学生の意見と反応
昨日の授業は講義に関連したディスカッションの授業だったのですが、その中で少しあれっと思ったことがありました。
私の授業の中で「イタリア・ルネサンス期」の科学と技術というものを取り扱ったのですが、
それに関連して前に学生にこのような問いかけをして意見を聞いたことがあります。
その意見というのは、「イタリア・ルネサンス期においては最先端の学問は大学の外で発展した。
それは現在でも同じだと思う。
今日の大学生も大学の授業を受けて満足することなく、積極的に大学の外に出て、大学では学べないような最先端の学問を学ぶべきだと思う」。
このような架空の意見を学生に提示しまして、それに同意するかどうかというのを聞いたわけです。
それに対して、昨日のクラスの受講者は100%同意というのが37%、75%同意というのが23%で、
合計しますと60%、6割の学生が先ほどの意見、つまり今の大学生も積極的に大学の外に出て最先端の学問を学ぶべきだというふうに言っているんですね。
それに対して先ほどの意見に同意しない、あるいは25%しか同意しないという学生は合わせて24%、約4分の1しかいませんでした。
これを見まして私は、学生たちは大学の外で学ぶことにかなり積極的なのかなというふうに思ってしまったわけですが、
しかし、昨日のディスカッションでまた別の論点を提示して意見を述べてもらいました。
学びへの姿勢
その論点というのは次のようなものです。
「大学生の4年間は最先端の学問を学ぶ必要はなく、学問の基礎をしっかり学ぶべきだと思う。
なぜならば学問の基礎をしっかり学んでからでないと最先端の学問を理解することは不可能だからだ」。
こういう意見です。
こういう意見に対して同意するかどうか、またその理由は何かということで意見を書いてもらいましたところ、
大体ここでは何パーセントかというのはわからないんですけれども、半分以上の学生、感覚としては8割ぐらいと言っていいと思いますけれども、
この意見に賛成であると。
大学4年間は基礎を学ぶことに集中すべきで最先端の学問などを学ぶ必要はないという意見を述べていたように思います。
先ほどは大学の外に出て学ぶべきだという学生が半分以上いたわけですから、この大学4年間基礎のみ学べばいいという意見に対しては多くの反論が寄せられるかと思ったんですね。
しかし、それはほとんどなかった。多少はあったんですけれども、数としては非常に少なかったんです。
これは何なんだろうかと、自分の考え方の中で何か矛盾とか葛藤とかいうものはないのだろうかというふうに考えてしまいました。
なんとなく学生は与えられた問いに対してもっともらしい答えというんでしょうか、意見を書く傾向がありまして、
それぞれの答えの一貫性というものをあまり考えていないようにも思うんですけれども、
でもですね、ちょっと嬉しく思ってしまった学生の積極性がやはり本物ではなかったのかなということについてちょっと考えてみました。
この議論のやりとりを見ていると、どうも学生は大学で与えられるカリキュラム、そのカリキュラムに沿って順々に学んでいく、
それが一番いい学び方なのだという考え方を持っているようで、カリキュラム外の自分の興味に従っていろんなことを貪欲に学んでいくという姿勢が非常に少ないように感じました。
大学外の最先端のことを学ぼうとしたって、基礎がわからなければ理解できないんじゃないかというような意見が非常に強かったですね。
わからなくてもいいからともかく学んでみるという姿勢は非常に少なかったように思います。
これは失敗を恐れるという、わからなかったらどうしようというですね、そういう失敗を恐れるということや、わからないものを学んでもしょうがない、
それは非常に学びとして非効率だという考え方、そういった考えが背後にあるように思います。
あるいは何か新しいものにチャレンジしてみようという、そういう姿勢も非常に少ないように感じました。
これはですね、私としては非常に残念なんですけれども、大体そういう傾向はこれまでもずっと見られたものでした。
これを何とかしたいな、もうちょっと積極的に学んでほしいなという思いを持ちながら日々授業をしているという感じです。
ということで、TanaRadioの第6回始めたいと思います。
教育制度の問題
今日はですね、前回のお続きで私のモヤモヤについてお話していきたいんですけれども、
前回は授業していても授業している実感が持てないということをお話ししました。
ではどうすれば授業している実感が持てるのかということなんですけれども、
講義についてはもうビデオでやるということを決めていますので、講義をすることでその実感をやるというのはもう諦めています。
ではどこで実感を持ちたいかというと、
学生が個人学習をしている時間に、学生と個人対応でやり取りをする、そういう中で何か授業をしているという実感を得たいなと思っていまして、
学生が私にいろんなことを質問してきたり相談してきたり、そういうのがあるとそれに答えるということで、
教員としての役割をきちんと果たしているなというふうな実感が持てるんですけれども、
しかしそれがないというのがこの不満の原因になっています。
ということで今日はですね、もっと教員に質問してほしいというテーマでお話をしてみたいと思います。
この私への質問というものは、もともとそんなに多かったわけではないんですけれども、
でも私が何か講義をしますと、それなりに少なくはあっても質問などがあったんですね。
あるいはその講義を聞いて自分の意見を述べてくるという学生も、多少ですが、いました。
しかしそういう質問がだんだん少なくなってきて、今ではほぼ皆無といってもいいような状態になってきているんですね。
そうしますと何か手応えが感じられない、全く暖簾に腕押しというんでしょうか、そういう感じなんですね。
これはなぜなんだろうかということを常に考えているわけですが、
私の話が面白くないのかな、私の話に興味を持っていないのかな、そんなふうにも感じるわけで、
そういうことは多分あるだろうと思うんですけれども。
でも私の授業を受けている限りは、多少なりとも何か自分の関心とクロスするところがあるから受けたのではないかなと思うんですね。
私の授業は必修授業ではないので、選択ですから自分から選んで受けてきているはずなので、
全く興味がなくてきている学生というのは少ないのではないかと思うんですけれども、
それにしては反応が非常に薄いなというふうに思うわけです。
私の授業は全く面白くないというわけでもないような気がするんです。
それは学生に提出してもらっている様々な提出物、これを読んでも中にはそれなりに関心を持って自分なりに考えて意見を書いてくる学生もいるんですが、
でも結局私の方から問いかけたことに答えるだけで、自分から何か問題意識を持って私に聞いてくるということがほぼ皆無なわけですね。
つまり私の授業というのは単に私の定めたシラバスの計画に基づいて進んでいく、その授業にただ乗っかっているだけ、
バスに乗って観光地を巡る、その場所で見られるものについてはそれなりに楽しんでいるんでしょうけれども、
でも別にどこか自分で行きたいところがあるというわけでもなくて、出発点から終着点まで一通り通り過ぎればそれでいいという、
そんな感じを受けるんですね。
自分で旅行の計画を立てて、自分で乗るべき電車やバス、あるいは徒歩のルートを調べて、それで何か新しいものを発見したいというような積極性は、あるいは主体性はほぼないという感じがします。
この感じですね。
これは別に珍しいことではなくて、今の若者たちには当たり前のよく見られる姿勢なのかもしれませんが、
でもやっぱりこれはちょっと問題じゃないかなというふうに思うんです。
どうしてこうなっちゃったのかというのを常に考えるんですが、やはりこれは今始まったことではなくて、
おそらく学生たちが小学校以来の学校教育を受ける中で、だんだんとそういう学校での勉強の仕方を身につけて、
それに適応できたもののみが大学に来ているので、そういうことが当たり前にできてしまうと思うんですね。
逆に言いますと、ともかく自分で何でもやりたいと、お仕着せの観光バスに乗せられていくのは面白くないから、
自分で行きたいところを決めて、道がよくわからなくてもともかく出発してしまうみたいな無謀な、
そういうことを好む人はこういう大学というところまではたどり着けずにいるのかもしれませんね。
でも大学こそそういう人たちを本当は求めているわけなんですけれども、
それができていないというのが今の日本の教育体制の非常に大きな問題なのではないかなというふうに思うんです。
おそらく小さな子どものときはみんないろんな好奇心を持って、自分のやりたいことを次々とやっていっていたのではないかと思います。
私も子どものときはそうでしたし、その子どもの心を持ち続けて大人になってしまったようなところがありますので、
今でも次々と新しいことに興味を持ってチャレンジするということは続けてきています。
今やっているラジオもその一つなんですけれども。
でも何かそういう子どもの心を今の学生にあまり感じない。
それがとても残念だし寂しいことだなというふうに思っているんです。
ですから何か変えなければいけないのではないかなというふうに思っています。
もう大学生になってしまった私が教えている学生たちでは遅いのかもしれないんですが、
でも私は大学の教員なので、やれる範囲のことをやっていきたいなというふうに思っています。
ということで今日はここまでにしたいと思います。
それではまた。