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2024-08-04 10:26

136 書誌 | 佐伯胖『「わかり方」の探究』(2004)

佐伯胖『「わかり方」の探究:思索と行動の原点』小学館,2004.7,306p

https://www.shogakukan.co.jp/books/09837360

#書誌 #佐伯胖 #冒険の書

サマリー

佐伯胖の著書『「わかり方」の探究』(2004)は、学校の勉強がなぜつまらないのかという問いに答え、学びと遊びの一体化の重要性について語っています。

『「わかり方」の探究』の書誌情報
書誌情報メモ。佐伯胖『「わかり方」の探究:思索と行動の原点』小学館,2004年7月刊,全306ページ。以上です。
ここからはおまけとしたいと思います。
この本は孫泰蔵さんの『冒険の書』の中に取り上げられている本の一冊でして、この『冒険の書』の最初の問いである、「なぜ学校の勉強はつまらないのか」という問いに対してストレートに答えを出している、そういう本です。
ただ、この本はこの孫さんの『冒険の書』の中では最初にあるのではなくて第二章ということで、少し進んでから出てくるんですけれども、私としてはこの本を最初に出していきなり答えを出してしまうのがわかりやすいのかなというふうに思いました。
この本には、「なぜ学校の勉強がつまらないのか」という問いに対する答えとして考えられる次のようなことが書かれています。
すなわち、本来学びというものは楽しいものであった。というのも、それは学びと遊びというものが分かれていなかったから。夢中になって遊ぶのはとても楽しいことですが、
その中で学びというものもある、つまり遊んでいるうちに学んでしまうという形での学びというものはつまらないわけがないわけですね。
しかし、学校の勉強はどうでしょう。それは楽しい場合もあるかもしれませんが、つまらない場合もあるというか、その場合のが多いかもしれません。
それは今言った学びと遊びの一体化が壊されているからですね、つまり学びの中から遊びを除いてしまった、これが勉強なわけですけど、遊びが除かれた学びが勉強ということなので、定義から言ってもそれは遊びとは違うものですから、あまり面白くないわけですよね。
これが端的に表れているのが、学校の授業時間と休み時間の区別となります。授業時間は遊んではならない、逆に遊び時間は勉強してはならない、これをはっきり区別しなければいけないということで、学びと遊びは違うものだということを子どもに教えるというか、
それが当たり前のものとして捉えられる。しかもその面白くない勉強というものはしなければいけないものであるというふうに考えさせられるわけですね。
なぜ学校では勉強をさせるのかということについても、佐伯さんの本には答えが書かれています。それは能力というものを学校では高める必要がある、そのための活動が勉強なのだと。
つまり能力を高めるという目的のためにあるのが勉強であり、その勉強をさせるのが学校であると。こういう考えですね。ですから学校というのは子どもたちの能力を高める場であるということなわけです。
これだけ聞くと当たり前じゃないかと、多くの人は思うかもしれません。けれども佐伯さんはそれに疑問を呈しています。つまり能力というものを高めることができる、そして能力というものがそもそも存在するということを前提にしている。
けれどもそれは本当なのだろうか。能力というものがあると考えること自体が信仰なのではないか。これは能力信仰というふうに言っているわけですが、そういう考え方を出しています。
私がそれに関連しそうなところをつまみ食い的に読んだ範囲では、なぜ能力というものが存在しないと言えるのか、ということについてはあまり詳しく書かれていませんけれども、
ただ、孫泰蔵さんの『冒険の書』の方ではその話もまた展開されていますので、そこの部分を読むときにまた考えたいんですけれども、とりあえず最初の問いですね。
勉強と遊びの一体化の重要性
なぜ学校の勉強はつまらないのかというと、それは学校の勉強が遊びと区別されたもの、つまり学びから遊びが除かれたものだからであると言うこと。
ですので、その状態を改善するには、やはり学びと遊びをもう一度結びつけて、学ぶことが遊ぶことであり、遊ぶことが学ぶことであるような、そういう状態。
この場合の遊ぶというのは、何かゲームをしたりとかですね、いかにも遊びという感じのものだけではなくて、例えば何でもいいんですけど夢中になってやること。
本を読むでもいいし、文章を書くでもいいし、絵を描くでもいいし、楽器を演奏するでもいいし、何でもいいんですけれども、ともかく何か面白いと思ってやり楽しむことができること、これが遊び。
そういえば佐伯さんは遊びの定義が難しいというふうに言っていて、その遊びの条件として無目的性と自発性というこの2つが大事だと言っていましたね。
目的なしに、つまり遊ぶこと自体が目的であるような、そういう活動であり、しかもそれが自発的に行われなければいけない、誰かに強制されてやるのではなくて、自発的にそれをやっていることが遊びであると、そういうことだということですね。
私、長年大学の教員あるいは学者という職業に就いていますけれども、この勉強することが仕事になっているような、そういう仕事なんですけれども、
勉強と仕事が一緒になっている、勉強というか学びですね。学びと仕事が一緒になっているだけではなくて、遊びも一緒になっているんですね。
だから、多くの学者は勤務時間だけ仕事をしているわけじゃないんですね。もう起きている時間全部と言っていいくらいやっています。
だから家に帰ってももちろんしますし、通勤時間でもしますし、それが一種の遊びだからやれるんですけれども、でもそれは仕事にも関わりがもちろんある。
もちろんそれは学びでもある。そういう学びと仕事と遊びの一体化している人たちがいるというふうに佐伯さんとか孫さんは言ってますけれども、言っているというかそれの例として、学者、研究者のような人を挙げていますけど、まさに私もその一人と言っていいかなというふうに思います。
ただ最近は研究も遊びとは違う仕事になってきているような気がしますね。つまり遊びであったら、それは無目的であり自発的でなければいけないんですが、目的を設定され、また自発的ではない、つまり強制されて行う研究というものも非常に多くなってきていて、
それは全然楽しくないですね。だから遊びではない。遊びと仕事と学びが分かれているのを当たり前と考えればそれで当然だろうと。仕事なんだから楽しくなくてもやらなきゃいけないんだと。
そういう話になるわけですけど、私などは楽しくないことはもうできない。体質的にできないので、そうしますと仕事もできないということになってしまうんですね。
これはちょっと辛いものがあります。けれどもしょうがないです。そういう風潮になってきていますが、ちょっと愚痴っぽいことを言ってしまいましたけれども、ということで、この辺でおまけを終わりにしたいと思います。
10:26

このエピソードに言及しているエピソード

コメント

わたしが大学生の頃は、「この人の話を聴いてみたい」という先生の授業をとるようにしていました。そうして「この人」というのはどういう人だったかというと、自分の研究に楽しんでワクワクして没頭している人だったように思います。わたしがまだ大学生だった頃はそういった先生も多かったのかもしれません。 ただ昨今はたなさんがおっしゃるように目的ありきの研究が多くなっているのかもしれません。私の仕事は大学を含めた研究部門に商品を納める仕事なのですが、最近の研究員は自分から自らテーマを決めて取り組むのではなく、上から言われたことを研究している研究員が多いと聴きます。「うまくいくかわからないけれどチャレンジしてみよう」という風潮でもない、余裕もない、効率ばかりが求められる世界になっているからというふうにも感じます。上から言われたことを淡々とやっているほうが考えなくて済みますが、それで今度上になって言う立場になったときにどうなるのか、「上にはなりたくない」という人も多いので困ったものです。 たなさんが情熱をもって取り組まれる研究がいつまでもできることを祈っております。

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