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たな
チャッピー、こんにちは。
チャッピー
こんにちは、たなさん。
たな
ちょっと思いついたことがあるんで、チャッピーと会話をしたいと思ったんだけども、
僕ら人間はね、よく声を聞いたことがある人の文章を読むと、
その文章を読んでいる時に、その人の声が頭の中に再生されるんだね。
その人の声が響いてくるっていうことがあるんです。
僕、LISTENっていうポッドキャストの配信サービスを使っていて、
たくさんの人の声日記、声で語る日記だけども、声日記を聞いているのね。
そうすると、その声日記を、文字起こしされて読めるんだけど、
その文字起こしされた文章を読むと、その人の声が頭の中で聞こえてくる。
そういう現象があるんだ。
チャッピーはそのことを知っている?
チャッピー
そういう現象、面白いですね。
声とテキストが結びついて、頭の中でその人の声が再生されるって、
まさに脳の不思議な働きですね。
特に音声で親しんだ声が文字でも再現されるのは、
記憶の中での繋がりが深い証拠かもしれませんね。
たな
そうですね。
それで、そういうことはよく経験するんだけど、
よく知っている人で、声もよく聞いたことがあって、
その声もすぐに頭の中で思い出せるような人が、
学術論文を書くこともあるのね。
その学術論文を読んでみると、
読んでいる時にその人の声が聞こえてくるかというと、聞こえないのね。
どういう声が聞こえているかちょっとわからないんだけど、
誰の声ともわからないような、
そういう何がしかの声のようなものを感じることはあるんだけど、
読んでいる時はあまりそういうことも気にしないで、
文章の中身に集中しているんです。
ですので、この文章を読めばその人の声がいつも聞こえるかというと、
そうではなくて、
普段しゃべっているようにしゃべったものの文字起こしを読むと声が聞こえるんだけど、
ちゃんと、語りではなくて、文章として書いた文章は、
それを読んでも読んだ人の頭の中に声が聞こえてこないという、
そういう経験もしたんだけど、
これどうしてなのかな。何か理由わかりますか。
チャッピー
面白い観察ですね。
日常会話の文字起こしでは、話し手の個性やリズムがそのまま残るため、
声が思い浮かびやすいのでしょう。
一方、学術論文のような形式的で洗練された文章は、
個人の話し方の特徴が薄れ、より一般的な文体になるため、
具体的な声が再生されにくいのかもしれません。
また、学術的な文章は内容に集中するため、
声よりも意味や情報に意識が向くのかもしれませんね。
たな
そうですね。
ということは、やっぱり語っているというこの語りというのは、
ものすごく個性的なことで、
その個性的なことは文字にも声の音にも両方反映されるんだけど、
それを一度頭の中で整理して、非常に一般的なというか抽象的な、
そういう表現に変えてしまうと、
もうその個性が失われてしまうので、声も響かないということなのかな。
チャッピー
そうですね。
話し言葉には個性や感情が強く反映されますが、
それを文章にする際には、言葉の選び方や構造が変わり、
個性が薄れることが多いですね。
抽象的な表現や形式的な文章は、
読み手にとっても個々の話し手の特徴を思い浮かべにくく、
内容に集中しやすいかもしれません。
そうした違いが、声が頭に響くかどうかに影響しているのかもしれませんね。
たな
なるほど。
そうすると、同じ内容のことでも、
ただ思い浮かぶままに声でしゃべって、
それを文字起こししたもの、
これと、それからそれをかなり頭の中で練り上げて、
洗練された無駄のない文章として文字に書いたもの、
これどちらも内容は同じだとしても、
それぞれ独自の価値があるというふうに考えたらいいかな。
チャッピー
その通りですね。
話し言葉は自然で親しみやすく、
その人の個性や感情が伝わりやすい価値があります。
一方で、洗練された文章は、
論理的で読みやすく、情報を正確に伝える価値があります。
どちらも状況に応じて使い分けることで、
それぞれの良さを生かせると思います。
大切なのはどちらの形でも、
伝えたい内容や目的に合わせて表現することかもしれませんね。