1. たまらじっ!!
  2. #24【保坂ゆうまさんゲスト回..

保坂ゆうまさんがゲスト/千葉県出身で大学から多摩市在住/大学進学をきっかけに多摩市へ引っ越し/戦没者遺骨収集事業のこと/大学卒業後、国会議員秘書へ/秘書業務は良くも悪くも経験/筋を通すことの大切さ/多摩市役所職員になりたかった/住んでいる街だからこそ地域を良くしたい/外から来た人が活躍できるまち/来て見て住んで一生暮らしたいと思える街へ/多摩市/樋口塾


保坂さんの活動状況はこちらのHPからご覧いただけます。皆様ぜひご確認ください!

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はい、みなさんこんばんは。REDです。このポッドキャストは、多摩市から関西へ転勤したREDが寂しさを解消するため、多摩地域に住む仲間と雑談しつつ、多摩地域のお得な情報を伝えちゃおうという番組です。
本日のゲストはですね、穂坂ゆうまさんにお越しいただきました。穂坂さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
はい、今日のテーマはですね、ビッグなゆうまが多摩を語るという。なんでビッグなゆうまなんですか?ちょっと音で伝えられるかどうかわからないけど。
音ですか?
音です。姿は見せられないので。これは動画じゃないから。
マイクが近い。
そうそう、声で表現してください。
ボヨンとした。
ボヨン。
以前ですね、こちらのポッドキャストでも、いつだっけ、なんかの回で、体重3桁ある人がいるっていう話を確かしました。
ありましたね。
その3桁の人間が、そうです、私でございます。
オンライン見近くで3桁の私。
来てくれました。ありがとうございます。
よろしくお願いします。
大阪さんはね、これから多摩をもっとよくしたいということで、今いろいろ活動しているということで、多摩を熱く語ってもらいたいなと思って。
ありがとうございます。
来ていただきました。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
早速なんですけども、大阪さんって多摩出身ですか?
私、もともと生まれが千葉県の船橋市というところで、船橋市が有名なところですね。
生まれ育って、高校まではその船橋市で育ってたんですけれども、大学進学にあたってこちらの多摩市に家族ごと引っ越してきて、もう住んで今9年目になりますね。
すごいですよね。家族ごと引っ越してきたっていうのは。
なんかそれが結構びっくりしたんですけれども、船橋市から多摩市に引っ越してきて感じたことって何かあります?印象って言ったらあれなんですけれども。
そうですね。私生まれが船橋、あと実を言うと幼稚園小学校までがそのお隣の八千代市というところに住んでいて、そこが私の祖父母が住んでて、私家族みんな共働きで、小学校、幼稚園の間だけ祖父母に育てられたって感じなんですけど、千葉の船橋八千代は正直高校まではあまり何か純粋に自分の生活範囲だけの仕事しか考えてなかったんですけど、
私、多摩の近くにある大学で法学部出身なんですけれども、大学で法律とか政治学とか行政学とかそういうのを学ぶにつれて、多摩って、多摩ニュータウンをはじめとしてやっぱり都市普段って言うんでしょうかね、そういったものがすごい整備されてるなとか、
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それは道路一つとってもすごい広くて走りやすいですし、もちろんニュータウンの多摩市北部の方は確かに旧市街地ではあるんですけども、そこもね、ちゃんと街づくりがしっかりとなされていて、すごい今更ながら大学進学で学びつつ、多摩っていい街なんだなと。
一方で改めて振り返ってみると、もともと生まれ育った船橋とかって、あの辺り国道は常に渋滞してるりしてて、東京都と点の違いも大きいかもしれないんですけれども、やっぱり市民サービスの充実度合いも今思うとちょっと違ってたのかなっていう思いはありますね。
たまに引っ越して感じたのはやっぱりその都市基盤の良さとか、あとやっぱり多摩市は何より公園が多いですので、すごい緑が近い。
自分は全然ね、小さい頃公園で遊んだことはもちろんあるんですけど、集中的にこの地区にはここの公園っていうか、それ以外はもう緑がない、本当に住宅地だけみたいな地域だったので、そう考えると多摩市は行き来るところに緑があって、ちっちゃい公園もたくさんあって、遊歩道も整備されていて、
本当に総合的に言えば都市基盤整備されていて素敵な街だなと思っています。
多摩市ってアンデルセン公園は有名ですけど、あれは大きいのがドーンってある感じなんですかね。
そうですね。やっぱりアンデルセン公園は自分もやっぱり小学校の時に家で遠足とかで行ったりしたり、それこそ土日にお休みに親に連れて行ってもらったりはしたんですけど、それぐらいかなっていう。
やっぱり本当に環境的には非常に良い場所に引っ越してきたなっていう印象だったということですね。
そうですね。
ありがとうございます。それで大学に、今法学部に通われたという話があったんですけれども、大学時代にすごい力を入れたことって何かありますか。
そうですね。私は大学4年間プラス、大学院も1年間ありがたいことで飛び急というか、1年だけ飛び急させていただいて大学院1年間行ってて、最終的にありがたいことに大学院で出席というか、総題ということで表彰をいただいたんですけれども、
ぶっちゃけあんまり勉強した記憶は正直なくて、特に私行ってた大学は、今はそうじゃないらしいんですけど、私の行ってた大学は私立なんですけれども、英語と数学を受ける必要がなくて、国語と政治経済だけで受けて何とかとってたんですけど、今は英語は受けなきゃいけないらしいんですよね。
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大学時代は逆に言うと自分の興味ある分野だけ、法学部でも私憲法とかが好きだったんで、憲法とか政治学とか行政学とか、法学部だったらあと民法とか刑法とか小法とかもやらなきゃいけないので、それは必要最低限だけやって、あとは好きなこと、好きな勉強をして、
そして一番やってたのが、勉強というかボランティア活動として、戦没者の遺骨収集という厚生労働省の授業を学生ボランティアという形でずっとやらせていただいておりました。
戦没者っていうのがまず想像がつかない部分は、学生の時全然想像がついてなかったなというのがあるんですけれども、その遺骨収集の授業に携わってみたいと思ったきっかけってあるんですか?
はい、そうですね。もともと歴史が大好きで、特に歴史の中でも第二次世界大戦、太平洋戦争とかそういった時代が好きで、もちろんそういった時代の政治情勢とか各国の歴史も好きなんですけども、一番やっぱり戦艦大和とかゼロ戦とかいったらそういった兵器がかっこよくて好きだったんですね。
当たり前の話ではあるんですけども、そういった戦艦とかゼロ戦とか戦闘機とかそういった兵器って人が動かすわけじゃないですか。当たり前の話ですけども、じゃあそういう人たちって最終的に戦艦大和とか戦艦武蔵といった船は沈みましたけども、そういった沈んだ時、何千人もの人が乗っていて、操縦というか操舵していて、
海で戦死したって言うかもしれないですけども、そこから近くの仲間の船が救ったりしてるわけですよね。また同じように戦闘機とか陸戦とかでも、有名な沖縄の戦いとかですと、住民を巻き込んだ戦いではありましたけども、そういった兵士の人たちって当然米軍、上陸してきた米軍の戦っていると。
現地で亡くなっていると。じゃあ亡くなった人たちってどこ行ったんだろうと。当たり前の話ではあるんですけども、私はなんとなく、特に調べもせずになんとなくですね、そういった例えば沖縄だけじゃなくて海外、ミャンマー、ビルマーの戦いとか、ミューギニアの戦いとか、そういった外の戦地で亡くなった人たちは、
仲間が遺体を持って帰って、日本本土にいる遺族の元に返したんだろうと。これなんとなく思ってたんですけども、やはり大学に入っていろいろ歴史を調べると、いやいやいや、むしろ遺体を収容して日本に帰す暇なんて当然なかったと。
だからある意味現地にそのまま置いてきて、戦後70年近く経ってしまったんだよという話を、大学時代それを改めて初めて知って、70年間日本政府何してきたんだいということで、厚生労働省がその国の事業の一つとして、戦亡者の遺骨を収集しているという話を聞いたので、
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ちょっとそれやってみたいなと思って、いろいろ探したら、そういった学生団体があったので入ったというのが経緯になります。
なるほどですね。実際、今海外という話があったんですけど、海外の収集の作業は行かれたんですか?
そうですね。私の経験は、まず国内ですと沖縄2回と、伊予島ですね。昔、伊予島からの手紙という映画で有名になった伊予島が2回、そして海外としてはミャンマー、ミルマーですね、に1回、全部で5回遺骨収集に行ったことがございます。
伊予島は小笠原まで行って、それとも自衛隊に協力してもらって…
伊予島は一応、行政管轄所は東京都ではあるんですけれども、今は完全に軍の島というか、自衛隊の島となっていまして、航空自衛隊とあと米軍が訓練基地として使っていて、
行き方としては防衛省、自衛隊の協力を得て、私は埼玉県にある湯間基地から輸送機に乗って、そのまま直接伊予島に行ってましたね。
実際に、ヘリポートといったらあれなんですけれども、滑走路になっているんですかね、伊予島自体が。
そういった中で、例えば骨といったらあれなんですけど、戦争があった当時のままの状態を残している場所っていうのがあるんですか。
基本的には、わざと残しているというか、やはり戦後米軍に占領されたので、米軍が新しく飛行場、滑走路を整備したりとか、
いわゆる廃車、住む場所、建物を建てたりとかしているので、もちろん残っている場所もありますけれども、ほとんどは米軍によって改めていろいろ変えられちゃっているという部分はありますね。
実際にそうやって伊予島に行って、遺骨が見つかったということもあったんですか。
そうですね、私自身も伊予島の中にある、やっぱり伊予島の戦いの時は、洞窟のようなものを掘って、兵隊の人たちがそこに籠って、米軍を迎え撃つという戦いをしていたので、
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その籠を掘っていると、ぽろっと遺骨が出てきたりとか、私自身も喉ぼとけとかも見つけたり、実際に大きい骨と大腿骨、太ももの骨とかも出たりして、私自身もそういった経験をさせていただいて、
当然出れば近くにあるはずなので、その近くの場所も全部掘って、一人分の骨を見つけられるようにしたりしていましたね。私が結局2回行ったんですけど、私自身直接じゃないのも含めて2回行った分で大体十数柱、十数人のご遺骨を収容はしましたね。
本当に想像ができないというのが正直なところ、もう70年経っているわけですよね。アメリカに占領された場所というのもあると思うんですけれども、実際にそうやって三柱様が出てきた時というのは、ご遺族に届けられるところまで段取りが付けられたといった場合なんですけれども、
そういうふうにご遺族にお返しできたんですか?
一番の理想はご指摘の通りご遺族にお返しするまでが理想系ではあるんですけれども、やはり戦後70年以上経って、いわゆるご遺骨を特定するものがなければ基本的には返すことができないですね。
その特定するものは何かといえば、一つはやはり遺品であります。そのご遺骨と一緒に、明らかにその人のものだよねという距離に、本当に数メートルとかの時に、例えば過去に陰間、苗字が書かれた陰間が一緒に出てきたりとか、そういったものが出てきた時には、これはナイナイさんの骨だと。
実際当時出生した方々の名簿は今でも当然厚生労働省の方で保管しておりますので、そういったものから当時のナイナイ部隊の苗字の下は誰かというのを特定して、その人たち遺族会等から通じてお話しして引き渡しをするというのがまずあります。
私の時は1ケースだけ沖縄でそのケースを見たことがございます。一つはその遺品ということで、陰間の話をお話ししたんですけど、今はもっぱら陰間とかっていうよりも、やっぱりDNA鑑定。
結構私自身の時はあまりそこまで活動的というか発達してなかったんですけれども、やっぱりDNA鑑定技術が非常に発達して、ここ数年でようやく厚生労働省とか国政府の方も予算つけて専門の鑑定部門を設けて、結構政府に陳情とかもついたんですけど、
ようやくそれが通って、遺族会等を通じてですね、そんなご遺族の皆さんにちょっとDNAデータベースを提供していただいて、そこから一番いいのは歯ですよね。歯が出てきた歯をDNA鑑定をしてあっていれば変換にするという。これはもうすでに十数件ぐらいやっているということが伺っております。
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本当に普通の学生生活の中で本当に得難い経験をしていると思うんですけれども、その中で得た気づきというか学びというか、そういった部分で今の遺骨収集で得た経験というのは何が一番自分の中で宝だなと思っている部分はありますか。
そうですね。たくさんあるんですけども、今指摘いただいたような学生らしくない経験をしたからこそ、若い立場の自分から何かできることはないかという考え方ができるようになったというでしょうかね。
普通の学生生活を送っていると、たくさん周りに自分より優秀な人がいて、特に就職活動をする中でたくさんの企業からお祈りされてしまって、自分はなんて小さい人間なんだろうとか思うという話をよく聞くんですけれども、
でも自分の場合は、遺骨収集とかいろんな経験をさせていただいて、いや俺のできることはまだたくさん別の、この会社では、ここの組織ではたまたまご縁がなかっただけで、他のところに行けばなんだかんだ受け入れてくれるんじゃないかといったら、そんなポジティブ思考が一つできるようになったのかなというのはあるかは思います。
なんかいいですね、そういう思考という部分でつなげられるっていうのが、ただ単に厳しい経験というだけじゃなくて、そういう思考の分野で自分自身にフィードバックできる部分があって、すごいいいなというふうに思います。
ありがとうございます。
なんか予想外にすごい重たい話になってしまいました。
そうですか?
なんかこう、前からこの話は、遺骨収集をされてるっていうのは知ってたんですけれども、あんまりこの話を真剣に聞いたことがなかったので。
改めてなんか本当に、私自身も歴史が好きなので、まだ戦後っていう話はしますけれども、本当の意味でまだ終わってない部分もあるんだなって。
そうですね、私が過去に所属していた組織っていうのは、JYMN、日本青年遺骨収集団という組織なんですが、これ名前出してOKだと思うんですけど。
大丈夫です。
結構ですね、本当にそこの団体は50年以上やってる団体で、過去歴史を紐解くと、本当にいわゆる残留日本兵の人と実際に返す活動をしてたりとか、なんかすごい団体ではあるんですけども、自分も実はそこで学生ながら事務局長という大役を押せつかって。
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すごいですね。
当時、もちろん活動として沖縄行ったりとか、洋東行ったりとか、ミャンマー行って現地でやってきた。
実は私は自分の中では、他の同じ組織にいる学生たちと比べると、あんまり行ってない方で、私はどっちかというと、本当に内部統制じゃないけど、組織の方で、
例えば事務局長として、皆さんからいただいた寄付金を計算して募金やったりとか、それこそお金が足りないときにちょっとOBとかに電話して、お金くださいってお願いしたりとか。
あとやってる事業がやっぱり厚生労働省から委託を受けてる事業ですので、厚生労働省と当時、実際行って、これだけ金使いましたとか、そういった領収書の整理とか、いろいろやったりして、本当に裏方メインでやってたんで、
本当は当時、実は他の学生とかとは、結構連日連夜バトってたというか、俺は例えばシビリアとか、シビリア浴乳のロシアとか、パパはニューギニアとかそういうところも派遣してるんですけども、私も行きたかったんですけども、他の学生にちょっと負けたりして、結局負けていけなかったりして、結構当時は羨んでて。
逆に、ただ行くだけよりも、そういう内情と言ったらあれなんですけれども、実際に運営側に回れるっていうのは本当に良い経験をされてますよね。
本当に運営側、逆に私結構親から言われるのが、まだ18、19、20歳ぐらいで、公権をいただいて運営する組織の責任者をやるとか、普通はありえないと思う。
しかも生地、そういった世界を知っちゃったから、仕事ができる人は別に、社会人になった時、変な知識を持ったまま新入社員としていくから、先輩社員とか上司とかから、変に目をつけないように気をつけた方がいいとか言われましたね。
なるほど。だから普通の就職をしなかったっていうのがあるんですかね。ちょっと今、大学の話をしたんですけれども、社会人になってどんな仕事をしてたかっていうのを教えてほしいなと思います。
ありがとうございます。綺麗に話が繋がって良かったです。
そうですね。大学時代は、特に大学1年、2年、3年生ぐらいまでは今は異国就職をやってたんですけども、大学3年後半、4年生ぐらいの時には、まず一つはお世話になっている魂若者会議に出会って、そこに入って地域活動を始めたというのが一つと、
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もう一つ、もともと私はそういった法学部に入って法律とか政治学を勉強するという中で、成人の業界に興味を持ちまして、異国就職をやって、なんで政府はこんなにやることが遅いんだろうとか、なんでこういった問題意識があるのにできないんだろうとか、人情とかしてない、動きが悪いんだろうと思ってしまいまして、
まだ若干、10月とか20月くらいの材料を持ってしまいまして、
だったらそれを動かして、政治ってどういう業界なんだろうと思って、当時、平成29年の中議員選挙の時に、地元の国会議員の方の事務所の門を叩いて、まず選挙の手伝いをやらせてくれと言って、
初めはビラ配りとかからやらせていただいて、その後いろいろご縁をいただいて、事務所で議員インターンシップですとか、秘書さんのお手伝いとか、結局今お話しだったように、変な就職先として新卒で国会議員秘書になってしまうという暴行をしてしまいまして。
すごいですよね、本当に。すごい経験をしてるなと思う。
国会議員秘書に関しましては、事務所の名前は申し上げませんが、本当に申し訳ないんですけれども、良くも悪くも良い経験をさせていただいたと思います。
良くも悪くも。両方。
一つは、もしこれをラジオを聴いているまだ大学生とかがいたら言いたいのは、新卒カードは無駄にしない方がいいぞっていうのが一つ。
そこか。
まず政治業界に興味を持つんだったら、民間企業でも公務員でも何でもいいから、普通の世界を2,3年やった後に飛び込むんだったら何も言わない。
初めから飛び込むのは、これはやめた方がいい。
それは何故ですか。
それは本当に自分自身も迷ってしまうし、何よりも周りにも迷惑をかける。
私は本当に生辞、誤字収集とかそういった活動を通じて、例えば名刺の出し方とか、敬語の使い方とか、お酒の釈の仕方とか。
そういった細々としたことは生辞できてしまったので、そこの世界に入った時、若干は通用してしまったんですよね。
最低限はできるねと。
分かってるから大丈夫だね。よし頑張ってこいみたいな感じで。
これが本当に全くできていないペーペーだったら1回教えてもらったかもしれないんですけども。
生辞中途半端に1か2はできちゃったから、じゃあ大丈夫だね、3,4頑張ってこいよって言った時に3,4は結局できない。
どんどんどんどんできなくなってしまって、っていう感じになってしまう。
本当の意味での実務経験っていうのはある程度見つけといた方がいいっていうことですかね。
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そうですね。本当にやっぱり当たり前ですけども、社会人経験っていうのは本当に重要というか、ちょっと言葉が出てこないんですけど、すごい大切なものですので。
まず普通の会社、民間企業でもいいし公務員でもいいから、1,2年は経験した方がいいぞと。
まあでも、新卒だからこそそういう経験ができたのかなっていうのが良い面なのかなと思うんですけど、そこで学んだ一番良い面って何かありますか。
実際に当時政府側にいたいらっしゃいましてね、その先生は。確か、政府って省庁の役職を得て仕事をされてたと思うんで、そういった部分を見られてたと思うんですけども、
国会議員の秘書ということを仕事を通じて一番得たことっていう部分ってありますか。
それは多分普通の社会人をやっていれば得られる経験ではあると思うんですけども、どんなことで仕事とかものに対しても筋を通す。これが一番大切だというのは本当に新卒を身に染めました。
さっきの異国種種の話ですと、正直学生がやっていることだからということで、見逃された部分はあったんだなということが初めてですので、身に染みて分かりました。
でも社会に出て国会議員秘書という立場で、私は地元担当秘書だったんですけども、地元にも目を配らなきゃいけない。上司の秘書とか他の人とか、議員本人が言っていることも当然やらなければいけない。
両方どうやっていくかっていう仕事の進め方とかが、自分は正直全く分かっていなかった。でもそれがどうやってやればよかったのかを一言で表すと、一つはやっぱり筋を通す。
根回しという言葉もありますけれども、やはり筋を通す根回しを行うという言葉は、やっぱりどんな仕事に対して、その後私はいろいろやって秘書を辞めて民間企業とか公務員もやらせていただきましたけれども、どんな仕事でも筋を通す根回しをするとか、そういったことは全くやらなかったということはないので、それは一番身に染みて分かった部分かなと思いますね。
ありがとうございます。それで国会議員の仕事というのが一旦終わらせて、そこからの片木の仕事っていうか、公務員の仕事、片木の仕事って言っていいのか分からないんですけれども、通常の仕事をし始めて、そこから結構魂若者会議の活動もコミットの割合が増えてきたというふうに感じているんですけれども、
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働きながらそういう別の地域活動をやるっていう部分で、何か負担に感じたりとかそういうのはなかったですか?
正直申し上げて、結構負担がありました。やっぱり入社して、入居して1年目というのはやはり仕事を覚えるのが精一杯というのがありまして、
なかなかその時間を捻出するのも大変だったんですよね、正直言って。なので本当に私思うのが若者会議の大人の方々、それこそ社会人の人たち、いわゆる道ラボの代表社員の人たちとかって、
あの人たちどうやって時間捻出してるんだって未だに思うんですよね。
やっぱり10年くらい働けばその仕事のコツというか、ある程度忙しくても強弱っていうのもつけられますし、あとはだから家庭との折り合いでどこまでコミットできるかっていう部分なので、
なかなか働き始めの20代前半に比べると、ただ時間の使い方がうまくなってるかなっていうのはありますよね。
それは本当に思いますね。
でもそれでもそうやって若者会議の活動に携わっていたっていうのは、やっぱり自分自身がやりたかったからっていうのが強かったんですかね。
そうですね。ぶっちゃけたことを言いますと、一番学生時代にまず初めに若者会議に入った理由の一番の理由は、多摩市役所職員になりたかった。
それが一番の理由なんですね。ただ実際公務員試験受けて全滅しまして、で一緒になったんですけども、実はその後も何度か受けたんですけども、一気に勉強してなかったら一気に毎回落ちてたんですけども、
ただ後半の方では純粋にやはり今住んでいるこの多摩市という街を知らなければ、そもそも公務員として市役所職員としてどうなるかという思いもありましたし、
特に後半ですと知って、せっかく住んでる街なんだからもっと良くしたいと。
良くしたいには色々方向性とかやり方はあるかもしれないんですけれども、一つ若者会議というステージ、土台が一番近くにあったのでそこに登らせていただいて、
少しずつ多摩市のことを知って、もっと自分らに良くしていくためにはどうすればいいんだろうな、どうすればいいんだろうと考えていける土壌があったので、それを利用させていただこうと思っていたんですかね。
そうですね。多摩市若者会議の良いところは、地域づくりとか、さっきの遺骨収集の会もそうなんですけれども、何だかんだで色々任せてもらえるっていうのが大きいですよね。
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だから最初に学生で来た時と、やっぱりまた視点が変わったと思うんですけど、若者会議に携わってから多摩市ってどういう風に見えるようになったかとか、そういうのはあります?また見え方変わったかな?
そうですね。そこは結構難しい質問で、私自身は一番初めに大学進学を目的としてこの多摩市に引っ越してきて、市役所職員になりたいという思いからまず若者会議に入った。
今でこそはまた違う考え、違う将来、もっともっと純粋に多摩という街が魅力あるような街をしたいと思って活動はさせていただいておりますけれども、見方が変わったかというと、ほぼ多くは変わってないという感じはしますね。
特に先ほど遺骨収集とか死傷とか、純粋な社会人経験を得て、さっきから繰り返して筋を通すとか根回しをするとかいう中の一つに、若者会議においてもありがたいことに本当にこの多摩市という地域は前の大人たちが、若者会議の外側にいる地域の大人たちという意味で、
やはりニュータウンの成立の歴史があるからだとは思うんですけど、外から来る人たちを受け入れる土壌があるような街なのかなと。これは前から思っておりまして、
実際、外から来た人たちが街を良くするために活動しているのであれば、全然古い人たちも文句は言わないし、受け入れてくださる必要であれば、今日差し伸べてくださるような環境は整っているのかなと思います。
当然、そういった活動をする中においても、声をかけておかなければならない方々も当然中にいらっしゃるので、そういう方々がいるんだなっていうのがちょっと見えてきたっていうのはありますよね。
実際、やっぱり魂っていいところは、今穂坂さんが言ったように、あまりもともと外から人が集まってできた街なので、オープンですよね。
もう50年経っているので、魂出身の人も結構いっぱいいるんですけれども、資生成功したから。それでも、穂坂さんのように大学から来た人でも、そういう活動、思いさえあれば受け入れてくれるような土壌があるっていうのが魂のいいところかなって私も非常に思います。
ありがとうございます。もう30分以上話してるんですよね。
そんなことない。
思いがあふれて。
思いがあふれて、すぐには3分で言った方がいい。
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じゃあ、最後まとめにいきたいなとは思うんですけれども、これから魂に対する思いっていうのを、ぜひぜひ1分ぐらいでPRし、思いの丈を話してもらいたいなと思うんですけれども、どうでしょうか。
はい、じゃあ1分ぐらいですか。わかりました。ありがとうございます。
長くなってもいいですよ。
改めて、私、穂坂勇馬という人間、魂に来て9年目という若輩者でかつ、27歳という若輩者ではあるんですけれども、この街に対してやはり来た時からすごい良い街だなと思っています。
だからこそ、この魂という街がもっともっと魅力ある街になっていくにはどうしたらいいのかなと日々考えて様々な活動をしてございます。
そういった活動を通して、魂若者会議とか様々な団体さん、方々とも知り合いになることができて、本当に毎日が充実した日々を過ごしております。
これから人口減社会とか少子高齢化とか様々な社会課題がある世の中ではあるんですけれども、この魂という街がですね、周りから見てすごい良い街だな、行ってみたいな、住んでみたいなと選択肢になり得るような街づくりを目指してまいりました。
そして何よりもですね、実際に来てみて、住んで、この街で一生を過ごしたい、この街で家を過ごしたい、この街に骨を埋めたいと思えるような街づくりをして、私自身も頑張っていきたいと思いますので、これからもどうぞよろしくお願いします。以上です。
ありがとうございます。
これ何だろうなっていうのは、だいたい今の話を聞けばわかると思うんですけれども、穂坂さん、今駅前に毎朝挨拶されてるんですかね。
朝、夜だったりしますけどね。
たまにですね、多摩の駅前に大きい人が出没してると思うので、もしこのポッドキャストを聞いてる方でですね、大きい人見かけたら、穂坂さんって声かけてあげてください。
はい、ぜひともあのオレンジ色のジャンパーを着てると思うので。
オレンジ色のジャンパーを着てるそうです。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。本日は本当に出演いただきましてありがとうございました。
本日はどうもありがとうございました。
それでは皆さん、今週もありがとうございました。また来週よろしくお願いします。バイバイ。
バイバイ。
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