちゃ自分らしくのびのびと生きてる。
これが健康とかっていう本来ある姿なんだろうな、みたいな。
その人も仕方ないから受け入れて、
でも自分にやりたいことは諦めず、どう両立していくのか、みたいな。
そこにとどまらない。傷ついたことにとどまらない。
その人もでもどこかで苦しんだ場面っていうのはやっぱりあったのかな?
あったんでしょうね。私たちには見せてないけれども、
あったと思う。
バナちゃん自身はそのがんっていうものを受け止める時っていうのは、
何かカウンセリングなのか、どういうふうに対処したのかな?
その時はカウンセリングとかも勉強する前だったから、
なんだろう、どう受け止めたか。
なかなか受け止めがたかったね。
例えばその回復する余地が見えたとか、
治療を進めていく上でとか、ちょっとなんか気持ちがいろいろ変化していくとかっていうのがあったのかな?
それはすごくありましたね。
告知されました、みたいな時に、
がんの告知とかってある意味イメージあるじゃないですか。
がんです、みたいな。
ステージ何々ですとか。
思おもしい雰囲気みたいな。
全然じゃなくて、
症状の紙にがん酒とプルプルって書いて、
がんでした、みたいな感じで。
サラッと来た。
サラッと来て、
それまでいろんな検査してて、
言わへんかったけど、アウチやろなって思ってたけど、
でも、みたいな。
サラッと来た、みたいな。
のがすごい、え〜?みたいな。
サラッとして、
それまでは、
その頃もちろんライターで書いてたけど、
そういうものに関する本を読むと、
本当になりそうで、読まなかった。
よくある。
あんまり情報を入れない方がいいとかね。
知識入れない方がいいとか。
病院のマチュエシとかに楽に、
そういう関連の本とか並んでたけど、
見ない見ないとか、
考えない考えない、みたいな。
してたんですけど、
なんか言われて、
支払いするのに、
マチュエシ室に来た時には、
やっぱりなんかすごく、
込み上げるものがあって、
で、
その時に、
看護師さんが、
大丈夫?って言って、背中をさすってくれて、
その時はすごい安心したというか、
ボーンと海に掘り出されたような感じが、
あったんだけど、
なんかお手を差し伸べてくれる人がいるな、
みたいなのはあって、
で、
よし、じゃあ治療するぞ!
みたいな。
やる気に燃えてですね。
で、そっからもう、
本とか、
めっちゃ買って、
読んでたのに。
ウワーって読んで。
で、
その時に、
役立ったのが、
今日その系の本を持ってきたんですけど、
フォリシティック医学協会の
自然治癒力を高める仕方ということで、
この本自体がどうっていうよりは、
フォリシティック医学協会には、
その時入ってたんですよ。
ライターとして。
ライターとして。
で、
ここのフォリシティック医学協会が提唱する
考え方っていうのは、
ある意味私の中に
あったので、
前向きに、
自分の望む治療を決めて、
望むことができたっていうところで、
主体的に、
自分の生き方をベースに
治療を選べたっていうところが、
私としては、
ある意味をやったんだ。
みたいな。
感じ。
なかなかそういかない気もするし、
まず見つけるのもむずいし、
見つけたとしてなんかこう、
反対されるとか、
なんかこう、
ケアとの向き合い方
いろんなハードルがありそうだけど、
やったってなれた。
そうなんですよ。
で、
エッセンスっていうのが、
病気を治す主体は患者ですと。
で、主治医は
それを支援する人です。
っていうことと、
フォリシティック医学っていうのは、
西洋医学も、
それ以外の大体医療って言われるものも、
自分がいいと思うものを取り入れていくっていうことなので、
どっちが良い悪いっていう考え方をしないっていうところ。
自分が選んでもいいっていうところであるとか、
その、
自分が一番の主治医であるっていう、
自分が主体的に決めていいんだっていうところが、
まずあったし、
病気を抱えても自己実現していくっていう考え方もあって、
なので、病気がないから健康であるから不健康なんじゃなく、
病気でも自己実現していくっていう中で、
えっと、
で、自分はじゃあどういう風にいきたいのかみたいなことも考えながら、
治療方法とか、
治療する病院とかを、
まあ、選んで決めて、
で、さっきおちゃんが反対されたりとか言ってたんだけど、
実は私、
友達には何人かに言ってたんだけど、
家族には手術の日を決めてから言ったんですよ。
ちょっと反対がありそうな予感がすると。
いや、反対がありそうっていうよりは、
うちの母親が多分すごい悲しむんやろうなと思って、
で、
まあ、
父とか姉とかインターネットとか使えるから、
その病気がどういう病気でとか、
このステージだったら大丈夫とかっていうのもある程度調べることができるけど、
母はインターネットとかもできない人なので、
ステージとかを説明しても、
なかなか、
私は早いステージだったので、
っていうこととかもわかんないだろうし、
みたいな、
それは単に私の余計な気の回しなんだけど、
なので、悲しむ時間はできるだけ短くしたいなみたいなのもあって、
手術の日を決めてから言ったみたいなのもあったので、
本当に自分のやりたいように決めたんですよ。
かぶるっていうか、全然ね、
がんじゃないけど、
私、手術休憩手術を取った時に、
むしろ手術も終わって退院してからバレたみたいな感じ。
そう、めっちゃ後から文句言われたけど、
なんか心配する期間は少ない方がいいかな。
終わりました、へへへみたいに言いたいっていうのはすごい自分にはあって。
そこは本当に親って聞くとやっぱ影響が強いと思うので、
自分がこうしたいって言っても、もしかしたら反対されたらこう変えなあかんかもしれないっていう揺らぎ。
それはちょっと、たぶんバナちゃんの上でもしんどいやろうしね、
なんとかやっぱ自分なりの生き方、自分なりの治療の仕方みたいなことを確立してっていうところで、
そこまで持っていけるだけでもすごいと思うんやけども、
なかなか親っていうのは結構ハードルかもしれないなと。
母と娘というのがまたね、ものすごい大きい。
もう一人の自分なんだなって、お互いに。
それがすごいね、結局ケアって一人のものじゃない感がすごいあって、
親の気持ちもちょっと押しはかりつつ、
そこにもなりきりつつ、じゃあ自分はどこまでが自分とか、
自分のことをどこまで決めていい?
それが周りの人に与える影響は?みたいなとこまでもケアなのかなって思うと、
なんかすごい複雑やってることがね。
家族の影響
このホリスト医学っていうのは、場の医療っていって、
まさにその関係性、人との関係性とか環境も含めた治療というか。
なので、大局が悪く言うわけじゃないけど、
生命学はどっちかとその故障したところを修理するみたいな部分的なものだけど、
ホリスト医学は全体とかっていうことなので、
体全体もそうだし、ボディ、マインド、スピリットもそうだし、
人との関係性、いろんなものの中で癒されていくみたいな感じだから、
時には家族っていうのは心配するがあまりっていうところで、
癒しの障害になったりっていうところもね、もちろんあるから、
本当にケアっていうものは一人で完結しないというか。
確かに本当にそうかもしれないな。
さっきのカール・ロジャースの考え方の、
何だろうな、だから、
カウンセリングとホリスティックということの繋がりが結構、
今聞きながら感じたっていうのかな。
私も今回その本をね、何にしようかなと思って、
最近読んでる本ってカウンセリングの本ばっかりで、
これはちょっと私が勉強するという本だから、
ケアっていう大きい括りの中では違うよなと思って、
どうしようかなと思った時に、
私のケアのルーツというか、考え方っていうのは、
ホリスティック学教会にいた時に、
いろいろ染み込んでるなと思ったので、
この本を持ってきたんですけど、
自然治癒力っていうのはその人に備わっているもので、
それは大事なものかなっていうところ、
自分の中にあるその力を高めるっていうところでは大事で、
心にも治癒力があるっていう心療内科の先生もいるし、
ファムカルチャーとかはその土だったりっていう、
もともとの力だし、
カルロジャスの人の態度もまさに関係性の中で、
スキルとか技術じゃなく、
この2人の関係性の中で、
この2人の態度によって、いかに信頼関係を築いて、
クライアントが自律的に問題に取り組んでいこう、
解決していこうと思えるかっていう部分、
なんとなく今回この本を選ぶのを考えるにあたって、
つながってるかもって思ったんです。
すごく納得するし、
私も自分が学んできたこととか、
わりと教育とか子供に関わることをやってきたけど、
本当に興味あるのは自分が何か学び続けて生きていくっていうこととか、
自立するみたいなところに興味があって、
だけど今の教育の中では先生がボンって言って、
生徒たちがいて教えてもらうみたいな上下の関係っていうのが、
すごく元から違和感があって、
じゃあその人が自分で学びたいことを学んでいくにはどうしたらいいの?
っていうこととかは、
お弟子さんの生徒の中でも、
別にしっかり教えなくても近くにいることで、
なんか自分で習得していく、
だからその場のものと一緒に学んでいくみたいなことをすごくいいなと思って、
体験型の教育とかそういうことにすごい興味があったので、
カール・ロジャースの名前も久しぶりに聞いたなみたいな、
聞いたことあるなっていう感じがしたし、
そういう中では自分のことをよく見つめていくとか、
花火の体系みたいな中で、
ホリスティックともカンセリングとも関わることに多少興味を持ってきたんだな、
だから和名ちゃんとパーマカルチャーで知り合ったのも、
なんか必然だったのかなみたいなこととか、
そのものの本質っていうところを見つめて大事にするっていうところは、
変わらないのかなと思ったり、
ちょっとその洋ちゃんの話聞いてて今ちょっと思ったのは、
その作業カウンセラーの養成講座で、
私たちは指導者っていう呼び方はされるんですけど、
教えない、体験学習なんですね。
なので私たちが需要共感事故一致っていう態度でもって接することで、
カンセリングマインドで受講者に接することで、
それを学び取ってもらうみたいな感じなんですね。
口で言っても態度って分かんないじゃないですか。
なのでっていうところでは、その洋ちゃんの言う、
一緒にいながら学び取る。
だから上でもなく等しい関係性の中で、
ちょっとだけ先輩で、
そこで体験して何が起こってたんやろうなーって言って、
じゃあこの時どんな風に言ってもらったら、
分かってもらったって思うかなーみたいなのをみんなで出し合って、
クライアント役にどれがお好み?とか言って、
じゃあこんな風にこの人が言ってもらったら、
分かってもらったって思うねんなーみたいな、
みんなで学んでいく感じっていうのがあるなーって思ってました。
プリズンサークルみたいじゃないですか。
そうだね。
バナちゃん知ってるかな、プリズンサークルって。
ドキュメンタリー映画であり、
本にもなってるやつやねんけども、
それは前回の山上の本壇のヒラリエさんからお借りした本やねんけども、
島根にある刑務所、比較的軽度というかね、
犯罪というかね、罪がそんなに軽い人たちが入る刑務所があって、
そこで一つのTCっていう回復行政プログラムを日本で唯一行なったっていうところやねんけども、
TCっていうのはテラピューティックコミュニティで回復する共同体。
何をするかっていうと、
サークル上に位相並べてみんな円形になって、
自己開示をしていくんやけれども、
例えばそれが自分がどういう環境で生まれそうだったとか、
その犯罪を犯したときどういう状況だったのかとか、
あと今現在自分の感情みたいなものをさらき出してって、
通常その日本の刑務所って大体沈黙を強いられる場所、
黙って作業する、黙って食事するみたいな、
ただそこは自分の言葉で自分で喋っていくっていうことを、
それを通すと見えてきたものがあって、
大体の人がやっぱり幼少期にあらゆる暴力にさらされてる。
例えばDV、ネグレクト、いじめ、差別、
そういうものがずっと積み重ねていくうちに、
犯罪行為を呼んでいったりとか、
あとその中でもこれ以上つらいことがないようにってことで、
感情を途出す。
だからちょっと感毛っていう言葉があって、
例えば自分が犯罪を犯しても、
自分は犯罪を犯して刑務所に入りました。
刑務所に入って、自分の奥さん、子供、仕事、友人、全てを失った。
自分はなんでこんなつらい身に遭わなきゃいけないんだっていう風に、
被害者に対しての罪の意識が全くなかったりとかっていうようなことがあったり。
でもそういうふうに自己開示をして、
みんなで一気に言い合って話していくと、
それが変化していくんだよね。
どんどんどんどん。
なんか人間を取り戻すような感覚。
人間力をどんどん上げていくような感じがあって、
最終的に出ていった時に再犯しないようなプログラムっていうのがあって、
それがすごい対話することが、
暴力っていうものを打ち砕くっていうかね、
回復することになり得るんだなっていうのが。
ホリスティックの文脈であったりとか、
コミュニティの力
カウンセリングの文脈にすごくつながっていくなと思ってて。
いやすごく面白い。
面白いと言ったらあれやけども、
いい映画やったらもうちょっと今、
自主上映しかやってないかもしれないけど。
それの上映会はやりたいねって言ってるけど。
マンガでできたらとかね、マンガの辺とかで興味ある人たちと。
その自己開示していくことっていうものが、
どういうふうに回復していってるんだろうかって、
なんかその辺ってバナさん的にどう思うかな。
話、カウンセリングってもちろん自分の話しないといけない。
それが、そういうところなんだけど。
そうすることで何が見えてるんやろ、自分の中でとかって思ってるんですけど。
とても深い、難しいテーマではあるんですけど、
カウンセリングの効果みたいなことで言われるのは、
自分で喋ってても自分の喋ってることって、
全部頭の中で考えて言ってるわけじゃなくて、
勝手に口から出てくるものってあるじゃないですか。
それを話すことで、もう一回自分で聞く。
あと、話すっていうのは、放出の方と距離の離す、
両方の話すになるっていうことは、
私たちは研修とかでもいつも言ってて。
ずっと話す。
俯瞰するってこと?
自分の中から解き放つと、距離を置く。
話すことで、客観的に見るわけですよね。
確かに。
カウンセラーは伝え返したり、
グループワークとかだったら意見を言うことで、
自分の言ったことを客観的に見たり、
それに対して人から客観的なコメントをもらったりすることで、
それを俯瞰してみることができるっていうのは、
一つあるのかなっていうふうには思ってて、
そうすることで、自分こんなふうに思ってたんやとか、
人から授業されたりすることで、
それが自分ではすごく嫌なことをやったけども、
自分は仕方なくそうなってたんだと思えたりとか、
自分の中だけにあるとグルグル頭の中に回る、
もしくは閉じ込めるので、
なかなか進められない。
そこから留まってしまうけど、
話すことで解き放ち、距離を持って客観視する、
そこから誰かに返してもらう、意見を言ってもらうことで、
改めて俯瞰して、見て、考えて、
そうかもしれないっていう気づきがあるのかもしれん。
でもそれはあるかもしれないな。
僕がカウンセリングを受けて、
こんだけ自分のことを分かってなかったって思ったのは、
やっぱりそういうところかもしれないな。
喋ってみて初めて気づいたっていう。
そういうことがすごく多々あったっていう。
その時受けたことが自分にとってどんなもんやったのか。
なんかそういうところが、
カウンセリング受けた時の感じだなと思うし、
ちなみにプリズンサークルのところで、
言ったら安全に自分のことを話せる、
その空間のことを一応サンクチュアリーって言葉で使ってて、
その場だけ、そこは本当に安全な場所ですよっていう。
だから自分の自己解除していきましょうっていう感じで。
でもそういう場所っていうのが本当に必要なのかなと思ってて。
それがカウンセリングの場作りというかね、
なのかなと思うし。
まずいくらカウンセリングが下手くそでも、
クライアントさんを傷つけない、
安心安全な場が作れてたら、
多少伝え返しとかが下手くそであっても、
そこは相手を傷つけないっていう意味ではOKっていうふうに言ってるんですね。
その養成講座の場でもやっぱり、
自分、体験学習なんで感じたことを発言してもらうんですけど、
安全な場所での自己開示
なかなかサラリーマンで働いてると、
感情とか感じることは置いといて、
目の前の課題をやっていくとか、
タスクを片付けていくみたいなことなんで、
感じたこととかを意識化するのも慣れてないし、
それを人に伝えて言語化することも慣れてないっていうので、
片層思っても、これ間違ってるんちゃうかなとか、
こんなこと言ったら恥ずかしいなみたいなのがあると、
出てこなくなるんですよね。
なので、まさにその安心安全な場。
ここは何を言ってもいい。
自分の感じたことだから、それに正解不正解はないから、
とりあえず言葉に出してみようよ、
みたいなことをやっぱりするっていうところはありますよね。
52:24

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